マスターキーのような男 鍵というものは錠前を開けるために存在しており、大抵は錠前と一対一の関係を築くものだ。
ただ、この世にはマスターキーという鍵も存在する。これは、それ一本あれば複数の錠前を開けられてしまうという代物で、ホテルやマンションの管理人などによって使用される。
朔間零とはマスターキーのような男だった、と薫は回想する。
少し話しただけで理解した。零は、人が心の奥深くに秘めているはずの扉を、いとも簡単に開けてしまえる人間だった。彼に近寄られれば、数多くの人間が心の扉に付いている鍵穴を、「朔間零」という鍵が差し込めるように変形させてしまう。それはもう、コミュニケーションが上手いとか、そういう次元の話ではなかった。
それが何より恐ろしいと感じるのは、きっと薫がこの心を暴かれることを恐れているからに他ならないだろう。
……とまあ、閉店間際で閑散としたライブハウスの掃き掃除をしながら、薫がこんなことを考えてしまうのには訳がある。
薫は後悔していた。
初めて零と言葉を交わしたとき、自らの家庭事情の片鱗を、ぺらぺらと彼に語ってしまったことを。別に知ってほしかったわけでもないのに、うっかり、自然に、口を滑らせてしまったことを。
薫はあのときのことを思い出すたび、後悔のような、羞恥のような、なんともいえない心地がして――そしてなんだか、朔間零という男の持つ引力に負けてしまったようで、心底悔しかった。
だからこそ、薫は決めていた。自分はもうあの男に対し、これ以上扉を開かないと。あの男を招かないし、絶対に鍵を差し込ませたりしない、と。
これ以上、あの輝かしい天才に、このつまらない人生の欠片を渡してたまるもんか――そんな意地すら、胸の中を渦巻いていた。
「……ま、これ以上話すこともないだろうけど」
だが、薫がそう吐き捨てた二日後、零はまたライブハウスに来ることになるのだが――その上、その次年度には同じユニットの「二枚看板」としてアイドル活動をすることになるし、なんとこの縁は今に至るまで続いているのだけれど……。
このときの薫は何も知らなかったので、忘れずに扉を閉めて、しっかりと施錠したのだった。
◇
「薫くん、この鍵うまく嵌まらないんじゃけど」
零がそう言って、薫に助けを求めたのは今まさに部屋の前に辿り着いたときだった。
「ええ? ちょっと貸して! ……ってこれ、上下逆じゃん!」
「おや、そうじゃったのか。ほら、我輩おじいちゃんじゃから、手元がぶれてしもうて……」
「都合の良いおじいちゃんキャラやめてよねー? さっきまで事務所のデスクでキーボード叩きまくってたくせに。っていうか、あれ何の仕事? どうせまた何か考えてるんだろうけどさ?」
「はて、なんのことじゃ?」
とぼける零に対し、薫は「オッケー、まだ話せないってことね」と溜息を吐くと、受け取った鍵を鍵穴に差し込んだ。するりと滑り込んだそれを右に回すと、ガチャ、と音がする。
薫が扉を引いて零を目線で促すと、零は嬉しそうに頬を緩めて、するりと玄関へと入った。そして、一言発する。
「ただいま」
薫は扉を閉めると、これまた一言返した。
「ここ、俺の家なんだけど?」
「そして、我輩の生活圏でもあるのう。その鍵だって、この前我輩がもらった合鍵じゃし」
「使いこなせなかったくせによく言うよ」
「零ちゃん、飲み込み早いから次からは大丈夫だもん」
「はいはい」
ぽんぽんと軽口を交わしながら、零が靴を脱いで、奥へと入っていく。
勝手知ったるといわんばかりに我が家を練り歩く零の背を眺めながら、薫は思わず眉を下げて苦笑いした。
零が入っていった、洗面所の鏡の前。
そこには、歯ブラシが二つ置いてある。一つは家主である薫のもので、もう一つはそこにいる男のものだった。
「はー……開いちゃったなあ」
「ん? なんか言ったかや?」
手を洗っていた零が、鏡越しにこちらを見た。
薫も中に入り、開け放たれた洗面所の扉にもたれ掛かりながら、小さく笑う。
「いや、零くんは本当に鍵開けるのが上手いなって話」
「ええ……? どういうことじゃ?」
戸惑う零を眺めながら、薫は「なんでもない」と目を細めて呟いた。