かわいい共犯者 買い物の帰り道で偶然あたるくんに会った。
数か月ぶりに会ったというのに、その月日を感じさせないほどに彼は一切変わりなく、本当に自然と私の世界に簡単に溶け込む。立ち話もなんだからと誘われて、近くの喫茶店で軽くお茶をすることになった。日曜日の午後三時。太陽は西の方角に傾き始めていたが、まだまだ燦々と明るい。心華やぐおやつどきだ。
喫茶店のドアを開けると、カラン、と小気味良いベルが鳴る。店の奥のボックス席を案内され、四人掛けのテーブルに向かい合うようにして腰を下ろした。
「あたるくんは変わらないわね」
壁に立て掛けてある分厚いカバーのメニューを開きながら独り言のように呟けば、あたるくんが目をぱちくりとさせる。少年と青年のちょうど中間くらいの顔つきに、少しだけ胸が軋んだ。
「頬っぺた、痕がついてるわよ」
おそらく、ガールハントをして振られたのだろう。右の頬に赤い手形がついている。
つんつんと自分の頬を指で突きながら呆れてあげると、「そうなの、モテちゃって大変」だなんて、あたるくんはお決まりの台詞でおどけた。高校を卒業して数年経っても彼は変わらない。それがなんだか、馬鹿らしいのにこんなにも安心する。胸の奥や手足の指先に、じんと熱が浸透していく。
毎日顔を合わせていた学生時代とは違い、大人になってそれぞれ就職して、別の友人も出来てコミュニティが増えれば、おのずと会う機会も思い出す回数も減る。それは、さみしくても仕方のないことで、そうして人生は色づいていくのだとも思う。
それなのに、あたるくんは不思議なひとだった。久しぶりに会ったにも関わらず、久しぶりの感じがしない。笑えてしまうほどに、彼はいつまでも彼のままだった。
きっとあたるくんの持って生まれた求心力のおかげだろう。顔を見た瞬間に会話が弾んで、まるで花が綻ぶようにして、一緒に過ごした日々が呼び起こされる。絡まっていた面映い記憶の欠片が、するすると解かれていく感覚だった。
ここのおすすめはプリンアラモードらしい。誰かと来たことがあるのか、あたるくんがそう教えてくれた。さすがに今となっては嫉妬なんてしないけれど、誰だろうかと想像を巡らせるくらいは許して欲しい。
あたるくんのおすすめにするわ、と言って、メニューを閉じると、彼はそれはそれは嬉しそうに笑った。
固めのプリンには煮詰めた香ばしいカラメルがかかっていて、自家製の生クリームが添えてある。付け合わせのオレンジとチェリーがよく冷えていて美味しかった。
あたるくんが頼んだのはホットのコーヒーで、プリンが届くなり、「一口おくれ」と悪びれもせずに言うので、テーブルの下で膝を蹴ってあげた。
「痛て」
「食べたかったら自分も頼めば良いじゃない」
「いいじゃないか、ケチ。ほら、しのぶ」
あーん、と子どもみたいにくちを開ける。名前を呼ばれてちょっとだけどきっとしたことは内緒にして、しょうがないなとその口元にプリンを運んであげた。
「うん、美味い」
「あら、美味しいわね」
「もう一口おくれ」
「だーめ。あとは私の」
そう言ってから、銀のスプーンで卵色のプリンを掬い上げる。しのぶのケチ、と不貞腐れるあたるくんを、可愛いだなんて思う余裕さえあるのに、高校生みたいなデートをしているきぶんだった。体も心もすっかり成熟した大人なのに、馬鹿みたいに心が弾んで、心臓が暴れ出しそうで、鼻の奥がツンとなる。私たち、こんな夢みたいに幸せなデートをしたことがあったかしら。もう、忘れちゃったわ。
