【爆切】硝子の雨に溺れる(I)ざあざあと降り頻る雨の中、赤い傘をさした。
暗く淀んだ世界に一歩踏み出せば、跳ねる雨粒が足元を重く濡らしていく。
しかしそれに反比例するように、進む足取りは軽かった。
(今、迎えにいくから)
硝子の雨に溺れる
「次、3x3!」
「「「ッス!!」」」
バスケ特有のダムダムというボールが跳ねる音と、キュッキュッというバッシュの音を響かせながら、がむしゃらにコートを走る。
季節は初夏を迎え、梅雨に入った。本格的な夏に向けて急激に上がった気温と湿度に、じわじわと体力が削られていく。加えて、ただでさえ空気がこもりやすい体育館で、血気盛んな高校生達が声を張り上げながら汗水垂らして動き回っているのだ。一時間と経たないうちに、フロアは湯気が立ち昇りそうなほどの熱気に包まれた。
そんな中、勝己は鉛のように重たくなっていく体を根性と気合いでなんとか動かし、先輩達に必死に喰らいついていた。しかし、入部してまだ2ヶ月の体力と技術では思うような動きができず、殆ど後ろを追いかけるだけのような形になってしまう。圧倒的な力の差に、悔しさで奥歯をギリギリと噛み締めた。
「ハァ...ハァ...」
意地だけで何とか最後まで走りきり、次のグループと交代する。疲れが溜まり、崩れ落ちそうな体を膝に手をついて耐えた。なかなか整わない荒い息を吐きながらタオルを手に取り、流れる汗を乱雑に拭く。
すると突如、指に激痛が走った。
「ッて、!」
見れば左手の薬指が赤くなっており、パンパンに腫れていた。練習中はアドレナリンが出ていたのか気付かなかったが、どこかのタイミングで突き指してしまったようだった。
勝己はチッと舌打ちをして、痛む指を睨みつける。骨は折れていないようだが、腫れが酷い。今すぐ冷やさないと悪化してしまうだろう。
...今は練習する時間が、一秒たりとも惜しいってのに。
クソが、と心の中で吐き捨てる。この暑さと湿気で集中力が欠けてしまっていたようだ。
来月にはインターハイが待っている。無事予選を突破しており、全国への切符はすでに掴んでいた。一年の勝己は流石に出番はないだろうが、こうしてトップのAチームのメンバーに入れてもらっているのだ、声が掛かればいつでも出られるように、少しでも動きを叩き込んでおきたかった。
「勝己くん、突き指したの?」
勝己が痛みと焦りに顔を顰めていると、それに気付いたマネージャーが声をかけてきた。
「…ッス。冷やすもんとテーピング、いいっすか」
「もちろん!ちょっと待っててね!」
なぜか頬を赤らめ、すぐに部室の方にタタタッと走っていったマネージャーを黙って見送る。声をかけてきた女は確か3年だったはずだ。流石強豪校のマネージャーを務めているだけあって選手をよく見ている、と素直に感心する。だが、妙に距離が近く勝己に構いすぎる節があり、周りの男共の嫉妬がクソウザいので正直あまり関わりたくはない人物だ。
「あーあ、まぁた“カツキクン“かよ」
「つか絶対わざとっすよ、アレ」
...クソ、もう出やがった。
少し離れた所からコソコソと、しかし勝己には聞こえるような声で陰口を叩いている先輩も確か、3年だ。そして周りにはいつもの取り巻きのような2年が数人くっ付いている。勝己はあまりに幼稚なそれに、こめかみにピキリと血管を浮かせた。
落ち着け、クッソムカつくゴキブリ野郎でも、あれで一応先輩だ。ただし、一年の勝己がAチームに入ったが故にBに落とされた、ダッセェ先輩、だが。
勝己はうんざりした顔を隠すこともせず、先輩を睨みつける。それに「うわ、カツキクン怖ぇ〜」とニマニマと気色悪い笑顔を返されて、ぶちんと血管が切れる音がした。このゴミ野郎が、と口を開こうとした瞬間、慌てた様子でマネージャーが戻ってきた。
「ごめん勝己くん!Cの子が捻挫しちゃったみたいで、そっちに氷使っちゃってて...!悪いけど保健室にもらいに行ってくれるかな?」
「あー...うす」
「本当ごめんね。私も一緒に、」
「いや一人で行くんで」
「え、でも、」
しつけぇ、と言いたいのをなんとか堪え、もう一度断る。わざとらしくしょぼくれた顔をする面倒臭いマネージャーに背を向け、「保健室行ってきます」と顧問に声をかけた。
「あっちぃ...」
タオルと水筒を掴んで、体育館を出る。流石に中のサウナのような蒸した熱気に比べればいくらかマシだったが、それでも朝から降り続けている雨のせいで纏わりつくような湿気が不快だ。薄暗い手洗い場に寄り、痛む指を庇いながら冷たい水でバシャバシャと顔を洗う。
しかし勝己の苛立ちは消えるどころか増していく一方だった。
今更突き指なんてつまらない怪我をする鈍臭い自分。
何かと執拗に構ってくるマネージャー。
勝手に嫉妬してコソコソと陰口を叩きながら幼稚な嫌がらせをしてくるゴミみてぇな奴ら。
勝己を邪魔する何もかもに、苛立ってしょうがない。
「...ウッゼェ」
苦しいほどに、今日も激しく感情が波打っている。
——勝己はこの高校に、スポーツ特待生として推薦で入学した。
初めてボールを触ったのはいつだったか。確か、小学校に入った頃にはもうバスケは勝己の生活の中心だったはずだ。暇さえあれば庭や公園で練習して、どこに行くにもボールを手放さなかった。母にはよく、「かさばるから置いていきなよ!」と文句を言われていた気がする。中学年になり小学校のクラブチームに入ってからは、元々運動神経もセンスもよかったから、やればやるだけ着実に実力は伸びていった。
中学時代には、全国大会に出場し優秀選手にも選ばれている。だから、強豪と名高くたまたま実家の近所に位置するこの高校から推薦の声がかかるのは、必然だった。
...そんな、他人には輝かしく聞こえるだろう、勝己の経歴。しかし、本人にとっては苦いものであった。特に、中学時代のことは。
中学の部活は、ほとんど勝己一強といっていいようなチームだった。
「勝己はすごい」「勝己は他とは違う」「勝己が頑張れば勝てる」「勝己がなんとかしてくれる」「勝己のサポートをしなきゃ」。大人も、チームメイトも、皆口を揃えてそう言った。
だから、「俺が、俺だけが強けりゃいい」と、本気で思っていたのだ。そう本気で信じて、一人で皆の何倍も何倍も努力し続けた。
...今思えば、おかしな話だ。
バスケットボールは、チームスポーツなのに。
しかし、当時はそんな考えに勝己自身なんの疑問も持っていなかったし、きっと、周りもそうだった。
そんな傲慢な考えのまま、全国の舞台に立った、あの日。
それは己を越える存在に、あっさりと、いとも簡単に打ち砕かれた。
回ってこないボール。
目の前に立ちはだかる大きな壁。
どんなに走っても。
どんなに腹から声を出しても。
縮まるどころか、大きく開き続ける点差。
落ち着け。大丈夫。まだやれる。諦めるな。
そう鼓舞して、振り返れば、
終わってないのに。
ブザーは鳴っていないのに。
諦めの顔をした、チームメイトがいた。
「っ!...もういい!!!」
そう叫んで勝己は一人、リングからリングへ走った。
結果は、惨敗だった。
大きな声で喜びを分かち合う相手チームを前に、勝己は無言で立ち尽くした。
試合が終わった後、更衣室でチームメイトに掛けられた言葉は、
「勝己、俺らに夢見させてくれてありがとう。力になれなくてごめん。」。
理解、できなかった。
「...だろ」
「え?」
「違うだろ!!!!!」
夢、だァ?
