最近野犬に墓が荒らされると教会から連絡があり、村の自警団が交代で見回りをすることとなった。野犬狩りをしたばかりだというのに困ったことだと腰の曲がった村長が嘆き、小さな子どもたちが襲われたらどうしようと恐怖に震えていた。しかし村の男たちはきっと前回狩り残した犬が一匹二匹いるのだろうと気楽に構えており、確かに荒らされた墓にはそのように推測される痕跡があった。
けれども僕は例え犬の一匹二匹だろうとも、夜中に見回りなんてやりたくなかった。そんなことを言うと小心者だと非難されるので口にはできなかったが、何も犬が怖いだけではない。大昔からのいい伝えで教会へ続く森には良くないものが出るから夜中に入ってはいけないのだと、幼い頃より祖母に教え込まされていたからだ。
そうして今まさに、僕はその良くないものを見つけてしまったのだった。
「茨、あなたは昔言いましたね、わたくしは持てるもの、あなたは持たざるものだと」
そこは罪人の墓だった。もう何年も前に、領主様のお屋敷で悪事を働いたという壮年の男がひとり、この近くの屋敷に幽閉されていた。その人は赤毛の男で、牢屋に入れられたりすぐに死刑にされなかったりしたところからみるにきっとそれなりの身分の人だったのだと思う。僕らのような一介の村人には説明なんかされることはなく、ただあの屋敷には近づいてはならない、赤毛の男に話しかけてはならないというお触れだけが出された。そうして彼は僕達の前に一度も姿を見せることなく、数年前に亡くなってしまった。なぜ死んだのか、どうやって死んだのか何もわからないけれど、僕たちは彼を埋めるための労働力として駆り出された。その時司祭様がこの人はある尊い血筋に連なるお方だったと教えてくださった。その身分にふさわしく、こんな田舎の果てにしてはたいそう立派な墓が建てられていた。
「確かにわたくしはあなたの言う通り、持てるものなのでしょう」
その罪人の墓を、若い男が掘り返していた。それこそ野犬に掘り返されないように数人で地下深く埋めたはずの棺が、たった一人の手によってすっかり掘り返されてしまっていた。司祭様が毎日が欠かさず供えていた花が掘り返した土に塗れて哀れな姿となっていた。一見して優男の風貌をしているその男は一体どんな技を使ったのだろうか。けして柔らかいとはいえない土を一人で掘り返し、一人では到底動かせないような重さの棺を穴から持ち出した方法を僕にはとても想像できなかった。まるで魔術でも使ったかのようだ。
男は棺の土を優しく払いながら、何か語りかけていた。釘を抜いた様子はなかったが、ぎい、と音がして蓋は難なく外された。開かれた棺に腕を差し込み彼が抱き起こした死体はすっかり骨になっていた。当たり前だろう、埋めてからもう随分と年月が経っている。しかし、普通は肉を失ってばらばらになるはずの骨がまるで生きている人間のように繋がっているのはどういう了見だろうか。僕は見間違いかと目を擦って見たが、やはり不思議なことに見えない糸で繋がれているかのようにその骨格は滑らかに動いていた。
「さあ参りましょう、死者の国など、あなたには似合いませんものね」
男が骸骨の頬を撫でる。それは慈愛に満ちた優しい指先だった。あれが死体で彼が不審者でなければ、例えば祖母が僕にそうしてくれたのと同じ優しさを感じるほどだった。けれどあれは何年も前に死に死肉さえ腐敗してしまった骸骨なのだ。冷や汗が背筋を伝うのがわかった。
男はくたりと垂れた骸骨の指に当たる部分に、まるで手でも繋ぐかのように自身の手のひらを添わせ立ち上がる。その動きに合わせて、骸骨も意志があるかのように滑らかに立ち上がった。男がなまじ貴族のような風貌をしているので、背骨に添わせた腕とあいまって、ダンスでも踊っているようにすら見える。
そうして男が引き寄せた骸骨にふっと息を吹きかけると、それはたちまち肉を帯び始めた。僕はあまりの出来事に思わず声を漏らし、慌てて自らの口を塞いだ。ありえない。自然の摂理に反する恐ろしいことが今僕の目の前で起きている。魔術だと思った。良くない魔術だ。彼は魔女なのだ。僕は魔女の儀式を見てしまったに違いない。
足がガクガク震えてとても立っていられず膝をつく。湿った土がひやりとして思わず背筋が泡だった。恐ろしい現場を見てしまった。逃げなければ。あの化け物にばれないうちに。見ていることがばれたら、八つ裂きなんてものでは済まされないかも知れない。一刻も早くここから立ち去らなければ。
けれどもすっかり萎縮してしまった足は動かず、怯えて整わない呼吸は今にも止まりそうで、意思に反してちっとも体がいうことをきかなかった。
そのとき。
「……そちらのお方」
「ひぃ!」
「ああ、怖がらないでくださいまし」
危害は加えませんと、男が言った。その声は非常に穏やかでこんな場面でなければ十人が十人優しい人だと思ってしまうだろうけれど、でもこの男は今、死体を抱いているのだ。骨から蘇生させた死体を。
すっかり存在がばれていたという焦りとこれから何をされるのかという恐怖で、歯の根も合わないくらいに僕はがたがたと震えていた。あまりの恐ろしさに涙が流れてくる。死にたくない。殺されたくない。
「ああ、そのように泣かないでくださいませ。とって食ったりなどいたしません。ただあなたが今晩見たことを一生胸に秘めてくださればそれで良いのです。さすればわたくしがすぐにここから立ち去りましょう。わたくしはただ、これを連れ戻せれば良いのですから」
まるで時間を巻き戻したかのようにすっかり肉体を取り戻した死体が、彼の腕の中でくたりと目を瞑っている。経緯を知らなければ、まるで眠っているだけのように見えただろう。死体の髪は赤かった。目の前で一連の経緯を見てなお信じられないが、それでも間違いなく、あの死体はこの墓に埋められていた罪人なのだろうということを理解せざるをえなかった。
「お約束、いただけますね?」
僕は恐怖のあまり声も出ず、ただ勢いよくブンブン首を縦に振った。優しい口調に反して、その声はイエス以外を拒む力強さを秘めていた。もし要求を拒んだら何をされるかわからない。僕はとにかくこの時間が早く終わることを願って口外しないことを約束した。
僕の返答に満足したらしい男は、村娘が見れば一瞬で虜になってしまうような美しい微笑みを浮かべてありがとうございますと言った。それから何か呪いを唱えると、あの赤毛の死体と共に風のように消えてしまった。