最愛のゆくえ「薫くんは卒業後、どうするんじゃ?」
その問いかけは、回りくどい言い回しが得意なその男にしては珍しく、至極ストレートな物言いだった。
只今、軽音部室にいるのは朔間さんと俺の二人だけ。言わずもがな問いかけているのは朔間さんで、問いかけられているのは俺だ。その状況下で無視するわけにもいかず、渋々液晶スクリーンに向けていた顔を上げて、対角線上にいる朔間さんを見た。
「……随分といきなりだね」
「おや、そうじゃったかの? まあ、暇潰しの雑談だと思って付き合っておくれ」
「ふーん…… ま、いいけどさ」
……雑談、ねえ。
数多ある話題のなかから「あの」朔間さんがわざわざ進路の話を選択するなんて、どうせ意図していたものに違いない。だが、そう尋ねたところできっと涼しい顔で躱されるだけだ。
おそらく朔間さんは、雑談と称して俺のなかにある「何か」を見極めよう、または確かめようとしている。その何か、とは、まあ十中八九、俺の「将来」についてだろう。
ああ、今日ここに来なければ朔間さんとこんな話をしなくて済んだのに……と、俺はすでに数十分前の自らの選択を後悔し始めていた。
今日は女の子とのデートの予定もユニットの練習もなく、だからこそ悩ましい日だった。極力家に居る時間を減らしたい俺にとって、予定が何も入っていない状況は全く喜ばしくない。
しかも最近は、女の子と過ごす時間よりもユニットの男共と過ごす時間が増えたことで以前とは予定の組み方が変化してしまい、今日のような手持ち無沙汰になる日がわずかに増えていた。
それでも、いつもならば奏汰くんがいるのを見越して海洋生物部の方へと向かうのだ。
奏汰くんは男だが、一緒にいると不思議と癒されるし、何よりピリピリする会話をしなくて済むから楽だ。それは俺にとって大変ありがたいことで、きっと今日だって奏汰くんの元に行っていれば、いつものようにぼんやり水槽を眺めたり、海辺をゆったり歩いたりして和やかな時間を過ごせていたはずだった。
しかし数十分前の俺は、ふと思い立ってしまったのだ。誰かいるかもしれないし、ユニットの溜まり場にでも行ってみようかな、と。最近居心地が良くなってきたそこは、もはやアドニスくんや転校生ちゃんに連れられて嫌々行くものではなくなっていた。
認めるのは恥ずかしいが、用がなくても足が自然と向かうくらいには、近頃俺のなかでUNDEADという存在は大きなものになり始めているのだ。
だが、そんな浮かれた思考になったのが運の尽き。いつの間にか「暇潰しの雑談」という名目で行われる朔間さんとの会話が始まってしまった。本当に、まったくツイてない。
もし共にいるのが朔間さん以外の誰かだったならば、俺はテキトーに話を切り上げてさっさと眠ってしまっていただろう。父や兄にするように、部屋から出て行って対話を拒む選択肢だってある。
けれど俺は、この人にだけは年甲斐もない振る舞いも、「あどけない」とたまに評される自分の寝顔も見せたくなかった。まあ、もう何度も見られてはいるけれど、それでも不可抗力でもない限りは極力見せたくない。
この意地がどういった思考からくるものなのか――そう考え始めると、居た堪れない答えに辿り着きそうで、今のところはあまり深く追及しないようにしているけれど。
まあつまり、話を逸らせない以上、俺は先程朔間さんから投げかけられた問いに答えなければならなかった。
「……卒業後の予定は、まだわかんない。ちょっと色々迷い始めちゃってさ」
暫しの間どう答えるべきか迷ったが、嘘を吐く意味もない。俺は観念して、素直にそう答えた。この男ならば俺がどういった選択肢で迷っているのかは大体見当がついているだろうから、皆まで言わないけれど。
「ほう……。まあ、そうじゃよな。我輩達、色々と迷いがちな高校三年生じゃし」
「いっつもおじいちゃんぶってるくせによく言うよ」
「くく、確かにそうじゃな」
俺は真正面で静かに笑う朔間さんを見つめた。
差し込む夕陽の薄いオレンジが彼の白磁の肌を染め上げて、その形の良い輪郭もまた、墨汁を垂らしたような濃い影で強調されている。窓枠を後ろにして佇むその様は、まるで絵画から飛び出してきたかのような美しさで。なんだか一瞬、先程あの口から「高校三年生」という単語が放たれたことが不思議なことのように思えて――そう思ってしまった自分に嫌気が差した。
朔間さんは俺と同じ高校三年生で、そこに大した差などないはずなのに。
「でもそうか。薫くんは迷っておるのか」
ぽつりと呟いた声には隠し切れない喜色が滲んでいた。
その真意を正確に読み取ることはできないけれど、この人は近頃ユニット活動に前向きになってきた俺の変化を喜んでいる節があったから、おそらくそういうことなのだろう。
つまり朔間さんは、俺が卒業後も「アイドル」を続ける道を見据えるようになったことを察していて、その事実をとても好ましく思っているのだ。
「……そ。だから今、朔間さんに言えることは何もないよ」
俺はそれをむず痒く思うと同時に、朔間さんのそういうところが苦手だな、と思った。
まるで初めて立ち上がった幼子を見るような生暖かい眼差しが、いつもいつも気に入らない。
「おや、つれないのう。我輩に進路相談してくれても良いのじゃぞ?」
……ほら、やっぱりこうなる。「雑談」などと称して結局行き着く先は結局これだ。俺は、一つしか違わないあんたに導いてもらうような幼い子どもじゃないのに!
