幸福を祈りなれない「神波くん、私と不倫して!」
「………。は?」
神波誠二が副牧師として務める教会に、和泉花――もとい石野花がやって来たのは、午後二時を回った頃だった。
その日はいやに天気が良くて、これは嵐の前触れではないかと神波が冗談半分に考えていたところ、本当に嵐のような女がやって来てしまったわけである。
「ちょっと待って……。石野さん、なんでまた……」
抱きついてこようとする花を神波が必死で押し留めていると、花は教会内に反響するような大声で、こう叫んだのだった。
「あんな男と結婚するんじゃなかったわ!」
◇
然してその日、神波は無理を言って早上がりをさせてもらい、自分にひっつく花を連れて、牧師舎へと帰宅した。
教会は相談を受ける場ではあるけれど、自分と不倫すると言ってきかない女を上手く説得するのは、いくら神波でも骨が折れたのだ。
「はい、これ」
神波は花をソファに座らせると、冷蔵庫に置いてあったミネラルウォーターを差し出した。
「ありがと」
「これ飲んだら帰ってね」
「嫌。じゃあ飲まない」
水に口をつけるのをやめた花に呆れながら、神波は向かい側の椅子にどさりと腰掛けた。
「大丈夫なの? 外は暑いのに」
「飲んだら追い返すんでしょ?」
猫のような大きな瞳に神波の顔が映る。この目に見つめられると、神波は弱い。
「……わかったわかった、追い返さないから飲みなよ」
根負けした神波に、花が得意げに笑いかける。
「ありがと。優しいね」
「君に脱水症状で倒れられたりしたら、さっちゃんに詰められるからね」
「うん。ふふ」
「まったく……」
花が水を口に含んだのを見届けると、神波は訊ねた。
「それで? こんなところまで来てどうしたの」
「眞に浮気された」
花は間髪置かずに答えた。
以前もこんなことがあったな、と神波は内心うんざりする。
あのときも、花がいきなり牧師舎に訪ねてきて、「神波くん、不倫しよう」と言ってのけたのだ。二度あることは三度あるというけれど、既婚者から不倫相手に選ばれることがそう何度もあっては堪らない。本当に心から勘弁してほしい。
「まったく……旦那さんに連絡するからね」
神波がそう言うと、花はわかりやすく不機嫌になった。
「神波くん、冷たい」
「優しいんじゃなかったの?」
「今は冷たい」
「石野さん、我儘言わないの」
「それ嫌。花って呼んでよ」
「………」
神波は眉間を揉みながら、目の前の女と対話するためになんとか笑みを形作る。
「……あのさ、花。浮気って言うけど、それ君が勘違いして勝手に出てきた感じじゃないの」
「違うわ」
「なら、どうして浮気だってわかったの」
「眞の趣味じゃない甘い香水の匂いがしたの。きっと女のベッドの中で移されたに決まってる」
「ああ、そう」
神波は口の中で欠伸を噛み殺した。ああ、なんてくだらない!
