デザート ずいぶんと日が暮れるのが早くなった。十七時を過ぎたばかりというのに翳り始めた太陽を横目にふと息を吐き出す。無意識のうちに欠伸をしていたのだろう、タイミング良く書類を届けに来た秘書が「お疲れですね」と新しいコーヒーに差し替えてくれた。
「…最近は会議と接待続きだったからな」
手にしていた万年筆を置き、目頭を押さえる。親指と人差し指の腹で眉間を揉み込むと、ほんの気休めではあるが少しは疲労も和らぐ気がした。
マグカップになみなみ注がれたコーヒーからは白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。焙煎した豆の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。ちょうどホットが飲みたかったんだ。続けざまに小さく礼を言うと、カフェインレスですとの返事が返ってきた。
「カフェインレス?」
「ええ。もう日も暮れかけてますし。夜、眠れなくなったら困るでしょう」
ほんの数日前まではアイスコーヒーが書類整理のお供だったのに。無意識のうちに温かいコーヒーを求めている自分に気付き、秋の足音を感じる。
「…眠れなくなったらって…」
子どもじゃあるまいし。言い返そうとしたが、わざわざ秘書の優しさを無下にすることもないと思い直し、何も言わずにマグカップに口をつけた。
「――うん、悪くない」
コーヒーは予想以上に美味しかった。酸味の効いた香りが疲れた身体をほぐしていくようだ。
「お口に合って良かったです。――あ、若。わたし本日は定時で失礼させていただきますね」
「ああ、分かった。たまには早く帰ると良い」
「その台詞、そっくりそのまま若にお返ししますわ――あ、もうこんな時間」
ふと困ったように笑った秘書が壁に掛けてある時計を見上げた。それから、あとでデザートをお持ちしますわ、と含みのある笑みを残して部屋を出ていく。
秘書がいなくなると急に静かになった。鼓膜がぼわぼわと震えるほどの静寂。この世界にひとり取り残されたような心許なさがある。
今日は秘書の言う通り早く帰ろうか。そう思った瞬間、がちゃりとドアが開く音がした。先ほど出ていったばかりの彼女が忘れ物をしたのかと思いドアを見やると、予想外の人物が立っていたので呆気に取られた。面堂の視線の先に、あたるがいたのだ。
「――貴様、そこで何しとる」
不信感たっぷりに言い放つも、あたるは平然としている。いくら面堂が強い口調で問いただしたところで意に介さない。そのまま簡易の冷蔵庫からオレンジジュースを勝手に取り出し、中央のソファーに座り込む始末。それも我が物顔で。テーブルの上に置いてある経済新聞を一瞥したかと思えば、ソファーの背にもたれかかると、特注のそれがぎいと軋んだ。
「…なにって、お前が呼んだんだろ」
「は? ぼくは貴様なんか呼んどらん」
冗談は寝て言え、と言い返すと、即座に「冗談なもんか」とえらくぶっきらぼうな声が返ってきた。確かに冗談を言っているような口ぶりではなかったので、抜きかけた刀を鞘にしまう。あたるのネクタイの先端は今日も胸ポケットに収まっていて、果たして行儀が良いのか悪いのか、何度注意しても直そうとしない。
「だって、さっきお前んとこの美人秘書が教えてくれたぞ」
「なんだと? 彼女が?」
「うん。そういやあの子、そろそろおれとデートしてくれんかな」
「あほ言え。うちの大事な秘書を口説くんじゃない」
話がずれてきたので軌道修正するべく、あたるの近くへ寄った。反対側のソファに腰を下ろし、足を組んで応援体制を取る。
「第一、彼女が諸星なんぞを相手にするわけなかろうが」
「そうかな? あの色っぽい喋り方、おれに気があるとしか思えんが」