「ああ、ごめんねー? 俺、相談するならかわいい女の子がいいの。優しく慰めてもらえるかもしれないでしょ?」
本当は女の子に相談するつもりなどないのに、年長者ぶりたがるこの男の善意の介入を拒絶したい一心で嘘を吐く自分に嫌気がさす。
しかし、てっきり「女遊びもほどほどにせいよ」とでもお小言を言ってくる流れになると思って身構えたのに、朔間さんは予想に反して何も言ってこない。
暫くして、黙ったままでいた朔間さんが「そういえば、」と切り出した。
「薫くんは進路希望調査票の提出は求められなかったのかや? 期限は数日前に過ぎていたはずじゃけど」
進路の話から逃れ切れたと思ったのに、再び違う角度から攻められてしまい、俺はがっくりと肩を落とした。そこまでして朔間さんは俺の行く末を知りたいのだろうか。なら諦めて、その話に付き合うしかない。
「あー、これね……」
渋々、制服のポケットに四つ折りにして入れていた紙を取り出すと、朔間さんが何とも言えない表情でこちらを見てきた。
「……お主、そんなところに入れておったのか? 洗濯する際は気をつけるのじゃぞ」
「余計なお世話! これでも前々からはやく出さなきゃなー、とは思ってたんだよ? だからずっとポケットに入れてたの。でもほら、この状態じゃダメでしょ?」
俺は紙を広げて朔間さんの方へと向けた。
手に掲げた進路希望調査票には『羽風薫』という俺の名前以外何も記入されておらず、呆れるほどまっさらなままだ。
しかし、どんなに眺めたって俺の名前以外が読み取れるわけでもないそれを、朔間さんは何故か熱心に見つめている。
「……? どうしたの、なんか気になる箇所でもあった?」
疑問に思ってそう尋ねると、朔間さんはゆっくりと口を開いた。
「なあ、薫くん。……『羽風薫』とは実に良い名じゃのう」
「………はあ?」
予想の斜め上の返答かつ突然の賞賛に対して、俺は咄嗟にどう反応すれば良いのかわからなかった。しかし、朔間さんの口は止まらない。
「軽やかな響きに、どこまでも広がる可能性を宿しておる」
「え……? 俺、朔間さんになんかしたっけ? 脈絡なくいきなり褒められるのってかなり不気味なんだけど」
「いや、何もしておらんよ? ……というか。素直に褒めとるんじゃから、素直に受け取っておくれ」
「素直に? ほんと?」
「ほんとほんと」
頷く朔間さんの背後の窓から覗く空模様は、すでにオレンジと闇色のグラデーションを作り出していた。巡る季節に身を任せた木々もすっかり秋色に染まりきって、はらはらと葉を落とし始めている。朔間さんはその景色を横目で見ながら、訥々と話し出した。
「……羽、風、薫りとは何とも綺麗な文字で構成されている名前じゃと、しみじみと感動していたのじゃよ。手を伸ばそうとも、掴むことさえ至難なものが連なっているじゃろう?」
「まあ、そうなのかな……?」
「薫くんにぴったりの、自由で美しい名じゃよ」
「………」
ここで、多分俺は「ありがとう」と一言告げれば良いのだろう。空気を読むのは得意だからそれくらいのことは分かる。だがそのとき俺は、そう返すことを迷ってしまった。
朔間さんは自由で美しい名前だと褒めてくれたが、俺の持っているあらゆるもののなかで、「羽風」という名ほど重たいものはなかった。
苗字とは、「家」の一員であるという証のようなものだ。俺にとっては羽風家の家族であるという証。厳格な家庭のなかで唯一ふらふらとしている放蕩息子に、その苗字は重すぎる。家族仲が良好と言えないから尚更だ。だから俺は、他人に苗字で呼ばれるのが好きじゃなかった。なるべくなら名前で呼んでほしいくらいだ。
そもそも、「家」の一員である証として先祖代々受け継がれてきた苗字を背負う重みならば、朔間さんだってよく知っているはずだ。社会の隅でひっそりと歴史を重ねてきた朔間一族の、しかも次期頭首たる彼ならば。
出会ったばかりの頃、俺を「羽風くん」と呼んでいた朔間さんが、いつの間にか自然と「薫くん」呼びに変えていたのだって、きっと俺の家族関係の不和を感じ取ったからに違いなかった。
初対面で小さな愚痴を零してしまった上、元々他人の洞察が得意な男だ。俺が「羽風」と呼ばれることが苦手な背景にまで頭を巡らせるのは簡単だっただろう。
だが、今ここで家に纏わる話を蒸し返したいわけではないし、名前を褒められて素直に喜べないわけを朔間さんに言うつもりもない。
「げろげろ〜。朔間さんに褒められたって全然嬉しくなーい」
少し逡巡した末、俺は至って「いつも通り」返すことにした。それにお互い、家庭事情にはあまり踏み込まれたくはないだろうから。藪を突いて蛇が出てくるのはごめんだ。
「おや、素直に褒めたつもりだったんじゃが」
「いやまあ、悪い気はしないけどさ? でもいきなりすぎて、いっつもユニット活動から逃げてる俺への皮肉かと思ったよ」
「まさか。近頃のお主は真面目に活動しておるし、我輩に文句はないわい」
「あー、まあ……最近ユニットも楽しいし」
「くく、そうかそうか」
俺の変化を見ているときの朔間さんは、いつも嬉しそうだ。しかしたまに、その笑顔が「愛し子」に向けるもののように思えてちょっとむかつくこともある。
そりゃあ不真面目だった奴が真面目になってきたら嬉しいだろうけど、朔間さんが俺を見つめる笑顔はなんだかそういうものじゃなくて……。身長も同じくらいで、歳が一つしか違わない男に向けるにしてはこちらがあまりにも幼子扱いをされていると感じるような、そんな微笑みだ。俺は、朔間さんにそんな顔を向けてほしいわけじゃない。
「……あのさあ、いいかげんそういう年下の子を慈しむみたいな顔やめてよね? 確かに俺はあんたより一つ下だけど、同学年なんだから」
「ああ……すまぬのう。我輩の悪い癖じゃ」
「まあ、それが朔間さんの性格なんだろうから、無理してでも今すぐ変えろだなんて思わないけど。でも、」
「でも?」
でも――せめて俺のことは対等な存在として扱ってよ。
俺はそう続けようとしたけれど、結局言葉にできなかった。
「……ううん、なんでもない」
だって今でさえ俺は、朔間さんの善意に甘えているようなものだ。
かねてから朔間さんは、俺が父や兄のような高圧的な態度が苦手なことを察して、それを匂わせないよう接してくれていた。元々家長となるべく育てられた朔間さんは、不真面目な俺に向けて父や兄のような態度をこれまでいくらでも取れただろう。しかしこの人は、そうしないでくれていた。
それに、本人の気質も相まって周りを庇護すべき「愛し子」として扱いがちなところを、俺に対しては、表面上は歳の差を感じさせないよう気安い態度で向き合ってくれているように思う。先程のように年下扱いが無意識に滲み出ることもまあまああるけれど、基本的には相棒として、特に俺の土壇場のパフォーマンス力を信頼してくれているのはわかっている。
しかしそこまで気を遣ってくれているのがわかっていても尚、俺は我慢できなかった。
他でもない朔間さんが、俺を『UNDEAD』に誘い『二枚看板』という名で絡めとって自分の横に並ばせたのに。それなのに何故、「片割れ」と呼ぶ俺にさえも、時には矛盾したように「愛し子」に向けるものと変わらないような態度で接してくるのか。そう思うと、どうしようもなく苛立ちを覚えてしまう。
……でも、何より苛立つのは俺自身に対してだ。俺が、俺自身が、朔間さんにそうさせてしまっていることが原因なのだから。
以前から感じていたことではあるのだが、近頃ユニット活動に前向きになればなるほど、朔間さんの隣に立つことの重圧は俺に突き刺さってきた。
俺は自分を器用なタイプだと思っているし、アイドルに向いているとも思うけれど、並の相手には容易く通じる小手先の誤魔化しが朔間さん相手にはまったく通用しない。そんなもので太刀打ちできるほど、あの人の輝きは弱くなかった。
現在はおじいちゃんぶっているけれど、かつてこの夢ノ咲でトップに君臨していた朔間零のパフォーマンスは依然として健在だ。あの頃の圧倒的なギラつきはなくても、その指先を一つ動かしただけでその場を支配してしまう。
しかしこれまでの俺は、その事実をあまり気にしてこなかった。どうせ卒業後は家業を引き継ぐのだから、期限付きのアイドル活動に関してはステージが見れる程度にこなしていれば良いと、気楽にやっていた。
実際、俺はそれでもステージに立てば難なくアイドルらしく振る舞えたし、他のメンバーと比較して別段見劣りするようなパフォーマンスだってしていなかった。そう、予定通りの進路に進むならば、ずっとこのままでも問題ないはずだったのだ。
けれど、ひとたび卒業後もアイドルを続ける「将来」を見据えてしまったら、気づかないわけにはいかなかった。「あの」朔間零の隣に立つのは、こんなにもプレッシャーが伴うものだったのかと。
つい最近までのらりくらりとアイドルをやってきた俺は、その「わかりきっていた事実」さえ、本質的には理解していなかった。今まで「なんとなく」で及第点以上を取ってきてしまえた俺には。
これまで目を逸らして向き合うことを避けていた大きな山が、いきなり真正面に現れたような、そんな感覚。
朔間さんと本当の意味で並び立つには、その天辺に辿り着かなければならないのだ。もしこの先も、この人の隣でアイドルをする未来があるとするならば。
俺は、焦燥に駆られていた。
「……?薫くん、どうしたんじゃ?」
しかし当の本人は、俺の葛藤などつゆ知らず、この綺麗な面に涼しげな笑みを浮かべるだけだ。そのくせ、まるで眩しいものを見るみたいに俺を見つめてくる。
今だってそうだった。
外はすっかり夜闇に支配され、俺達を照らすものは蛍光灯の白光だけ。それなのに朔間さんは、まるで俺が太陽の下に立っているみたいに、眩しそうに目を細めている。
「……なんでもないよ。この紙に書くことをはやく決めたいなって思ってただけ」
俺だって、UNDEADだ。
「夜闇に生きる魔物」を名乗る集団の一員。
無理矢理引き入れたのは、あんたなのに。
「薫くん」
まるで境界線を引くかのように、闇から光へと俺の背を押すように、朔間さんは柔らかな低音で、俺の名を呼ぶ。
「……なに? 朔間さん」
そこでようやく、俺達の視線が交わった。
暗闇を背に佇む朔間さんを見つめたまま、俺は目を逸らさなかった。しかし朔間さんはほんの一瞬で、するりと目線を下に移動させてしまう。朔間さんの深紅の瞳に映るのは、俺の進路希望調査票だけだ。
「……その白紙は、お主の持つ可能性そのものじゃよ。広大な選択肢が、お主の前には転がっておる」
その一点を見つめたまま、朔間さんは言葉を紡ぎ続ける。
「何を記入したって良い。どんな無謀で馬鹿げた夢だって、好きに書けば良い。お主のことを愛する者達は、きっとそれを否定しないはずじゃよ。我輩も、決して否定しないと誓おう。……薫くんの行き着く先をこんなにも近くで見届けられるなど、我輩はとても運が良い」
そのときの朔間さんの表情はといえば、自分は十分満ち足りている、とでも書いてあるような笑みを浮かべていた。
対して俺は、何も言葉を発することができないままその場に立ち尽くしていた。
朔間さんは、卒業後はアイドルの道を進むつもりがないのではないか――。かねてから首をもたげていた疑念が脳内で膨れ上がる。
もし、もしそうならば、朔間さんはこのままアイドルを引退して、彼の一族の人達が望む通りに次の頭首の座に就くつもりなのだろうか?あの朔間零が……いや、二枚看板の片割れが?