ほどなくして、陽が翳り雲が動き、テーブルに影が落ちた。そろそろ夕飯の支度をしなくちゃ。そんなことを思っていると、おもむろにあたるくんが窓の外を見る。なんにも言わずにぼうっと空を見上げたかと思うと、突然私の方に向き直り、「このあとどうする?」と声を潜める。少し大人びた表情は、確かに色気が灯っていた。
「…このあと?」
わざととぼけると、あたるくんが僅かに目を伏せて、「せっかく会ったのに」と掠れた声で続けた。だめ? と甘えたような声で、今度は左手を撫でられる。久しぶりに触れたあたるくんの手。触れる指がじんと熱い。私の薬指に光る指輪を弄りながら、しのぶ、と一度だけ名前を呼んだ。
「…だめ、もう帰らなくちゃ」
努めて毅然とした態度を持って、あたるくんの虹彩を見る。繋がった指は、名残惜しくて振り解けない。それなのに、私はあたるくんの誘いを拒む。
「どうしても?」
「どうしても」
そう私が突っぱねると、あたるくんがちぇっとため息をついた。ぱっと手を離して、その場で伸びをし、もっとしのぶと居たかったな、と本当か嘘か分からないような言葉を切なげに続けた。
「うそおっしゃい」
「本当じゃい」
そうして私に「振られる」ことを選んだのよね。知っているわ。仕向けた、と表現したら、あたるくんがかわいそうかしら。ああ、なんて馬鹿で、優しいひとなの。泣けるほどに。
「途中まで、送っていくよ」
あたるくんがそう言って席を立ち、伝票を掴んでレジへと向かう。女の子に対してはスマートすぎるほどのエスコートをするのも健在だった。
お礼を言うタイミングを逃しつつ、あたるくんの背中を追い掛けてレジへと向かうと、先に会計をしていた初老の男性と不意に目が合った。あたるくんと私、交互に目配せをして、にっこりとほほ笑んで、予想だにしないことを言う。
「ええ旦那さんだね」
「………旦那さん」
即座に「違う」と否定をするのも、何故だかもったいない気がした。
恋人ではなく夫婦に間違えられるなんて。それだけ大人になったのね、と感慨深く思っていると、あたるくんが「そうじゃろ」と言った。くつくつと嬉しそうに笑いながら、もう一度。
「ええ旦那さんじゃろ」
私の顔をうかがいつつも、鷹揚に笑って世界一優しくてさびしい嘘をつく。絶対に本当にはならない、残酷な嘘。
一度は伴侶となる未来を想像した、ある意味特別な相手だった。もしかしたら、初恋かもしれない。あなたと人生を共にすることは、けっしておかしなことではなかった。むしろ望んだことでさえあった。あなたが好きよ。いえ、好きだったわ。
店を出て、暫く歩いて、ここで良いわと別れを告げる。
「またね」
と、あたるくんが手を振る。私の姿が見えなくなるまで、ずっとずっと手を振っていることが、なんとなく空気で伝わってきたので、私は少しでも駆け足で、あたるくんの見えないところまで急いで走った。
あなたの旦那さまは、さぞお怒りじゃないかしら。かつての恋人とのデートだなんて、大丈夫かしら。ああ、でも、あの人も女性には優しいわね。目を瞑ると、涙が零れそうだった。
交差点を曲がって、ひとしきり歩いて、あたるくんの視線を感じないところで立ち止まって息をついた。どくどくと波打つ心臓を撫でながら、面堂くんのことを思い出していた。世界がもっと、今よりもほんの少しだけでも優しくなれば、旦那さん同士の愛の育みも、きっと祝福されるだろう。もっと、もっと、いまよりももっと。それを私は願ってやまない。
下を向くと涙が出そうで、だから私は前を向く。
今日のデートを私は一生慈しむのだろう。いつでも思い出せるように、胸の奥の宝物箱に大切にしまっておこう。きっと生涯、私の心を優しく灯す、二人だけの秘密のデートを。