2022/8/7司冬ワンドロワンライ 水遊び/透ける 何かに気付いたように、冬弥はふと足を止め顔を上げた。釣られて司も冬弥の視線を追うが、冬弥は振り返り、一心に来た道を見つめていた。
「どうした?冬弥」
「音が聴こえるんです」
音?と司が聞き返す前に、冬弥はその細い指である箇所を指した。
「あちらの方から音楽が……」
司は冬弥の指す方向へ耳を澄ました。街路樹が風に揺れるざわめきや、立ち止まる二人を通り過ぎる通行人の足音が耳に入るのみで、どれほど集中しても彼の言う音楽は聞き取れなかった。きっと冬弥の優れた聴力によって拾われた音なのだろうと結論付け、冬弥と目を合わせる。
「この公園は随分広いからな。何かイベントでもやっているんだろう。行ってみるか」
司の問いかけに、冬弥は表情を明るくして頷いた。
冬弥の耳を案内代わりに歩き続けると、やがて二人は広場へ辿り着いた。木々が多い茂る中にぽっかりと空間が開き、その中央を飾る噴水からは水が高く上がっている。二人は噴水へ釘付けになるが、噴出された水は程なくして止まった。
「なるほど。音楽と共に水が噴出する仕組みになっているんですね」
「冬弥が聞いた音楽は噴水から流れていたのか」
冬弥は興味深そうに噴水を眺めている。司も広々とした公園の一角にこのような場所があるとは知らなかった。
恐らく、一定時間毎に音楽と水が流れ出す仕組みの噴水なのだろう。噴水の頂点にはノズルが隠れ、更に上にはスピーカーが搭載されていた。
「しかし、夏の水遊び場は子供たちがいるはずだが、誰もいないとは」
夏の噴水は子供たちの大好物である。皆涼を求めて遊びに来るはずだが、この場には司と冬弥の二人のみであった。しかし、冬弥には噴水と子供が結びつかないようで、不思議そうな表情を見せている。冬弥にとって、噴水とは観賞用のオブジェクトという印象なのだろう。
「折角だ。オレたちも行こうではないか!」
「行く……とは、どちらに?」
あまりピンと来ていない様子の冬弥の手を取り、司は自信ありげに答えた。
「勿論、あの噴水だ!」
司に手を引かれるままに広場の中央へ歩き出す。噴水を覗き込むと、どこからか風が吹き出して水面を揺らしていた。揺れる水面をぼんやりと眺める冬弥に対して、隣の司はその透明な水へと手を伸ばす。ぱしゃりと水が跳ねる音は、司の脳内に妹と共にはしゃいだ過去の思い出を過ぎらせ、口元を緩ませた。
「懐かしいな。子供の頃は公園にある噴水で水遊びをしたものだ」
「水遊び……ですか」
「ああ、水を掛け合ってずぶ濡れになったものだ」
司は目を細めて呟き、やがてその目を冬弥へと向けた。
「冬弥もどうだ?涼しくなるぞ」
冬弥は噴水へと視線を移した。目の前の噴水は、水遊び用の構造なのか噴水の縁が低いようであった。冬弥はその場で屈み、そっと水面に触れる。水は冬弥の白い指をいとも容易く飲み込んだ。夏の陽射しを受けた手のひらを、冷たい水が包み込む。水中で手を揺らして一通り楽しんだ後、冬弥はゆっくりと手を離し、ぱっと司を見上げた。
「冷たくて気持ちが良いですね」
「そうだろう!」
返事を返しながらまた手を伸ばす冬弥の様子に、司は満足気に笑った。何度も水に手を伸ばすその様子は、司の目にはまるで子供のように映った。
暫くして、二人の会話に突如軽快な音楽が割り込んだ。ピアノで彩られた楽曲は、正しく子供向けの曲であった。噴水の頂点にあるノズルから水が流れ出す。その水は、すぐに司と冬弥の目の前に到達する。
冬弥は噴水の縁に手を置き、好奇心の赴くままに反対の手を流れ込む水へと伸ばした。水を掴むよう伸ばしたその手は空を切る。そのまま、冬弥の身体はぐらりと揺れた。