散々俺を隣に縛り付けた上、あんなに愛に満ちた眩いステージに俺を何度も立たせておいて、「居場所」になりつつあるこの場所を与えておいて……それなのに、本当に?
しかしなんにせよ、朔間さんの見据える未来のビジョンに俺がいないことは明白だった。俺を自身の隣に強制的に立たせたこの男は、自分勝手にもその座をあっけなく手放そうとしている。それが無性にむかついて、そしてなんだかやるせなかった。
思わず「朔間さん」と呼びかけようとしたけれど……結局また、俺はそれを呑み込んだ。今だけはそう呼びたくないのに、しかし俺は彼に対して「朔間さん」以外の呼び名を持ち得ない。
友人でもなければそれ以外でもなく、でも確かに同じユニットのメンバーで、共に「二枚看板」を背負っているけれど――俺達にはその「二枚看板」という括りだけが存在している状態だった。
そこには確かに双方への感情や関係があるはずなのに、未だそれに定義付けはなされない。互いに直視することもない。
俺と朔間さんの間には、互いに寄りかかりきれない、不可視の距離が存在していた。ステージ上でいくら背を預け合おうと、手を伸ばせば届く場所にいようと、今目の前にいるこの人は、こんなにも遠い。
しかし、それでも。
「……ああ、本当に喜ばしいことじゃのう」
彼がこぼしたその小さな呟きを、この耳はかろうじて掬い取ることができた。
感動の載ったその声色が、あまりに切なくて。俺はぎゅっ、と拳を握りしめた。
その「喜び」のなかには、ちゃんと朔間さん自身は存在してるの?
己を勘定に入れないまま、自分以外の他人の明るく自由な未来を願って、想像して……それだけでこの男が心からの幸福を感じているとするならば――そんなに哀しいことはなかった。
きっとそれは、ハッピーエンドとは程遠い。
俺達が目指してきたのは、みんなが笑顔になれるようなハッピーエンドの物語じゃなかったの?……ねえ、朔間さん。
そのときの俺は、朔間さんの手を取って果てが見えないほどの遠くへと連れ出してあげたい衝動にかられていた。
けれど、未だこの先の未来を確定できない今の俺ではその手は掴むことはできなくて。
俺は、朔間さんと対等な存在になりたい。
――ただ、それだけを考えていた。
◇
大型番組の収録が重なる八月の終盤が今年も無事に過ぎ去り、もう季節は秋へと移行しつつある。
気温は依然として夏日と変わらないというのに、ファッション誌で着るコーデはすっかり秋めいていて、時の流れの早さに驚くばかりだ。
本日も無事にレギュラー番組の収録と、来月中旬あたりにウェブ雑誌に載るインタビューを終え、残るはUNDEADの冠ラジオ番組の収録だけだ。見知ったスタッフとの簡単な打ち合わせを終えてブースに入ると、すぐさま収録が開始された。
「こんばんは、UNDEADの夜闇ラジオ! 今回の担当は俺、羽風薫と〜?」
「朔間零でお送りするぞい。皆の衆、今宵もどうか楽しんでいっておくれ」
UNDEADのメンバーが二人ずつ持ち回りで担当するこのラジオ。今回は俺と零くんが当番だった。
夜闇ラジオと冠するだけあって、放送時間的に深夜ではあるのだが、リアタイで聴けなくても今はアプリがあれば見逃し配信で聴くことができる。聴取率も安定しており、もうすぐ番組開始から二周年を迎えるところだ。
「そういえば、零くんとの収録久しぶりじゃない?」
「ふむ……。前回と前々回は晃牙とで、その前はアドニスくんとじゃったから……だいたい三ヶ月ぶりくらいかの?」
「わあ、結構経ったね〜。まあ理由としては、俺がちょうどドラマの撮影で地方に行ってたからなんだけど……」
「ああ、確か北九州じゃったっけ?」
「そうそう!今日発表になったよね? ミステリーもののドラマで、秋から放送になりまーす。みんな見てねー?」
「我輩も楽しみにしてるぞい」
「お、ありがと。絶対見てよね?」
「勿論じゃとも。今日は冒頭から良いお知らせもできて幸先が良いのう」
「うんうん。じゃあ早速曲紹介いこっか。最初は、先月発売したばかりのこの曲――」
三十分にも満たない番組だが、二人でラリーのような会話をしていればまあまあ疲れてくる。だからこそ、小まめにミネラルウォーターを口に含み喉を潤すことは欠かせない。枯れた声で喋ったら、ファンを不安にさせてしまう。
曲が流れている間に喉のケアをしつつ真正面を向くと、ヘッドホンから流れる新曲を聴いていた零くんが嬉しそうに「良い出来じゃな」と呟いた。そうだね、と俺も同意する。
今流しているのは、先月発売したばかりのUNDEADの新曲だ。アドニスくんが作詞し晃牙くんが作曲したこの曲は、零くんと旧知の仲である有名ミュージシャンの手によって編曲され、先月のヒットチャート上位にランクインし続けた。
可愛い後輩二人が毎日遅くまで話し合って作り上げていく様子を間近で見てきただけあって、初めて歌ったときは俺も感慨深かった。
それに、贔屓目でなく本当に良い曲ができたと思う。アドニスくんが書いた力強くも優しさを感じる歌詞と、晃牙くんの作った激しいメロディーが合わさって、既存のUNDEADらしさを踏襲しつつもこれまでになかった新しいテイストが生まれた。俺達にとっても素直にお気に入りの一曲だ。おそらく今年の下半期は、この曲を何度も歌っていくことになるはずだ。
季節はまだ秋に差し掛かったばかりだが、どうせあっという間に冬がやってくる。今年もきっと年末の大型番組収録ラッシュで騒がしくしているうちに、いつの間にか新年を迎えているのだろう。
アイドルになってから時間の流れが一気にはやくなったような気がするが、そのように目まぐるしく変化していく日々が、俺はそんなに嫌いじゃなかった。
「では早速、嬢ちゃん達から寄せられたお便りを読んでいこうかのう」
曲が終わり、零くんがふつおたのコーナーを進めていく。
「ええと……これは、ラジオネーム『丑三つ時就寝』ちゃんからのメールじゃな」
「えっ、午前二時頃に寝てるってこと?結構遅めだね」
「ふむ、そうじゃなあ」
「うーん……体質とかお仕事関係でもない限り、もっと早めに寝た方が良いんじゃないかな〜?」
すると、目の前に座る零くんが口元に笑みを浮かべた。
「そうそう、我輩みたいな『吸血鬼』でもない限りはな」
まあ、零くんが昼間が不得意なのは朔間の遺伝による「体質」で――間違っても「吸血鬼」だから、なんてことはないのだけど。
その飛び抜けて高い能力と類稀なる美貌のおかげで、長らく「みんなと同じ人間」にカウントされてこなかったらしいこの人は、当たり前に「人間扱い」されることを喜ぶ傾向にあった。今だって、俺が誰を思い浮かべて「体質」と言ったのかを察していて、だからこそ喜んでいるのだろう。
アイドルとしてはノリノリで吸血鬼キャラをやってきている零くんだけど、やっぱりそういうところは変わらない。きっと零くんにとっては、いつまで経っても「人間」としてカウントされることが新鮮な体験なのだろう。でもそういう体験を一つ一つ積み重ねて、いつか零くんにとって新鮮なものではなく「当たり前」になったら良いな、と思う。
……と、そんなことをぼんやりと考えていると、メールを目でなぞっていた零くんが「おや、」と呟いた。