ごめんだァ?!
悔しい。
悔しい!
悔しい!!!
こんな所で、こんな序盤で、負けるわけにはいかなかった。
絶対に勝ちたかった。
全国一を目指して戦ってた。
そうだろ、そんな思いで、そんな思いを、俺は、
血が上った頭のまま心の中を喚き散らしていたが、ふと自分の声が更衣室の狭い空間に響いているのに気付いて、我に返った。リノリウムの床を睨みつけていた顔をバッと上げれば、チームメイトは皆、バツの悪そうな顔をして勝己を見つめていた。
「...ごめん。」
そして、謝られた。
勝己は気付いた。
「勝己は特別」。
皆そう言いながらも、きっと同じ景色を目指しているのだろう、と思い込んでいた。
いや、初めは確かに、皆上を向いていたはずだ。
なのに、
「...はは、」
いつから、俺だけになっていた?
いや。
そりゃそうだ。
(んでこんな簡単なことができねェ!!)
(ヘタクソ、グズはバスケ辞めろや)
(誰のおかげで勝てると思ってンだ)
(俺ァてめぇらと違って特別なんだよ!!)
(俺だけが、強けりゃそれでいい)
...そりゃ、そうだろう。
***
「...クソ、」
勝己は、むしゃくしゃする気持ちを掻き消すように片手で握りしめたタオルでガシガシと頭を拭く。
後悔した。
だからこそ、前を向くと決めた。クソだった頃を無かったことにする訳にはいかない。あの思い出を戒めとして抱えて、もう一度始めるのだ。はっきり言って自分はチームスポーツは向いていないのだろうが、それでも努力して足掻きたかった。
せっかく強豪と名高いここに来たのだ。
今度こそ、強い“チーム“で。
同じ景色を目指す仲間と、バスケがしたかった。
そう覚悟を決めて高校生活をスタートして、まだ2ヶ月やそこらだ。こんなすぐに折れてはいけない。
...だが、上手くいっていないのも事実だった。幸いAチームの中には、この短期間でも勝己のことを理解して気にかけてくれている先輩もいるが、それ故にB以下のチームの先輩や同級生などとは、全くと言っていいほど関係が築けていない。向けられるのは嫉妬、羨望、畏怖、そんな感情ばかりだ。
そんな周りに対して、勝己は関係を築くどころか何とか自分に言い聞かせて生来の口の悪さを抑え込むことで精一杯だった。部員と何気ない会話を、なんて夢のまた夢だ。
こんなに目標ははっきりしているのに、うまくいかない。まるで砂漠で砂に足を取られているかのように、前へと進めない。
そんな鬱憤が、日々募っていくばかりだ。
——そんなことを悶々と考えながら歩いていると、いつの間にか保健室の前まで来ていた。
扉に嵌め込まれたすりガラスの窓から、薄暗い廊下に暖かな光が伸びている。
ふと、急に思い出したように薬指がじんじんと痛み出した。
現金な己の体に呆れながら、勝己は先程までの激しく波打った感情を落ち着けようと一つ深呼吸する。『在室』の札を確認して、軽く扉をノックした。
「はーい!」
するとすぐに明るく快活な男の声が保健室の中から返ったきた。およそ保健室には似つかわしくないようなその声に、勝己は訝しげに眉間に皺を寄せる。
...確か、ここの保健の先生は小さいババアではなかったか?