大体、そんな間抜けな理由であの男の浮気がバレるわけがないのだ。おそらく本当に無実か、わざとバラしたかの二択だろう。
付き合ってられない、と神波が石野に連絡を取ろうとした、そのときだ。
「……ムカつく」
花がサロンで手入れされたのだろう色付いた爪を噛みながら、ぽつりと呟いた。
「私は誰とも浮気しないであげてるのに」
「……」
神波は黙ったまま、花を見やった。
和泉花は、贔屓目を抜きにしても、こんなところではなかなかお目にかかれないほどの美人だ。
かつて売れっ子ホステスだったらしい彼女は、結婚してからは専業主婦をしているけれど、今だって着ているのは胸元が大きく開いた身体のラインにぴっちり沿うような黒いワンピースだった。このような服装で教会に訪れる女を、神波は少なくとも花以外知らない。
それでもそんな花は、男のために身の丈に合わない「家庭」に入り――そして旦那に蔑ろにされている訴えて、よりによって神波の元にやって来てしまった。
……旦那に尽くす「良妻」の役目を脱ぎ捨ててまで、神波の元へ。
この状況下で、自分の中に芽生える感情が呆れや憐憫だけではないことに、神波はとっくに気付いている。
それが、どうしようもなく情けない。
「もう、ほんと散々。ここに来るまでに足も痛めたし」
神波の葛藤を他所に、花は泣き言を言いながら屈んで足首を摩り始めた。
「痛いの?」
「うん」
花は今日もヒールの高い靴を履いているから、ここにくるまでにどこかで捻ったのかもしれない。
「ちょっと見せて」
「うん」
患部の様子を確かめようと神波が近づくと、赤いハイヒールを脱ぎながら、花はぽつりと呟いた。
「ヒール折ればよかったかな。槙原先生が前やったみたいに」
「やめなよ。高いんでしょう、その靴」
「うん。二十万くらい」
「……それは、高いね」
「かわいいでしょ」
「君には似合ってるんじゃない?」
「……」
神波がそう言った途端、花が目を丸くした。
「……ねえ、神波くん」
「何? ――わっ」
突然、くい、と袖を引かれた。それから真っ白な蛇が二匹絡みつくように、花のほっそりとした腕が神波の首に回される。
「――ねえ、神波くん。私としようよ」
いつの間にか神波は、花を腕の中に挟む形でソファに乗り上げていた。
「……」
暫く固まっていた神波だが、「神波くん?」と下から呼びかけられた途端、反射的に花から退いた。
「わっ」
花は呑気に驚いていたが、神波の背中にはつうっと冷や汗が伝っていた。なんとか息を整えながら、花に問いかける。
「……足が痛いのは嘘?」
花は傷付いたような、つまらなさそうな顔のまま、神波に答えた。
「足痛いのはほんと」
「なら……大人しくしていなさい」
「その言い方、先生みたい」
「……」
「ねえ……やっぱりしない?」
神波が黙っていると、花は可愛らしく首を傾げた。
「しないよ」
喉から搾り出した神波の声は、やけに硬かった。
花が顔に疑問を浮かべながら、立ち尽くしたままの神波を見上げる。
「なんで? 私のこと、嫌い?」
「……嫌いじゃないよ」
「じゃあ、エッチしたら哀しくなっちゃう?」
「……どうかな」
神波は自嘲するように口端を上げた。
神波は、神波自身のことがわからない。
わかるのは、これまで経験してきたことや、学んだ知識。そういった事実だけだ。
だからこそ、神波には忘れられないことがある。それが母親の思い出なら、尚更。
……まだ幼い頃の話だ。
神波の母は、いつ崩れ落ちるかもわからないアパートの一室から、よく男に呼ばれて出て行った。
母は美しい人ではあったものの、神波が生まれた頃にはすでにおかしくなっていた。元教師だったらしいが、すでに辞めていたし、手に職もない。いや、そもそもあんなに精神が不安定だった彼女が、一般社会に馴染めるはずもなかった。
