ボーイ×バニー「バニーガールが足りないんだよねぇ」
「はあ」
リューキュウヒーロー事務所からの応援要請でやってきた応接室のソファの上。
出久は出されたお茶を前に、片頬を片手で覆いながらため息を吐くリューキュウと対面していた。
「今回の任務に参加する予定の相棒(サイドキック)の子が、この間の敵(ヴィラン)確保の時にミスしちゃってね」
「それは大変でしたね。容体は?」
「幸い腕を骨折しただけで済んだよ。だからバニー役が足りなくてねぇ」
「はぁ」
視線を逸らしたままだったリューキュウがするりと出久を見る。丁度湯呑を両手に持ったところだった出久はその視線にびくりと体を跳ねさせた。
「探偵業の助っ人も考えたんだけど、危険な取引現場に素人同然の子を送れないだろ?」
「そう、ですね」
「もう一人のバニー役はウラビティだし、どうせなら彼女に人選を任せてみたんだよね」
「はぁ」
抱えた湯呑を傾ける。熱い緑茶が喉を通ったとき、目の前のリューキュウが「それでね」とたっぷり間を設けて言った。
「そのバニーガール役にデク――君を推してくれたんだよね、ウラビティ」
「っ!? っげほ、げほげほ……! は、え!?」
二口目を飲み込み切る直前、リューキュウによるとんでもない発言に出久の気道が驚愕で萎まり、液体が逆流する。
吹き出すのを堪えて無理やり飲み込んだせいで酷く噎せた。
しかしそんな出久の様子を冷静に観察するリューキュウは、テーブルに用意してあった手拭きを出久へと手渡しながら「という訳でデク、バニーガール役を頼むよ」と素敵な笑顔で言い放った。
受け取った手拭きで口元を拭いた出久がぎょっとする。
「い、いやいやいや!? 僕は男ですよ!? ショートやダイナマイトみたいにボーイ役だって聞いて今日は来たんです!」
「潜入先は同じだから何の問題もない。あたしの相棒たちもサポートはしっかりするように言い含めてるしね」
「だから! 僕は男です! こんな筋肉付いたガッツリ男のバニーガールなんて、どんな変態ですか!」
「そこについては何の問題もない。さぁ、入って来て」
ぱっと華やかに笑ったリューキュウが両手を広げて扉の向こうへ声を掛けた。まるで敵意はないとでも言わんばかりの態勢だが、出久には嫌な予感しかしない。カチャリとドアノブが回る音がして「失礼します」と一人の女性とその後ろに麗日が一緒に入ってきた。
思わず「麗日さん……」とこの無茶苦茶な状況を生み出した同級生を呼ぶ。楽しそうに手を振った麗日は何も言わなかった。
「彼女は私の友人だ。今の最大の問題を解決してくれる素晴らしい“個性”を持っているんだ」
「そっ……いや、待ってください、だから僕は男……」
素晴らしい“個性”と女性を紹介された出久の天性のナード精神が詳細を聞き出したいと気持ちが疼く。しかし今はそれどころじゃない。ぐっと押し殺した出久の肩を、女性がポンと叩いた。
途端、視界がくらりと揺らいだ。ふしゅう、と気の抜けるような音がして体の、主に胸元に一気に負担がかかる。訴えを言い切れぬまま、突然襲ってきた異変に自分の置かれた状況が認識できなかった。
「……? ……っ!? !?!?!?!」
「やっぱり! 思った以上に可愛いじゃないデク!」
「デクくん可愛いー! 思った通りでしたね! リューキュウ!」
「ええ! これなら何の問題もないわ! 作戦の変更はなしね!」
思わず立ち上がった出久は自分の目線がほんの数分前よりも下がっていることに愕然とした。着ていたヒーロースーツはだぼだぼなのに、胸元がぱつぱつではちきれそう。
見下ろした身体は、だぼだぼなスーツだというのに体のラインが浮き出るように身に張り付いていて、赤面よりも蒼白する。なんてことだ。
「お、お、お、お……!!」
「友人の“個性”は『性転換』。性別を変えたい相手を右手で触り、左手で変えたい性別の者に触れることで性転換を行えるんだ」
