消えない炎 珍しく玄関から帰宅すると、階段をのぼるあたるの背中が目に入った。
「なんや、帰ってたんか」と薄い背中に投げかければ、「開口一番それかい」と僅かに振り返ったあたるが眉を顰める。
お兄さんにおかえりの一言も言えんのか。べ、と舌を出して嫌味を垂れるあたるに向かって、どこにお兄さんがおるんや、と言い返す。見たところ、家にはあたるの母も父もラムもいないようだった。二人きりの夕暮れ時。
「今日はいつもより早いんやな」
「外回りから直帰したからな」
なんてことない会話を交わしつつ階段を上り、あたるの真後ろについた。なぜか風呂上がりを彷彿とさせる、清潔なシャンプーの香りがした。なんでや、と不思議に思った瞬間、あたるが階段を踏み外した。片足を浮かせたタイミングで土踏まずがずるりと滑ったようで、背中から倒れてくるあたるがスローモーションに見える。
あ、落ちる、と思った。それを証拠に、あたるが「うおっ」と悲鳴めいた声を上げる。ほとんど反射的に「受け留めな」と思い腕を伸ばすも、あたるの腰や腕が予想よりも細いことに驚いて思わず手を離してしまった。
「あっ!」
「う、わ、お、おまえな~…」
すまん、とさすがのテンも思う。重力に従うようにずどずどと階段を転がり落ちていくあたるを助けることも揶揄ることも出来ずに、ただ茫然と立ち尽くしてしまった。
「…お、お、お前、そんなところでぼおっと浮かんどらんで、はよ助けんかい!」
階段の下からあたるが大声を張り上げるので、心臓の音を聞かれずにすんだ。ばくばくとまるでパレードみたいに、聞いたこともない音を立てて心臓が暴れている。
「…びっくりしたやんけ」
胸に手を当てながら言えば、あたるがまた喚く。
「なにがじゃ、びっくりしたのはおれのほうじゃ!」
いてて、と大仰に痛がるあたるにおそるおそる近付いて、ちょこんと膝を抱えると、剣呑な瞳と目が合った。
「なにしとる」
「なにって…」
「はよ手を貸せ」
乱暴に腕を掴まれたので素っ頓狂な声が出そうになった。なんでいきなり触るねん。こいつアホちゃうか。絶対いやや、と嫌がれば、あたるが不審そうに眉を寄せた。
「おまえ、何か隠しとるだろ」
「は? なんも隠してへんわ、へんなこと言わんといて」
「それにしては態度がおかしいぞ」
お兄ちゃんに聞かせてみなさい。いつの間にか上半身だけを起こしたあたるに肩を叩かれて、その拍子に背中がぞわっと戦慄いた。触れられた部分が発熱したように熱い。熱が広がっていく感覚がする。あたるが動くたびに甘ったるいコロンの香りがしてくらくらした。嗅いだことのある香りは、面堂のものに違いなかった。最悪や。二人の関係はなんとなく勘付いてはいたが、聞くのが怖かった。確かめなかったのはテンが大人になったからじゃない。好奇心だけに片付けられない、劣情があったからだ。
「…ほんま、おまえなんか嫌いや…」
言葉にした途端にかっとなって、あたるの薄い胸を勢いよく押し返す。
「あっ、お前なにすんじゃ…痛っー………」
気付いたらあたるに馬乗りになっていた。簡単に組み敷けることへの優越感と感動。テンの下で、あたるが面倒くさそうにため息をつく。
「…どういうつもりじゃ?」
しんそこ鬱陶しそうにぎろりと睨まれた。鋭い眼光と何を考えているか分からない飄々とした態度に肝は冷える。でも、今は簡単にその細い腕をひねることが出来る。
興奮と恐怖と罪悪感とあとは少しの報復と、それらを綯い交ぜにした感情が一気に押し寄せてきた。あたるが投げやりに息を吐き、かさついた自分の唇を舌で舐め取る。その際にちらりと見えた赤い舌にかっとなった。いやじゃ、いやじゃ、こんな感情、持ちたくなかった、知りたくなかった。
