ジュース 晴天。花が冬眠から目覚めて凛と咲き始め、ほのかに甘い匂いが漂ってくる。一日を始めるには最高のキャンパスライフ日和である。
「このクソビッチ!」
そう言い放った見知らぬ女性は真に罵倒を浴びせながら、手に持っていたジュースをこちらに向かって投げつけた。
否、甘い香りの正体は人工的に造られた甘味だったようだ。
なんとまぁ、手厚いご挨拶である。
ぽたぽたと前髪から垂れてくるオレンジ色の液体を舐め取ってみるとほんのり甘い人工的な味。服も体もベトベトだ。
人気のない場所に呼び出されたのは真をベトベトにして人前に出れなくするためか、はたまた自分の悪行を他人に見せないためか。
目の前の女性の真意など、真にはどうでもよかった。昼は食堂で友人と食べる予定を入れている。このままの格好では人一倍世話焼きな友人の胃を痛めてしまうであろう。
もう何度かお世話になってしまっているのに、これ以上彼の胃に穴を開けてしまってはこれから食事をとろうにも食事がこぼれ出てしまう。
そうならないためにも、一度うちに帰ってシャワーを浴びないとな、着替えあったっけ。朝も入ったのに、もう一回シャワーを浴びないと。と後の動きを考える。
置かれている現状とは裏腹に、真はひどく冷静でいた。その上、今日の曜日と、食堂の日替わり定食を照らし合わせ、頭の中にメニュー表を思い浮かべる程度には余裕があった。なんともまあ呑気なことである。
このような男女の色恋沙汰には幾分か巻き込まれ慣れているのので、動揺を忘れ、今後どうするかを考える癖がついてしまった。危うく目の前の女性の存在を忘れてしまいそうになる。
「あんたが!あんたなんかがいるから…!」
叫ぶ女性をちらりと観察してみる。
清潔感のある白色のワンピース。黄金色に染められた長い髪はくるくるとカーブを描き大変愛らしくセットされている。目元の色は涙で混ざり、どろどろと努力の跡が滲んでいる。それでいて、わざわざ人通りの少ない棟の裏手に呼び出す陰湿な性格の女性だ。
「消えてよ…私の彼を返してよ」
この人、彼氏とでも出かける予定だったのかな。僕は君の彼氏を知らないけど。
目の前の女性と交際しているであろう人物を記憶と共に照らし合わせてみるが、真の記憶にはそのような人物は特定できなかった。せめて顔ぐらいは思い出そうと女性を凝視するが、それを女性は真が己を睨みつけたと判断したらしい。女性は一瞬キッと眉に皺を寄せ、酷い癇癪を起こし、こちらに向かって来る挙動をしたかと思えば、突然足の力がなくなったかのようにその場で崩れ落ちてしまった。
おそらく下ろしたばかりであろう白いワンピースは地面と擦れ、茶色に染まり、土と同化している。もうクリーニングに出しても手遅れだろう。地面さえ汚れていなかれば、白色のワンピースも、なにとも混ざらない純粋な白色であったはずだ。純粋な白は簡単に白ではいられなくなる。それはなんだか勿体ないな、とそれを見て真は思った。
真に対する女性の言動は、酷く攻撃的で理不尽だと思うけれど、泣きじゃくる女性をみて何も思わないほど真は人間を捨ててはいない。申し訳ない気持ちは込み上げてくるし、僕はこの人に謝らないとない、とも思う。だって、知らない誰かに幸せを奪われるなんて悔しい。真が女性の幸せを奪った張本人であるが、真こそ女性の気持ちに寄り添ってやらねばならない、と真は考える。しゃがみ込んだ女性に自分の目線を合わせ、目を合わせる。
「ごめんね」
どなたかは知らないけれど。
女性は真の謝罪の言葉が癪に障ったのか、正しい使い道がなくなった空き缶は真の額に見事クリーンヒットした。幸い中身は先程頭から被ってしまったのでコンと軽快な音を立てたるだけで済んだ。
「もう二度と目の前に現れないで」
目を潤ませながらも強い眼差しで僕を睨みつけて女は消えていった。真は女性の背中を見届けながら、君が僕を呼び出さなければ君の前に現れることはないよ、と心の中で返事をし、溜め息をつく。せっかく呼び出しに応じたのに、得たものは赤くなった額の痣とベトベトの洋服と髪だけである。もう一つ溜め息をつくと、空っぽの缶もそれに合わせて、カランと軽い音を立てて足元から消えてしまった。
女性の影が小さくなって、完全に見えなくなったところでやっと肩の力が抜け、体が軽くなる。
さて、気を取り直して早いところ着替え、昼食を取りたいところだが、知らない女がポイ捨てした空き缶を拾わねばならない。