「う、そ……こ、声……は、あんまり変わってないけど……っ」
「そういう訳でデク! ウラビティとバニー役、よろしく頼むよ!」
「よろしくね、デクくん!」
まさかの展開に声も言葉も文句も訴えも、驚愕のあまりに飛び出すことが出来なかった。真っ白になる頭の中で靄を振り払うように頭を振るも後の祭り。
出久は腕に腕を絡めた麗日と、その反対側を同じように拘束して引きずるリューキュウによって応接室から更衣室へと移動させられたのであった。
「……それでこんなことになってんのか」
ぐすぐすと涙を目に溜めて頭からシーツを被った出久を前に轟が額に手を当てる。
一緒に応援先の事務所にたどり着いたというのに、轟は別室に通されて出久を待つ羽目になっていた。何度かお茶を取り換えに来た事務員に事の次第を問うたが「少々お待ちください」で躱されてしまっていたために、戻ってきた出久の顛末を聞いて頭を痛める。
何にこんなに頭を痛めているのか。そんなの当然だ。
可愛い可愛い恋人がさらに可愛くなって帰ってきたからだ。正直今すぐ家に持ち帰って元に戻るまで閉じ込めておきたい。
男の姿であんなにかわいくて仕方ない存在が、女性になってまた違う魅力を醸し出している。まぁ出久なら男女どっちでもいいというのが本音だが、極めつけはこの衣装だ。
頭にセットされてあったうさぎの耳は最後の抵抗として剥ぎとったらしいが、豊か過ぎる胸元を強調するバニースーツが目に毒だ。肩の傷を隠すためか、長袖のジャケットを着てはいるがそれがまたより胸元を強調させるデザインとなっている。
出るところは出て締まるところは締まった体系に、足元はストッキングではなくガーターベルトで引き上げる太ももを隠すハイソックス。レオタード独特の危うさとハイソックスの境界にある肌が余計に際立っていて本気でこの仕事を蹴りたくなった。
元凶の二人は室内に入ってからとてもいい笑顔を浮かべて出久と轟の様子を見守っている。ふたりが恋仲というのはヒーロー界隈では周知の事実だ。
「ほら緑谷。もう泣くな。よく似合ってるから」
「似合ってないぃぃいい~~~!!」
「わりぃ」
シーツ越しで抱いた腰はさらに細くなっていて、少し力を入れるだけで折れそうで怖い。片眉をしかめた轟がそのまま視線をふたりに向ける。どうしても咎めるようになってしまうのは否めない。
「で、この状態の緑谷を任務に出すんですか」
「そのためにその恰好をしてもらったんだ。大丈夫。一生そのままってわけじゃない。一晩経てば、また“個性”かけてもらえるから」
「……つまり、二十四時間はこのまま、ってことですか……」
「そうよ。彼女の“個性”の制限に引っかかるからね」
言いながらリューキュウは手に持っていた紙袋を突きつける。仕方なしに受け取った轟が中身を受け取り覗き込めば、それはボーイの服で。
任務は今晩だ。着替えてこいということだろう。
ため息を吐いて出久の元に戻った轟がシーツの下で震える頭を撫でる。それから垂れるシーツの両端を掴んで、性転換されたために視線が下がった出久にあわせて屈んで顔を覗き込んだ。
「緑谷」
「っ……とどろぎぐ……」
「いつまでも泣いてたら目ェ溶けちまうぞ。今日一日だけだ。頑張ろう」
「うん……わかってるけど……! こ、こんな格好で……!」
「それは俺も思ってる。こんな格好したお前を誰の目にも触れさせたくねぇ」
潤ませるだけだった目から一筋流れ落ちて、それを親指で拭いとる。こんな風に出久が泣き言をいう姿はあまり見ないが、突然の女性化な上に見るのも恥ずかしい格好をさせられ、その上その恰好で仕事をしろと言われているのだ。
そんなの誰だって泣きたくなるだろう。
長年の甘やかしによって轟には素直に甘えるようになった出久だからこそ、大混乱と強烈な羞恥の中で顔を合わせた轟に泣きついたのだ。かわいそうに。