「今回のメールは何か相談事のようじゃな」
「あ、そうなの?」
零くんが読み上げるのに合わせて、俺もメール内容を目で追っていく。
『零様、薫くんこんばんは。私は今高校三年生なのですが、まだ進路が決まっていません。周りがどんどん目標に向かうなか、取り残された気がして不安になります。親と喧嘩することも増えてしまい、学校でも家でも落ち着けず、アンデの曲やライブ映像を見ているときだけ安心できます。』
……どうやらかなり真面目な相談のようだ。
しかしメール内容を見るに、もしかしたらこの子のラジオネームの由来は夜更かしなどではなく、ストレスからくる不眠が原因なのかもしれない。俺も高三の頃、トリックスターが起こした革命によって活気づいた学校も、厳しくお堅い我が家も居心地が悪く、ストレスで毎日睡眠不足に陥っていたからよくわかる。
そのときの辛さを未だに覚えているからこそ、俺はこのメールをくれた子が心配になってきた。
「『――過去のインタビューで、二枚看板のお二人も進路を決めるまで迷われたと仰っていたので、何かアドバイスが頂けたらと思い、メールさせて頂きました。これからもUNDEADを応援しています。』……とのことじゃ」
読み終えた零くんが「メールありがとう」と言うのに続いて、俺も「ありがとう」と付け添えた。
それにしても、どう答えるのが正解か。
頭をフル回転させて選び取るべき言葉を脳内から見つけ出していく。
ちら、と前を見れば、零くんもやや神妙な面持ちでメールの文面に目を落としていた。俺と同じように、かけるべき言葉を探しているのだろう。しかし二人して黙っているわけにもいかないので、俺は軽いトーンを意識して話を切り出した。
「高校三年生かあ、大変な時期だよね〜」
「うむ、そうじゃのう。それにしても薫くん」
「ん、なに?」
「思ったんじゃけど……我輩達って、こういった相談だと反面教師にしかならなくない?」
「あー……だよね。それ今俺も思ってた」
苦笑いで高三の春頃を思い出す。
俺達は卒業を目前にしたそのときまで、進路を巡ってこじらせにこじらせまくっていたユニットの一員……というか、元凶なのだ。俺というより主に零くんが、だが。
一応ホワイトデーになぞらえて、後輩から卒業する先輩に「お返し」するイベントであるはずの返礼祭で、何故かライブ対決をすることでようやく進退が決したのが俺達UNDEADだ。思い返すと、はた迷惑な上に遅すぎることこの上ない。まあ、それはそれで良い思い出ではあるのだけど。
零くんも同じことを考えているのか、珍しく歯切れが悪い。
「……嬢ちゃんには悪いが、我輩の体験は参考にできるようなものではないのじゃ」
「うん、まあ、それは俺もだけど」
零くんのことを思い出しておいて、自分だけ棚に上げておくわけにはいかない。俺だって長らく進路を迷っていたうちの一人だったのだから。
元々最後のモラトリアムを謳歌するつもりで夢ノ咲に入学した俺は、当初は予定通り進学をするつもりでいた。高三の夏頃だって、大学の資料を眺めて「羽風さん家の子が歩む普通のルート」に戻る準備もしていたし、実際そうするつもりだった。まだそのときは、親からの勘当を覚悟してまでアイドルを選ぼうとは思っていなかったのだ。
しかし秋から冬にかけてユニットのメンバーやクラスメイトとの関係性が良くなっていくにつれ、俺のなかにある迷いはどんどん大きくなって――クリスマスをやや過ぎた頃、ようやく俺は家族を説得しつつ、最終的には勘当覚悟でアイドルの道に進むことを決心した。
元よりその迷いを見抜かれていた零くんには、スキャンダルをでっち上げられて女性関係についてチクリと刺される等、色々されたけれど、まあそれも一つの契機となったのは間違いない。
ただこう振り返ると、俺達は「こんな風にはならないようにしようね」という例しか提示できないことを身にしみて実感するが……だからこそ伝えられることはあるはずだ。
「ま、そんな反面教師にすべき俺達だからできるアドバイスをしようよ」
「うむ、そうじゃな。では我輩から言おうか」
すると、流れているBGMが変わった。いつもは軽快な音楽が流れているのだが、今回は相談内容に寄り添ってか、穏やかな曲調が選択されている。
「我輩から言えることは、悩むことを投げやりしてはいかん、ということじゃろうか。我輩はな、アイドルという天職に辿り着けた今、悩んだ時間は決して無駄ではなかったと心から思っておるんじゃよ。むしろあの苦悩した日々があったからこそ、今ここに居ると言える」
零くんのその言葉は、俺に刺さった。だって、俺も同じことを考えていた。
高校時代の「反抗期」と形容される期間を思い返すと今となっては恥ずかしさを感じるけれど――それでもあの時間は、十代の俺にとって必要なものだったと感じているから。
今でこそ父や兄、姉が俺を大切に思ってくれていたことはわかるが、俺は長らくその愛を真っ直ぐ受け取ることが出来なかった。当時の俺が「愛」の存在を確かめられたのは、俺を可愛がり、大好きだと、大切だと囁いてくれた、記憶にある優しくて綺麗な母からだけで。
だから俺は、遊んでいた女の子達や転校生ちゃんに母の面影を追い求めていた。しかし当然ながら彼女達は母ではなくて。けれど、俺と話をしてころころと可愛く笑って甘い言葉をくれる女の子達を見ていると、なんだか自分が求められている、必要とされている気がして酷く安心した。堅物な父はそんなこと言ってはくれなかったし、仕事ばかりに精を出して、構われることさえ稀だったから。勉学の成績が優秀であれば褒めてもらえたから、中学までの俺は「良い子」にしていたけれど、寂しさは消えないままだった。
あの頃の俺は、俺を愛して必要としてくれる人がずっと…ずっと欲しかったのだ。
だから、あの「反抗期」は、決められた人生における束の間の自由時間と最上の愛を手にするための、俺なりの[[rb:抵抗> レジスタンス]]だった。
そんな日々はストレスで苦しかったけれど、どれ一つとして無駄だったと切り捨てられるものじゃなくて……俺にとっては切実な行動だった。しんどくてつらかったけど、あのときがなかったら今の俺はいないから。あの時間があったからこそ、俺を愛してくれていた家族の存在に気づくことができたし、大切なUNDEADのみんなに出会えた。
だから今では悩んだ時間も含め、全て必要な時間だった――そう、本気で思っている。
全部、無駄なんかじゃなかったのだ。
その考え方が零くんも「同じ」であることが分かって、俺は笑った。共通点があると「同じ」人間だと思えて安心するし、何より嬉しいから。
「……? 何を笑っておるのじゃ?」
「あ、いや、今ではアイドルじゃない朔間零なんて考えらんないな〜なんて思って……?」
「ふむ、確かにのう……。しかし隠居でもしようと思っていたあの頃の我輩にとっては、アイドルを続ける方が考えられない未来じゃったから……くく、人生とは不思議なものじゃな」
「そうだねぇ」
咄嗟の誤魔化しにしては、うまく話を広げられたことに安堵する。気が緩んだ俺は、なんとなく前々から思っていたことを考えるより先に口にしていた。
