遅すぎることはない 尋常五年の三月に、以蔵さんが藤丸家に来た。
あの頃の姉様は以蔵さんの顔を見たがらなかったし、男同士の話だから、居間で父様と以蔵さんとオレの三人が差し向かいになった。
父様の考えは単純明快だった。
「家業を継ぐのに中学になんてやってどうする。せいぜいが高等小学校までだ。跡取りには覚えることが山のようにある、早く一人前になってもらわないと困る」
子どもの俺に言い返せることはなく、唇を噛んで太腿の上で拳を握った。
オレを救ったのは、既に一高に入学していた以蔵さんだった。
「旦那様、差し出がましいがは重々承知の上ですけんど……坊が中学に行くがにはお家にも少なからぬ利点があるかち存じます」
父様は、藤丸家で書生を二年間勤め上げた以蔵さんを信頼している。以蔵さんが一高でも優秀な成績を上げていると知っているから、聞く耳を持っている。
「ほう、利点とは何だ」
「ご家業のお客様には華族の方々もおられますろう。ああいった方々は教養を重視しちょります。ことわざや故事成語を使うた話をうもう切り返しできざったら、つまらんお店じゃ思われてよそんお店に乗り換えられてまうかもしれません」
「それは困るな」
以蔵さんの言葉に説得力を感じたのだろう、父様はうなずく。
「ほれに、帳簿見るがにはそろばんができればえい思うちゅうやつもこじゃんとおりますけんど……数学はただ計算する科目やございません。美しゅう理屈が収まるように考えを詰めていく教科ですき、しんきの事業を興す時や取引先と交渉するがにこじゃんと役立つかと存じます。科学をようけ学んじょったら怪しい詐欺みたいな投機を検証することもできますし、今後もし外国人と取り引きすることになったら英語を覚えて損になることはございません」
低く落ち着いた以蔵さんの言葉に、父様は目を細めて口髭を撫でた。
「ふむ……確かにお前の考えにも一理ある。高小では学びきれんものもあるというわけだな。私の頃とは違う、と」
「ほれにですの……」
以蔵さんはずいと身を乗り出した。
「わしは旦那様のご厚意で名門と呼ばれる中学に通わさいていただきました。あこには一高を目指して勉強し、帝大を出て一旗挙げようち志しちゅうもんがようけおります。官僚になるか学者になるか実業家になるか、進路はそれぞれですけんど、誰もいずれひとかどの男になれるよう努力しちょります。ほういった連中と懇意になることで坊の刺激になることは間違いございませんし、同窓の横の繋がりでお家の利益になるような話が舞い込んで来るやもしれません。
まだまだ旦那様もご健勝で、働き盛りでございますろう。今日明日家を継がないかんわけでもございませんき……」
父様は納得したようにうなずいてオレを見た。
「実際に中学や一高のことを知っている以蔵の言うことには説得力がある。お前のわがままだとばかり思っていたが、中学を出るのが家のためになるならよく考えなければいかんな」
思わず以蔵さんの方を向くと、小さいうなずきが返ってきた。
オレが尋常の低学年だった頃は、以蔵さんは父様の意を汲んでオレの進学を諦めさせようとしていた。
でも、藤丸家を出て一高へ入ってからは、オレの夢を叶えることに積極的になってくれている。
姉様が結婚のために女学校をやめさせられて、その上酷い形で破談になってしまったことも関係しているのかもしれない。
視線を交わして、ひとまず安堵する。
(――だけど)
心の隅っこに、一滴濁りが垂れる。
以蔵さんは、できる限りのことをしてくれている。
商家の当主にも学や人脈が必要とされる世になった。学べば学ぶだけ、自分や家に利益を還元することができる。
考えの古い父様を翻意させてくれたのは、本当にありがたい。
だからこれは、以蔵さんへの不満や不服ではない。
どうしようもないこと。
オレが藤丸家の長男に生まれてしまったこと。
きょうだいが姉様だけで、男兄弟がいないこと。
男子のいる家に、わざわざ養子を取る理由はないこと。
中学を出たその先のことは――考えたくない。
◆ ◆ ◆