「冬弥!」
弾ける音がした。冬弥には何が起こったのか瞬時に把握出来なかった。気付けば、空をすり抜けた手にはただ冷たいタイルの感触だけ。身体は重く心臓がうるさい程に鳴っている。情報の処理が追いつかない中、ぼんやりと顔を上げると、噴水の縁を挟んだ向こう側で司は心配そうな表情を向けていた。
「大丈夫か?怪我は無いか?」
跳ねる鼓動の中、冬弥は自分が噴水の中へ落ちたのだと悟る。身体の冷たさと重さは水によるものであった。落ちた、と言っても噴水の底は浅く、幸い服が濡れただけで済んだようだ。
「大丈夫です。どこも怪我はしていません」
「良かった……ほら、オレに捕まれ!」
伸ばされた手を濡れた手で掴むと、水面から冬弥の身体が一気に引き上げられる。水面はざばんと大きな音を立て波紋を描いた。
「ずぶ濡れ……とは、このような感覚なんですね」
「ああ。だが、まずはタオルを使ってくれ」
冬弥はどこか新鮮な面持ちであったが、心配げにタオルを差し出す先輩の姿を見た途端、後悔の念に苛まれた。今回は水底が浅い故に無傷であったが、噴水のオブジェクトに身体を強打していた可能性だって考えられる。巡る思考の果てに自分は身勝手なことをしてしまったのだと、冬弥はそう判断した。
ふと自身の手や足に目をやると、足元は勿論、服も腕も何もかもが濡れていた。衣服の裾から雫が滴り落ち、眼下の地面に染みを作り出している。
(こんな格好じゃ、司先輩の隣で歩けないな……)
冬弥は受け取ったタオルで雫を拭い始める。それは、後悔と羞恥とでいっぱいになった胸中を必死に落ち着かせるかのようであった。いつの間にかあの楽しげな噴水の音楽は鳴り終わっていた。
「どうだ?乾いたか?」
「いえ……矢張り乾きませんね」
そうか、と呟いた司は突然黙り込んだ。じっと冬弥を上から下まで一通り眺めた後、思い出したかのように自身の鞄を開く。
「あー、冬弥、とりあえずこれを着てくれ。」
司が鞄から取り出したものは薄手の上着であった。
「今日の夕方は冷えるらしいぞ。濡れたままだと風邪を引いてしまう」
夏だというのに、予報を確認し上着を持ち歩く判断をした先輩。その判断は素晴らしいものだ。普段の冬弥なら迷わず褒め言葉が口から飛び出ていただろう。しかし、今の冬弥にはその優しさすら痛く感じてしまう。
「司先輩……すみません、何から何まで」
冬弥は申し訳なさそうに受け取った。これ以上迷惑はかけられない、そのような表情だった。司はそんな冬弥の表情を過去に何度も見た記憶がある。そして、その表情を冬弥がする時は決まって彼らしくない行動を起こすのだ。
「司先輩。速やかに帰宅してこの服を返します。お手を煩わせてすみません」
声色は普段と変化は無い。けれど頑なに目を合わせようとしない態度は司にとって違和感でしかなかった。司は一本踏み出し、真っ直ぐと冬弥の名前を呼ぶ。
「その前に、オレに家に寄らないか?」
思わぬ提案だったのか、冬弥は困惑して司を見つめた。
「司先輩の御自宅ですか?」
「ああ。オレの家で服を乾かせばいいだろう」
「ですが、司先輩と司先輩の御両親に御迷惑をかけるわけには……」
「今日は皆出かけていてな。家には誰もいないんだ」
司は言葉を紡ぎ続けた。冬弥は口を結ぶが、盛れる声は震えていた。
「それでも……」
「冬弥。お前が迷惑だと思っているだけで、オレはそうとは思わない」
冬弥は目を見開いた。冬弥の視線は、言葉を紡ぎ続ける司の背後へと向いた。そこには太陽があった。司の背に座し、司と冬弥を照らしている。時刻と方向から判断するに、本物の太陽ではないのだろう。しかし冬弥にとって真偽は関係なかった。いつでも冬弥には天馬司が太陽そのものであったから。何度も冬弥の背中を押し、道を照らしてくれる太陽。そんな太陽を背に、司は笑っていた。
