楽園に二人定時の目覚ましよりも茨のモーニングコールよりも早くに目が覚めることはたまにあることだった。読書の途中で眠ってしまってベッドライトを消し忘れた時、次の日の予定が楽しみで気持ちが逸った時、お腹が空いたり喉が渇いた時。
(カーテン、閉め忘れていたな)
夏の時期には珍しくまだ外は仄暗いけれど、微妙な明るさの変化を体が感じ取ったのだろう。薄明の空は夜空の濃密な闇とは違う、濃い青色の光に染められていた。ブルーアワーだ。
私はベッドを抜け出してベランダへと踏み出す。高層マンションの最上階から望む景色は朝も昼も夜もいつだって美しいけれど、この青一色に染められた特別な時間は一層のことだった。呼吸すら憚られるほど静まり返った世界は、あらゆる不純物を拒む、まるで私一人きりのために準備された箱庭のようだ。遠くに駅舎の明かりがあっても、ほんの数軒先に24時間営業のコンビニがあっても、不思議なほどに孤独を感じた。
(茨は、)
どこに。
広々としたベッドのどこにも彼の姿はなかった。記憶を手繰り寄せてみると、昨日は一緒に眠らなかったことを思い出した。チェックしたい映像があるとか言って今日がオフなのをいいことにリビングのテーブルににたくさんDVDをばら撒いていたのだ。もう20も超えた私には「日付が変わる前に寝るように」と言うくせに相変わらず自分は勘定の外だ。せっかくお休みだから二人でゆっくりしたかったのにな、というところまで思い出して、だからきっとこの寂しさは茨のせいに違いないと結論付けた。こんな広々としたベッドで、広々とした黎明の空の下で、美しい青色一色に包まれて他に遮るもののない世界を一人きりで眺めているせいだ。
私は踵を返して寝室を後にした。スリッパを履きそびれていたようでぺたぺた音がするけれど、ひんやりしたフローリングが気持ちよくてそのままリビングへ向かう。
室内はライトもテレビも消えていたけれどDVDはローテーブルに散らばったままだ。きっと遅くまでチェックしていたに違いない。ソファの座面に回り込むと、想像通り眠り込んだ茨の姿があった。ソファで眠ると体を痛めると口を酸っぱくして言うくせに自分はこれなのだから困ったものだ。私だって君と同じくらい君のことを大事にしたいと思っているのに、いつになったらそうさせてくれるのか。茨が頑丈なことも、これが仕事であることも分かっているけれど、心配くらいはさせてほしい。お仕置きだなと思ってカーテンを勢いよく開いたけれどまだ朝日は地平線でぐずついているようでそこまで室内に変化はなかった。
(……そうだ)
私はふと頭に浮かんだお仕置き、もとい可愛らしい悪戯を実行するために一旦部屋に引き返し、イヤフォンとスマホを手にリビングへ戻った。眠る茨の傍らに膝をつく。まだ目覚める気配はない。出会った頃ならば部屋に一歩踏み入れていた時点でぱっちりと目を覚ましていたであろう茨を思うとだいぶ絆されてくれたなと少しくすぐったい気持ちになった。
手にしたイヤフォンをそっと彼の左の耳へ装着する。もう片方は私の右耳へ。
眠っていても耳は聞こえているという。だったらきっとこれから流す音も彼へ届くことだろう。ロックを解除してカメラロールを開く。先日二人で出かけたニューカレドニアの波の音。茨を驚かさないように、始めは控えめに、ほんの小さなさざなみ程度の音量で。徐々に調整して、ちょうど現地で聞いたような打ち寄せる潮騒のボリュームに。私の右耳にもこの夏の思い出が蘇る。
「……茨、起きて」
ざあん、ざあん。
汀の白波。カモメの鳴き声。ごうと風が吹き付ける強い音。遠くに聞こえる観光客の声。
それらに紛れて、彼の空いた右耳へやさしく呼びかける。
さあ、目を開けて。
「……ん、か……っか……?」
ひくついた瞼が何度目かの微睡の抵抗を跳ね除けてゆるゆると開かれた。ピントの合わないうつくしい青色が、それでもわずかな隙間から私を見つけ出す。嬉しい。自然と口角が持ち上がる。
目覚めたばかりの茨の頭をそっと撫ぜた。君はいつも呼べばすぐに私の元に帰ってきてくれるね。
「おはよう、茨」
ブルーアワーはとっくに終わってしまっていて、深い夜の底のようだった部屋には眩い朝日が差し込んでいた。