以蔵さんのお下がりのマント(元々は父様のお下がりだ)を羽織って、中学の校門をくぐる。
今日は上野の帝国図書館に寄りたい。
新刊の棚にある専門書は藤丸家の財力でもとても買える値段ではないけれど、これを必要とする研究者の手に渡って学問がまたひとつ進歩するかと思うとわくわくする。
実際に借りて読むには区立図書館の蔵書の方がふさわしいとわかっていながら、学問の未来を感じたくてオレは時たま帝国図書館へ行く。
上野の停車場を降りて公園(御一新前にあった寛永寺は、佐幕派が立てこもって焦土になったという)を抜け、帝国博物館と地下駅の角を曲がると、煉瓦造りの帝国図書館が目に入る。
正門から前庭に入り、今日は何を見られるのかと期待するオレの耳に、いさかいの声が入って来た。
ついそちらを振り向くと、バンカラ学生風の男二人が一人の青年の前に立ちはだかっていた。
「お前、前もろくに見ないで歩いておいて謝ることもできねぇのか」
詰め寄られている青年は銀髪で、外国人だ。
「君たちこそ、前を向いていなかったんだろう。目の前で人が天啓に打たれて立ち止まっていたら、避けて歩くのが作法というものだ」
青年は天を仰いで頭を抱えた。聞いた者が日本人だと信じ込んでしまうほど、流暢な日本語を操る。
「あぁっ、こうしている間にも天啓が遠ざかってしまう!」
しかしバンカラの男たちはそんなことには構っていられないとばかりに目を吊り上げた。
「お前、お雇い外国人だろ。雇われ先が学校が機関か知らんが、高給取りなんだろうから少しは俺たちに寄越してもいいんじゃないか?」
「そうだぜ、ぶつかったのもそれで許してやる」
銀髪の青年はため息をついた。
「そうか、金が欲しいのか。そんなことは早く言いたまえヨ。金なんかで解決するなら安いものだ――」
気がつけば、背広の内ポケットに手を入れようとする青年の前に立ちふさがっていた。
「あーっと! ヤンモリ、ここにいたんだ! お待たせ、早く行こう!」
バンカラの男たちも、銀髪の青年もいぶかしげにオレを見る。
けれどオレはバンカラの男たちへ頭を下げた。
「本当すみません! なんだかご迷惑かけたみたいで……彼、まだ日本に慣れてないんです。後でよく言い聞かせますから、今日は許してもらえないでしょうか?」
男二人が視線を合わせて困惑する間に、オレは青年の腕を引っ張った。
「本当すみませんでした!」
前庭の奥の木陰に隠れると、青年は片眉を上げてオレを見た。
「何だネ君は。実はあいつらの仲間だなんてことはあるまいな」
言われたことがあまりに意外で、オレはキョトンとしてしまう。
その表情を見て、青年は自分の考えすぎを察したようだ。
「……善人そのもの、という顔だな。善人ならこういうこともするだろう。だが、不逞学徒に絡まれていた私を助けるメリットはあるのか? 君と私は一面識もないだろう」
「面識……ありますよ、ジェームズ・モリアーティ先生」
オレの言葉に、青年――モリアーティ先生は目をむいた。
「は? どうして私の名前を? 私は一度会った相手の顔を忘れることはないのだが……」
予想外のことにぶつかるのは苦手らしい。
「面識って言うのはちょっと大げさでした。去年の秋、先生がうちの中学に講演に来てくれたんです」
まだ二十歳になったばかりだと言うのに、モリアーティ先生は遠く英吉利から帝大から招聘された。本国では天才と呼ばれる先生が帝大の数学科で教授の座に就いた――という来歴を聞いて、オレは感激したものだ。
モリアーティ先生は少し遠くを見るような目をしてうなずいた。
「あぁ……そんなこともあった。前途有望な中学四年生に向けて、継続の大切さを説いてほしいという依頼だったな。私は努力して勉強を継続させたことがないので、少し的外れな内容になったかもしれない」
つまらなさそうに言う先生へ、オレは拳を握って前のめりになった。
「先生のお話、とってもためになりました! 好きなことを見つけて、それを知ろうとすれば頑張ろうと思わなくても自然と努力になってる……オレも好きなことを突き詰めたいなって強く思ったんです!」