「……けどさ。零くんみたいなスター、隠居しようとしても結局誰も放っておかなかったんじゃない? 絶対みんな必死に止めたよ。だって、あんたがこの世界に居なきゃ誰がステージに立つの?って感じじゃん」
俺が素直な気持ちでそう言うと、零くんが長い睫毛に縁取られた瞼をぱちぱちと瞬かせた。
「……それを薫くんが言うのか?」
「え?」
「だって。他でもない薫くんが、我輩を誘ってくれたんじゃろう? 卒業後も共にアイドルをしないか、と。忘れたとは言わせぬぞ」
「……いや、まあ、言ったけどさあ……?」
なんだか急に室内の温度が上がった気がして、俺は手で顔をパタパタ煽った。まさかこんな方向に話が流れるとは思わず、頬が熱くなる。しかもその場の雰囲気を汲んでか、スタッフが去年リリースしたラブバラードを流し始めて、よりいっそう居た堪れない。
そんななか真正面にいる零くんが満面の笑みでにこにこしているので、机の下で足を軽く小突いてやった。
「くく、照れた薫くんは可愛らしいのう」
「もーからかうのはやめて! さっさと次いこ! 次は俺が話す番ね!」
「はいはいどうぞ」
「よし。俺、真面目に話すからね」
「勿論じゃとも」
「……じゃあ、話すよ?」
ごほん、と軽く咳をして、俺は口を開いた。タイミング良くBGMが変わり、ラブバラードが「ラブ」ではないバラードに変わる。
「……えーっと、俺はね? 自分の人生ってずっと決まってると思ってたんだ。多分このラジオを聞いてるなかにもそう思ってる人がいるんじゃない? 人それぞれ、家庭によって『当たり前』は違うと思うけど……俺の場合は進学して、就職して、結婚して、みたいな既定路線があったんだよね」
先程の零くんとちょっと重なるけれど、俺達は少しだけ境遇が似ていた。
そこそこ大きな家に生まれて、このまま一生定められた人生を歩むものだと半ば諦めていたところとか、たった一本道の人生しか目に入っていなかったところとか。
「……それ以外の人生なんて、考えたことなかった。だからかな? 中学までそこそこ真面目くんだった俺は、アイドル育成学校に入学することで、反抗ってやつをやってみたわけ」
俺にとって高校生活は、束の間の、そして最後のモラトリアムのつもりだった。一見で不真面目で軽薄なヤツだと思われる外見と、言動。そういう不真面目の皮を被って、自分を形作った。
初めてその姿を見たとき、驚きのあまり固まっていた家族の顔を思い出す。案の定、父は酷く怒った。夢ノ咲に入学することを決めたときよりずっと。そうしてますます溝は深まり、家に居づらくなって、家庭内で孤立した。
唯一の癒しは女の子だけ。ライブハウスの経営をしながら、そこで愛を求めて女の子と遊ぶ日々を繰り返した。トリックスターがまだ結成されておらず、さらに天祥院くんが革命する前の腐り切っていた夢ノ咲学院で、俺はそれを構成する一つのパーツだった。
しかし。そんな毎日を卒業するまで続けていくものだと思っていたある日、強烈な出会いによって景色が突然変わった。
ギラギラと輝くステージを飛び降りて俺の元までやってきたその男――朔間零が、俺の人生に介入してきたことを機に。
その男は何故か俺に親しげに話しかけてきただけでなく、当時の新生徒会…つまり天祥院くんの改革によって設立されたユニット制度の内側に俺を強引に引き込み、さらに俺を自身の隣に立たせ、「二枚看板」として売り出した。
まあ、学院内で生徒会が発足させたユニット制度は、一応アイドル科に所属していた俺には結構面倒な仕組みで。どうせ一年とちょっと所属するだけだし、メンバーも個人主義的で制約もあまりないからと、流されるままに入ってしまったのは俺だけど。
しかしほんの一瞬の邂逅だと思ったそれは、いつしか人生を一変させる出会いとなった。
「――そしたらさ、なんでか知らないうちに有名人だったこの人に目ぇつけられちゃって。UNDEADに入れられて……最初は散々だったけど、いつの間にか俺もアイドルが楽しくなっちゃって、卒業後もこの仕事をしたいな〜って考えるようになったんだよね」
「おや。お主、そんなことを思っていたのか」
「そうだよ? だって零くんをこの人生に誘ったのは俺だけど、俺をアイドルの道に引きずり込んだのは零くんでしょ?」
そう言って零くんを見ると、ぽかんと口を開けて固まっていた。色素の薄いその肌はじわじわと薄い赤色に染まっている。
「あれ、照れてるの? 可愛いね?」
いつも冷静で滅多に顔色を変えたりしないこの人が、俺の一言で振り回されていると思うとなんだか愉快だった。
「……薫くん、先程の仕返しをしておるじゃろ」
「当ったり〜。ま、これでおあいこね」
と、お喋りはここまでにして。俺は話を続けた。
「でもアイドルになるのを決めたはいいけど、俺がアイドルになるなんて家族は絶対に反対すると思ってた。なのにさ、縁を切られるのを覚悟で話し合ったら、意外と応援してくれて……俺にはそれが、青天の霹靂だった。まさか、肯定してもらえるとは思ってなかったから」
そんな経験がある俺が伝えられること――。
「……だからさ。もし今、君にほんの少しでも挑戦したい未来があるなら……家族とか先生とか、誰かに相談してみたらどうかな? 親御さんは君を心配して不安になってるからキツく言っちゃってるのかもしれないし、『どうしても決められない』ってちゃんと伝えたら、案外一緒に考えてくれるかも。それにきっと、君の力になりたいと思ってる人はいるはずだから」
零くんが頷いて、そこに付け加える。
「我輩達もその一人じゃよ」
「そうそう、だから今自分が孤独だと思ったら、俺達を思い出して。俺達の歌を聴いてほしい」
膝を抱えて泣いている誰かのために、どこにも見つけてもらえない誰かのために、何か叫びたい誰かのために、俺達を必要としてくれる誰かのために――俺達は、UNDEADは歌い続けているのだから。
「まあ勿論、勉強に励むのも大事じゃぞ? 学びというのはいつまで経っても自身の財産となるものじゃから」
「うん、そうだね。俺が言えることでもないけど、授業はきちんと聞いておいたほうがいいよ」
「うっ、それ我輩も言えぬやつ…」
すると、このタイミングでスタッフから次のコーナーへ進むよう指示が出た。
「……さて、我輩達の助言はこれくらいじゃろうか。少しでもお主や、今を悩んでいる者達の助けになれば嬉しい。良い方に向かうことを祈っておるよ」
「応援してるからね」
結局この相談に言葉を尽くしてしまって、一通しかメールが読めなかった。少しばかり熱を入れすぎたかもしれない。
「……結構長い尺使っちゃったね?」
反省を込めてそう言うと、零くんは微笑んだ。
「真面目に相談に乗ったんじゃ。いつもふざけてばかりじゃから、たまにはこういう回もいいじゃろて」
「……ま、それもそっか。じゃあここで一曲。この歌がみんなに届きますように――『DESTRUCTION ROAD』」
◇
「はー、今日の仕事おわり! 疲れたぁ……」
「よしよし、頑張ったのう」
「零くんもね? お疲れさま」
収録が終わり、寮に向かう道すがら、俺達は二人並んで歩いていた。まだ少々蒸し暑いが、夜の散歩だと思えばちょうど良い。俺達は同じくらいの背丈なだけあって歩幅に大差はなく、意識せずとも隣に並ぶ。