目だけ動かし、足元をくるり探索してみるが見当たらない。地面に落下した後何処かへ転がっていってしまったのだろう。そう見当をつけ、建物付近に植えられているボックスウッドを覗き込む。空き缶は芝生に回転を止められ、逃げも隠れもせずお利口に静止していた。
「空き缶ぐらい自分で捨てればいいのに」
先程の女性に少しばかり文句を垂れながら、空き缶に手を伸ばそうとするが確実に、何かがいる。大きめの影に目線を下にやると、ボックスウッドの影に隠れ、背中を丸めながら芝生に齧り付く勢いで音符を書き連ねている不審人物。こんな場所に人がいるとは思わず、今にも喉から心臓が飛び出し、叫んでしまいそうであったが、突然の出来事に脳が完全に機能を停止してしまった。恐怖で声が出せなくなるというのは本当のようだ。空き缶を取ろうと伸ばした手は行き場を無くし、中途半端な中腰で固まる。その姿はひどく滑稽に見えるだろう。
この不審人物は今までここに居たのだろうか。普段ならさっさと空き缶を拾ってその場を離れるだろうが、不審人物は先程の会話とも言えない会話のドッチボールを聞いていたに違いない。もし動画でも撮られて、女性にジュースを投げつけれらる動画がSNSにでもさられたら、僕は一生の笑い物だ。なんとかして誤解を解かねばと一時停止していた体を空き缶を拾う動作に戻し、不審人物にあの、と声を掛けた。瞬間、ガバッとオレンジ色の頭が持ち上がる。僕の視線とがっちり嵌まった緑色の双眼。彼は僕に向かって向日葵が咲いたように百点満点の笑顔で言った。
「お前、やっばいな!」
「へ?」
力が抜けて間抜けな声が出た。
*
「はぁぁぁぁぁぁ」
肺の中に溜め込んでいた空気が一瞬にして外へ飛び出し、湯気の中に溶け込んでいく。
あれから不審人物は僕を見て大笑いした挙句、色々尋ねてはやっぱり言わないでと繰り返し、僕の頭を完全に置いてけぼりにした。不審人物の一人独裁会話に恐れをなした僕は急いでうちへ逃げ帰り、とりあえずベトベトの服と髪をどうにかするべく、シャワーを浴びることにしたのだった。
真の住居は、真の通う大学付近の学生向けの安いアパートで、快適とは言い難い古いアパートである。しかし、親の仕送りも無しにバイトを掛け持ちして、やっとのことでやりくりしている真にとっては大変有り難い物件ではあった。
貧しい生活をしている自覚はある。けれども、実家にいた頃も母親のパート代と真の収入で成り立っていた為、大変貧しい生活を送っていた。その頃と比べても今の貧しさと実家での生活は同じ程度で、金銭面ではあんまり変わってないのかもなぁ、と思う。唯一変わったことといえば、真がモデルを辞めたことだ。
幼少の頃から、真は芸能の世界にいた。それは真にとって当たり前のことで、モデルを辞めるなんてことは数年前の真では想像もつかないことであった。
やっと手に入れた生活。普通の人みたいに、普通になんとなく大学に入って、普通になんとなく授業を受けて、普通になんとなく友達をつくって、普通になんとなく卒業する。それは真が喉から手が出るほど渇望した普通の生活。それが今の真にとって当たり前の日常となっている。
しかし、大学に進学とは言ったものの、真は頭がそれほど良い方ではない。モデルを辞めた後のことを全く考えていなかった真は、なんとなくで偏差値もそこそこの経済学部に進路を進めることにした。
引退をしたと言っても、真もそこそこ名の知れたモデルである。入学当初はできるだけ目立たないという目標を掲げ、おどおどとした態度と、青い眼鏡で人の影に隠れることを心がけた。そのお陰か、入学して二ヶ月ほどは一般人のキャンパスライフを楽しめたものだが、やはり時間と共に真に興味を示す者も現れ始める。
モデルを辞めるとき、誰かに言われたことがある。
「君の才能や魅力は人を狂わせる。外の世界へ行こうと、きっとまた君を求めるものが現れる。君の才能はそういうものなんだよ」
事務所のお偉いさんだったか、よく現場でみたカメラマンだったか、引退を惜しむ声は真の耳に毎日のように届いて埋もれてしまい、誰だったかはもう覚えてはいなかったが、舌なめずりをされたような、妙な気持ち悪さを感じたのを覚えている。