「大丈夫だ。目の届くところにいる。変な奴に手ェ付けられそうになったら燃やすから」
「それはダメだと思うよとどろきくん……」
冷静な出久が末尾で過激な轟を制する。けれどそうやって慰めてくれる恋人の言葉に少しだけ微笑んで涙を拭った。が、その役目を唇で奪われてしまい頬を真っ赤にさせた。そうして身を起こした轟が何食わぬ顔で「着替えてくるから、準備しっかりしてろよ」と出久の頭を撫でてから部屋を出ていくのを見送った。
一連のやり取りを見守っていた二人がさらに笑みを深めていたが、特に何も言ってはこない。
そろりと、件のふたりに出久が振り返る。それから数度目線を泳がせたが「ご迷惑おかけしてすみません。今日はよろしくお願いします」と頭を下げて言った。
「こっちこそ悪いわね。とにかく、今日はよろしくねデク」
「大丈夫! デクくんのサポートは私がしっかりするから! 変な奴に目を付けられたら大気圏まで浮かすね!」
「麗日さん、それもまずいんじゃ……」
「浮かすのも燃やすのも、ターゲットにしてほしいところだけど」
シーツを肩にかけた出久を上から下まで一通り観察して、リューキュウは苦笑した。
「無理もないかもね」
化粧まですればものすごく化けるだろうね、とは心の中でだけ呟いて、その日ヒーローたちの潜入捜査はスタートしたのだった。
※
着ていたジャケットを脱いで小さくなった身体を覆い隠す。強すぎる酒のせいで前後不覚の出久を胸に抱いて、轟は氷漬けになったターゲットを爆豪に託して部屋を後にした。
顔を真っ赤にさせて少しだけ苦しそうに呼吸をする出久に眉をひそめた。姫抱きで運ぶ足はぷらぷらと揺れて、制圧のために走るヒーローたちにもぶつけないように逆走する。
腸が煮えくり返りそうだった。
気がかりだったことが現実になることほど腹立たしいことはない。それが大切で仕方のない恋人のことなら猶の事。
裏口から外に出た轟が待機していたリューキュウに事情を説明し、すでにインカムで飛んでいる状況を改めて報告する。そしてそのまま二人に宛がわれたホテルへと向かった。
無理を押し通した自覚のあるリューキュウはすでに手配していたタクシーへ轟を案内する。出久に怪我がないことだけを再確認してから「落ち着いてからデクを元に戻すよう手配しておくわ」と苦笑した。
「緑谷、わかるか?」
「んー……とろぉき、くん……?」
「ぐったりだな……ほら、水飲め」
宛がわれた部屋のベッドに横たえさせた出久の頬に手を置いて右手に冷気を纏わせる。ひんやりした感覚が気持ちよかったのか、とろりとした瞳が轟を見上げていた。
もともと酒には強い出久だが、どうやら許容より度数の高いものを飲まされたようだ。見ている限り一杯だけだったのだが、そのせいでここまで蕩けるように酔ってしまって。抱えた上体を安定させて、部屋に備え付けられていたペットボトルの口を宛がった。少しずつ傾ければ、流れるように飲んでいく。
零れて伝う水が首に落ちて、轟はペットボトルを離した。
「にんむ、はぁ……?」
「もう終わった。よく頑張ったな」
「うんっ」
いつもより甘え放題の出久に苦笑する。いつももこのくらい甘えてくれればいいのに、彼は手強いのだ。
ふいに出久が轟の衣服に手を伸ばした。弱弱しい手指が思ったより強い力で轟を引き寄せる。突然のことに轟は素直に首を落とした。
「……ね、しない?」
「……は?」
「したく、ない?」
酒に潤んだ瞳が見上げてくる。みずみずしい森の色は、雨に苛まれたように白んでいる。理性がほとんど繋がっていないのは目に見えていた。
そんな出久の言葉に一瞬躊躇した轟だが、その手を優しく覆って外させる。あんなに握った手が、別人のように細くてなめらかで寂しさが募った。
「しない。酒に酔ってるお前を抱く趣味はねぇよ」
