2023/3/12司冬ワンドロワンライ「変わらない場所」「特別な想いを」 幼馴染の兄妹に誘われ、冬弥は天馬家の座り心地の良いソファに沈み込んでいた。誘った本人達はキッチンで夕飯の準備をしているようで、「夕飯の時間まで、ソファに座ってゆっくりしてくれ」と一言伝えてからは未だ顔は見ていない。しかし、良い匂いが漂っているから、手こずりながらも料理は上手く作れたのだと推測する。
二人に出会う前に買った新刊を片手に、冬弥は夕飯の時間を楽しみにしていた。キリの良い章まで読んだところで、あるクッションが視界に映った。手に取り、感触を手で確かめる。フェルト生地で描かれた文字を指でなぞりながら、冬弥は過去の美しい記憶に思いを馳せた。
目覚めた冬弥は、不安げに大きな瞳を歪ませた。広いリビングを見渡しても誰も見つからない。自分一人だけが空間に取り残されたような寂しさに襲われ、居ても立っても居られなくなって冬弥はソファから立ち上がった。
一階に誰もいないことを確認した冬弥は、暗い瞳でぼんやりと二階へ視線を注ぐ。司はきっと二階にいるのだろう。一目だけでも姿を見たい。身体の震えを止めて欲しい。笑わせて欲しい。心は無我夢中で、それでいて足取りはゆっくりと階段を一段ずつ踏み締める。半分ほど上がったところで、頭上から求めていた声が耳に届いた。
「冬弥!起きたのか?」
「司さん……!」
明るい陽の光のような声を聞いて、冬弥は一呼吸ついた。安心したのも束の間、ふと足元を見てしまったことで、冬弥は先程とは別の恐怖に身体を震わせることとなった。
「……っ!」
「と、冬弥!どうした!!待ってろ、今すぐ行くぞ!!」
「落ち着いたか?」
司の手を借りてソファへと戻ると、司は何も言わず青ざめたまま身体を丸める冬弥の背を撫で続けた。もう大丈夫という意を込めて頷くと、良かったと返される。
「……どうして二階へ?」
「二階?寝ている冬弥が寒そうだったから、毛布を取ってこようと思ったんだ」
些細な疑問を投げかけるも、答えが真逆自分のためだったとは思っておらず冬弥は俯いた。司は眠ってしまった自分を想っての行動だったのに、自分は勝手に不安がって、かえって司を心配させてしまったのだ。俯いたまま、拳を握った。
「冬弥?寒いのか?だったら毛布を……」
また離れようとする手を、冬弥は掴んだ。弱々しい力だが、離れて欲しくないという不安が現れていた。迷子のような表情をした弟分を安心させたくて、司は優しく手を握った。
「冬弥」
名前を呼ばれて顔を上げた途端、あるものを手渡された。それは大きくふわふわとした弾力のある物。ひっくり返した場所にアルファベットで刻まれた名前を見て、冬弥は困惑した。
「オレのクッションだ!触ってみろ、ふかふかだろう!」
言われた通りにクッションの真ん中あたりに、手を沈めると、中にある綿が手を包み込む。冬弥の表情に些細な変化が洗われ、満足したように司は笑った。
「これをオレの代わり……にはならないかもしれないが、オレがいない時は、オレの代わりだと思ってくれ。安心しろ!今はオレも冬弥のそばにいるから」
そのまま抱き締められ、頭を撫でられる。手元のクッションは手触りが良く、隣にいる司の体温が心地良かった。
幼い俺たちが肩を並べて眠りについた話は、その後帰ってきたおばさまから聞いた話だ。
「そっちのオレの方が良いのか?」
クッションに刻まれた文字に影が落ちる。凛とした声が追憶の旅に出ていた冬弥の意識を浮上させた。
「目の前に本物の司がいるというのに」
「司先輩……っ!?」
ぼんやりしているうちに夕飯の準備は済んだようで。司は少しむっとした顔でソファに座る冬弥を見下ろしていた。
「む、驚かせてしまったか?」
「いえ……大丈夫です。司先輩は?」
「ああ、カレーの準備が出来たから、あとは夕飯の時間まで待つだけだ。待たせてしまったな」
「良い匂いがしていますね」
「だろう?咲希がしっかり煮込んでくれたからな!」
招待してくれたお二人曰く先日教えて貰ったカレーの実践編らしいが、予想通り上手く作れたようだ。
「それと……」