才能。真はその言葉を口の中で転がした。真は自分の才能に価値があるとは思えなかったし、それが良いものだとも到底思えなかった。人を無差別に魅了し、狂わせる。周りの人生を変えてしまう悪魔のような才能。神から与えられた運命には誰も抗えない。才能と一括りにするは重すぎるそれは、過去を消し去りたい真にとって呪いそのものであった。その呪いが今でもかかったままだから僕は今シャワーを浴びているのかも知れない、と真は締め、水道代もばかにならないのでシャワーの蛇口を捻った。
*
「ま~たぁ!?」
目の前に座っているポンパドールの彼は椅子をガタッと音を鳴らす。口に入るはずだった麺も無念にもラーメン鉢の中へ落ちていった。彼は真の数少ない友人だ。
「衣更くん声が大きいよ」
真は突然大きな声を出し、周りの注目を一身に浴びている真緒を慌てて宥める。
雑談程度に不審者の話しをしようとしたところ、不審者の話までに行き着くより先に、僕にジュースを浴びせた女性の話で話題が止まってしまった。
ここは大学の食堂だし、他の学生も食堂を利用している。一応、顔見知りだっている。正直この手の話題で注目を浴びたくはない。話したい部分はここではないので、衣更くんも笑い話にして冗談半分で聞き流してくれたらいいのに、と思う。
真緒は小さく悪い。言うと片手で小さくごめんのポーズをし、真の正面にくるように椅子を座り直した。
大きな声を出したことには反省しているらしいが、先ほどの話しには納得がいってないようだ。
「だって今月で何度目だよ」
真だって暇じゃないんだし、律儀に会いに行くのはどうかと思うぞ。と真緒は軽い説教をこぼす。
「うーん、そうだね講義に遅れるのは良くなよね」
説教といえば最近呼び出しに応じている間に講義に遅れてしまうことがうんと増えた。そのことを咎められているのかと思いきやそうではないらしい。自分なりに反省の意を示したつもりだったが真緒は大きなため息をこぼしまだ納得いってませんと顔をこわばらせている。ここまでくると呆れ近い。
「そういうことじゃないんだけどなぁ…」
真緒は机に肘をつき、頭を抱え唸り声をあげ始めた。
僕、何かおかしなこと言ったかな?と頭の片隅考えつつ真緒が頭を上げないので先に昼食を食べ進めていく。
しばらく唸って気が済んだのかチラッとこちらに目を向け真緒は先ほどの話題に戻ってきた。
「で、今回はどっちだったんだ?」
この話題で衣更くんの言う”どっち”は十中八九性別の話だ。
「女の子だよ」
今日の子はとっても美人さんで彼氏の為に努力したんだなって、知らない僕でも理解できる子だった。
よくわからない理由でカップルを破局させた回数は両手では数えられない。そう思うと理不尽に因縁を付けられているだけなのだが、少し申し訳ない気がしてきた。なんだか自分が汚く思えて恥ずかしくなってくる。真は机の下で自身の指を絡ませ、下を向いて親友の軽蔑の言葉を待ったが待てど暮らせど軽蔑の言葉などは降ってこない。代わりに真を労わる言葉が飛んでくる。
「真はなんも悪くないんだし、言い返してもいいんだぞ。今日も酷いこと言われたんだろ?」
「でも彼女、本当のことしか言わなかったよ?」
これは本当のことだ。彼女は嘘は言っていなかった。
真の言葉を聞き終わると真緒の顔が更にこわばった。怒ってるんだ。
「なにが本当のことなんだよ」
確かに酷いことを言われた気がするが、果たして僕に言い返す権利があるものか。頬杖をついて少しばかり考えてみる。
あの女の人は僕に消えて欲しがってた。僕から彼に、彼から彼女に、巡り巡って事が大きくなったから。彼女の考えは間違ってはいない。根源の僕がいなくなったら少なくとも彼女と彼の結末は引き延ばせたはずだ。
「うーん?僕ってたぶん存在しちゃいけないんだと思う」
「はぁ?!んなわけあるかよ!」
少し話が飛躍しすぎたか、真緒には納得いただけなかったようだ。少し補足する。
「バタフライエフェクトっていうのかな?始まりってすごく些細なことから始まるけど後々大ごとになるよね」
「んーっと…?急になんの話だ?つまり…?」
「つまり、そんな僕を受け入れてくれるズッ友に感謝ってこと!」
そう言い切ると同時に席を立ち、食器を返却場へ返に向かう準備をする。席を離れる直前、首だけをテーブルの方にに向ける。
「そうそう、こんな話しをする為に話してたわけじゃなくてね。今日変な人に会ったんだよ」
すぐ戻るから。なんて捨て台詞を吐き、本来したかった話しへと軌道修正をして、真緒が返事をする間もなく返却場へと向かった。
真緒は空気が抜けた風船のようにシュルシュルと机に突っ伏し、はぐらかされたなと思いながらも伸び切ったラーメンを見ることしかできなかった。