おいしくなあれ閣下の肌に触れるもの、血肉になるもの、身につけるあらゆるものは彼を最も引き立て、その魅力を引き出し、飾るに相応しい最上のものでなくてはならないと思っている。化粧水ひとつとってもそうで、その辺のドラッグストアで売っている数百円のものなんて絶対につけさせてはいけない。メーカー、成分、効能、あらゆるチェックを行って選んだ一品を閣下には提供している。感覚がまだ幼いのか超高級歯磨き粉を突き返されて「……おいしくない」と悲しげな顔で訴えられた時は流石に焦ったが、ネットを駆使してなんとか閣下の意向に沿うものを入手することができた。頼むから閣下の舌が大人になるまで絶対に廃盤になんてならないで欲しい。
対照的に自分の身につけるものにはあまりこだわりがなかった。流石に経営者として責任ある立場にあるので、公の場ではTPOに相応しいスーツを着たり、それなりに根の張る小物を見繕ったりはしているが、だからといってそこまでハイブランド志向なわけでもない。学生アイドルである以上、あまり年齢不相応に高級なものを身につけているのは逆に印象が悪くなる。もともと上流階級の上二人ならともかく、自分とジュンはどちらかというと親しみやすさがウリな面もあり、手を伸ばせば届きそうな範囲を意識しているということもあった。実際SNSでも高級ランチよりファストフードを囲んでいる自分とジュンの写真の方がウケが良かったし、そういう庶民派な中に突然高級ブランドのアンバサダー決定、なんて投稿をすると普段とのギャップでさらに話題を呼んだりした。
「……茨、リップクリーム変えた?」
「おや、こんな些細なことにお気づきになられるとは」
社用車が到着したと連絡が入ったので閣下を部屋まで迎えに行くと、開口一番そう尋ねられた。意外と目敏い。
「実は化粧品会社からCMの依頼が来ておりまして、試しにそちらのものをつけているんですよ。高級店だけあって軽いテクスチャながら保湿がしっかりされているのはありがたいですね」
「冬はよく唇の端っこ切れているものね」
「ははは、流石の観察眼です閣下。冬はとにかく乾燥がひどいので気をつけてはいるんですけどバレていましたね。とはいえ、あまり口周りがベタベタするものは遠慮したいですし、その点こちらの商品はなかなか重宝しますな。これを機に乗り換えるのもありかなと思っています」
「……ふうん。随分と気に入っているんだね」
「? え……ええ、まあ」
表情に変化は見られないが、声のトーンから僅かに閣下のテンションが下がっていることが窺い知れた。これから仕事だというのに機嫌が悪くなるのは良くない。この短時間になにか彼の気分を害するような発言をしてしまったかと思い返すが、なんの変哲もない、他愛無いよくある世間話である。俺は小首を傾げつつ、違和感の正体を探るべく話を続けた。
「しかし本当によく気が付かれましたね」
「うん、私は前の方が好きだから」
「? そう、ですか?」
「うん」
少し雰囲気が軽くなる。とすると、俺がリップクリームを変えたことが閣下の気分を害した正体なのだろうか。しかし、たかがリップクリームだ。しかも使用者は閣下ではなく俺。ドラッグストアで売ってる五百円ぐらいのチープなそれにこだわる理由は俺自身にもない。たまたま目について使用感もそこそこでコスパがいいから、ただそれだけ。それがさらに安価なものに変わって怒られるならまだしも、高価で質も良くなっている。それでも前の方がいいと言われてしまえば、こだわりがないだけに元に戻す分には問題はないが、やはり引っ掛かりが残る。今並べたどれもが本当に閣下には一ミリも関係ないことなのだ。そんなものに気分が左右されるというのは繊細というか難解というべきか。彼を理解するにはかなりの労力が必要だとは思っていたが、今回はどんなに考えても閣下の思考の変遷を辿ることができなかった。
「参考までに、どのあたりが?」
「……前のはとてもいい匂いがして、おいしそうだったから」
そうして閣下はものすごく自然に顔を近づけると俺の唇をぺろりと舐めた。
「かっ、」
「やっぱり前の方が好きだな。はちみつの匂い」
閣下がにこりと微笑む。ここは寮内だとか断りなく人の唇を舐めるなとか美味しそうってなんだとか車を待たせているのにとか、俺は突っ込むべき要素が多すぎて不覚にも頭がフリーズしてしまった。敵を混乱させるには情報量を多くすることが鉄板だが、今まさにそれを実感している。そんなことを考えている場合ではないのに。
「……えー…………明日から、戻します」
「うん、そうして」
閣下が満足気に笑った。