サフランの雫 ランカークスの森の更に奥深く、他人がほとんど訪れない入りくんだ地形に、オレとオレの弟子が住む工房がある。
オレの腕が壊れてから、人間の坊やを弟子にとって、こうやって工房に住むことになった。ヤツは鍛冶について学びながら、腕が利かなくなったオレの身の回りの世話もしてくれている。
ヤツはオレにとって、そして他の人間たちにとって、いや地上の生きとし生けるものの命の恩人だ。言ってどうなるものでもないから言わないが、あのままなす術もなく手をこまねいていたら、地上はバーンのものになって、消し炭にされていたに違いない。この地上がそんな姿になるなど死んでも見たくない。ヤツがいてくれたからオレはあの剣を使う気になったし、つまるところ、オレの心は死なずに済んだのだ。バーンの所為で心が二度も殺されるなんて、まっぴらごめんだった。
坊やを弟子にとったのは、別にノリってわけじゃない。だが、工房へ戻ると言い出したオレに、坊やが必死の形相でついてこようとして驚いた。坊やの父親も承諾したと言うんだから、親子揃ってお人好しなのか、大丈夫か、と思ってしまった。
聴けばバウスンの子供はあの坊や一人きりだそうだ。人間の考え方でいけば、跡取り息子というやつだ。どこの誰かも分からん、しかも魔族のオレにそんな大事な息子を簡単に寄越すなどと、周りから正気を疑われたんじゃないかと想像する。
つい先日までいがみあっていた種族同士だ。いや、今だって一般的にはそうだろう。あの親子は親子でかなり悩んだ結果なのだろうと、後になって考えが及んだ。
坊やと一緒に暮らすようになってから驚くことが何度もあった。規則正しい生活に、オレの腕を丁寧に治療すること。特に驚いたのはきちんとした食事を出してくるってことだ。
オレは食べられないから食わないんじゃなく、食いたくないから食事はほとんどしない。ジャンクやヤツの女房殿と飲んだり食ったりは、まぁするが、一人のときに何かを食おうと思ったことはあまりない。代わりに酒があるからだ。魔族のオレには必要なエネルギーはこれで充分だった。
だが坊やは、これじゃあ腕の傷に良くない、身体を壊すとか言って工房中の酒を没収してジャンクに預けてしまいやがった。
中には高価な酒もあったというのに、酷いことをする。オレはキャビネットからいなくなった酒瓶の数々を想い悲嘆に暮れた。良かったですね、などとしゃあしゃあとぬかす坊やが憎たらしくなって口汚く罵った。まあ、魔族の言葉で罵ったから、何を言われても分からないだろうし、知らんぷりをされたのだが。
とにかく酒の代わりにバランスの摂れた三食の温かい食事、身体に良いハーブティーとやらをしっかり出され、まったくもって身も心も健康になっていきそうだ。どうやら坊やはリンガイアでは戦士団にいて、野営なんかで食事を作るのなぞお手のものらしかった。ここには何をとち狂ったか炊事場を造りつけてあったから、きちんとした食事が毎度出てきた。
酒を没収されはしたが、どうやら坊やはオレの懐に忍ばせているスキットルには気づいていないようだった。ヤツが出掛けるときには、こっそりと酒を楽しんだ。ここはオレの住処なのに、なんでこんなにヤツに気を使わなければならんのだ。
とにかく、今日は坊やは買い物に出掛けるとかで工房からいなくなった。口うるさいのがいない間に少し楽しむか、と心が浮き立った。
居住区でちびちびと酒を楽しむ。やはりな。オレには茶なんかよりこっちの方が断然健康に良いって分かる。身体が温まって気分も高揚する。少し外の空気が吸いたくなって、オレは玄関から外に出た。
思えば地上の生き物たちに肩入れしてからというもの、ずっと誰かが傍にいた。こうやってひとりになって羽を伸ばすのも悪くない。まあ、別段坊やが鬱陶しいってわけじゃないが、たまにはひとりになりたいときもあるってもんだ。時には坊やをジャンクの倅の所へ遊びにやってもいい。
我ながらなかなか良いアイディアを思い付いたと考えながら森を散策して回る。オレはこの地上の森ってやつがかなりのお気に入りだ。魔界にはない清浄な空気で肺を満たすと意識が冴え渡る。命に溢れた情景を見ていると、心が落ち着く。オレにこんな感情があったなどとは、地上に来なければ一生気づくこともなかっただろう。
散策を切り上げて玄関のドアを開けると、見慣れた人間の姿が目に飛び込んできた。坊やが、床に倒れていた。
「坊や……坊や……大丈夫か? しっかりしろ」
遠くで、誰かがボクのことを呼んでいる。頭がぼうっとして、身体中がふわふわ浮いているみたいでとってもいい気分。とりあえず、起こさずにそっとしておいてくれると嬉しいんだけどな。
「おい、坊や……意識がないのか? 参ったな……ジャンクとスティーヌを呼んでくるか?」
なんだかちょっと困ったような声音が耳に優しい。ボクはこの声の持ち主を知っている。ええと……誰だっけ?
