現パロネロカイ小話カインは人が大好きで、基本的に誰とでもうまくやれる。たくさんの人とかかわっているうちに、カインは相手が自分のことをどう思っているのか、なんとなく感じることができるようになった。そして、ありがたいことにカインは自分のことが好きだと思ってくれている人に囲まれていた。
しかし、たぶん自分のことが嫌いなんだろうな、と感じる人ももちろんいて、その日はその自分のことが嫌いだと思っているらしい上司にこっぴどく叱られた日だった。いつもなら、仕方ないと流すところだが、ここのところ仕事が立て込んでいて疲れていたため、カインは暗い気持ちを引きずったまま帰路についた。
帰って夜ご飯を作るのも億劫だったが、何か食べたいというものもなく、ただ一歩が重いと感じながらも帰り道を進んでいた。そんな時、いつもなら素通りする小さなラーメン屋がなんとなく目に留まった。比較的オフィス街に近いためか、夜遅い時間までやっている店だった。この間休日に偶々店を前を通った時に、少し並んでいたからおいしいのかもしれない。少し迷ったが、ひらひらと風にはためく赤い暖簾に誘われるように、カインは店の中に入った。
店に入ってみると、そこには数人の客が座っていて黙々とラーメンをすすっていた。その静かな雰囲気にホッとしていると声がかかる。
「らっしゃい。好きな席にどうぞ」
声をかけてきたのは若い男の店員だった。背もそこそこ高く、後ろで涼し気な水色の髪をまとめている。口元には柔らかい笑みを浮かべているが、冷めたような小麦色の瞳がカインの様子をさりげなくうかがっているのが分かった。カインはカウンター席に座って、手元にあるメニュー表を見た。写真も載っていて、どうやら醤油ラーメンが店の名物のようだった。考えるのも面倒くさくて、それを頼むことにした。
「醤油ラーメンのセットを一つ」
カインが店員に言うと、「あいよ」と短く返ってきて、奥にいる店主らしき男に醤油ラーメンのセット、と少し大きめの声で伝える。そうそう時間のかからないうちに、醤油ラーメンが出てきた。カインは特に何も考えずに食べ始めると、とてもおいしくて思わず「えっ、うまい!」と声が出た。ハッと我に返って前を見ると、水色の髪の店員が無表情のまましかし、少しほほえまし気にこちらを見つめていた。何だか気恥ずかしくなって、もう一度俯いて、カインは食事を再開した。
食べ終わって勘定を頼むと、若い店員がそのまま対応してくれた。
「ごちそうさま!おいしかったよ」
カインは少し照れながらも、にっこりと笑ってラーメンの感想を伝える。すると、目の前の店員はニヤリと笑う。
「うまい、って言ってましたもんね」
「やっぱり聞かれてたのか…。でも、事実だしな」
そう言うと、店員は少し嬉しさをにじませて笑う。目の光に温かさが灯ったようで、カインも温かい気持ちになる。
「本当に、うまいんですよね。だから、俺もここで働き始めたんです。俺のおすすめは、ゆず塩ラーメンなのでもしよければまた来てください」
カインはメニューにそんなラーメンがあったなと思いだしながら頷く。
「ああ。次はそうする。じゃあ、ありがとう…あれ?」
渡された釣銭とレシートと共に、オレンジ味の飴玉が乗っている。
「本当は、子供用なんですけど。お兄さん、何だか疲れているみたいだったんで。よければ」
気を遣われるほど、疲れていたのかと慌てる以上に嬉しさが勝る。
「もらっておく。ありがとう…ターナーさん」
そう言うと、店員は少し驚いた顔をした。ネームプレートをちらりと見て合点がいったのか、少し照れ臭そうに笑った。
「はい、ありがとうございました」
それからというもの、カインはことあるごとにラーメン屋に通うようになった。ラーメンのおいしさももちろんのことだったが、カインは店員、ネロ(店主の人がそう呼んでいるのを聞いた)との会話を楽しみにしていた。ネロのおすすめのゆず塩ラーメンはカイン好みの味で、カインの注文の定番になった。
会話をするのは、注文の時と勘定のときくらいだったがそれでも嬉しかった。ネロはよく気が付く男で、カインが仕事がうまく言って喜んでいるときも、仕事でへまをして少し落ち込んでいるときも目ざとく気づき、声をかけてくれた。
今日は、いつも以上に明るい気持ちで、ラーメン屋に入った。ネロはカインが入ってきたことに気づくと優しい笑顔で「らっしゃい」と声をかけてきた。
カインの関わっていた大きなプロジェクトが成功した、と開口一番にネロに伝えると、驚きの表情を浮かべて、そしてカインの嬉しさが移ったかのような笑顔で祝福してくれた。そして、カインがいつも通りゆず塩ラーメンを頼んで待っていると、運ばれてきたラーメンにはチャーシューが一枚多く入っていた。カインが思わずネロのほうを見ると、ネロはいたずらっぽい笑みを浮かべて、口の近くまで人差し指を持ってきた。
「おれのおごりです。お祝いに」
「え!?…いいのか?」
カインは思わず声をあげてしまったが、慌てて声を潜める。そしてその声の調子のまま浮かれて話す。
「あまりにもうれしかったから、誰かにこのことを伝えたくて…。そしたら真っ先にあんたの顔が浮かんだんだ」
カインがそう言うと、ネロは珍しく本気で驚いたような顔をした。いつもけだるそうな目がはっきりと開いていて、口が微かに開く。そしてその口元が、美しく弧を描き、目がまぶしいものを見るように細められる。
「……………あんたにそう思われて、嬉しいよ」
