テセウスの船という思考実験があります。
少しずつ部品を交換し、全ての部品を交換し終えた時、果たしてその船は最初の船と同じ船といえるのかという同一性を問うものです。
「違う」
閣下が俺の前で頽れます。その豊かな銀色の髪が床に散らばることも厭わず、俺の足元に頭を擦り付けるように床に跪いてしまいました。偉大な閣下になんてことをさせてしまったのかと、俺も慌てて膝を突きその頭を上げさせようと肩に手をかけます。悔しそうに握りしめられた掌には爪が食い込んでいて、芸術品のような価値のある御手に傷を作ってしまった原因である自分自身が殊更に悪者のように思えました。血が出ていないのが救いです。俺は床に叩きつけられたその拳をそっと手に取り一本ずつ指を開いてやりました。
「君は茨じゃない」
閣下が再び、今度はさらに強固に俺を否定します。その言葉に反してあげられた顔にはうっすら涙の幕が張っていました。
「……俺は茨ですよ」
まっさらだった俺にそう名づけたのはあなたではないですかと、ともすれば詰りたくなるような気持ちを抑えて努めて穏やかに返します。なぜなら、俺よりもはるかに尊いこの人の心を不安にさせてしまう俺が悪いのですから。俺がいけないのです。俺が完璧に七種茨になれないばかりに。
「……茨に会いたい」
縋り付くように俺の胸にもたれかかる閣下の背を抱き、脆く壊れかけた閣下を慰めます。そうですね、会いたいですねと、閣下の寂しさを肯定してやります。そうしてなんとか均衡を保っている心を俺が守ってやらねばならないのです。ここに閣下の望む七種茨はいないのですから。
「たとえ俺があなたの茨でなくても、俺はあなたのことが好きですよ」
さめざめと涙を流す閣下がまた研究に戻れるように、本当の七種茨と会えるように、俺はその実際より小さく見える背を優しく優しくさすってやりました。