瞼がとても重たいけれど、頑張って目を開く。仰向けに寝ているみたいで、蒼白い肌と綺麗な黒髪をした男の人が心配そうにボクを見下ろしている。
「ふぁ?」
「ああ、気がついたか。良かった。死んじまうかと思ったぞ」
ここは、どこだっけ?この人は一体誰だっけ?なんだか頭がグルグルして、よく分からない。心配そうにボクを覗き込んでいる男の人に手を伸ばして、顔や尖った耳に触ってみよう。
「なんだ、どうした?」
ボクがぺたぺたと尖った耳や高い鼻筋に触るものだから、男の人はちょっとくすぐったそうに、困った顔をしている。
「誰?」
「忘れたのか」
困ったヤツだ、と深い声が耳に響いてきて、なんだかとても気持ちがいい。身体を見ると床に寝転んで伸びてしまっていたみたいだ。なんだっけ、モンスターと戦って、負けたんだっけ?なんでもいいからもうこのまま眠ってしまいたい。誰のかは知らないけれど優しい色合いのマントがボクの身体にかけてあるからちょうどいい。地面は冷たくて気持ちいいし、身体はほんのりあったかくて、やっぱり気持ちいいしか思い付かない。
「起きられるか? このままだと眠ってしまうぞ。水か茶をたくさん飲んで、ベッドへ入れ」
「ふぅン?」
鼻から気の抜けた返事しか出なかった。急にこの人にこんな態度をとってはシツレーなんじゃないかという考えが浮かぶけれど、ほわほわした頭じゃあ、なんだか深くは考えられない。もう、いいにしよう。
「おい、寝るな」
目を閉じて眠りかけると、男の人がボクを呼んで起こす。
「ふぁい」
「抱えてオレのベッドまで運んでやりたいが……生憎この腕ではな。悪いが起きてベッドへ行ってくれ。このままじゃ気が気じゃない」
少し済まなそうな声音がボクの身体を起こさせた。上半身を頑張って起こしたけれど、やっぱり頭がくらくらする。
「ちょっと、貸して」
上半身を起こして、男の人の胸を貸してもらって凭れかかる。すごくあったかくて、がっしりしている。長い黒髪が、こうやって抱きつくとちょうど握れる位置にあって……なんだか親指を口に持っていきたい気分。この感覚、むかーしどこかで……。
「……父さま?」
「誰がバウスンだ」
ふっとくすぐったそうな笑い声が聴こえた。この笑いかた、やっぱり知っている。身体にかけられたマントを手繰ってよく見てみる。
「あー、これ、知ってるぅ。見たことあるー」
ボクがよく知る、すごく身近なひとが使っていたような気がする。
目の前の男の人の肩からマントをかけて自分にかける。ぴったりとくっつけば、二人でもちゃんと羽織れる。
「……おい、寝るなというのに」
「やだ。眠い。放っておいて」
「お前、人間だろう?人間は弱いから風邪をひくぞ」
「ボクは弱くありませーん。強いでーす。すておけ~」
なんだか分からないけれどとっても楽しい。きゃっきゃっとはしゃぐと、男の人がため息をついて、やれやれ、って言ってる。
「あ! それも知ってる! ボクの大好きなひとがよく言うやつ」
「………………そうか」
「眠いの。ごめんね」
「寝るな…………寝ちまったか…………まったく」
「母さま…………」
「だから誰が母さんだ」
オレの髪を握りながら眠ってしまった坊やを胸に抱えながら、オレは自分の失態に腹が立ってきた。坊やに取り上げられないように、日頃からスキットルに度数の高い酒を入れてちびちびと飲んでいた。坊やがランカークスに買い物に出掛けていると思ってテーブルにスキットルを出しっ放しにしたのがいけなかった。まさかお堅い坊やが昼間から酒を口にするとは思わなかったからだ。
