夕星のプレリュード「―――問題ありません」
その一言に、ゆうたは無意識のうちに詰めていた息を吐いた。こんなに緊張することなんて最近はあんまりなかったのに、なんだか不思議な気分だ。
「まだ詰めが甘い部分はありますが、及第点でしょう」
「ありがとうございます! ……具体的にどこが甘いですか?」
恐る恐るお伺いを立てると、書面に落ちていた視線がこちらを向く。レンズ越しのアクアマリンに驚きの色が滲み、一拍置いて何故だか楽しそうに細められた。
やりたい企画を思いついた。ひなたにそう言ったのは一週間くらい前になるだろうか。年末から忙しない時間を過ごしてきてようやく一息つけるというタイミングでの申し出を、ひなたは嫌な顔ひとつせず快諾してくれた。それどころか、企画書作りやら何やら手を貸して来ようとするのを断るのが大変だったくらいだ。
ボルケーノアイランドの放送後―――ゆうたが髪型を変えたあとのSNSには、色々な声が上がっていた、らしい。ゆうた自身はあまり見ないようにしているのだが、忍が嬉しそうに「ものすごい反響でござるよ!」と教えてくれたので、それなりに話題にはなったようだ。それだけでも動いて良かったなと思えた。
今回の企画は生み出した流れをここで終わらせないためのもの。葵ゆうたが、葵ひなたとふたりでもっともっと輝くための作戦。だからこれまでで一番気合いを入れた。いちから企画書を書き上げ、確認してもらうべく茨にアポを取り、こうして朝イチで副所長室で直々に企画の内容を精査してもらっている。
「……と、こんなものですかね」
「あ、ありがとうございます……」
はふ、と息を吐いてボールペンの芯を仕舞う。矢継ぎ早に列挙された改善点でメモ帳は真っ黒になってしまった。あとで読み返せるだろうか。
「明日……は少々厳しいですかね。明後日までに該当箇所を再考してホールハンズで送ってください」
「あさ……!?」
さすがに声が出てしまった。今日の午後も明日もラジオやテレビ番組の収録が入っていることを、副所長である茨が把握していないわけがない。それらを踏まえての期限が明後日ということだ。
頭の中で各番組の収録スタジオの場所を並べてみる。移動時間が結構ありそうだ。出来なくは、ない。どのみち無理ですなんて言うつもりはないけど。
「……わかりました」
「お待ちしてますね」
茨がにこりと笑う。なんだか怖いくらい機嫌が良い。理由が気にはなるが、聞いたところで答えてくれるとは思えなかった。
ふとポケットの中のスマートフォンが震える。相手はきっとひなただろう。事務所で落ち合う予定の時間まではまだ猶予があるが、耐えきれなくなったらしい。もう少し大人しく待っていてくれないものか。
「失礼します」
このままだとここまで迎えに来かねない。退室の挨拶を終えたゆうたは、茨と、ソファで本を読んでいる同室の先輩にそれぞれぺこりと頭を下げてから踵を返して足早に扉へ向かう。ドアノブに手を掛け、あとは少し力を入れるだけというところで、不意に背後から言葉が飛んできた。
「似合っていますよ」
反射的に振り返ったはいいものの、意味を掴みあぐねてそのまま固まる。突然何の話だろう。僅かに首を傾げるも、茨はにこにこと見つめてくるだけでヒントは期待出来そうにない。
「……ゆうたくん」
ぐるぐると絡まりそうだった思考が名前を呼ばれたことでゆるむ。これまで一言も発していなかった凪砂がいつの間にか本から顔を上げていた。穏やかな光を湛えた琥珀が、ゆうたの後ろへと向けられる。
「……髪、また触らせてね」
「え? はい、それはいつでも……」
凪砂には同室のよしみで『葵白夜』の髪型について相談に乗ってもらったことがあった。しかし何故今その話を? 再び首を傾げようとして、はっとする。なるほど、茨の代わりにヒントをくれたのか。
髪型を変えてから茨とこうしてゆっくり話す機会はなかった。つまりはそういうことだ。もっと分かりやすく言ってくれればいいのに。
「……楽しみにしているよ」
「ありがとうございます、乱先輩。副所長も」
「いえいえ」
廊下から聞き慣れた足音がする。どうやら部屋の前を行ったり来たりしているらしい。ノックされる前にと、握ったままだったドアノブに力を込めた。
*
ふわりと揺れる橙色がドアの向こうに消えた。外が騒がしくなり、楽しげな声が二人分の足音と共に遠ざかっていく。それらが聞こえなくなってから、凪砂は茨へと目を遣った。企画書をしまってパソコンに向き直る相棒は随分と機嫌が良い。凪砂がいなければ鼻歌でも歌っていそうだ。
「……ちゃんと言ってあげればいいのに」
「はい?」
思わず溢れた言葉は半ば独り言だったが、凪砂の下僕を称する茨の耳にはきちんと届いたらしい。キーボードを打つ手は止めないまま意識だけがこちらに向けられる。聞いてくれるのならと、手にしていた本を閉じた。
「……きっと、茨が意図したことの半分も伝わっていないよ」
もちろん髪型のことも含めての発言だろう。でも、それしか伝わらなかった。髪型を変えると決めたことや、以前より強い光を湛えるようになった目のことを言われただなんて、恐らくゆうたは思い至らないだろう。
「いいんですよ、そのつもりで言葉を選んだんですから」
「……どうして? ゆうたくん、この一週間とても頑張っていたよ」
企画書を書いたことは無いが、内容はいつも茨が用意してくれる資料にある企画概要のようなものだろうと推測出来る。やりたいことを主張するだけではなく、企画を行うメリットや期待できる反響や利益を提示しなくてはならない。多くの人員や少なくはない金銭を動かすことになるそれを書き上げるのは、決して容易なことではない。不慣れであれば尚のことだ。
「……企画書、よく書けていたんでしょう? 努力がきちんと成果として出ているのであれば、褒めてあげて欲しい」
何も企画書の内容だけではない。及第点で満足することなく、ゆうたは更に上を求めた。ボルケーノアイランド以降の彼のその姿勢は茨の好むものであるし、だからこそ先の褒め言葉を口にしたのだろう。しかし、茨の思考や性格を把握している凪砂以外の誰が、文言以上の意味を汲み取れると言うのか。いつもなら凪砂でさえ辟易としてしまうくらい言葉を並べ立てて褒めるのに、なんて分かりにくい言い方を。
小気味の良い音が止む。ふぅ、と息を吐いた茨はわざとらしく眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「別に彼は褒められたくてやっているわけではないでしょう」
「……そうだけど。でも、努力を認めてもらえるのは嬉しいものだよ」
「そういうもんですかねぇ……まあいずれにせよ、企画が成功してからになりますが。肝心なのはこれからですからね」
それはそうだ。机上の空論で終わってしまっては意味が無い。
「最低限の時間は与えました。明後日が楽しみです」
そう言って笑う茨は言葉の通りとても楽しそうで、つられて凪砂の顔にも笑みが浮かぶ。こんなにも生き生きとした相棒の姿は最近とんと見られなかった。
今日はオフなので、茨の仕事が終わったらテイクアウト出来る激辛料理のお店を調べてもらおう。それと散歩がてらアクセサリーショップも覗いてみようか。ふわりと揺れる橙色に似合う、素敵なヘアアクセを探しに。