そんな女がかろうじて息子共々生きていられたのは、母がその美貌を利用して男達に縋って生きていたからだと、幼い時分から神波は理解していた。その身体を、肉体を開け渡して、そうしていつも瀬戸際で生き残っていた。
故に、今目の前にいる花が母親に見えるわけでは決してないけれど――ホステスをしていた花を、もう学生の頃のような目で見ることはできなかった。
これはトラウマの一種なのか、それとも内在する蔑視感情なのか……神波にも未だに判断がつかない。おそらく両方なのだと思うけれど。
「君は……花は哀しくならないの?」
だから、それらの「理由」を答えられない代わりに、神波は花に聞き返した。
終わった関係は、時間は、もう取り戻せない。神波は、もう花に恋はできない。花だって、神波に今から恋はしないだろう。
なのに、そう言われた花はきょとんとした顔をした。三十代に見えない、あどけない少女のような無垢な瞳で神波を見つめる。
「どうなのかな?」
「……さあ」
「……でも、そうかも」
花は頷くと、ぽつりと呟いた。
「神波くんとエッチできたらラッキーって思ってたけど、哀しくなっちゃうかも」
「………」
「じゃあ、いいや」
あっさりそう言うと、花はソファに沈み込んだ。
「でも、神波くんがだめなら今夜どうしよう」
「………」
「咲のところに行きたいけど……でも、今行ったらダメな気がする」
「ダメなの?」
「うん。すっごく人肌恋しいもん。だから、ダメ」
そう、と神波は呟いた。
ここで咲を選ばないのは、花が咲の母親であろうとすることを選んだからなのだろう。
彼女は今になって、この社会に芽吹く一般的な倫理なるものを最低限は遵守しようとしはじめているから。
「……ねえ、神波くん」
「……」
花が下から覗き込むようにして、神波を見つめてくる。縋るような、親しみがこもった目だった。
そう、神波は花のこういうところに頗る弱かった。
はあ、と一度息を吐いて、それから眉を下げて小さく微笑む。
「……君がどうしても帰らないなら、ここに泊めてもいいけれど。でもね、花。君の旦那さんは、浮気してないと思うよ」
「え? なんで?」
花は怪訝そうに眉を顰めた。
「君は自分が浮気したら、あからさまに香水の匂いを纏ったまま旦那がいる家に帰るようなこと、する?」
花は数秒逡巡した末に、うん、と頷いた。
「うん。だって浮気するってことは、たぶん眞にむかついてるときか退屈なときでしょ? なら、する。それに、お仕置きエッチって燃えるし」
神波は花に質問したことをこれ以上ないくらいに後悔した。
「ああ、そう……」
「あはは」
「もう……」
花が楽しそうに笑い、神波もとことん呆れてから、困ったように笑みを浮かべる。
内容は到底似ても似つかないけれど、なんだか学生時代みたいな雰囲気を纏ったやり取りだった。
花と神波の関係は、もうこのままずっと平行線なのだろう。しかし――これくらいのやり取りなら、これからもいつでも出来るのかもしれない。
それは……なんだか祝福のようだと、神波は一瞬錯覚してしまった。
だからだろうか。その弾みで、花へと訊ねてしまっていた。
「……君は、」
「ん?」
「花は……なんで今日ここに来たの。君ならどこにでも行けるでしょう」
本当は、ずっと気になっていた。
花ならいくらでも自分を丁重に扱ってくれる相手が見つかるはずなのに。この美貌があれば、男などある程度は意のままにできるだろうに。
何故、神波の元に。
だが、花は事もなげに言った。
「だって、神波くんなら不倫相手になってくれるかなって」
「なんで。ならないよ」
「押したらイケるかもって」
「イケないよ……!」
チョロそうだとでも思われているのだろうか。まったくもって心外だ。
しかし、花は世間話をするように言ってのけた。
「えー? だって神波くん、昔私のこと好きだったじゃない」
思わず、神波は硬直してしまった。
神波にとって、花との思い出には複雑なものがあるのに。彼女が思っている以上に!
