寮に戻ると玄関先まで甘い匂いが漂ってきていた。すでに夕飯時を過ぎているのにこんな時間から甘いものを食べるなんてあり得ないなと思う反面、ここ最近で最も精神的に堪える商談を終え疲弊した脳が糖分を欲しているのを感じた。
「あ、茨おかえり」
まさか殿下などが自分の居ぬ間にこっそり間食をしようとしているのではあるまいなと念のため共有キッチンに顔を出すと、なんと閣下がホットケーキを焼いている最中だった。エプロンをつけて束ねた髪をさらにクリップで留めている姿は大変衛生的で料理をする人間としては大正解であったが、あまりにも庶民的なその姿にすでに疲労困憊だった脳のヒューズが飛ぶかと思った。今の俺には負荷が大きすぎる。駄目だろう、乱凪砂がホットケーキを焼いてるなんて。高圧的な男性性を売りにしているAdamの乱凪砂が、かわいいエプロンでホットケーキ。イメージとギャップがあり過ぎておかしいだろ。いやまてよ、料理男子は世の女性からは好意的に受け取られる傾向が強いのだから悪くはないのか。いやいや、絆されるなそれはイメージ戦略と真逆の方向性だ。良くない、全くもって良くない。だいたいあのファンシーなエプロンはどこから持ってきたんだ。誰だ貸し与えたやつ、絶対許さない。
あまりにもくらくらする光景に俺は頭を押さえて若干おぼつかない足取りで室内に踏み入れる。
「か、閣下、このような時間にいかがなされましたか? 申し付けてくだされば自分が帰りにホットケーキだろうがなんだろうが買って参りましたのに……ああ、フルーツがこんなに…お怪我はありませんか? 火傷は? お召し上がりになりたければ今から自分がお作りいたしますので……いえ、それより即刻そのエプロンを……!」
「茨、なんだかよろよろしているけど大丈夫?」
あんたのせいですよ!とはまさか言えるはずもなく、商談が難航しまして、と乾いた笑いと共に当たり障りのない回答をした。早くエプロン脱がしたい。
「やっぱり」
「やっぱり?」
ひょいとフライパンの中のホットケーキを裏返しながら閣下が言う。ホットケーキは綺麗な黄金色をしていてその芳しい香りと共にとても食欲をそそった。会食をしながらの商談であったが、手強い相手を納得させなんとか話をまとめるのに忙しくちっとも食事が進まなかったからだ。くう、と腹の虫が鳴く。大した大きさではなかったはずなのに、耳のいい閣下には聞こえていたらしくくすりと微笑まれて恥ずかしかった。
「夕方別れる時とてもひどい顔をしていたから、きっとこの後会うのは茨の苦手な相手なんだろうなと思って」
「お、お恥ずかしい限りです」
まさか顔に出ていたとは。思わず両手で頬を押さえてしまう。今更そんなことをしても時間は巻き戻らないし閣下に隠せるはずもないのだが、これも人間心理というやつだ。
「疲れて帰ってきたら甘いものが食べたくなるでしょう? でも買い出しに行くには遅い時間だったから寮にあるものでなにか茨のために作れないかなと思って……そうしたら創くんがね、ホットケーキミックスがあるからどうぞってお裾分けしてくれたんだ。フルーツは茨と同室の……高峯翠くん、かな、が分けてくれたんだ。あ、エプロンはゆうたくんが貸してくれたよ」
裏面の焼け具合を確認した閣下が火を止めてホットケーキを皿にのせる。店で出されるように少しずつ重ねて置かれたホットケーキの中心に冷凍庫から出してきたバニラアイスをディッシャーでのせ、その周りにカットしてあったフルーツをこれでもかと盛り付けた。
「さあ茨、座って」
出来上がったらしい皿を片手に俺の背を押してテーブルまで誘導する。椅子に座らされ、閣下が持ってきたプレースマットの上に乱凪砂お手製の贅沢なパンケーキの皿を置く。ナイフとフォーク、ハチミツの容器、それからコーヒーの入ったマグカップも追加で置かれた。
「どうぞ、召し上がれ」
向かいの席に着いた閣下が、自分用に入れたカフェオレを片手ににっこりと笑う。嬉しいやら恥ずかしいやら恐れ多いやらでじわりと顔が赤くなっているのが手に取るように分かった。
じっと目の前のホットケーキを見下ろす。確かに頭脳労働で脳が糖分を求めているし、夕食もろくに摂れていないから腹も空いている。俺は僅かに逡巡して、ナイフとフォークに手を伸ばした。カロリーのことは忘れよう。どうせなにか胃に納めてから寝ようとしていたのだ、それが何かからこのホットケーキに変更されただけだ。気になるのなら明日少しだけ多めに運動すればいい。最終的に帳尻が合えばいいのだから。
そう結論づけて、今はこの幸福に頭の天辺から爪先まで浸ることを、俺は自分に許可したのだった。