茨は昔のように怒ってはくれなくなった。
ご飯を作ることもできなくなったし、歌うことも、踊ることもできなくなった。興味のままにふらふらどこかに消えようとする私の手を捕まえてくれることも、もうない。野心に燃える青い瞳もよく回る舌も、何もかも失われてしまった。
代わりに茨にもたらされたのは穏やかさだった。一瞬たりとも急かされたり追い立てられたりしない緩やかな日常。毎日代わり映えのないルーティンをこなす生活。サンルームでソファに沈んでお昼寝することも、散歩に訪れた砂浜に寝転んで波の音に耳を澄ますのも、私たち以外の気配がない家も、年中花に囲まれた庭も、どこからか室内に舞い降りてくる美しい鳥も、世界から隔絶されているようであまりにも非日常な日常だ。茨の顔はずっと微笑んでいる。この生活が嬉しいわけでも楽しいわけでもない。ただその形で固まってしまって、もう茨が何を考えてどう思っているのか、察することも叶わなかった。
「……風が出てきたね」
すり、と肩にもたれかかっていた茨の頭が僅かに動いた気がして、私は視線を下げる。持ってきていたカーディガンを茨に羽織らせて、そっと抱き寄せた。ぼんやりしていた瞳が閉じられる。もしかしたら肌寒かったのかもしれない。今日は雲が多くて太陽が翳っている。筋肉が根こそぎ落ちてしまった茨の体は、いつも少しだけひんやりしていた。
「帰ろうか、明日は日和くんが来る日だから」
カーディガンが落ちないように前を合わせて、驚かさないように声をかけてゆっくり抱き上げる。すっかり軽くなった体は、いいのか悪いのか、以前よりずっと運びやすくなった。
「今日も頑張ったね、えらいね、茨」
茨の体はもう長いこと死の淵にあった。あの日、ぼろぼろになりながらも私の元まで帰ってきてくれた時から、満足に食事もできないし、精神は滅茶苦茶になっているし、走るどころか歩きもできない。それでもまだ、私の隣で生きていてくれる。
「私を一人にしないでいてくれて、ありがとう」
本当は、茨はこんな安穏とした生活を求めていないのだと思う。上へ上へと高みを目指して駆け上がっている時が彼は一番輝いていた。いつだったか、暇を出されたら何をすればいいのかわからないと苦笑していた姿が眼裏に蘇る。こんなことならサクッと死んでしまった方が良かった、だなんて、茨が笑って言っていそうな台詞だ。それでも私は隣に茨のいない人生なんて考えられないから、こうして毎日消えゆく命を一秒でも長く引き留めるよう苦心する。甘えたがりな私を許してほしい。誰にともなくそう懺悔する。
「いっぱい頑張ったから、ゆっくり休もうね」
どんなに丁寧に手をかけても栄養が足りずぱさついて細くなってしまった赤毛に頬を擦り寄せた。あの頃から変わらない茨の匂いがして、反転してしまった世界で、それだけが私の拠り所だった。