オレの熱弁に、先生は眉根を寄せた。
「それで、私の顔も覚えていたというわけか」
「はい、だから先生が言われたままにたかりに遭うのをただ見てることができなくて……」
「私がおとなしくたかられる側のままでいると思っていたのネ」
「え?」
「いや……なんでもない。変わった男だ、君は。では――もう会うこともないだろうがネ」
きびすを返そうとする先生の背広の裾を、オレは掴んだ。苦虫を噛み潰したような顔をするモリアーティ先生の顔を見て、なんとか引き留める言葉を探そうと脳髄が回転する。
「先生……今度、うちの義兄の家にごはんを食べに来ませんか」
「兄」
「正確には姉婿なんですけど。義兄は昔うちで使用人をしてて、その頃からオレのお手本みたいな人なんです。その義兄と先生を引き合わせたくなって」
「迷惑だろう、その義兄上の都合も聞かないで。食事も姉上が作るのだろうし。君は私を知っているようだが、私は君の名前すら知らない」
確かに、自己紹介もまだなのに食事に誘うのは不躾だ。思いがけず尊敬する人と出会って、浮かれすぎていた。
「オレ、藤丸です! 気軽に呼んでください!」
「そういう意味ではないのだがネ……」
モリアーティ先生はかばんを持っていない方の手で頭をかいた。
「ミスター藤丸、私は日本に遊びに来たのではない。日本の未熟な学生に数学の粋を教える代わりに給金をもらっている。もちろん、合間に自分の研究もある。今知り合った君の姉婿の家に呼ばれる時間なんてないんだ」
にべもない返答に、心が折れかける。
オレにとっては憧れの先生でも、モリアーティ先生にとっては聴衆の一人だ。愛着を持つ理由なんてない。
けれど、オレはひとついいことを知っている。人間の三大欲求に基づいたことだ。
「先生は今、帝大が用意した寮か何かにお住まいだと思うんですけど……英吉利料理ばっかりなんじゃないですか?」
モリアーティ先生の表情が固まった。
英吉利料理は味に難点がある。よく言えば素材の味を活かしていて、悪く言えば調味がよくない。
庶民は揚げ魚と揚げ芋などを食べるが、上流階級は仏蘭西や伊太利のレストランへ行くらしい。
これはいける、と確信して、オレは前のめりになる。
「うちの姉、料理得意なんですよ。家庭料理なんですけど、義兄においしいごはんを食べてほしいからって。料亭なんかに比べたら見劣りするかもしれないですけど、せっかく日本に来たんだから家庭料理も食べる価値があると思いませんか? 英吉利に帰ったらもう食べられませんよ?」
黒い瞳が、オレの頭の上あたりを見る。骨ばった喉仏が上下する。
モリアーティ先生は頭を振って、オレを見た。
「日程は君が決めてくれるんだろうな」
まるで三重防壁を陥落させた征服者のように、オレは心の中で快哉を叫んだ。
「帝大の研究室まで伺いますから!」
「まったく、諦めが悪い……」
ため息の中にも、確実に日本料理への期待があった。
「ところでヤンモリとは何だネ」
「『ヤングなモリアーティ』の略です」
「まるでヤングじゃない私がいるみたいじゃないか」
先生は『解せぬ』と言いたげな顔になった。
◆ ◆ ◆
帝大の研究室と以蔵さんの家を二往復して互いの意向を聞き、その次の月の日曜日に招待することになった。
日曜の夕方、オレは先生を研究室まで迎えに行った。
帝大には非公認の『もぐり』として授業を聴講する生徒も多いから、オレも簡単に入り込める。
「藤丸、先生にゲテモノ食わすなよ」
「大丈夫ですって! たぶん!」
短い間で顔馴染みになった学生の一人と会話する。
「こういうのを、日本語では『外堀を埋める』というのだったか……」
そうこぼす先生を先導して、オレたちは市電へと乗り込んだ。
「東京にも自動車が普及し始めたのだネ」
つり革に掴まって車窓を眺める先生に、
「何年か前までは人力車の方が多かったんですけど、ここ数年でだいぶ増えて」
父様は「本家に先んじて自動車を買うべきだろうか」と悩んでいる。
「私は東京という街が蛹から羽化しつつある過程に立ち会っているというわけだネ」