「ああ、ほんと、君って………」
神波は思い出す。自分は和泉花という人間の、こういうところが羨ましく、憎たらしかったのだと。
そして、そんなところにどうしようもなく惹かれていたのだと。
「……ふ、あはは!」
思わず、笑ってしまう。
「本当……君は、全然不幸にならないね」
神波がそう言うと、花は「そうかな?」と不思議そうにした。
「私、今、不幸だよ」
「なんで。新婚だし、まだまだじゃない」
「そんなことない」
花は真顔になった。
「だって、眞は私がいなくても生きていけるもの。今だってきっと私のこと、呑気に探してるはず」
「でも………」
「そういうところは、神波くんと同じね」
花は呆れたようにそう呟いた。
「………」
気付けば神波は、花に手を伸ばしかけていた。そして、ハッと我に帰る。
「………何を、」
「え?」
「ああ、いや」
思わず、何を馬鹿なことを、と自嘲する。
……もし、あの日、あのベンチで。
和泉ステュアートの名前が出たとしても、自分を好きになってほしいと言えたなら――そんな馬鹿馬鹿しいことを考えるなんて。
「神波くん? どうしたの?」
「いや……」
神波が思案していた、そのときだ。
ピンポーン、と突然牧師舎のチャイムが鳴って、神波は正気に戻された。
外からは瞠の声がする。
「誠二ー! そこで石野さんに会ったんだけど、花ちゃんを探してるらしくて! あの人、ここに来てるんじゃないかって疑ってるっぽいんだけど……!」
「まさかいないよね? 誠二」
咲の声も、扉越しに聞こえた。彼らはどこか棘のある声で、神波に問うていた。
神波はしばし迷った。実際、花はここにいる。いる、と言ったら面倒臭い反応をされるのは必至だ。
ただ、神波には何もやましいところはないのは事実なのだ。
「………仕方ない」
悩んだ末に神波は堂々と扉を開けた。
「あのねえ、瞠くん、さっちゃん。二人が何を疑っているのか知らないけど、石野さんなら――うわっ」
「咲!」
「……花」
だが厄介なことに、神波が扉を開けたその瞬間、神波の背中に抱きつくようにして、花が二人の前に身を乗り出して来た。
「咲だー!」
神波越しに咲を見た花が、嬉しそうに笑う。耳元に息がかかって、神波は気が気じゃなかった。
咲が、そんな二人を冷たい視線で貫く。
「花。なんで誠二のところにいるの」
「え? 神波くんと不倫しようと思って」
「さっちゃん、それは誤解……」
神波の弁明を気にも留めず、咲は重ねて花に尋ねた。
「眞は?」
「知らない。あの男なんか」
「そう」
咲は溜息を吐くと、神波をじとりと見た。
猫のような大きな瞳が、ゆっくりと細められる。
「誠二、ダメじゃない。瞠が怒ってるよ」
「人妻に手を出すなんて、クソ野郎……!」
咲の隣で、瞠が小動物のように呻いた。よりによって瞠に軽蔑の眼差しを向けられて、神波は堪えた。
「誤解なのに……!」
無実であるにもかかわらず、なんでこんな仕打ちを受けなければならないのか。
そんなことを思っていたときだった。
「何やら揉めているみたいですね」
「眞……!」
そこに、さらなる厄介――いや、元凶とも呼べる石野眞が見えた瞬間、神波はとうとうその場に蹲りかけた。
「すみません。妻を引き取りに来ました」
石野は場にそぐわないにこやかな笑みを浮かべながら、輪の中に入ってくる。
「……最悪」
神波は己を呪った。ただでさえ人生に期待ができないのに、今日は災厄が降りかかりすぎだ。
石野の背後には、何故かこちらを申し訳なさそうに眺めている白峰もいて、意味がわからなかった。
「おやおや、浮気ですか? 花」
「そうだよ。見てわからない?」
「違うよ! 君も、誤解するようなこと言わないで……!」
神波は花を諌めながら、石野に強く言い含めた。
しかし、石野はどこ吹く風といった様子で、にこやかに神波を見ている。
「そうなんですか。妻の不倫現場をじっくり観察したかったのに」
「君、頭どうかしているんじゃない!? 不倫なんかするわけないだろ!」
「おや、寝取ろうとしてたんじゃないですか?」
「してないよ!」