誰か他の先生や生徒が中に居るのだろうか。特に今は人と話したい気分ではないし、絡まれでもしたら面倒だ。だが、入らない訳にもいかない。さっさと処置してもらって、練習に戻ろう。
はぁ、と重い溜め息を吐いて、ガラガラと扉を引いた。
「お、どうした?」
(...派手な、髪)
最初に目に入ったのは、逆立てられた鮮やかな赤い髪だった。清潔な白で揃えられた室内でデスクに座っている男だけが、強烈な存在感を放っている。部屋を見渡せば、男の他に人は居ないようだった。
にこにこと笑っている男は、何も答えない勝己に、ん?と首を傾ける。
かと思えば、何を思ったのか大きく丸い目をさらに開いて、急にあわあわと慌て出した。
「あ、もしかして喋れねぇくらい辛い?」
急いでデスクから立ち上がり、パタパタとスリッパを鳴らし近づいてくる。男の身長は勝己より頭一つ分ほど高く、一目で鍛えられた筋肉がついていると分かるがっしりした体型がさらにこの部屋のイメージにはそぐわない気がした。
...ふと、勝己は4月の教員紹介で保健の先生は2人いるとかなんとか言っていたことを思い出した。
よく見れば真っ白な白衣を着ているから、この男が“もう一人の養護教諭“なのだろう。
「吐きそうか?そこのソファ座れるか?」
男は短い眉毛を辛そうに寄せ、いくらからボリュームを抑えた声で優しく話しかけてくる。そして「えっと袋!あ、ティッシュも」と忙しなくうろつく姿は、あまり慣れていない様子だった。
そんな大の大人の男の慌てる姿を前に、勝己はふは、と吹き出した。
「なに?!」
「...ここ、」
「え、」
「突き指、した」
そう口を開けば、きょとん、とした顔をされた。開かれていた大きな目が、もう一段階丸くなる。どこまで目ェ開くんだよ、こぼれ落ちんぞ、と勝己はまた吹き出した。
男は、ちょっと赤くなった顔で口を尖らせる。
「...おい、早く言えよな!先生焦っちまっただろ!」
そんなくるくると変わる表情が面白かった。自分でも地獄のようにどん底だった気分が上がっていくのが分かる。
ほら早く見せなさい、と先ほどまでと打って変わってぶっきら棒に言われ、笑いを堪えながら左手を差し出した。
「あー、パンパンに腫れてんな。こりゃ痛ェな...」
男は勝己の汗ばんだ掌に冷えた指先を添え、またくるりと表情を変えた。それはまるで、自分が怪我をしたかのように痛みを耐える辛い顔だった。
そんな表情を前に、なぜか勝己の胸もちくりと痛んだ。
「すぐ冷やすもん用意すっから!ソファに座っててくれ!」
男はそっと指を離して、すぐにアイシングの用意を始めた。冷蔵庫をガッと開け、ガシャガシャと氷を崩してバケツに放り込む姿に、もうちょっと落ち着いてできねぇのかと呆れる。しかし口は出さず、汗で冷えたTシャツの襟元をはためかせながら、勝己は大人しく待った。
これまたジャー!!っと水滴が飛び散る勢いで水を入れ、「お待たせ!」と小さな青いバケツがドン!と目の前に置かれた。
指を冷やすのには多すぎる並々と注がれた氷水の中に手を突っ込めば、ジンジン熱を持っていた指から徐々に痛みが引いていった。
「一年生か?名前は?」
「...爆豪勝己」
「部活で突き指したのか?そのTシャツ、バスケ部か」
「ん。...部の氷は切れたらしい」
「そっか!これからどんどん暑くなるしな、氷は色々使えるから大事だぞー」
「分かっとるわ。つかマネージャーに言えや」
「はは、そーだな!」
カラカラと笑う男は、やはり勝己の養護教諭のイメージからはかなりかけ離れている。敬語を使わない勝己にも、注意らしい注意はなかった。年齢が近いのか男は“センセー“にしては妙に馴れ馴れしい距離感だ。
...しかし驚くことに、勝己はそれが不快ではなかった。それどころか、口下手な勝己には珍しく様々な話をした。部活のことや、勉強のこと、高校生活にはだいぶ慣れたなんて、普段は無駄だと切り捨てるような、どうでもいい話も。
「なぁ、センセー」
「ん?」
「...名前、なんて言うんだよ。」
名前を知りたい。
まして、職員紹介で一度聞いたはずなのに覚えてないことが悔しい、だとか。
そんな、他人に興味がない普段の勝己とあまりにかけ離れている思考が浮かんだ。柄じゃない、そう自分で思いながらも、欲が抑えられない。
少しでもこの男のことが、知りたかった。
「え、今?!俺は切島鋭児郎ってんだ!」
「...ふーん」
「おい、聞いといてふーんってなんだよ!」
別におもしろいことなんて言ってないのに、男はまたカラカラと明るい声をあげて笑う。大きく開いた口からは、珍しいギザっ歯が覗いていた。