「おのれはどういう神経しとるんじゃ。なんでもかんでも自分の良いように解釈するんじゃない。――いや待て、話を戻そう。まず、ぼくは君を呼んでいない」
漆喰のローテーブルは面堂自慢の品だった。上品なそれを挟むようにしてあたるを見つめると、負けじとあたるも見つめ返してくる。たっぷり三秒にらみ合ったあと、あたるが口を開いた。
「…呼んどらん?」
片目を眇めるようにして面堂を見たあたるが、ふいにぱっと表情を変えて、まあええや、と投げやりに言った。
「…どっちでもええわい」
「どっちでもいいってなんだよ」
「それより、お前どうした? 今にも死にそうな顔しとるぞ?」
「なっ、失礼なやつだな。嫌味言いに来たんなら帰れ」
「帰れとはなんだ、帰れとは」
何かを思い返すように視線を落として、心配して来てやったのに、と独り言のように呟く。ろくに寝てないんだろ、と言われたので、貴様に関係ないだろ、と返した。
「それに心配だなんて、貴様が言うと裏があるようにしか思えん」
「そうかい、そうかい」
おれのことよう分かっとるじゃないか。あたるが変な節をつけて呟くので、何年一緒にいると思ってるんだ、と言おうとしてやめた。それが羞恥なのか意地なのかは分からないが、わざわざ言葉にしてやることもない気がした。
ああ、それなのに。あたると詮無い話をしていたら、なぜか気が緩んで急に眠気が押し寄せてきた。小さく欠伸をしてから、それがほとんど無意識のうちの行動であることに気付く。近くに異性がいないからといって緊張を解きすぎた。
「…お前、まだ仕事するんか?」
「いや、今日はもう帰る」
「あ、そう。おれも帰ろうかな」
と言ってあたるが立ち上がるので、思わず「えっ」と声が漏れた。咄嗟に口を塞いだがあとの祭りで、あたるが珍しく目を見開いて驚いた、のも束の間、全てを悟った顔でにいと意地悪く笑う。
「――胸でも貸してやろうか? 一万円くらいで」
薄っぺらい自分の胸元をぽんぽんとはたく。滑らかな指の動きはまるで誘っているかのようだった。何をって、夜のそれを。
「………貴様はほんとに呆れたやつだな」
立ち上がると雲がかげって部屋が少しだけ暗くなった。迷わずデスクの照明をつけ、もう一度あたるに向き直る。近付いて、あたるにぺたぺたと触れて回った。指に馴染む肌の感触は、もうどうしたって手放せないところまできている。抱き締めたい気持ちをすんでのところで抑えて、正面から覆いかぶさるようにして体重を掛けると、互いの空気が擦れて色っぽい匂いがした。
耳のふちにくちびるを寄せて、軽く甘噛みすると、「何が?」と掠れた声がした。
「…体を売るなと言っとるんだ」
「誰の?」
「お前のじゃ」
「そんなつもりは微塵もないわ」
「さっき言ったろ、一万円で貸すって」
「ああ、んなのお前にしか言わん」
それっくらいの気概があるのはお前くらいだろう、とけたけたと笑うあたるはきっと、自分がものすごいことを言ってのけた自覚はないのだろう。利己的なわりには、その甘えにも似た考えをぶつける相手が誰かなんて、考えないんだろうな。
仮にも、雇い主だぞ。
「………お前を雇うんじゃなかった」
骨が軋むほど抱き締めれば、「今更言うか?」と正論が返ってきた。いつまでたっても、あたるは抱き返してはくれない。ソファーに押し倒すと、ようやく首に腕を巻きつけてくる。一生言葉にはしないが、その仕草がけっこう可愛いことを、とっくに面倒は知っていた。そんなことで感動していると、急に眠気がやってきた。
「――五分だけ寝かせろ」
自分でも驚くほどの舌足らずな声。あたるの胸に体重を掛けると、まるで泥沼のように体が重くなっていった。夢と現のさなかで体がふわつく。安心する。
「――おれがいないと寝られないなんて、考えもんだぞ」
眠りに落ちる直前に届いた、耳のすぐうしろで囁くあたるの声は、聞いたこともないほど穏やかだった。