数学者なのにと言うべきか、それとも数学者だからと言うべきか、先生は言葉の選び方が詩的だ。母語ではない日本語でもこうなのだから、英語で会話をすればもっと先生の考えを知られるに違いない。
(……)
沈みがちな考えを振り切って、
「ここです」
先生の手を引いて市電を降りた。
以蔵さんと姉様の家は、表通りから一本入った枝道にある。
「姉様ー」
玄関の前で呼びかけると、たすきがけの姉様が引き戸を明けた。
「いらっしゃい。こちらが数学の先生?」
オレがうなずくと、姉様は先生へ丁寧に頭を下げた。
「今日はようこそおいでくださいました。弟がずいぶんとお世話になっているそうで」
「別に何も世話などしていないが」
先生は事実を言ったが、姉様はそれを謙遜と受け取ったようだ。
「大したもてなしもできませんが、どうぞごゆるりとお過ごしください」
「……これが日本の『謙譲』というやつかネ」
先生はわずかな不快さを込めてオレの耳にささやいた。
「はい」
「気持ちのいいものではないな」
「すみません……」
オレたちの会話に気づかず(あるいは聞かなかったことにして)、姉様は受け取ったジャケットを衣紋掛けにかけてオレたちを家の中に導いた。
官僚とはいえまだ新人の以蔵さんは、それほど広い家を借りられない。居間が応接間代わりになっている間取りは、藤丸家に比べたらだいぶ窮屈だ。それでも、姉様の気遣いで部屋の隅々まで清潔さは保たれている。
居間の以蔵さんはちゃぶ台から立ち上がった。
「よういらっしゃいました。義兄の岡田以蔵と申します。先生のご高名は、帝大に残った同期からも聞いちょります。まさか若とご懇意とは」
「若とは?」
「義兄様が使用人だった頃の名残りです。もうやめてほしいって言ってるのに」
また小声でオレと会話する先生に、以蔵さんは上座を譲った。
「英吉利からのご客人に夕餉を出せる機会らぁめったにないと言うて、妻も張り切っています。先生のお口に合うかどうかはわかりませんけんど、食うて行ってつかあ……ください」
以蔵さんは土佐弁を飲み込んだ。標準語しか学んでいない先生に気を遣っているのだろう。正直、以蔵さんの土佐弁はオレですらたまに意味を判じかねる時もある。
先生は眉をひそめながら座る。日本の作法は知っているが抵抗は隠せない、という顔だ。
姉様が出した茶をすすりながら、以蔵さんは興味深げに先生へ語りかける。
「わし……私も帝大を出ておりますが、法学専攻でしたから数学は一高の時分で止まっておりまして。先生からご覧になって、帝大の学生はどんな感じですか」
「全般的に稚拙に見えるところもあるが、光るものを持っている学生もいるネ。もっと論理的思考を訓練すれば、世界に通用する者も出てくるだろう。英語力が課題になるが」
「英語は必要があれば自然と覚えるもんでしょう。必要は発明の母、っちゅう言葉もあります。私ももうちっくと学んでおくべきだった、と今になって思うています」
土佐弁が時折漏れるのはご愛嬌というやつだろう。
帝大の学内に気晴らしはあるかとか、英吉利料理に飽きたら学食へ行ってみるといいといった会話の後、先生は思い出したように言った。
「ミスター藤丸も、一高の試験勉強はしているのかネ。君が帝大へ進学する前に私は日本を発つが、私の教え子に師事することもあるかもしれないな」
オレは我知らず肩を震わせてしまった。以蔵さんも気まずげに目を逸らす。
その反応を見逃す先生ではなかった。
「……何かネ」
訝しげな視線をどう受け止めていいかわからなかったが、嘘はつけない。
「オレ……一高には行かないんです」
先生は首を傾げた。
「講演の時、君の中学は一高から帝大を目指す生徒が集まっていると聞いたが。一高には入れない者も私学に行く、と」
「それは……その……」
「若は進学できんのです」
胸に渦巻く思いをうまく言葉にできないオレに、以蔵さんが助け舟を出した。
「進学できない? ミスター藤丸の家は進学できないほど貧しくはないのだろう? 成績も悪いようには見えないし」