「勿論オレだけではないぞ。お前の周りにいる奴はみなそう思ってる」
瞬きを一つすると、太陽は消えていた。逆光が消え、目の前の彼の表情が明瞭に表れる。彼はまだ笑っていた。悲しげに眉をひそめながら。
「だから、迷惑なんだと自分を責めるな」
その表情は冬弥の心に鮮明に映った。そう言えば、妹さんが入院で不在の際によくその表情を浮かべていたな、と思い出す。預けられた自分に、先輩は笑ってショーを披露してくれたが、ふとした瞬間に悲しげな表情を浮かべることが多々あったのだ。
(今、先輩にこの表情をさせたのは俺なのか)
やがて重苦しい空気に耐えかねたのか、司は打って変わって明るい声を出した。その発言に、口を噤んでいた彼が慌てて声を上げることに気付いていたかのように。
「日が照っているし、歩いていれば少しは乾くだろう。それとも、オレはずぶ濡れの後輩を放っておくような奴に見えたのか?」
「司先輩……そのようなことは……!」
「わかっている。意地悪な言い方だったな」
司は荷物を纏め、まるで舞台の上に立っているかのように大袈裟に手を伸ばした。驚く彼の反応をにやりと楽しみながら。
「帰ろう、冬弥!」
抵抗を諦めたように、心の赴くままにその手を取る。太陽が傾き始め、夕陽が彼らを照らしていた。
そして現在司の自宅にて。冬弥は嬉々として曲を再生しては語り始める。しかし、司はいまいちその話に集中出来ていないようで。
(あの時……濡れたシャツが目に毒だったから服を渡したというのに……!今の状況はその時よりも毒ではないか!)
冬弥が噴水に滑り落ちた時。濡れた衣服が張り付き、白い肌が透けて見える様子が司の精神的健康上宜しくなかった。だから上着を渡した。
冬弥と共に自宅に帰り、 司の持つ衣服の中でサイズが大きいものを選んで渡した。冬弥はそれを何の躊躇いもなく着用した。ただそれだけだ。濡れた服は乾燥機に掛けているのだから仕方の無い。乾くまでの間だ。不可抗力だと司は何度も自分に言い聞かせる。
『ですが……俺は司先輩に何か返したいです。何か、俺に出来ることはありませんか?何でも言ってください』
返さなくていい。あの時、司はそう口に出そうとして押し留まった。冬弥の目は本気だった。本気で返したいという真摯な気持ちが目から伝わって来たのだ。ならばこちらとてその意を汲むべきであると。そうして司は考え込み、少しして口を開いた。
(「なら、冬弥が最近聴いている曲を教えてくれ。どんなジャンルでも良い。脚本のイメージの参考にしたいんだ」とは言った。言ったぞ……!)
冬弥はスマホを操作して次の楽曲を再生する。MVも付いているらしいそれは、司と冬弥を挟んだ真ん中で流れ始める、そう、司は現在、冬弥のこの近い距離に猛烈に頭を悩ませている。
端末に視線を向けながらも心中で頭を抱える司。司が集中出来ていない状況に気付き、自分の説明に不都合があったのかと不安がる冬弥。
「司先輩?どうかしましたか」
「いや……何でもない。続けてくれ」
「はい。安心してください。まだ司先輩にご紹介したい楽曲は沢山ありますから!きっと脚本の参考になる楽曲が見つかると思います」
一方は自分の服を幼少期から関わりのある後輩が着ている状況に慣れずにいる。一方は先輩のためというただ一心で曲を語り続ける。傍から見れば仲が良いように見えるが、ある高校二年生の心中は穏やかではなかった。
(くっ……は、早く冬弥の服よ乾いてくれ!!)
この日、ある高校二年生──司の苦悩は続いたという。