しずく、しずか、しずむ【一七】ウサミが帰ってこない。
「ただいま」と言っても何も返ってこない。
そりゃそうだ。居ないんだから。
暗闇の中に気配はなく、明かりの下にも姿はない。
どこに行ったんだ?近くの物置小屋とか、車の下から出てこないか?
そんな逃げだしたペットみたいな……いや、でも、そもそも、どこから来たのかも、どこへ行くのかもわからない存在を──
どうやって探せばいい?
離れていくと思っていなかった。
ずっと傍にいるもんだと。
あいつはもう、そういう存在だから、諦めるしかないくらいの。そういう。
もしかしてそれにあぐらをかいていたのか?俺は?
いやいやいや、違うだろ。絶対やばい存在だから。離れてくれてよかったはずだろ、うん。
こわかったじゃん、実際。あの目、思い出すだけで股間ヒュンッてなるくらいには。
あんな執着の化け物みたいなやつ。……そうだろ?そうだよな?
数日前からずっと、ぐるぐる同じことを考えている。
なんだったか、うろ覚えの……、自分の尻尾をくわえた蛇みたいだ。
「──で、門倉部長、どうですか?」
「あい?」
「もう!だから今日は6時から集まりましょう、って」
新入の事務員。あの日の子だ。
その彼女から誘われた。みんなで飲みにいきましょう、って。
「ああ、うん。俺は大丈夫だよ」
家に帰っても誰もいない、それに時計の針が重たくって、やたら遅く感じる。
一人でもてあますくらいの夜、だったら飲みに行った方がマシだ。
そう思って定時退社でそのまま店へ直行した。
店に着いてみると、先に来ていたのは彼女一人だけ。
「あとから皆来ます」と言いながら、先に乾杯した。
世代が違うと話も違う。懐かしいと、新しいが交じる会話は楽しい。
けれど、俺の意識はどこかここじゃないところをうろついていた。
早く“今日”が終わらないか。そうすれば、日にちさえ経てば、少しは薄れるかもしれない。
──大人は、日にち薬がいちばん効くって知っている。
だから、少し早めのペースで酒を飲む。飲み放題プランにしてよかった。
けど、どれだけ飲んでも、店の個室には彼女と二人きりのままだった。
「あれ、そういえば……みんなは?」
「あっ、なんかみんな急に来れなくなっちゃったみたいで、さっき連絡が来て……」
「ああ、そっか」
じゃ、こんなおじさんと二人きりで居続けても、悪いよね。
「門倉部長って、おひとりなんですよね?」
「え……」
「今、フリーだって聞いたんですけどぉ……」
カクテルに混ざりきらないシロップみたいな、甘い声。
テーブルの上に置いた手に、彼女の指が重なってくる。
よく手入れされた丸い爪、そこにかわいらしい色と飾り。
「前から部長のことが好きだったんです……」
「……あ?ああ……」
「わたしじゃ、ダメですか?」
けど、不思議だな。その指先にも、声にも、ときめきはなかった。
すっ、と自分の手を引く。
「──ごめんね、俺、一緒に暮らしてるやつがいるんだ。だから……ごめん」
その時だった。
個室の扉がスパンッ、と勢いよく開く。
「うわっ!?」
「きゃあッ!」
──立っていたのは
「う、ウサミ!?」
「え?誰ですか、この人……」
「ご、ごめん。そういうことだから、今日はこの辺で……。あ、これでタクシー呼んで、危ないからね、帰り道」
テーブルに呑み代を多めに置き、ウサミの手を引いて店を出た。
……つもりだったけど、飲みすぎてて足がふらっふらで覚束ない。
結局、引っ張ってたのは最初だけで、途中からはウサミに引かれてた。
「ああいう人、たまにいるんですよね」
しばらく無言の帰路、静けさを割ったのはウサミの方だった。
「……へ?ああ、“おじさんを好きになる人”って?」
繋いだ手、ぎゅううっと強く握られる。
「いでででで!?」
「ちがいます!なに言ってるんですか!?」
「ち、ちがうのぉ?じゃあ、何の……」
「“僕のことが、まったく見えない人”です」
……え、なにそれ?
酔った脳内に疑問符がふわふわ浮かぶ。
見えない?
数日前の広場のやりとりを思い出す。
確かに。ウサミという連れが横にいても、彼女は普通に喋っていた。
浮かんでいた疑問符はパチパチと炭酸の泡みたいに弾けていく。
彼女には見えていなかった。
見えていたら見たはずだ。
整った顔立ちも、異質な視線も、ぜんぶ無視する方が難しい。
それなのに、気づかなかった。
「あなたが打ち明けてくれたから、あの人は僕を“認識”できるようになりました」
えっ、それって──つまり、
「門倉さんから、“いる”って話してくれたから……」
都市伝説とか口伝で広がるやつじゃないの?
「僕、うれしかったです」
なんか、今、すっごくまずい選択肢引いた気がする。
(あれ?じゃあ──)
「怒ってた、わけじゃないのか……?」
「おこる?」
「あの時、もういいって言ってたから」
「……ああ、それはもう、いいんです」
意外にもあっさりした回答が返ってくる。
「気にしないでください」
「そ、そう?」
「はい!門倉さんにどう思われても、結果は変わらないことに気づいたんです、僕」
「へ?なんの……」
「え?」
「え?」
ああ。またこの、噛み合ってるようで噛み合ってない会話が戻ってきた。
これを恋人が戻ってきてくれたと感じるか、あぶないペットが帰ってきたと見るか。
でも、この安堵感はどちらも一緒……だよな?