背後にいる花が、「してくれてよかったのに」と神波に擦り寄ってきた。勘弁してほしい。
石野はくすくすと上品に笑うと、神波の肩越しに花に語りかけた。
「花、帰ろう」
「嫌! 神波くんがダメなら、そこにいる春人か瞠か槙原先生に相手してもらうから」
花が拗ねるようにそう言うと、咲が目をすうっと細めた。
「ダメ。許さない。誠二も許さないけど、瞠や春人はもっとダメ」
「えっ!」
「……花」
「ちぇー、わかったよ」
花は残念そうに頷きつつも、目の奥に薄らと喜色を滲ませた。おそらく、咲が嫉妬をしているのが嬉しいのだろう。
神波がやれやれ、と輪から抜けようとすると、服の裾を誰かに軽く引かれた。
「なあ、」
「瞠くん」
いつの間にか隣にきていた瞠が、心細げな子どものような目で神波を見上げていた。
「………本当になにもしてないよな?」
神波は息を吐き、目を細めながら苦笑した。
「本当だよ、瞠くん……それに、さっちゃん。俺が人妻を押し倒すような男に見える?」
瞠と咲は互いに思案しながら見つめ合うと、数秒経って二人揃って頷いた。
「誠二は意気地なしだから無理だよ」
「確かに」
ぴくり、と神波の頬が引き攣る。
「あのねえ、君たち……」
神波が一言文句を言おうとしたとき、花が唐突に呟いた。
「あーあ……なんかお腹空いちゃった」
◇
結局、空腹を訴えた花と、それに同調した子ども達のために、神波は棚に無造作に置いてあったカップラーメンと、昨夜作って冷凍していたチャーハンを振る舞った。
本来いきなり押しかけて来た来客をもてなす義理なんてないのに、サービスで卵と千切りキャベツまでつけてやったのだから十分だろう。
インスタント食品を食べるよりはここから出て行って街に食べにでもいけばいいのに、まだ居座りたがるものだから迷惑なことこの上なかった。
様々なことを処理し、ほとほと疲れ果てた神波は一服しに外に出た。
外はすでに夕日のオレンジに染まり始めて、地面には濃い影が出来ている。白い煙を吐き出しながら、足元から伸びる影をぼうっと眺めていると、もう一つの影が近づいて来ていた。
顔を上げると、そこにいたのは石野だった。
「カップラーメンは三分ですか」
「……いや、五分のやつ。二百円するまあまあ良いやつだからね。ご当地ものらしいよ。他の牧師がおみやげに買ってきたんだ」
「へえ、そうですか」
自分から尋ねてきたくせに、さして興味もなさそうに微笑む石野は、菜食主義者であるため何も食べようとしなかった。
神波は煙を吐き出してから、横目で石野を見る。
「煙草苦手なんじゃないの?」
「いえ。こう見えて、津久居くんのために部屋に灰皿用意してたこともあるんですよ」
「ふーん」
「まあ、花が妊娠しているかもしれないと思った時期があったので、撤去してしまったんですが。いずれはきっと出来るでしょうし、良い機会でした」
「……あっそう」
神波は先端の短くなってきた煙草を行儀悪くも地面に落とすと、靴裏でぐりぐりと火を消した。
石野はそんな神波の様子を表情も変えずに見つめながら、狐のような目をさらに細めた。
「今日はありがとうございました。妻が毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「本当だよ。もうここには来ないでくれるかな。前もこんなことあったよね?」
「すみません、本当に」
石野は困ったように微笑む。
神波はなんだか無性に苛ついて、考える前に思わず口を開いていた。
「……あのさあ、」
「はい」
「………」
地面でぐしゃぐしゃになった煙草を見やる。
火がすっかり消えた汚いそれを、神波の真っ黒な影が覆っていた。
「………幸せにしてあげてって言ったでしょう」
「……」
「彼女、自分が不幸だって言ってたよ」
「……一体どんな理由で?」
石野の声色は、思いの外真剣味を帯びていた。
「……君が、自分がいなくても生きていけるから」
神波が吐き出すように言うと、石野は数秒黙った。そしてすぐさま、小さく笑った。
可笑しそうに、けれど真面目な顔で「当然でしょう?」と言う。