「……いつもはだくじゃん」
「……」
言われて言い返せなかった。まぁ酔ってることが滅多にない出久だから、というのもあるがただ単純にかわいいから手を出してしまう。そのことに否はないし、なんなら矛盾を突きつけられてぐうの音も出ない。
だがそれに不満を叫んだのはもちろん出久で。
「……ぼくが、おんなのこ、だから?」
「……」
「とどぉきく、おんなのこのぼくは、いや?」
「……いやじゃねぇよ」
嫌じゃない。嫌じゃないけど。
「俺は緑谷なら男でも女でもいい。けど……俺に世界を魅せてくれて、俺と一緒に戦ってくれて、俺が惚れて、愛した緑谷は……男のお前だから」
握ったままの手の感触も、抱き上げた軽すぎる体温も、支える柔らかな身体も。轟には馴染みのない感触と体温で――正直、少しだけ怖かった。
自分の大切なひとがいなくなりそうで、けれどそこにいるのに納得できなくて。
それなのに愛らしい容姿はそのままに女性としての特徴が付いてしまって、彼を見る者すべての目を潰してしまいたいとも思った。
「じゃあ、さ」
するりと、掴んでいた手が抜け出していく。いつもなら追いかける手が、今日ばかりは躊躇うように跳ねて終わった。
出久は両腕を拡げる。表情はまだとろんとしていて、酔っていることは明らかだ。暗がりでも分かる頬の紅さより薄い色の唇が言う。
「ぼくに、おしえてよ。おとこのぼくと、いまのぼくの、ちがい」
「え?」
「とどろきくんは、よくわかってるんでしょ?」
こてりと、ちいさく傾いだ出久の視線は外れない。その瞳の奥の意図が、轟には見えない。
けれど出久はそれ以上を言わないし動きもしない。どうすればいいのかわからない。狼狽えるように視線をさ迷わせて、そしてやっと出久の身体が微かに震えているのに気づいた。違う。轟にも分かるほどに震えが大きくなったのだ。
咄嗟に顔を上げる。まっすぐな視線から逃げた潤んだ瞳の奥に、泣きそうになるほどの不安が渦巻いている。それを見てやっと轟はその言葉の意味に気が付いた。
不安、だったのだ。性が変わってしまったことに強い不安を抱いていたのだろう。万が一、轟に拒絶されたら。絶対にありえないと聞くまでもなく即答する轟だが、それでも出久は不安だったのだ。
怖くて、不安で、戸惑って。
いつもとポテンシャルも違う中で慣れない任務にも体を張って。すぐそこでサポートしてくれる恋人も友人も幼馴染がいるとしても、その実拒絶されたらどうしようと困惑して。
出久は、その内側を食い破るような昏い感情を押しつぶして、今日を過ごしていたのだ。
気付いて、とっさにその身を覆う。きつく抱きしめれば、ありったけの力で抱き返された。その力の差も性差で全然違う。か弱くて物足りなくて、やはり帰ってきてほしいと思ってしまった。
「っ、ごめん、緑谷……!」
「んーん……いいんだぁ……ぼくも、きみのきもちはわかるつもりだから」
火照る身体はやっぱり全然違う。けれど出久からすれば、きっと違うからこそ触れない轟にもどかしい気持ちを抱えていたのだろう。
違うからこそ戸惑い、戸惑うからこそ触れようと手を伸ばす。伸ばした手を取られても、それ以上を触れない指先は触れもしないのにどれほど出久の心に棘を押し入れたか。
それでも出久は笑う。轟の気持ちも汲んだうえで、それでも手を伸ばしたのだ。それこそが出久の甘え。「おしえてほしい」という名の『救けて』。
「お前が……望むなら」
「ん……きみが、大丈夫なら」
僅かに離れた距離で、まつ毛が触れるほどの隙間に二人で言葉を落としていく。境界線を探すように、だがその境界線を消し去るためにふたりで水を混ぜて失くしてしまおうと。
落としたままの視線を、同時に上げた。大丈夫。変わらないものは目の前にある。
あの日炎に照り返って深く艶やかに輝いた深緑を見つめながら、轟は柔らかすぎる唇に口づけた。