散策のついでに薪の残量や普請の様子を見て回って、玄関のドアを開けた瞬間、床に倒れている坊やを見つけて肝が冷えた。きっとルーラで戻って来て先に工房に入っていたんだろう。よく見るとスキットルの蓋が開いていた。
オレがスキットルに入れる酒はあり得んくらい度数の高いものばかりだ。中に入れる酒はその時の気分にもよるが、リカールやアブサンなどが多い。ひどい時には燃料のような酒も携帯する。オレが蒸留酒ばかり携帯するのは、魔界の酒は雑味が酷くて蒸留しないと飲めないからだ。
果実を発酵させて造る酒など、希少性が高すぎて魔界では滅多に手に入らない。魔界でも育つそこら辺のハーブや、時には毒草まで発酵させるのだから、味が良いわけがない。だから魔界の酒は何度も蒸留させる。自然、酒の度数が上がる。その時の癖が残っていて、スキットルには主に蒸留酒を入れている。そして良いワインが手に入るようになった人界にいても昔の癖は直らず、ときにクセの強い酒が舐めたくなる。
最悪なことに、スキットルにはゴッチェが入っていた。サフランを煮出した、黄色い酒。皇帝の雫などと呼ばれているらしいが、人界にもこのような強い酒があるとは驚きだった。刺激が欲しいときには世話になっている。人間はこれを水割りにして薄くしてから飲むらしい。もしくは茶に一滴二滴入れて薬代わりだ。
そんな酒を、坊やは飲んだ。
人間は酒を飲める者と飲めない者がいるらしい。飲めない者に強い酒を摂取させると、最悪死ぬこともあるそうだ。
ゾッとした。坊やが酒を飲んでいるところを見たことがないから、酒が体質に合っているかどうかは分からない。だが、飲んだのは事実だ。オレは確かにスキットルの蓋を閉めた。酒精が飛んでしまうのが嫌だから、蓋はきちっと閉める。それが開いていた。坊やが飲んだとしか思えない。そしてその坊やが床に倒れているのだから、酒の所為だと考えるのが自然だろう。
「くそ……」
オレは坊やを抱き抱えることもできずに、ただ声をかけ続けることしかできなかった。
ふと目が覚めると、ボクはなんだかあったかいものの上に寝転んでいた。いや、正しくは抱きついて寝ていた、だろうか。あったかくて平べったくてしっかりした何かに手を触れてまさぐる。目の焦点が合って来ると、見慣れた先生の胸元の組紐と、少し見上げるとストイックなカラーが目に飛び込んできた。
「こそばゆいぞ」
「わ!」
先生を下敷きにして、マントを掛布代わりにして寝入ってしまっていたみたいだ。こんな地面で、どうしてこんなことになっているのか、頭が混乱する。
「な、何があったんですか、コレ。とにかくすぐ退きますから。申し訳ありません」
急に起きようとするボクを、先生が止める。それをふりきって頭をあげると、つきん、とした痛みが駆け巡る。どうしようもなくなって、結局ボクは先生の胸にぐったりと頭を預けた。
「どれだけ飲んだんだ?」
「え? えーと……」
痛む頭を使って記憶を探る。リビングに入ったら先生のスキットルがあって、腹が立ったことを思い出した。そのことを伝えると、クスリ、と笑われた。
「またお酒を飲んでるって思って……傷に障るって思ったら、ちょっと頭にきちゃって。なんか文句言ってやろうかと考えてたら……その、先生がどんなお酒を飲んでいるのか気になっちゃって」