「……逆なのです。若と妻は二人きりの姉弟で、藤丸のお家を継げるのは若しかおらんのです」
「はい……」
ようやく、言葉が口から出る。
「オレは勉強がしたくて中学に入りました。渋る父様を義兄様が説得したんですが……帝大に入りたいなんてとても言えませんでした。中学で学ぶのは、今後商売で役に立つ知識を得るため。その先に進んでも、家業の足しにならない。跡取りが研究なんてしてもしかたない――そう言われるのはわかってました。だからオレは」
「ふん」
先生は鼻から息を吐いた。
そこにある侮蔑の響きに、以蔵さんはほんの少し低い声を出す。
「若の言うことはほがぁにあやかしいがですか」
癇に障ったせいか、土佐弁がむき出しになる。
けれど先生は、黒い瞳でオレを射た。
「義兄上、私は帝大を『官僚や知識人の養成機関』でもあると聞いている。その認識に間違いはないかネ?」
想定していたのとは違う言葉が返って来て、以蔵さんは声に動揺をにじませた。
「はい……ほうです、もちろん研究に勤しむ者もおるけんど、特に文系は卒業したら職に就く者の方が多いです」
「ならばミスター藤丸、君は今帝大に進学する必要はないのではないかネ?」
「……どうしてですか」
そろそろと、オレは問う。
先生は当たり前だと言いたげな視線を向ける。
「就職を前提としないなら、必ずしも若いうちに大学に入学しなくてもいい、ということサ。帝大には聴講生という制度があるだろう。それに、大教室の私の講義にも『もぐり』の者は多くいる。正規の学生でないと研究室に入るのは難しいかもしれないが、それこそ君が子供に跡を譲って、老後に研究することもできる。学究の徒で同窓の年齢を見る者はいないものサ」
先生はひとつ息を吐いた。
「『Everything comes to him who waits.』」
「……『待てば海路の日和あり』……」
以蔵さんが日本語で復唱する。
「カイロ……日本語ではそう言うのか。私も正直、極東なんぞには来たくなかった。欧州の学会から離れたら、それだけ最先端の知識から遠ざかる。数学は机上でできるとはいえ、私が意気揚々と解いて持ち帰った定理が既に他の者に明かされて広まった後だったとしたら目も当てられない。
そんな危険を冒しても、日本の政府から積まれた給金に屈さざるを得なかった。私は一部で天才として知られているが、出資者が見つからなければ研究費もろくに準備できない。労働に手を染めては、それだけ真理から遠ざかる。それならば、二年学会から離れてもその後五年間金の心配をせずに済む方がマシだ」
先生のため息は自嘲だったのだ。
「日本は楽しくないことばかりだとは言わないが、焦りは当然ある。欧州で私の名が忘れられてしまうのではないか、真理の探求に浴せなくなるのではないか――だが、ミスター藤丸。私ばかりではない、王侯貴族だって己の持つ条件からは逃れられない。ならば与えられているもので戦うしかない。そう思って、私は今日本にいる」
「モリアーティ先生のお考えはげにまっこと合理的ですの」
以蔵さんは少し冷めたお茶を飲んだ。
「――経験が絶対とは言えませんけんど、わしも手許にある武器だけで悪戦苦闘するしかない時がありました。無我夢中になっちょったら、いつの間にか道が開けた。若にも遠回りが無駄やなかったと実感できる時が来ます。ほれは遠回りした者にしかわからん……」
「今は諦めざるを得ないかもしれない。しかしそれは、一生諦めることではない。取り返しのつくものも、この世にはある――まぁ、まだ二十年そこそこしか生きていない私が何を言っているのか、と言われるかもしれないがネ」
先生の言葉が腑に落ちる。
衝動的に動くのではない。人生の上り下りを意識して、未来を描く。
もちろん、家をつぶしては研究どころではなくなる。
オレが苦労知らずなのは自分でもよくわかっている。三代目が遊び呆けて番頭や手代に家を乗っ取られたり、怪しい山師に騙されて家財を奪われたりするのは珍しくないと聞く。
だから堅実な商いをして、藤丸家を磐石にする。