その顔が、いつも以上に大人っぽくて、カインはその時ふとネロが自分よりも何歳か年上なんじゃないかと思った。それが引き金になって、カインはネロについて知っていることを考えてみると、知っている情報はほとんどなかった。前に、ここの店主のラーメンの味に惚れて働き始めたとは言っていたが、年齢はもちろんのこと、ネロ自身のことがわからない。自分の話を聞いてもらってばかりで、カインにはネロの情報は全く入ってきていなかった。
その事実にカインの心は煙で曇るようにもやっとした。ネロとカインは店員と客の関係性だから仕方のないことだとはわかっているが、ネロのことをもっと知りたいと思った。
そのまま色々聞いてみたい衝動に駆られたが、仕事中のネロの邪魔をしてはいけないと思い、いつも通り勘定を済ませると、カインは店が終わるまで近くの公園で時間をつぶすことにした。
ネロを待っている間、何故だか、大事なプレゼンの前のようにドキドキしていた。冷静に考えると、わざわざ相手の仕事が終わるまで待っているだなんて常識的ではない。
ネロは多分、優しい男だが自分の懐に入れる相手は慎重に選ぶタイプだ。カインのことを嫌いではないのは確かだろうが、一歩踏み込めば距離を取られるかもしれない。話しているうちに、それくらいは察せていた。しかし、カインは全く帰る気にはならなかった。カインはネロの懐に入ることのできる選ばれた人間になりたかった。
(恋、に近いのかもしれない)
そんなことを考えてしまうが、否定する気にもなれなかった。多分、あのオレンジの飴玉を渡された日からカインはネロのことが気になって仕方がなかった。人の感情にあそこまで敏感な人間にカインは会ったことがなかった。
ドキドキしながら、どう話しかけようかと考えていると時間はあっという間に過ぎて、暖簾を回収するためにネロが出てきた。そして、カインをみつけてぎょっとした顔をする。
「お客さん!?なんで、まだこんなところに…?」
悪戯が成功したような気分で、カインは笑いながら、ネロに近づく。
「あんたに聞きたいことがあって」
そう言うと、ネロは戸惑ったように視線をさまよわせて、そしてそのまま店に引っ込んでしまった。
「あっ!?」
やはり突然で驚かせたのだろうか、とカインは不安になる。するとバタバタと走ってくるような音と、店主のネロを叱るような声が聞こえて、ネロが平謝りしている声が聞こえてくる。足音は徐々に近くなり、ネロが出てくる。
「ごめん!待たせた!」
急いで出てきたのだろう。いつもきれいにまとめられているネロの水色の髪はぼさぼさになっていて、顔は赤みがかって上気している。
「あははっ、そんなに急がなくてもよかったのに!」
その勢いと同時にカインの不安は吹き飛んでしまって、思わず笑ってしまう。すると、ネロは少しムッとしたような表情を見せる。
「……ずっと気になってた人に声をかけられたんだ。そりゃ浮かれるだろ」
「へ!?」
思いもよらなかった言葉に、カインはおかしな声をあげてしまう。ネロはしてやったりとでも言うように笑った。
少し歩こうと言われて、駅のほうまで歩くことになった。昼間はまだ暑いが、夜は涼しくなってきた。夜風が気持ちよくて、カインは思わず目を細めた。大通りに差し掛かるところの辺りでネロが切り出してくる。
「で?お客さん…ええっと名前は?」
「カイン・ナイトレイ。カインでいい。あ、あと店出ちゃったから敬語もなくていい…です?」
もしかしたら年上かもしれないと、カインはとってつけたように敬語を加えるとネロは笑って首を振る。
「俺も敬語はなくていいよ。カイン。俺は知っているとは思うけど、ネロ・ターナーって言うんだ。で、何が聞きたいんだ?」
「全部」
「は?」
思わず、口にしてしまった言葉にカインは慌てて首を振った。このままだと誤解を与えるだろう。
「すまない。ネロと普通に話せるのがうれしくて、言葉が足りなくなってしまった。普通に店員と客として話すのも楽しかったけど、ネロともっと仲良くなりたいし、もっと詳しく知りたいなって思って待ち伏せしてしまったんだ」
カインが何でもないことのように言うと、ネロは吹き出してくつくつと笑いだす。どうやらツボにはまってしまったらしく、震えている。
「ははっ、そうか…、カインってすっごく大胆なんだな…はははっ」
どうやら、ただ仲良くなりたいという気持ちで待ち伏せたという事実にウケているらしい。
「そんなに笑うことか…?仕事中は話しにくいだろ?だからこうするしかないかなって…」
「いや、確かに俺にはまねできないし、尊敬するよ。…俺もあんたとはもっと話してみたかったんだ」
ようやく笑い終えたネロが、ラーメン屋で見せたような大人っぽい笑顔を見せる。バイト着からシャツとパンツという普通の服に着替えただけなのに雰囲気がガラッと変わったのが不思議だとカインは思う。
「え?本当か?」
嬉しそうに聞き返す、カインをじっと見返してネロがカインの頬に触れた。
「ラーメンをうまいって素直にあんたが言ってたあの日から、ずっと気になってたから……ああ、取れた。髪の毛、ついてたぞ」
「あ、ああ。ありがとう…」
髪の毛を見せてくるネロはいつも通りだったが、カインの頬に触れた時のネロの顔は危険な色気を孕んでいた。まるで、カインは気づいたら危険なわなの中にいたような、そんな錯覚を覚えた。
(…ああ、俺は多分、思ったよりやばい男に興味を持ってしまったのかもしれない)
しかし、もう引き返せないところまできてしまったし、それでもやはりネロが気になる気持ちのほうが勝ってしまった。カインは火照る頬を夜風に冷やしながら、夜の街をネロと連れ立って帰った。