なんだかその笑顔を直視できなくて、勝己はふいっと顔を背け溶けて小さくなった氷を見つめる。
(きりしま、えいじろう)
口の中で転がした名前は、なんだか特別なもののように感じた。
そして指を冷やし始めて、20分ほど経った頃。
「よし、しっかり冷えたな!じゃ湿布貼ってテーピングすっから。」
「…うす」
切島は真剣な表情で、冷やした指に合わせて切った湿布を丁寧に貼る。
また、違った顔だった。
そしてバケツを用意していたときの粗雑さとは全く異なる、丁寧で正確な手つきで施されていく処置。
冷えた指に触れる手は、熱い。
さっきまでと打って変わって、静かな時間が流れた。
かち、かち、と刻む秒針。
遠くから微かに聞こえる、吹奏楽の音色。
ざあざあと降り頻る、雨。
そんな音だけが、この真っ白な部屋に響いている。
ふと、勝己はいつの間にか、先ほどまで己を支配していた煮え滾るような黒い感情が消えていることに気付いた。
...いや、消えたどころか、むしろ。
あれだけ激しく波打ち騒がしかった心も頭も、今はしんと静かになっていて、まるで凪いだ海のようだ。とくん、とくん、と穏やかにリズムを刻む己の心音まで感じる。
今まで、経験したことのない温かくて不思議な感覚。
自分がああやって、声を出して笑ったのはいつぶりだったか。
——初めてだ。
こんな風に、人といて落ち着く、なんて。
そんな不思議な安らぎに身を委ねていると、テーピングしながら切島がぽつり、と独り言のような小さな声で話し始めた。
「...今日はさ、ばあさ、いや、えと、修繕寺先生が出張でいねぇんだ。」
普段ばあさんて呼んでんのかよ、という突っ込みは、神妙な顔をして話し出した先生のために心の中に留めておいてやった。
「俺、4月に先生になったばっかでよ。普段は修繕寺先生に色々教えてもらいながら、手伝うみたいな形のことが多くて。1人でここにいんのは今日が初めてだったんだ。結構緊張してたんだけど、ありがたいことに皆元気いっぱい、何もない日でさ。」
「だから、」
「爆豪が、俺が看た“初めて“の生徒だ!」
そういって切島は、指に視線を落としたまま嬉しそうに口角を上げた。だがすぐに照れたように「わり、語っちまった」と頬をポリポリとかく。
...“初めて”。
ぐわっと、勝己の胸の奥に熱いものが広がった。
先ほど、自分も同じことを考えたのだ。
俺は、先生が初めて。
んで、先生も、俺が初めて。
そんなことを考えて、次はカッと顔に熱が集まった。勝己と切島の“初めて“の意味は全く違うものだし、相手も自分も男だ、切島にそんなつもりは一切無いのだろうが、勝己もただのいち男子コーコーセー。そんなワードに、照れない訳がなかった。
「...んな初めて、嬉しくねぇわ」
誤魔化すように勝己がそう低い声で答えると、「はは、そうだよな!わり!」と軽く返された。
それから先生はするり、と優しく巻かれたテープの縁をなぞって、「...ん、これで大丈夫」と呟く。
伏せられていた目がゆっくりと上がり、勝己の視線と交わった。
綺麗だと、思った。
勝己と同じ、赤い瞳。
だが、切島の瞳は煮詰めた苺ジャムのように、より濃い赤を宿していた。
「...爆豪?」
名を呼ばれてハッと我にかえり、慌てて目線を逸らした。
どうした?テープきつかったか?と心配そうに聞いてくる切島に「っ、なんでもねぇ」と短く返し、そして勢いのままにタオルと水筒をひっ掴んで、出口に向かう。
ガラガラと扉を開け、「…あざした。」と振り返りもせずに短い感謝の言葉を吐けば、「おう!お大事に!」とまた明るい声が返された。
***
——なんだ、あれ。
後手にぴしゃりと扉を閉め、勝己は全身の力が抜けたようにずるずるとその場に座り込んだ。
大きな音を立てる心臓が痛い。鼓動が大きすぎて、まるで耳元で和太鼓でも叩かれているようだった。
なんだ、あれは。
なんなんだ、あいつは。
俺はなんで、こんなにどきどきしてる。
「...クソ、落ち着け」
勝己はクーラーですっかり汗が冷え、冷たくなったTシャツの襟元をぐしゃりと握りしめる。
唐突に視線が絡んだあの赤い目に、息を忘れた。あんな綺麗な赤は、見たことがない。
それに、切島との間に流れた、あの静かな時間。他人といて、あんなに心地いい空間は感じたことがなかった。あれは確かに、初めて感じた心の安らぎだった。
「...切島、先生」
勝己は覚えたばかりの名を大切そうに呟き、丁寧にテーピングが巻かれた左手の薬指をゆっくりとなぞった。
———————————————
キーンコーンカーンコーン...