「もし私が、妻がいないと生きていけないような人間だったら、きっと私達はもっと不幸になっていましたよ。果ては共倒れか無理心中か、という具合にね」
神波も小さく息を吐いた。
「……そうかもね。そんなことはわかってる」
「………」
「わかってるよ……」
神波はそう呟きながら、過去の記憶を辿った。
かつての神波誠二にとって、和泉花という少女は特別だった。
初恋の少女だったことも特別な理由の一つではあったけれど、彼女の父親の名前を知った日から、特別の意味がもう一つ増えてしまった。
和泉花の父親の名前は――和泉ステュアート。
その男は、母から繰り返し繰り返し刷り込まれた、いずれ神波誠二が復讐しなければならない父親の仇だった。
……そう。神波の復讐劇は花がきっかけで始まったようなものだった。
そして、神波が最初に復讐の駒にしたのも、彼女だった。
神波は思う。花と出会わなければ、少なくともあの時点では神波は復讐に手を染めなかっただろう、と。
好きな人がいるの、と花に持ちかけられて、「和泉ステュアート」という名前を聞きさえしなければ。
当時無垢な少女でしかなかった花を、悪魔の微笑みを浮かべながら唆したのは、他でもない神波自身だ。
その結果、花は咲を産み落とした。実の父親との間に、自分の子どもをつくって。
そして、その禁忌を、インモラルを、愛によって肯定した花は、その子どもとも肉体関係を結ぼうとした。息子である咲を、恋人として愛そうとしたのだ。
もし、神波が花と出会わなければ――花は少なくとも今よりはずっと、常識的で倫理的な女になっていただろう。
だから、神波が石野に何を言う資格もないのだ。本来は。
だって、本当の――全ての元凶は、神波なのだから。
神波が地面を眺めていると、ふいに石野が口を開いた。
「……今回、うっかりしてしまって」
「何が?」
神波が聞き返す。すると、石野は罰が悪そうに眉を下げた。
「浮気と勘違いされたことです」
「まさか本当にしたの?」
「いえ」
種明かしするように、密やかな声で石野は告げた。
「実は、花が女のものだと思い込んでいる香水は春人くんのものなんですよ」
「は?」
神波はぽかんと口を開けた。
「昨日、彼に私の作品の被写体になっていただきましてね。彼を自宅に迎え入れる際に、彼が香水に興味があると言ったものですから。謝礼代わりにプレゼントしたんです。普段は撮らせていただく代わりにカメラを教えているのですが、私も多忙なもので、なかなかその時間が取れず……」
神波は眉を顰めた。
「それ本当? 奥さんの方は、甘い匂いがしたって言ってたけど?」
「まあ、男性がつけていたら珍しいでしょうね。しかし、ユニセックスなので、春人くんにはよく似合うと思いますよ。ほら、彼には彼自身にしかない魅力がありますから」
「……まあ、ハルたんは今年の聖母役だったけどさ……」
白峰は聖母役を嫌がっていたはずだし、ユニセックスの香りを纏うよりは、男性らしさに寄った上品なものを身に着けそうだと思ったのに。
十中八九、このひょろりとした男の話術に乗せられてしまったのだろう。
あっけない種明かしに、神波は呆れた。そして、石野を横目で見ながら告げる。
「……誤解ならいいよ」
「はあ………」
すると、神波さん、と呟いた石野が、不思議そうに、それでいて真剣に、こちらをじっと見ていた。
「あなたは、咲や花を不幸にしておきながら――幸せであってほしいと思ってるんですね」
神波は一瞬目を見開いて、すぐさま微笑を浮かべた。
「………不幸を願っているわけないじゃない。俺は牧師なんだから」
石野が爬虫類のような目で神波をじっと眺めた。そこにある感情を巧妙に覆い隠しながら。
そこにあるのは怒りか、侮蔑か、はたまたまた別の感情かは、神波にも判断がつかなかった。
槙原くらい分かりやすかったら、簡単に手玉にとれたのに。石野は本当に、よくわからない男だった。神波には理解できそうもないくらいに。
そして、そんな理解不能な石野は、神波が思いもよらないことを平然と言い出した。