エプロンを外した司は普段とは打って変わった小さな声で語った。
「お前があまりに大事そうにそれを抱えてるから……」
含みのある表情が、冬弥の手元へ向いていた。良い方向へ向かっているとはいえ、まだまだ感情の察知が人よりも鈍感である冬弥には察しがつかなかったが、司はじっとある文字を数秒焼き付けた後には、いつもの自信ありげな表情へと戻っていた。これには鈍感な冬弥にも、司に何やら考えがあると把握出来た。
「ふむ、よし冬弥!オレに向かってこい!」
「すみません、仰る意味が……」
意味を理解しようと熟考の姿勢へ入った途端、突然ソファが振動する。その原因である司は冬弥の隣に座ったまま両手を大きく広げた。
「本物が目の前にいるんだぞ!スターのクッションの司ではなく!本物の!スターのオレが!」
「え、えっと……」
困ったと眉を下げる冬弥とは反対に、眉をつり上げる司。腕を広げたまま指で、来いとジェスチャーをされては期待に応えるしか道は無い。何度か視線をさ迷わせるも、目の前の司は一直線に冬弥だけを見据えている。
「……し、失礼します」
降参した冬弥が恐る恐る手を伸ばすと、待ってたと言わんばかりに強く腕の中へと引き込まれる。あっという間に、冬弥と共に冬弥の腕の中のクッション丸ごと司の身体の中へと閉じ込められた。幼少期のあの日と同じシチュエーション。それなのに、胸の鼓動が大きく高鳴っている。
(あの時は安心して落ち着いたのに……何故か今は心臓の鼓動が早い……)
「あー!お兄ちゃんたち何してるの〜!!」
兄と違ってまだエプロンを身につけている少女の声に、二人の空気は霧散した。何事も無かったかのように離れたが、冬弥は少しあの体温が寂しいと感じた。
「それお兄ちゃんのクッション!とーやくん、昔からそれ好きだよね〜」
にこにこと跳ねるような咲希の声を聞いて、懐かしげに腕の中のクッションを撫でる。天馬家での思い出は冬弥にとってはどれも大切でかけがえのない宝物だ。その中でも、特に忘れられない思い出の一つ。数年経ってから、あの頃の思い出がどれほど自分の心を励ましていたかを実感するとは。振り返った思い出に笑みを浮かべながら、冬弥は当時の記憶を語り出す。
「昔、司先輩がこのクッションを自分の代わりだと思ってくれと仰ってくれたんです」
「ええ!?そんなことをお兄ちゃんが!」
「お、覚えていたのか……!」
立ち上がって声を上げる先輩の姿に緩んだ口から声が漏れる。同じように咲希も笑いながらなるほど!と指を立てた。
「もしかして、お兄ちゃんはとーやくんのクッションが羨ましくなったの?だから……」
言葉はすぐ側から放たれる大声で掻き消される。司は誤魔化すように声を張り上げるが、顔の赤さは隠しきれなかった。
「もうすぐ夕飯の時間だろう!」
「本当だ!カレー温め直さなくちゃ」
エプロンの紐を揺らしながらぱたぱたと咲希はキッチンへ向かい、残された二人の幼馴染は顔を見合わせた。 お互い顔に熱を持っていることは明白だった。気まずい空気が流れる中、穏やかな声が空気を破った。
「冬弥……その、寂しいのなら、遠慮なく言っていいんだぞ」
「いえ、今は司先輩も咲希さんもいますし。とても楽しいです。ただ……」
昔何度も指でなぞったフェルト生地の感触。今も変わらないそれは、冬弥の心を穏やかにさせた。
「……少し、懐かしくて」
「昔はこのクッションを抱き締めていると、司先輩が必ず俺を笑わせようとしてくれて……」
「あの頃はこの家に預けられた時にしか、司先輩や咲希さんに会えず……確かに寂しさや不安を感じた夜もありました」
「でも、今は……」
クッションを一無でした後、自身の隣へと移動させる。顔を上げると、驚いた様子の司と視線が交わる。
司は笑って、冬弥に応えるように力強く頷いた。
「ああ。お前が言えば、オレはいつでもどこでも会いに行く」
「お兄ちゃんたち〜!準備手伝ってほしいな〜!」
「ああ!今行くぞ!咲希!」
立ち上がると、彼は振り返って手を伸ばした。伸ばされた未来のスターの手を取り、二人で歩き出す。
あの頃の寂しさは、もう二度と感じない。