窓から夏雲の浮かぶ青空をぼーっと眺めていると、ホームルームの終了を知らせるチャイムが校舎に響き渡った。
途端にガヤガヤと喧騒に包まれた教室を急ぎ足で後にし、体育館に直行する。
...勝己にとって学校生活は、型にハマったパターンを繰り返すだけの、至極退屈なものだ。
——昔から、“何でもできる“人間だった。
勉強も、運動も、何もかも、器用にこなして常に人並み以上の成果を叩き出した。
そして、そんな勝己を前にしてモブ共は「天才だ」と褒め称え、「すごい」と尊敬と畏怖の眼差しで見つめ、「ずるい」と妬み蔑む。
そんな風に勝手に己を取り囲み、理不尽な感情をぶつけてくる人間を、勝己は心底見下していた。奴らはあーだこーだと言葉を並べ、私は僕はあなたのことを理解していますとでもいうような顔をして纏わりついてくるくせに、結局、勝己の上っ面にしか興味がない。
全て、勝己が血の滲む努力しているからこそ、生来の才能が活きているに過ぎないのに。
馬鹿で愚かなモブ共は、それに気付かない。
誰も、本当の勝己を見ていないのだ。
少しの期待を持って入ったこの高校でも、ほとんどの人間が同じような反応だった。地元であることもあり、入学する前から勝己は有名人で「あれが噂の…」と遠巻きに囁かれることも少なくなかった。
そんなつまらない日常の中、バスケだけが勝己の感情を激しく揺さぶるものだった。
どんなに努力して上り詰めたと思っても、上には上がいる。遥か先にあるものを必死に追いかけ越えようと夢中になれる、そんな存在だ。
勝己は、そんな持て余すほどの退屈と熱烈な激情の狭間で、いつも踠いている。
***
あの日から、勝己は時間を見つけては保健室に通っていた。別に怪我をしたとか、体調が悪いとかではない。というか、何の用事もない。
ただなぜか、あの時間が、あの人が、頭から離れなかった。自分でもよく分からないこのもやもやする気持ちの正体が知りたくて、もう一度あれを求めた。
...だが、いくら通っても手に入れることができずにいた。
まず、あの日以来いつ行っても保健室にはばあさんがいる。勝己がふい、と保健室を覗けば、切島がこちらに気付く前に出口近くに置かれたデスクに座ったばあさんに「おや、またあんたか。どうしたんだい?」と声をかけられるのだ。
こんのババア邪魔すんなや、とギリギリ歯を食いしばるが、「切島先生に用事があって」とは素直に言えなかった。「何の用だ」と聞かれてしまえば答えられるような用事らしい用事はないし、まして「会いに来た」なんて小っ恥ずかしいことを言えるはずもない。結果、なんと言っていいか分からなくて勝己はいつも「...別に」と短く返す。そして「はぁ、全く何しに来てるんだか」と婆さんに呆れられていた。
加えて、たいてい奥のデスクに座っている当の本人は、大きな目を不思議そうに丸くしてこちらを見つめている。
そんなどこか幼さを感じる表情に、勝己は(...てめぇ、覚えとけよ)と当たり散らすようにガンを飛ばした。
そして、そうやって保健室に通ってもなかなか2人きりになることもできない上に、切島は男女関係なく多くの生徒に慕われているようだった。廊下で見かけても必ず誰かと楽しそうに会話をしているし、放課後は何人かの生徒に囲まれていることもあった。
勝己は部活以外では別にモブ共と関わりたくはなかったし、わざわざキャッキャと楽しそうにしている輪に割って入って話すほどの話題もない。
勝己は遠巻きに切島を眺める自分に、「...随分健気なこって、」とどこか他人事のように自嘲気味に笑った。
...こんな自分にも、ゆっくりと息を吐ける場所があったのだ。
一度それを知ったら、もう知らなかった頃の自分には戻れない。戻れるはずがない。
決まりきったテンプレを繰り返すだけのつまらない学校生活と、思うようにいかず焦り踠いている煮え滾るようなバスケへの情熱。
そんな大きな波のある日常に揉まれれば揉まれるほど、日に日にあの時間が欲しくてたまらなくなるばかりだった。
そんな勝己を置き去りに季節は巡り、学校は夏休みに入った。
高校生の夏休みは想像していたより忙しいく、『やりたいこと』と『やらなければならないこと』に追われた。休みと言えど、進学校を謳うこの高校には全員参加の補講があったり、目前に迫ったインターハイに向けてより気合いの入った部活に打ち込んだり、目の前のことをこなす。そんな日々を送れば、あっという間に8月がやってきた。
だが、勝己はそんな充実していると言っていいだろう夏休みの終わりを、指折り数えている。
ある日の、部活終わり。
重たい体に重たいスポーツバッグを下げ、体育館を後にする。ふと、夕焼けに照らされた校舎に目を向ければ、保健室の明かりがついているのに気付いた。
(先生、)
...結局、あれ以来一度も切島と二人で話すことはできていなかった。馬鹿みたいにくだらない意地を張らずに素直に声を掛ければよかったのだと、後悔の念が押し寄せる。
会議とか、日直とか、せめて先生が学校にいる日が知ることができていたら、この夏も先生と会えたかもしれないのに。そう考えて、己のあまりの女々しさに勝己は舌打ちした。タラレバは好きではないし、自分のした選択に後悔するなんて、馬鹿げている。
...だが、ここで足を向けなければこの夏は更に濃い後悔で染まるのだろう。
勝己は行くか、と低い声で呟き、校舎へ踵を返した。
コンコンコン。
保健室の扉をノックすると、「はいはーい!」と明るい声が聞こえた。初めて出会った日のことが思い出されて、勝己の口角は自然と上がっていく。
ガラガラと扉を開ければ、ジャージ姿の切島がベッドの上に何かを広げ、作業をしていた。その見慣れない後ろ姿に、他の奴らは知らないだろう“切島先生“が見れた気がして、人知れず優越感に浸る。
「え、あ、爆豪?!」
ぱっと振り返った切島が、驚いた声を上げた。「先生かと思った!こんな時間にどうした、あ、怪我か?!」とこれまたいつかの日のように慌て始めて、勝己は「...あんた本当に落ち着きがねぇな」とため息を吐いた。
「ちげぇわ。...明かり、付いてたから。」
「え?」
勝己がそう言えば、切島は驚いたように目を丸くする。
「んだよ、その顔。」
「いや、はは、そうか!」
「ふん。...婆さんは?」
「今日は休暇取ってて、俺一人だぜ!」
「ふーん」
...てことはやっと、2人きり、か。
待ち望んでいた、ようやく切島との時間がやってきた。
やっぱ来て正解だったなと勝己は満足気に鼻を鳴らし、ソファに我が物顔で腰を下ろす。
ベッドに広げられていたのは洗濯したタオルや貸し出し用の体操服なんかで、それを不器用な手つきで畳んでいく切島を眺めながら、ぽつり、ぽつりと話をした。
——不思議だった。
やっぱり切島といると、勝己の心が落ち着いていく。荒れに荒れてささくれだったそれが、まるで温泉に浸かったみたいにほぐれて、癒えていくようだ。
「なぁ、1学期何回も保健室来てただろ?すぐ帰っちまってたけど、何の用事だったんだ?」
...それまで取り留めのない話をしていたのに、切島が急に確信を突くような話題を出して、緩んでいた勝己の心臓がどきりと跳ねた。
「...別に、なんも。」
「そうか?」
あれだけ後悔したというのに、己の口から出たのはまたそんなはぐらかすような言葉で、自分が自分で嫌になる。
だが切島はそんな勝己を見て何を思ったのか、なぜか少し緊張したような面持ちで「あの、よ、」と口を開いた。
「ばあさんにうまく言えないならさ、俺でよければいつでも聞くから!」
「は?」
そう真剣に伝えてきた切島に、勝己はハテナを浮かべる。そして、あんたもうはっきり「ばあさん」って言っちまってるけど、という突っ込みが頭の中で木霊した。
しかし、すぐに勝己がなにか悩みを抱えていると切島が勘違いしていることに気付いた。全くこの男は鋭いのか鈍いのか、と微妙な気持ちになり、「...気が向いたらな」とよく分からない返事をする。
「つか、俺がそんな悩み抱えるようなタイプに見えんのかよ。」
まぁ、実際悩んではいるのだが。なんて思いながら聞けば「いや、見えねえけど。」とすぐ返されて、それはそれでイラっときた。
「でもずっと思ってたんだけどさ。...おめぇ、無理してねぇか。」
そして、また切島が突拍子もないことを言い出して、勝己はじろりと睨む。悩みの次は、無理、か。
切島はこちらに背を向けてタオルを畳んでいて、その表情は見えなかった。
「はぁ、無理?してねぇけど。」
本心だ。目標のために色々と我慢こそしているが、無理はしていない。きちんと自分のキャパを理解しているつもりだし、自分の健康管理ができないなんてもっての外だ。何を訳のわかんねぇことを、とその広い背中を睨んでいると、全てを畳み終えた切島がゆっくりとこちらを向いた。
その顔は、辛そうに歪んでいて。
「ならいいんだけどよ。...たまに、生き辛そうに見えっから。」
勝己は、その言葉に目を見開いた。
たまにって俺のこといつ見てんだよ、なんていう疑問は、シャボン玉のように浮かんですぐに消えていった。
(...俺が、生き辛そうに見える、だと?)