「実はですね……以前、花がよくここに来たがるのは、咲に会いたいというだけではなく、あなたに会いに来る口実がほしいのでは、と思ったこともあったんですよ」
「はあ!?」
「咲にはしょっちゅう会いに行こうとしますしね。まあ、あれでも、我慢しているのでしょうが……」
「ありえないよ」
神波は切り捨てるように呟いた。
石野も柔らかな声色で、しかしばっさりと返す。
「そうですね。まあ、会ったとしても、今日のようにきっとあなたと花はどうにもならないでしょうし」
「当たり前じゃない。君に言われると無性に苛つくけど」
「嫉妬ですか」
「違うよ」
神波は頰を引き攣らせた。
もう一本煙草を吸おうとして、切らしていたことに気がつく。思わず舌打ちをした。
そんな神波を眺めながら、微笑を湛えた石野は言う。
「――でも、何も起こらなくてもね。あの奔放でどうしようもない女……まあ、私の妻のことですが。……花にとって、あなたはどうも特別らしい」
「………」
石野は仕方ない、というふうに、眉を下げた。
「きっとあなたとは、これからも長い付き合いになるでしょう。私が花に呆れて、見限らないかぎりは」
そう言って、神波へと手を差し出した。
「私ね、好みや限度はありますが、面倒臭い人が好きなんです。可愛いな、と思ってしまうんですよ。まあ、手に負えなかったら手放しますが」
石野はにこやかに笑った。
神波も聖職者にふさわしい笑みを浮かべる。手には煙草の空き箱とライターを握っていた。握手できる手などない。
「ありがとう。悪いけど、君の手の内に入るなんて死んでもごめんだね」
「おや残念です。あなたは美しいから」
「本当に気持ち悪い人だな……」
神波がそう言っても、石野は柔和な笑みを浮かべたままだった。
牧師舎に帰ると、すでにカップラーメンやチャーハンを盛った皿は空になっていた。
石野はカップ麺を無言で一瞥すると、子どもたちと話していた花に声を掛けた。
「花、帰りましょう。春人くんに事情は聞いたでしょう」
「うん……」
花は渋々頷いた。
その隣で、白峰が申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「なんか……すみません。まさか僕が夫婦喧嘩の原因になってしまうなんて」
「ハルたんのせいじゃねえだろ」
「そうだよ。あの変態のせい」
「おや、それは私のことですか。咲」
「他に誰がいるの」
白峰を庇うように、瞠と咲が石野を軽く睨みつける。
しかし、花はそんな空気を気にも留めず、はしゃいで白峰に近づいた。
「私は全然いいよ。春人が間男やってくれるのイイ。綺麗だし、かわいいし。ねえ、私と浮気する?」
「えっ」
「花」
すかさず咲が割り込む。
「はーい。しませーん……」
それから花はゆっくりと立ち上がると、背の高い石野を見上げながら拗ねたように呟いた。
「……眞」
「何です?」
「……ごめんなさい」
「いいですよ」
「うん」
花が石野に抱きつく。
石野は呆れたように、そして仕方なさそうに彼女の腰をそっと抱きしめ返していた。
「………」
神波がそんな二人を静かに眺めていると、いつの間にか今度は咲が神波の隣に来ていた。
「誠二」
咲が真っ直ぐに神波を見上げてくる。
「……さっちゃん、その同志を見る目やめてくれない?」
神波は今すぐ手を翳してその視線を振り払いたかった。しかし、咲は澄ました顔で高貴な猫のように擦り寄ってくる。
「傷を舐めあおうよ」
「一人でやってよ」
「ハグする?」
「しない」
「そう」
咲は寂しそうだったけれど、どこか安心したようにも見えた。
おそらく、神波も咲と同じ気持ちだった。
◇
「ご迷惑をおかけしました。皆さん」
夕日が沈み出した頃、ようやく帰宅のために庭に出た石野が、花を連れて神波へと軽く頭を下げた。
「本当だよ。いい? 君達もう絶対ここに来ないでね」
神波はうんざりした顔で返す。しかし、そんな神波を花は気にも留めない。
「あはは! また来るね」
「来ないで……!」
横にいた瞠が、ポンと神波の肩に手を置く。
「誠二、諦めろ」