そのために、父様や使用人たちからよく学ぶ。自分を跡取りではなく、丁稚だと思うくらいがちょうどいいかもしれない。
決して、家のために自分を犠牲にするとは思わない。
与えられた場所で、夢を抱いて必死に生きる。
したいことを成し遂げて、死ぬ時に笑っていられればいい。
「先生……」
「何だネ」
「オレ、先生に出逢えて本当によかった……!」
「よしたまえ、私は君の人生に関わるつもりなどない。私のせいにせず、好きにしたまえ」
先生は何ともなさそうに言うが、頬にほんのり赤みが差している。色が白いからよく目立つ。
「若はえい出逢いをしましたのう。あん時、中学に行く後押しをしてまっことよかったがじゃ」
以蔵さんの独り言は、誰にに聞かせるでもないせいか土佐弁だ。
姉様が両手で盆を支えて居間へ入ってきた。
「土佐の皿鉢風にしてみたけど、どうかな?」
ちゃぶ台に置かれた皿鉢の真ん中には鯖の押し寿司が陣取り、その周りを昆布巻やこんにゃくやれんこんの煮物、かぼちゃの天ぷら、飾り切りされたかまぼこ、卵焼き、いたどりの白和え、一口大のきんかんなどが囲んでいる。
「主人が、『外国の方は生魚を食べない』って言っていたから工夫したんです」
以蔵さん夫婦は結婚後一度土佐へ里帰りし、姉様はその際に以蔵さんのお母様から土佐料理の基本を学んだという。
「先生、どうですか。食うてみたくはなりましたか」
「……我々にはスターゲイジーパイがある。それに比べたら見た目はどうということはない。賑やかだな」
「あっ姉様、先生はお箸使えないけどどうしよう?」
「大丈夫、ちゃんと『ふぉーく』と『ないふ』と『すぷーん』を揃えてあるから」
「仕事が早い!」
オレが言うと、
「こういう時、『かたじけない』と言うんだったか」
と先生は迷いながら頭を下げる。
「『かたじけない』は少し大仰ですき、『ありがとうございます』くらいでえい思います」
「そうか……ありがとうございます、姉上」
「お気に召すといいですけど」
姉様は続いて豆腐と油揚げの味噌汁を配膳して、三杯の茶碗と一枚の平皿に白米を盛った。
オレは隣の先生に話しかけた。
「先生、日本ではごはんをいただく前に手を合わせて『いただきます』って言うんです」
「『いただく』? 誰からもらうんだネ」
日本の感覚を知らなければもっともな疑問かもしれない。オレは答える。
「食事を作った人、農作物を作ったお百姓、それに皿に並んでくれる食材にお礼を言うんです」
「……よくわからんが、それが作法だと言うなら」
「じゃぁ……いただきます」
ちゃぶ台に着いた四人で手を合わせ、それぞれ箸とフォークをつける。
先生は最初にれんこんの煮物を選んだ。睡蓮の絵を何枚も描いた画家がいるくらいだから、こんにゃくやいたどりよりは馴染みがあるのかもしれない。
フォークを口に運んで咀嚼すると、黒い目が輝いた。
「これは……思ったより……味が深い。塩気だけではない。不思議な味わいがある」
「……あぁ、西洋にはだしの概念がない言いますの。豚や鶏の骨、きのこらぁから出る、一言じゃ言えん美味な成分で煮ると食材に味が移るのです。これはかつおっちゅう魚を煮て炙って乾かして削ったたもんから味を出しております。私の故郷の名産品です、うまいですろう?」
以蔵さんはかつお節を売り込む。
「うまい……ではこれは……うん、いいな」
先生は昆布巻きも大事そうに味わっている。
平皿からフォークで白米をすくって食べる先生の様子に、以蔵さんと姉様は視線を交わして笑い合った。
無事に幕が開いた晩餐に、オレも安心して押し寿司をつまむ。さわやかな酢飯が心地よい。
さっき先生が言ったことを思い出す。
諦めることは終わることではない。時間が経っても、取り戻せることはある。
以蔵さんも同調してくれた。
経験が絶対ではないと言っていたが、実際に以蔵さんは姉様を想い続けて、ついに主家の令嬢と書生という身分の垣根を乗り越えた。
ものごとに取り組むのには遅すぎるということはない、と信じたい。
今夜の皿鉢料理のことを、オレは忘れないだろう。
卵焼きを頬張る先生に、オレは安堵のため息をついた。