今夜は空気が澄んでいて、月が綺麗に見える。だがもったいないことに、俺の目線はゆっくり下へと向かっていくばかりだ。
「あのさ」
「ん?」
「……俺、本当にあの答えで良かったのかな」
「それは……先程のメールのことかや?」
「うん、そう」
「薫くんは、どうしてそう思うんじゃ?」
零くんは聡いから、きっと俺が今考えていることなんてある程度わかっているだろう。それでも俺の口から言葉を引き出すために優しく尋ねてくれていた。
「もし、さ。高校生のときの俺があのアドバイスを聞いてたらちゃんと聞き入れたかな〜?って思ったんだよね」
「あのアドバイス…とは、家族や教師に相談してみれば良いというアレかや? 至極真っ当だったと思うが」
「そうなんだけど……。ほら、誰かと…ましてや微妙な関係の家族と話し合うのって結構勇気がいるでしょ?」
実際高校生のときの俺は、家族と話し合いなんてする気がなかった。険悪なままずるずると時間は経過していき、家のなかは三年近く冷戦状態だった。
もし俺がその状況下で「家族と話し合えば?」なんて簡単に言われていたら、ふざけるなと思っただろう。だってあの頃の俺は、父や兄が俺の悩みと真摯に向き合ってくれたり、俺に理解を示してくれるなんて、露ほども思っていなかった。いつも淡々と叱られてばかりで、話し合いなんてできるはずないと思っていたのだ。それに、誰かに自分のことを「理解されない」というのは……想像以上に辛い。
「……俺ってさ、なんだかんだ家族に恵まれてるじゃん?」
俺が冗談混じりにそう言うと、少し間が空いて「薫くんがそう思うのなら、そうなんじゃろう」と返ってきた。ああ、この人が傍にいてくれて良かったな、と思う。家が裕福か、両親が揃っているか、仲は良好か、とかそういう一般的な尺度では測れない、俺自身が持つ尺度を尊重してくれていると感じる。零くんのこういうところを、俺は尊敬していた。
俺は、俺自身を恵まれていると思っている。
大好きだった母はすでにこの世を去ってしまったけれど、裕福な家庭に生まれて経済面で不自由したことはなく、そこそこなんでもこなせるくらいには器用で、仕事は概ね順調。家族とも現在は良好な関係を築けており、皆が俺のアイドル活動を応援し、サポートしてくれているのだから。
「でも、家族だからって良い関係を築けるわけじゃないよね。血を分け合ったからって、結婚したからって、なんでもかんでも理解し合えるわけじゃない。パズルのピースみたいにかっちりハマれたら良いんだけど……そんなの理想でしかない、でしょ?」
俺は家族が好きで、愛している。
それは俺にとって幸福なことで、明日を生きるパワーとなっているけれど、だからといって俺達はパズルのピースがピタッとハマるように理解しあうような関係ではないのだ。
俺は、うちのお堅くて古い価値観を捨てきれない部分は未だに少し苦手だ。和解を経た今でもそういった意識は依然としてある。関係が改善しても、問題点がなくなってすべてが丸く収まるわけではない。互いに話し合ったり妥協したりして、折り合いをつけていく作業が必要なのだ。
実際俺は、家を出て寮に入ってから父や兄の干渉も少なくなったことで随分と息がしやすくなった。「反抗期」を脱したことも理由のひとつだが、大部分は家族の「苦手な部分」を気にしすぎることがなくなったからだ。俺の場合、そのくらいの距離がちょうど良かったのだと家を出てからようやく分かった。
一緒に住むことも嫌ではないのだけど、俺にはアイドルという別職種で、たまに帰省して、共に食事をして、何気ない話題で笑うような――そんな距離感が一番良い。
愛しているからこそ大事にしたいし、互いに笑い合いたい。
この社会は、現代になっても未だ血縁が重要視されていて、家族というつながりは強固なものだけれど、人間関係には当然のように相性は存在している。家族だから必ず分かり合える、なんてことはないのだ。
……それに。たとえ愛があったとしても、その愛はときに受け取る側にとっては暴力でしかない場合だってある。愛と暴力は紙一重だ。愛を愛として成立させるのは、とても難しい。
「……だから、あの子に気軽に『相談してみれば?』って言ってよかったのか、考えちゃって……。もしあのメールをくれた子の家族が無理解な人達だったら? 俺はもしかしてもっと苦しくするアドバイスをしちゃったかもしれないな〜……なんて、」
このモヤモヤ感は、俺が過去の自分と相談者の子の環境を重ねて見ているせいでうまれてしまったものだ。ちょっとだけ心に引っかかっている程度の。だからあまり重く捉えられたくなくて笑って誤魔化そうとしたけれど、零くんがそんな簡単に誤魔化されてくれるわけがなくて。
「……薫くんは、出来ることをしたと思うぞい。お主はいつも他者のために心を砕き、言葉を尽くしておる。一つ一つを深く考えられるお主は優しい子じゃ。……しかし、あまり自分や周りを重ねすぎることはない」
あたたかなトーンで語られたその言葉は、丁寧でとても優しい。俺の抱える荷物を、少しでも軽くしようとしてくれているような、柔らかな物言いだった。
持ちつ持たれつでやってる俺達だから、あまりそちら側ばかりに持たれてしまうと自分の頼りなさに落ち込んでしまいそうになるけれど……でもやっぱり、頼れる相棒の存在がありがたかった。その言葉一つで心が少し軽くなったような気がする。
――だからこそ、俺はこれからの俺が持てる荷物を持つ努力をしなければ。
「ありがと。……でもやっぱり、もう少し考えてみるよ。ファンのみんなにはいつだってハッピーでいてもらいたいからさ」
俺は、俺が振り撒いた愛で自分もファンもみんなが幸せになれるような、そんなアイドルでいたいと思ってる。
俺の歌声で、ダンスで、トークで、誰もが笑顔になれるようなアイドルになりたい。
ファンは多様だ。
育った環境、現在の境遇、心のキャパシティ、趣味嗜好。それぞれ別個に辿ってきた歩みがあって、そんなバラバラな人生を歩んできた個人が、俺らに会うために一つの会場に集まってくれる。
俺は、そんな人達を一人だって取りこぼしたくなかった。愛してくれた分だけ……ううん、それを何倍もの愛にして返したい。
羽風薫という『アイドル』は、無性の愛を振り撒く華やかなお花畑のような存在でも構わない。むしろ、そんなアイドルでいたいと思う。ファンのみんなには、俺のことを想うときくらい難しいことを考えないで、悩みなんて忘れて、楽しいことだけを考えてほしいから。
けれど、そんなアイドルでいるためには、世界の上澄みしか知らない、お花畑のような思考でいてはきっとダメなのだ。
だから、俺は考え続けなければならない。
高校生の頃の俺みたいな、真っ暗闇のなか道に迷って迷子になっているファンの心を優しく掬い取るために。特に俺達――UNDEADのようにロックを奏でるユニットのファンは、何かに反抗したかったり、大声で叫びたいことがある子が多いのだ。そういうファンも含めて、寄り添えるアイドルでいたい。夜闇の魔物を名乗る俺達が、闇のなかでだって笑顔を咲かせてあげたい。
現実問題それを成し遂げることは難しくても、やってみようと思わなければ、それは永久に達成できない夢物語のままだ。