「瞠くん……」
瞠に憐れまれた神波は、なんだか情けなくなり、泣きたくなった。
しかしそんな神波と違って、花は楽しそうで、自由だ。
石野の後ろについて帰ろうとしていた花は、「あ、そうだ」とふと何かを思い出したように、神波の目の前に戻って来た。
「ねえ、神波くん」
「何?」
けろっとした顔で花は言った。
「さっき考え直したの。私、別に不幸じゃないかもって。さっきは世界中を呪ってたけど、今は世界中の平和を祈れる気分だもの」
「ああ、そう。なんで君はそんなにころころと気分が変わるの……」
「あはは、結構楽しいよ」
花は無邪気に笑った。会話が噛み合わないな、と神波は呆れる。
……けれど。学生時代に自分達が交わしていた会話はこんな感じだった気がした。
取り止めもないことを互いに話しては、笑って。噛み合わなくても彼女と話せるその時間こそが、神波の人生における珍しい安寧のひとときだった。
目の前では、花があの頃と同じように幸せそうにしている。そんな花に、神波はずっと憧れていた。
恋を、していた。
「だってさ、」
花は咲き誇るような笑みを浮かべて言った。
「神波くんも眞も、私がいなくても生きていけるけど、私がいないと悲しいでしょ? だから、私を置いてくれるし、追いかけてきてくれる。なら、いいよ。それがずっと続けば、不幸になってもすぐ満足して、幸せになれる気がする」
それにね、と花は一瞬だけ神波から視線を横に移した。
そこには猫のように気まぐれで、大きな瞳でじっとこちらを見つめる咲がいる。
この美しい親子は、本当によく似ていた。
「咲と出会えたもん。それ以上に幸せなこと、ないよ」
「……」
「ありがと、神波くん」
喉元が熱い、と他人事のように神波は思った。
神波誠二は正しく理解している。
神波の復讐劇は、さまざまな人間の人生を狂わせたことを。不幸にしたことを。死んだ人間もいたことを。
母も、目の前で自殺したのだ。神波が生きるたびに、誰かは必ず不幸になった。
だから、駄目だ、と思う。幸せであってはいけないと。それゆえに、幸せを感じそうになるたびに神波は心のどこかで必ずブレーキをかけてきた。
誰かを幸せにしてはいけない。そして、誰かを幸せにすることで、自分が幸せになってはいけない――そんな風に。
だから、花が幸福なままであったことは、神波を焦らせた。
不幸にしてこそ復讐であるのに――復讐が完遂されて初めて、神波は幸福を、人生を、取り戻せるはずだったのに。
いつまでもそれらが手に入らないのは、花が幸せでいるからかもしれないと悔やみ、恐れた。
だから、再会してからも不幸になれと願った。不幸でいてほしいと思った。
……それでも。
神波は、目の前で笑う花を見て、告げた。
「――君って、不幸が全然似合わないよね。俺とは大違い」
神波は途方に暮れた子どものような顔でそう言った。花は無邪気に笑っている。
「そうかな」
「うん。本当……君には敵わないよ」
……心の奥底で、神波はもしかしたら願っていたのかもしれない。
君には幸せが似合う人であってほしい、と。
そう、願っていたのかもしれない。
影が神波の足元を黒く染めている。夕日の鮮やかな光は、それより強く神波を照らしていた。
だから神波はとうとう諦めて、笑った。
「気をつけて帰ってね。もう誤解されるのは御免だから」
「また来ていい?」
花が神波を覗き込む。
「……うん。今度こそ旦那さんと一緒にね」
「やった」
花が嬉しそうに目を細める。神波にはその姿が、酷く眩しく映った。
「じゃあ、神波くん。バイバイ。またね」
「……うん。またね」
花が手を振り、石野がこちらへ会釈する。
花は石野にエスコートされるがままに車に乗って、名残惜しそうに咲を見つめながら去っていった。
神波を惜しむ表情すら浮かべないのが、まったく彼女らしいと苦笑する。
暫くして、幽霊棟の子供たちも帰っていった。
神波はただ一人、静かにそれを見送った。
夕焼けが世界を赤く染めている。
地獄のようにも思えるこの景色を、今だけは、ただ美しいと思った。
fin.