『あーあ!才能マンは人生楽勝だよな!』
いつの頃だったか。
勉強も、スポーツも。何でも簡単にやってのける勝己に、さぞ人生が楽だろう、俺達の苦しみなんて分からないだろう、と。そう、憎しみの籠った目で言われたことがあった。相手は顔すら覚えていない、心底どうでもいいモブ共。なのに、その言葉だけは、いまだに勝己の心に突き刺さったままだ。
『ハッ!たりめぇだろ』
あの時の勝己は、そう返した気がする。
お前らだって、俺の苦しみが分からないくせに。そんな思いは、奥底に押し隠した。
急に口を閉ざした勝己に、切島は慌てて取ってつけたような笑顔で「いやほんと、思い過ごしならいいんだ!」と短い眉を下げた。
...この人は、本当に。
「...やりてェことがあるから、それに向かって突っ走ってる。それだけだ。」
勝己は、そんな言葉を喉から搾り出した。
すると少し間が空いた後、急に切島が勝己の髪をぐしゃぐしゃと大きくかき混ぜるように頭を撫で始めた。
「は?!?!なに、てめ、やめろや!!!!」
「ははっ!悪ィ!!!」
なぜか分からないが、撫でられたせいであっちこっち跳ねる髪の毛の隙間から見えた切島の顔は、さっきと違って心底嬉しそうだった。
「うんうん、やっぱお前強ぇーよ!」
「偉そうなこと言うけどさ。お前が強くてすげーやつってこと、先生は分かってるぜ!」
だからさ、と、切島は大きな目をきゅ、と細めた。
「“俺“と2人のときはさ、肩の力抜けよ。」
婆さんや皆には内緒だぞ、示しつかねぇからな!と、にこりと笑った口に人差し指を当てる。
初めて見る、切島の悪戯っ子のようなちょっと悪い顔。
「...余計なお世話だわ。」
結局口から出たのは、また照れ隠し故のぶっきらぼうな言葉。
だが、勝己は無理しているとも、無理していないとも、肩の力を抜くとも言わなかったが、カラカラと笑う切島には、きっと伝わっているのだろう。
馬鹿みたいに明るい笑い声に、勝己もつられて笑った。
——先生が、好きだ。
そう自覚したのは、あれからすぐだった。
切島のことを考えると、胸が熱くなった。何をしていても、どんなに熱中していても、頭の隅にはいつも切島がいた。男とか、一回り近く年上とか、先生と生徒とか、そんなことはどうでもよくて、ただただ(これが“好き“ってやつか)と、ストンと胸に落ちて来た。
そして長かった夏休みが明け、新学期が始まった。始業式の日は顧問が出張で部活がオフで、これ幸いと勝己はホームルームが終わると同時に保健室に駆け込んだ。
いつもより少し乱暴に扉を開ければ、やはり手前のデスクには婆さんがいて「うるさいね!静かにおし!」と怒られた。しかし、素直に「...切島先生に、会いに来た」と口を尖らせて伝えれば、「なんだね、そうだったのかい」と、いっそう呆れられた顔をされた。
そして、「ここは病人のための場所だからね。お喋りなら外でしな」と2人して廊下に摘み出される。
切島は、勝己がああは言っていたもののついに悩みを打ち明けに来たのか、と勘違いしたらしく、神妙な顔をして「なんでも言ってみろ」と胸板を叩いた。
そんな切島を前に、格好が付かなかろうがこの鈍感そうな男にははっきり言わねぇと伝わらねぇな、と勝己は腹を括る。それに切島はなぜかごくり、と唾を飲み込む。
「...最初から、あんただわ。」
勝己がそう言えば、切島は「俺?」ときょとんとした顔でこちらを見つめた。
「前も言ったが、悩みなんてねぇ。...ただ、あー、あれだ、またあんたと話が、してぇって、...」
はっきり言ってやる。そう思っていたのにいざ口に出してみれば、あまりに自分らしくない素直なそれに小っ恥ずかしくなって、言葉は尻すぼみに消えていった。
クソ、慣れねぇことはするんじゃなかった、なんて心の中で悪態を吐き、ちらりと切島に視線をやる。
あんぐりと口を開けていた切島は、じわじわと顔を赤らめていき、最終的には耳まで髪と同じ真っ赤に染め上げて、バンッ!と角張った大きな掌でそれを隠すように覆った。
「...そ、そうか...」
トサッと廊下の壁に背中をつけ、切島が天井を仰ぐ。そして、「悩み言えよとかさ、かっこつけちまったじゃん」と赤い目を細め、指の間から睨まれた。
「うっせ。馬鹿みてぇなツラして、気付かねえ方が悪ぃ」
「誰が馬鹿っ!!いってぇ!!!」
こら、先生を蹴るなよ!と涙目で怒る切島に、勝己はありったけの想いをこめて、中指を立てた。
***
ここ最近、調子がいい。
そう、自分でも思うくらいに。
部活では夏の地獄のような練習を経て、勝己が“才能“だけの男ではないことに、周りは気付いたようだった。まだ負の感情を向けてくる者はいるものの、ほとんどの人間は勝己の一切の妥協を許さないストイックな努力を目の当たりにし、それを認め、感心した。それからは何気ない会話を振られることが増え、少しずつ関わり始めることができている。
合わせるように勉強も、新学期の初めのテストで学年のトップ10に入った。特に根を詰めて勉強した訳はなかったが、夏休みの地道な復習が功を成したようだ。普段喧嘩してばかりの母にさえ、家に帰って速攻「すごいじゃん!」「勝己あんた、がんばってるね!」と手放しで褒められた。
部活も、勉強も、いい方向に進んでいる。
——それもこれも、切島に出会えたから。
勝己は、目標に向かってがむしゃらに走ればいいだけだ。疲れたって、苦しくなったって、切島がいればまた、頑張れる。
もちろん切島の存在だけが努力の理由ではない。バスケも勉強も全て、自分のために、自分がしたくてやっていることだ。
しかし、切島への“好き“を自覚してからというものの「いいところを見せたい」という欲もあって、何事にもやる気が溢れ出しているのも事実だ。
人間は、2種類に分かれるという。
一つは、恋愛するとダメになるタイプ。
もう一つは、恋愛すると頑張れるタイプだ。
...どうやら俺は、後者の人間だったらしい。
「か〜っちゃん!」
教室で一人、にやける顔を隠すように眉間に力を入れているとどすん、と背中に重みを感じた。「なに怖い顔してんの?」と言うそれをすぐさま追い払うように腕をぶん回すと、「ギャッ」という声とともに尻餅をつく音がした。
「いってー!ひどい!!ねぇ瀬呂、かっちゃんに暴力振るわれた!!」
「おーおー、カワイソウニ」
「自業自得だろうが!つかかっちゃんて呼ぶんじゃねぇ!」
金髪と黒髪のこの二人は勝己のクラスメイトで、数少ない友人(と、特別に言ってやってもいいだろう存在)だ。
そして机を取り囲んでぎゃーぎゃー騒ぎながら弁当を広げ始めた二人に、もう昼か、とどこか浮ついたままの頭で考える。そんな勝己を見て、上鳴が「てかさ!!」と身を乗り出してきた。
「最近かっちゃん、調子よくね?!」
「それ俺も思ってた。さては、」
彼女だな?!