「それで飲んだのか?」
「はい」
「どのくらい?」
「先生、あの……腕を怪我したときの事、覚えてますか?」
おそるおそる先生に声をかけてみる。あのときの記憶はボクには特別なものだ。一生忘れることなんてできないと思う。先生もそうだと良いな……と思いつつ、とっくに忘れられていたらどうしようとも思ってしまう。
「ああ……覚えている」
「あの、スキットルの、蓋……」
「開けられなかったな」
顔が赤くなるのを感じる。きっとボクの顔は今真っ赤に違いない。だって、覚えていてくれて嬉しいから。でも、嬉しくて、恥ずかしくて、ボクの口から出るのは否定の言葉だ。ボクはボクが嫌になる。
「そうじゃなくて……あのとき、ボク、先生にお酒を飲ませたでしょう?」
「ああ。手が使えなかったからな。お前に飲ませてもらった」
「あ、う……その時に、先生、グビッて一口で飲んでたから……ボクも、真似して……」
言っていてボクはなんだか恥ずかしくなってきた。自分が大人の事をなんでも真似する子供みたいに思えたから。だから喋っていて、どんどん声が小さくなる。
「あの時スキットルに入っていたのはウィスキーだ。これの中身はもっと度数が高い。ゴッチェを……酒を飲みつけていないお前がそんなに飲んだのか」
はぁ、とため息をつかれて、もう恥ずかしさしか感じない。
「ごめんなさい……」
「オレのひとくちと同じ量なら、相当飲んだな……」
「う……」
「死ななくて良かったよ。なぁ、起きられるか?頭は打っていないか?」
「はい…………大丈夫そうです」
ボクはゆっくりと身体を起こすと先生にも手を添えて身体を起こすのを手伝った。先生は手が使えないからだ。でも、そんなことをしなくても、先生は腹筋の力だけで難なく起きてしまったけれど。
「水分を多く摂れ。明日、辛いぞ」
「はい」
ゆっくりと立ち上がって炊事場へ行く。せっかくだからお茶を淹れて先生と一緒に飲みたいと思った。そんなボクに先生が声をかける。
「あれだ、今度どうしても飲みたくなったら、オレに声をかけるんだな」
先生は唇の端を少し持ち上げて、シニカルな微笑みをボクに向けてくる。
「それ、いつもボクが言ってるやつ!」
からかわれたと分かったから、テーブルの上にあるスキットルに近づいて、しっかりと蓋を閉めてボクの懐に仕舞い込む。
「あ、おい! それは反則だ!」
「知りません。腕の傷に障ると良くないので、ボクが預かっておきますね」
そう言ってからなんだかとても可笑しくなってしまってボクは笑う。先生もつられてしょうがないな、という表情で笑っている。
ああ、ボクはこの笑顔が大好きだ。何にも代えがたい。先生の傍でたくさん学んでたくさん創るんだ。武器も、未来も。先生と一緒に。
いつもは先生の懐に入っているスキットルを自分のお腹に忍ばせていると思うと、なんだか心が浮き立つような気恥ずかしいような、不思議な感じがする。だって、尊敬するひとの持ち物を、こうやってぴったり身体にくっつけて持っているなんて。なんて言ったらいいか分からない想いが身体中を駆け抜けて、顔もお腹も熱くなる。
きっとボクの身体の中にお酒が残っていて、まだ酔っぱらっているんだね。
大人たちがよく言う二日酔いにならないように、ボクは身体に良さそうなお茶のレシピを考える。先生のお姿を想像して、ボクはブルーマロウとミントと、ブラックベリーの瓶に手を伸ばした。
―おわり―