UNDEAD……不死身を語る俺達なら、いつか叶えられると信じたい。
すると、隣から笑う気配がした。
「ふふ。そういったところは薫くんの美点じゃな。お主は自由気ままに生きているようで、その実、人を愛することにどこまでも真摯じゃ。好ましく思うよ。薫くんの大ファンとしても、相棒としてもな」
その赤い瞳が優しく細められるのを、俺は横目で見つめた。なんだかくすぐったい気持ちになる。
俺が人を愛するための努力は、ファンのためだけじゃなくて、あんたの隣にふさわしい自分でいるための努力でもあるんだけど――。
しかし本人に向かってそんなことを言えるわけもなく、俺はただ静かに空を見上げた。都会の光に掻き消されて星は殆ど見えないが、地面からは俺達の重なった足音が響いている。今はそれだけで良かった。
「……ありがとね。零くん」
そう告げると、零くんは何が?とでも言いたげな目でこちらを見た。
「色々お礼したいことはあるんだけど……」
目前には星奏館が迫っている。少しだけ足の歩みを遅くすると、零くんもそのペースに合わせてくれた。
「零くんは覚えないかもしれないけど……。ずっと前にあんた、羽風薫って名前が自由で綺麗って言ってくれんだ。そのときは少し、複雑だったけど」
「………」
「だけど、今なら素直に喜べるよ。……ありがと。これはあのとき言えなかったお礼ね」
家族とのわだかまりもなくなり、「羽風さん家の末っ子」という側面より「UNDEADの羽風薫」という認識が増えた今、羽風の名を語ることにもう屈託はない。それは、零くんとの出会いがあったからで……俺にとっては重大な変化だった。俺は零くんに、ずっとお礼を言いたかった。今、伝えられて良かったと思う。
ちょうどそのタイミングで、俺達は寮のエントランスに到着した。じわじわと恥ずかしさが込み上げていた俺は、これ幸いと「じゃあ、また明日」とでも言って部屋に帰るつもりでいたのだけど――そう言おうとする前に、何故か零くんに腕を掴まれた。
「うわっ!え、何!?」
ずるずると連れられていった先は共有ルームだった。昼夜問わず大抵誰かしらいることが多いのに、珍しく今日は誰もいない。数ユニットで遠方にバラエティのロケに行く、と先日誰かが話していた気がしたが、あれは今日だったのだろうか。
腕を掴んでいる手を振り払って離れるわけにもいかず、ソファに腰を下ろした零くんの隣に並んで座ると、俺らの体重でクッションが深く沈んだ。
「あのー……どうしたの?」
「……我輩も、お礼返しをしようと思って」
「へ?」
俺の腕を掴むのをやめた零くんの手が太腿の上に落ち着いた。その握られた拳を見て、わずかに緊張が込み上げる。だって、改めて返礼されるようなことをした覚えが、俺にはない。
「薫くん。我輩もな、ずっと自分の名が苦手だった……。苦手というか、恐れておったんじゃな」
顔を正面の壁向けたまま、零くんはぽつりとそう言った。思ってもいなかった告白に驚く。名前の話。零くんからそんなこと、聞いたことがない。
「えっと、なんで? ……朔間だから?」
「いや、どちらかというと、零という名前の方かのう」
俺はますますわからなくなった。
吸血鬼を祖と信じ、社会の隅でひっそりと生きる「朔間」家の次期頭首である零くんが、俺と同じような理由――家名の重圧で苗字を苦手とするのはわかる。だがしかし「零」という名前に、どのような屈託があるというのか。
俺が考え込んでいると、零くんが訥々と語り始めた。
「幼い頃、我輩は夜の退屈しのぎにとずっと書物を読み耽っておった。しかし知識を吸収すればするほど、宇宙に比べて途方もなく小さな己の存在はいつ掻き消えてもおかしくないと……強迫観念ともいえる思考に絡め取られていった」
「………」
「零という字は『無』じゃ。名が我輩自身を表している気がして、それが……酷く恐ろしかった」
その語りがあまりに静かで、まだ夏を引きずる秋の夜は蒸し暑いというのに、零くんが寒そうに見えた。だから俺は零くんの握り拳の上に自分の手を重ねて、ぎゅっと握った。零くんの手は少し冷たくて、なんとか俺の体温を移してあげたくなる。
「……だから我輩は、強大な自分を目指した。何にでも手を出し、習得して極め、無にならないようにと……懸命に虚勢を張って生きてきた」
「……そっか」
――零くんが俺の荷物を持ってくれるなら、俺は零くんに温度を分けてあげたい。
「すごく頑張ってきたんだね」
すると、零くんが身体を俺の方に向けた。
思わず俺も横向きになると、二人して向き合う形になる。だんだんと手のなかにある握り拳が弛緩していくのがわかった。
「ふふ、そうじゃな。我輩、頑張ってきたんじゃよ」
目の前にある綺麗な顔には涙などひと粒たりとも浮かんでいないというのに、なんだか俺には、それが泣き笑いの表情に見えた。
「……少なくとも。あんたを見てなんにもないなんて思う人はいないよ。実際、俺が今手を握ってる零くんは、たくさんのものを持ってる」
「うん」
「零くんの零は、なんにもないんじゃなくて、なんでもあるからこその無限の零でしょ? みんなそう思ってるよ。だって、あんたが頑張って獲得してきたものは全部あんたが持ってるじゃん」
零くんがなにもない無だとするなら、誰が何を持っていると言うのだ。
確かにこの人は天才だ。生まれたときに神様からギフトを授けられている。しかし、だからといってその努力を、頑張りを、無視されて良いわけがない。それは本人にさえもだ。
零くんが無になるまいと必死になって追い求めた「朔間零」という存在は、確かにここにある。天性の才能も、努力で獲得してきた知識や技術も、すべて零くんを形作るもので、何一つとして無に帰されて良いものじゃない。
「それにさ、今は……。ううん、きっと昔から、零くんの周りにはたくさんの人がいるでしょ?あんたを愛してる人が。凛月くんも、晃牙くんも、アドニスくんも、ファンのみんなだってそう。零くんが何もないなんて言ったら、みんな悲しむよ」
そう言うと、零くんが真剣な顔でこちらを見てきた。重ねていた手が、いつの間にか指の隙間を縫う形で絡め取られている。俺は驚いて、身を固くした。
「な、何?もしかしてもう吹っ切れた悩みだった?なら今更俺がアツくなることでもないか……はは……」
しかし、零くんは黙ったままだ。至近距離で何も言わない真顔の美形を見るのは、迫力がある。ちょっと怖い。
「れ、零くん?」
「……薫くんは?」
「え?」
「薫くんも、我輩のことを愛してくれているのかや?」
俺は思わず「そんなこと真顔で聞かないでほしい」と言いかけて、一気に脱力した。
しかし零くんにとっては大切な確認なのかもしれないから、適当にあしらうわけにもいかない。だが、カメラの前だったりファンに向けてだったりすれば息をするように告げられる「愛してる」を、生活感あふれる寮内で、しかも零くんに言うのはなかなかハードルが高い。
「……好きじゃなかったら、一緒にアイドルしてないよ」
頑張って捻り出した俺の言葉に、案の定零くんが突っ込んできた。
「おや、そこは『愛してる』と言ってくれぬのか?」
「………」