びしり!と得意げに指を突き立てて来た2人が、「やっぱそれしかないよな?!」「抜け駆けしやがって!どこの誰だよ!」とまた騒ぎ出す。勝己は単細胞どもが、と呆れてため息を吐き、「ちげぇわ」と否定する。
しかし、どんなに流しても「じゃあなんで最近そんな機嫌いいわけ?!」としつこく問い詰めて来た。挙句、額に青筋を立てて無視を決め込んだ勝己に「あ!俺らに取られそーで怖いんだ!」「うわ、それで言わないの?ダサすぎるでしょ」などと好き勝手言い始めため、勝己はすぐに我慢の限界がきた。
彼女なんていない。保健室の先生と偶然気が合って、たまに話を聞いてもらってるだけ。
勝己は苛立った勢いのまま、かなりアバウトに切島のことを告げた。
それを聞いた上鳴と瀬呂がぽかん、と口を開ける。「アホ面がさらにアホ面になってっぞ」という勝己の暴言もスルーしてしばらくそのまま放心していたが、急にバッと顔を見合わせた。
そして、ニチャァ、と嫌な顔で笑う。
それを見てこいつらまた碌でもねぇこと考えてんな、と勝己はうんざりした。
次の日の放課後。
「しっつれいしまーす!キリシマセンセーいますか!」
「いますかー!」
扉の前には、到底保健室に用がある人間とは思えない元気な声で挨拶する上鳴と、その後ろでニタニタと笑う瀬呂がいた。そんな2人を勝己は血走った目で睨みつける。
しつこさに負けて素直に切島のことを話した昨日の自分への怒りと、2週間ぶりのオフだってのに邪魔しやがって、という恨みを込めてとりあえずアホ面の耳を思いっきり引っ張った。「痛いなに?!千切れる!電気くん死んじゃう!!」と騒ぐ声は無視だ。
「はいはい、静かにしようなー。どうした…って、あれ、爆豪?今日はダチも一緒か?」
「...おー。」
奥から出て来た切島に、勝己は耳を掴んでいた手をパッと離して、短く返事をする。外へ出ようか、と促されながら「...おめぇ、友達いたんだな」なんてしみじみと言われ、「どういう意味だコラ」と白衣を着たゴツい体を肘で小突いた。
...ふと、上鳴と瀬呂が異様に静かなことに気付く。あれだけ「俺もキリシマセンセー見たい!!」「俺も!!」と騒いでここまでついて来たくせに、何を黙っているのか。そう思い振り返ると、二人はなんともいえない微妙な顔をしていた。
「?!勝手について来ておいてんだよその顔はよぉ!」
「いや、懐いてんなーって。...てかさ、ほら、」
「...まぁなぁ、」
女の先生だと、思ってたから。
そう続けられた言葉に切島は察したような顔をして、「悪かったな、でけぇ男でよ!」とガハハと笑う。その明るくさっぱり笑い声に、気まずそうだった上鳴と瀬呂も「いや、失礼なこといってすんません!」と謝りつられて笑う。勝己は一人、この人たらしが、と呟いた。
そして、悔しいことにその日は会話が弾んだ。二学期に入ってから切島と二人で話す機会を設けることには成功していたが、勝己は口下手だし、切島も「俺といるときは肩の力抜け!」なんて抜かしていた割に自分のプライベートのことはあまり話さなかった。どんなに話をしても、どこか『生徒の相談に乗っている』という体を崩さない態度に、壁を感じるのは確かだ。しかし、別に切島が自ら語ろうとしない部分に無理に入り込むつもりはなかったし、ぽつりぽつりと話す勝己に切島が相槌を打ったり笑ってくれる、それだけで今は十分だった。
...だが、まぁ。好きな人のことを知れるなら、それに越したことはない。だから、このバカ2人が(特に遠慮なくぺちゃくちゃと喋り続ける上鳴が)切島を質問攻めにするのを、特に止めたりはしなかった。
つい先日23歳になったばかりの、教師1年目。
千葉県出身。
好きな食べ物は、肉。
趣味は筋トレ。
髪はカラーシャンプーで染めていて、毎朝セットしている。
一人暮らし、彼女なし。
最後のは瀬呂に「センセーほんとは彼女いるんじゃないの〜?」とニヤニヤされていたが、「んな悲しい嘘つかねぇよ」と情けない顔で言っていたから、まぁ、本当だろう。
「そろそろ仕事しねぇと、ばあさんに怒られるから!」と保健室に帰っていった切島を見送って、三人で帰り道を歩く。
今日はたくさん知らない切島を知ることができた。こればっかりは、ほんの少しくらい、感謝してやってもいい。
勝己がマックでも奢ってやるか、なんて考えていると、「いやぁ〜かっちゃん懐きすぎでしょ!」「それな!センセーに尻尾振る犬だったもん」とまた好き勝手言われ、黙れ!と目を吊り上げた。
——正直、知れば知るほど好きになった。
苦手だと言っていた家事に苦戦したり、肉料理をガツガツ食ったりする切島を想像するだけで顔がにやけるし、登下校や、移動教室のときの廊下や、そんななんでもない日常の中で切島を見かけるたび、心臓が跳ねた。
そして、毎回切島は違う表情をしている。生徒達に囲まれているときはそれは楽しそうで、あのカラカラという独特な笑い声を響かせている。一方で、体調を崩した生徒に付き添っているときはまるで辛さを分かち合うように苦しそうに眉を寄せていた。
どんな表情をしている切島も、勝己にとっては輝いて見えた。話すことはできなくても、一目見ることができれば、「あれ、爆豪なんかいいことあった?」と声をかけられるほど、その日は一日上機嫌だった。
でも、そんな切島も、ふとしたときに暗い顔をすることがあった。
そんな切島のことが、もっと知りたかった。当たり前だが、きっとこの人にはまだまだ勝己が知らない姿がたくさんあるのだろう。
他のモブ共よりは、親しいと思う。なんせ勝己は切島の“初めて“の生徒だ。しかし、切島のことをよく見ているからこそ、勝己はどこまでいっても数多いる生徒の中の一人であるということを再確認させられる。
...もう、こんなに膨らんだ気持ちを抱えてしまっては、そんなちっぽけな存在なんかで満足できる訳がなかった。
先生の全部が、知りたい。
俺が、先生を支えたい。
早く、俺だけを見てほしい。
もう季節はすっかり秋めいて、涼しい風が吹き始めているというのに。
勝己の渇きは、酷くなる一方だった。
***
はぁ、と吐き出す息も白くなった頃。
部活終わり、勝己は顧問に頼まれて職員室まで荷物を届けていた。その帰りに職員の駐車場の側を通ると、たまたま帰り支度をして出て来た切島を見つけて、走り寄る。
「っ、せんせー」
「おー爆豪!お疲れ!」
もう二学期も終わりが近い。暑かったあの頃から、部活がない日の放課後に話をしに行くことはもちろん続けていて、だいぶ距離が縮まったと勝己は思っている。