でも、それ以上に触れてみたいという好奇心が胸を襲う。
ふうふうと荒い息を必死に噛み締めていると、あたるが片目を細めて小憎たらしい顔を浮かべていた。
「ほう、我慢出来てるじゃないか」
何かを察したみたいな余裕があって、正直言ってあまり気分の良いものではない。
「…なにがや」
「噛みつきたくって仕方ないって顔しながら、必死に我慢しとる」
おまえにとっておれはご馳走か。なんて勝ち誇ったように笑うので、腸が煮えくり返りそうになった。
腹が立つ、それはもう心底腹が立つ。子ども相手でも容赦ないのが常のわりに、そのくせテンは子どもだとどこか一線を引くところも、都合の悪いときばかり子ども扱いする自分勝手な態度も、なにもかも、ぜんぶぜんぶ。
「…もうあの頃のおれやないど」
なんとか言い返すも、声のか細さで負けは分かっていた。出会ったころに比べ身長はぐんと伸びたし、ラムよりも速く飛べるようになった。腕も足もあたるより長い。小さな宇宙船は確かに愛着はあるが、今はもっと立派なものを手に入れた。それなのに、いまだにあたるをいなせない。一生追い越せない壁がある。テンはそれが悔しい。悔しくて悔しくて堪らない。
「…幼気な幼児をいじめてなにが楽しいねん」
悔しさを滲ませながら呟くと、あたるがはっと笑った。
「図体も態度もでかいくせにどこが幼児じゃ」
お前におれは一生抱けん。言い切るように努めて冷たく言われて、途端に涙腺が崩壊した。これしきのことで泣くなんて、自分はなんて子どもなんだろう。むしろ昔のほうが我慢出来ていたんじゃないか。好きだと自覚した途端、無視をされるのが怖くなった。甘えたな気質が自分に備わっているのは重々承知のうえで、それでもあたるからの無視は堪えた。それならいっそ、嫌われた方が良い。自分に何かしらの感情を向けて欲しかった。
「う~…あたるのあほぉ…うっ…うっ…」
ぽろぽろと大粒の涙がテンの頬を伝ってあたるのシャツに染みを作る。あたるは何も言わなかった。テンの嗚咽と涙を眺めながら、一度だけぽんとテンの頭を撫でた。その肌に触りたいと初めて思う。ぐちゃぐちゃにしてやりたいと初めて思う。
「…うっ…うっ~…お前はほんまに腹の立つやっちゃなぁ~…」
「おまえな、泣くか怒るかどっちかにせんか」
あたるの胸に突っ伏しながらひとしきり泣いて、落ち着いたところで牙をむき出しにすると、あたるが「あほ」と牽制するように言う。
「噛むなよ」と釘を刺されたので咄嗟に「なんでや」と返した。上目使いに尋ねれば、あたるが眇める。
「噛んだらお前、殺されるぞ」
くつくつ笑いながら物騒なことを言う。よくて半殺しじゃな、なんてこれまた危うい台詞を続けて。誰に、なんて聞かなくても明白だった。だから悔しかった。
「…火傷ならどうや」
「…火傷?」
苦し紛れみたいな反論を、案外あたるは神妙な面持ちで聞いた。いつでも射殺せるような目つきを持ってテンの虹彩を一瞥し、一瞬だけ幼げに笑う。
「そっちの方がましじゃ。だって――…」
兄弟喧嘩だって誤魔化せるだろ。なんて、残酷すぎる言葉を平然と言ってのける。それをあたるなりの優しさと知りながら、聞かなきゃ良かったと思った。あれだけ泣いたのにまだ目頭が熱くて困る。後悔してももう遅い。後悔なんて出会ったときからもうしてた。
けほ、と咳き込むと咥内いっぱいに煙が充満した。不完全燃焼、という言葉が頭を過って切なくなった。
燃やせれば良いのに、吹き飛ばせられたら良いのに。胸を掻き毟るようなこの想いも、憎悪も後悔も好きだという気持ちもなにもかもぜんぶ、この炎とともに。