「ふふ、まあよい。お主を一番近くで見ているのは我輩じゃし、『確かなこと』はわかっておるよ。……人生は長く、時間はまだある。お主とはこの先もずっと共にいるのじゃから、またいずれ機会もあるじゃろうて」
「え? それってどういう……」
俺は咄嗟にそう聞き返そうとして、言葉を失くした。
すぐ近くにある零くんの宝石みたいに煌めく深紅の瞳が、燃えるように渦巻いているのを見てしまったから。その美しさに射抜かれて、俺はただただ見惚れた。あまりに綺麗なものを見ると、人はどうしていいかわからなくなるなるらしい。
「……朔間零という人間はな、ずっとずっと己と対等でいてくれる者が欲しかった。だから薫くんが我輩を『零』という名で呼んでくれたとき、心が震えるほど嬉しかった。共に人生を旅する相手がいることがいることを、ようやく実感できたのじゃろうなあ……」
美しさを引き出すよう計算され尽くした照明でもない、近所の電気屋で買えるライトに照らされているだけだというのに、目の前にいるこの人は、まるで美術館の一番良いところに飾られている美術品のように美しかった。
でも俺は、その途方もない美しさを持つこの人が、神様のような万能の存在ではない、助け合いを必要としながら生きていく人間だと知っている。
「薫くん。お主が……お主だからこそ、我輩が永らく求めていた存在になってくれたんじゃ。出会った頃には想像できなかったが……常に変化し続ける人間らしい輝きに溢れたお主が、この運命を繋げてくれたんじゃ。我輩と出会ってくれて――ありがとう」
そう告げる零くんの微笑みがあまりに綺麗で嬉しそうで、俺はなんだか少し泣きそうになってしまった。
自分の体や心のなかから、色んな感情が濁流のように外に流れ出そうになるのを必死に押し留める。
……そんなの、俺だってそうなのに。
零くんと出会わなかった人生だって、アイドルにならなかった人生だって、間違いなく俺にはあった。おそらくそっちの人生だったら数年後に無事にステージに立てているかなんて心配はしなくていいし、適度に安定していて、平穏な生活ができただろう。
でも俺は、この道を選んだことを後悔したことはない。だってこんなにも毎日が楽しくて、幸せで、満ち足りている。
俺だってずっと探してたんだ。
俺のことを大切に愛してくれる人を。
今の俺には、家族がいて、友人がいて、UNDEADがあって――零くんがいる。
今俺が大切にしたいと思う人達のなかには、零くんとの出会いがあったからこそ繋がれた人達が沢山いる。
かつて燻っていた俺に変化をもたらしてくれたのは、紛れもなく零くんだ。初めの頃はちょっと…いや、かなり強引に。たまに厳しく、それでも優しく、愛情深く見守ってくれていた。
当時の俺は、大人が子どもを相手にするようなその態度が気に入らなくて、何度も反発したけれど。今の俺と零くんの間には、持ちつ持たれつの対等な関係が結ばれている。俺達は、同じ高さで見つめ合うことができている。
かつての俺が欲しかったものは、今この手のなかにあった。
「……零くん」
「ん?」
「俺、『零くん』って呼ぶにのもすっかり慣れちゃったよね。それこそ『朔間さん』なんて呼んでたのも随分昔に思えるくらい。それだけ俺達は同じ時間を一緒に過ごしてきたってこと、でしょ?」
「え? う、うん」
「それってさ……なんか、嬉しいよね」
そう思わない?と、零くんに少しだけ顔を近づけて俺は笑った。さらに間近に迫った零くんの顔には驚きが浮かぶ。
「……俺も嬉しい。薫、……くん」
少し間が空いて、いつもより色濃い赤に見えるその唇の隙間から言葉が発せられた。
「え? 零くん。今、俺を呼び捨てにしようとした?」
「……うう。やっておいてなんじゃけど、ものすごく恥ずかしい」
どうやら本気で恥ずかしいらしく、零くんの耳は真っ赤だ。それを眺めていたら、だんだん俺の方にもその赤が移ってきた。
「いやいや、あんた結構普通に口調変えて呼び捨てしてくるじゃん! なんで今更照れるの!? こっちまで恥ずかしくなってきちゃったんだけど…!」
「だ、だって。そういうモードのときと今じゃ、全然違うじゃろ……」
「そ、そんなの知らないし……」
とっくに成人を迎えた男二人が向かい合いながら手を繋いで羞恥に耐えているこの図がいたたまれなくて、ますます恥ずかしさが募っていく。しかし俺達は手を離すことも顔を背けることもせずにいた。
「薫くん」
暫くして、零くんが俺を下から覗き込むように見上げてきた。水分量が多めの目をうるうると輝かせ、上目遣いでこちらを眺めてくる。これは計算された表情だ。零くんがかわいこぶるときにやる表情。おそらく今やっているのは、照れ隠しなのだろう。
「もし……我輩が薫って呼んだら零って呼んでくれる?」
「……そういや零くん、俺に呼び捨てで構わないとかずっと言ってるよね」
しかし打算的な表情だと分かっていても、実際飛び抜けて綺麗な顔だからタチが悪い。けれど、俺は頑張って慣れた。多分慣れたはず。……慣れた、と思おう。簡単に転がされるようじゃ、この人の相棒なんてやってられないから。
「まあ、確かに『零くん』呼びが大分舌に馴染んできたとは言ったけど……」
「うんうん。どうじゃ?」
嬉しそうなその顔をじっと眺める。
出会ってからもう随分経ったし、零くんは俺の大ファンらしいし、ファンのお願いはなるべく叶えてあげたいアイドルの俺としては別にここでその要望に応えても良いのだけど――。
「……さあね? まあ、当分はないかなー」
「ええっ……!?」
このタイミングならイケるだろうとでも思っていたのか、そこそこショックを受けている様子の零くんを見て、俺は少し笑ってしまった。
ごめんね、零くん。零くんの相棒である俺は、いつだってあんたに掌握できない風のような人間でありたいんだ。大抵のことはなんでもうまくいっちゃうからこそ思い通りにいかないものを好む零くんが、なんとも好きそうでしょ?
それに――俺達はすでに運命を共にする仲みたいだし。
「ま、俺たちはこの先も一緒にいるんだから、希望は捨てないでおきなよ。零……くん?」
あんたが望むなら、いつかは応えるよ。絶対にね。
「えっ、今」
零くんが目を見開いたそのとき、エントランスの方からぱたぱたと足音が聞こえてきた。パッと零くんから身体を離すと、絡め取られたままの手も名残惜しそうに解かれる。
腕時計を見ると、すでに日を跨いでいた。
「あ、俺明日早いんだよね。寝よ寝よ」
「え? か、薫くん……!? 今の、え?ちょっとまって!?」
零くんの動揺した声が響くなか、俺は笑いながらさっさと共有ルームを後にした。
悩んで寝付けそうになかったというのに、今はものすごく満ち足りていて、よく眠れそうだ。零くんは……俺のせいでしばらくは寝付けないかもしれないけど。
「あはは! じゃ、おやすみ〜」
今の俺には愛する人やものがたくさんあって、そのつながりを大切にするためにも考えなくてはいけない問題が山積みだ。大変で苦しくて、たまにその重さに耐えられなくなりそうだけど……そんな日々が、とても愛おしい。
俺には頼れる相棒がいて、互いの荷物を持ったり持たれたりして、この先も支え合っていけると知っているから。
その確かな事実があれば、この道を進み続けていくことだって怖くなかった。