...だが、裏を返せば、それ以上の進展もしていない。冬休みに入る前に、もう一歩だけ、進んでおきたかった。
勝己は駐車場に突っ立ったまま、頭に浮かんできたことを取り留めもなく話した。「前言ってた漫画俺も読んだ」とか、「駅前のラーメン屋が激辛を始めた」とか。あまりにも内容が薄い、どうでもいい話だ。なんでもいい、少しでも切島を引き止めたい、それだけ。
だが、そんな勝己の話にも、今日も変わらず切島はカラカラと笑ってくれる。
そして「今日も元気いっぱいだなぁ!」と頭をぐしゃぐしゃと撫でられて、勝己は悔しさでぎっと睨みつけた。切島に頭を撫でられることは嫌いではないし、それを突っぱねるくだらない意地はとっくに捨てたが、勝己のことを完全に子供扱いしているのは気に食わない。そして、それが事実であることが歯痒かった。「もう冷えるから帰りなさい」なんて大人らしい大人の口調で続けられて、カッとなった勝己は勢いに任せて口を開く。
「俺、先生が好き」
頭の片隅で、やめろ、と声が響いた。
「あんたのことが、もっと知りてぇ」
「あんただけが、本当の俺のことを分かってくれる...!」
しかし、いくらが脳味噌と“止まれ“と命令を出しても、切り離されたように体はいうことを聞かない。
「だから、先生、俺と」
「爆豪」
ふー、ふー、と息を荒げて昂った胸の感情を口から垂れ流していると、切島が勝己を呼んだ。
その固い声に、びくりと肩を揺らす。
...やって、しまった。
勝己は、彩度の無い冷え切ったアスファルトへと視線を落とした。
「...ばくごー、」
もう一度、切島が勝己を呼ぶ。その声は、先ほどとは違い柔らかい。
(怒っては、ないんか)
意を決して顔を上げると、そこには困ったような顔をした切島がこちらをまっすぐ見ていて、胸が締め付けられる。
「...ありがとう。でも、ごめんな。」
そして、キッパリと断られた。
「それに、今はこんな狭い所で生きてるからそう思うんだぜ。広い世界にはお前のこと分かってくれる奴はいっぱいいるよ」と続けられる。
そんなどこかで聞いたことのある台詞。そんなもんが、欲しかった訳じゃない。
勝己の視界が、滲んでいく。
悔しかった。
切島の答えも、自分なりに大切にしていた想いを、勢いに任せて口走ったことも。
勝己には、切島しかいないのに。
切島はまさか勝己が泣くとは思っていなかったようで、ギョッと顔をしておろおろとしていた。しかし自分が振った手前、なんと声をかけていいのか分からないのか、あ、とか、え、とか母音しか発さない。
...そんな所も、腹が立つほど好きだった。
勝己はごしごしとジャージで乱暴に目元を擦り、涙を拭う。そして、まだ潤んでいるだろう瞳にキッと力を入れて、切島を見据えた。
「絶対諦めねぇ!!!」
「絶対!!!俺のもんにする!!!!」
クソが!!!と馬鹿でかい声で叫べば、ガランと広い駐車場に反響した。
切島は、しばらく固まっていた。だが、ぱちぱちと瞬きした後、「そんなに愛されてんのか、先生困っちまうな!」と大きな口からギザっ歯を覗かせてガハハと笑った。
「てめぇ...!笑うんじゃねぇ!」と怒る勝己に「いやー若いっていいな!」と返して、ひとしきり笑う。
そして、「悪ィ悪ィ!」とゆっくり深呼吸をして息を落ち着けた後、改まって勝己に向かい合った。
「気持ちには応えられねぇ。けど、...ほんと、嬉しいよ」
そう言って、ふにゃりと可愛い顔で微笑んだ。
——勝己は宣言通り、変わらず保健室に通った。
いや、変わらずどころか、気持ちを伝えたことで変に吹っ切れたので、もはや本人には開けっぴろげに好意を伝えた。そんな勝己を切島は交わしながら、しかし変に気を遣うこもなく、今まで通り接してくれた。
ただ、話すときは人が多く通る廊下や玄関近くに移動することが多くて、完全な2人きりの状態になることは意図して避けているようだった。それが苦しくない訳ではないが、本来ならもっと距離を取られてもおかしくないことを考えれば、十分すぎる対応だった。
たまに上鳴たちも連れて行けば、「お前らといると話すと元気になるぜ!」「同級生だったら楽しかっただろうなー!」と、男子高校生の馬鹿な話に涙が出るほど笑ってくれた。アホなあいつらも、たまには役に立つもんだ。
...そしてなにより、バスケに打ち込む勝己のことを、変わらず応援してくれたことが嬉しかった。
勝己自身も、気持ちを伝えモヤモヤすることが減ったからか、よりバスケに集中することができていた。周りの雑音は不思議なほど気にならなくなって、集中して日々の練習に取り組めば自ずと燻っていた実力も伸びていった。
切島は、校内で試合があるときは応援に来てくれた。まぁ、勝己が毎回半ば脅すように「この日俺試合出っけど、時間ないんか」と詰め寄るからかもしれないが。今日も「そんなに長くはいれねぇから、見れたら、な」なんて言っていたが、出番が来る頃には二階の観客席の隅、生徒達の邪魔にならないように壁際に立っていた。ツンツンと逆立てられた派手な赤髪を見つけるのは簡単で、切島に向かって勝己はフロアから手を上げる。
すると、勘違いしたモブ女共がキャアキャアと耳障りな声を上げた。ベンチにいるマネージャーは「ずるい!」と頬を膨らませ、俺にユニフォームを取られた先輩達は、「ファンサかよ、余裕だな」なんて懲りずにまた俺に聞こえるように陰口を叩いている。
しかし、切島は。
またあの困った表情で、でも少し恥ずかしそうな赤く染まった顔で、小さく手を振ってくれた。
やっぱり。
やっぱり、世界で、先生だけが、俺を分かってくれる。
「おい爆豪、行くぞ」
「ッス」
先輩に呼ばれて、観客席にくるりと背を向けて歩き出した。にやける口元を手で覆う。
(くそかわいい、せんせー、)
コートに並んだ列に加わり、パン!と両頬を叩く。
集中するために、勝己は大きく息を吸った。
———————————————
切島と出会って何もかもが、いい方向に進んでいる。少し前まであんなにもがき苦しんでいたのが、嘘みたいだ。今だってうまくいかないことは沢山あるけれど、それすら自分を成長させるための糧だと、冷静に受け止められた。
努力して、勝って、勝って、勝ちまくって。
勉強だって、完璧に、徹底的にやって。
先生も見惚れるような、かっけぇ大人になって。
絶対ェ、手に入れてやる。
「がんばれー!ばくごー!」
そうやって先生が笑うから、暗く淀んでいた俺の世界が、色付いていく。
先生が好き。
明日が来るのが待ち遠しい。
純粋にそう思えた、青い毎日。
そんな日々はもう、二度と戻らない。
(To be continued ....)