約束の糸でつないで「……私がアイドルをやめたいと言ったら、どうする?」
軽やかにキーボードを叩いていた音が止まった。こちらを向いた茨は無言のままじっと見つめて来る。きっと発言の意図を考えているのだろう。難しく考えずに思ったまま答えてくれればいいのに。そういうところも好ましいと思うけれど。小さく笑った凪砂は手の中にある石を電球にかざして遊ぶ。
「……そんなに難しい質問だった?」
「いえいえ! ただ、閣下の崇高なお考えに理解が及ばない己の至らなさを恥じておりまして! ……それで、突然どうされました?」
「……どうもしてないよ。ただの興味」
半分うそで、半分ほんとだった。ずっと仕事ばかりしている茨の気分転換にでもなればいいと気まぐれに投げかけた、そこまで深い意味はない問いかけ。だからそんなに重く捉えないで欲しいのに、聡明な相方は何かを探るようにゆっくりと問いを投げ返してきた。
「……もしや、先日の殿下の件がきっかけですか?」
今度は凪砂が動きを止める番だった。石を持ち上げていた手を下ろして目を向けると、茨はふっと短く息を吐いて席を立った。そのままコーヒーを淹れはじめたので、仕事を中断して会話をしてくれるつもりらしい。茨にとっても興味深い話なのだろうか。それなら、少しうれしい。
「どうぞ」
「……ありがとう」
湯気と共に立ちのぼる香りを味わってから一口飲む。これはこの前の地方ロケでもらった銘柄だっただろうか。酸味が強いのが印象的だ。同じく一口飲んだ茨が「さて」と口火を切った。
「シャッフル企画に際して、殿下はアイドルを引退するという嘘を吐かれました。自分たちもそれに協力しました。たった一週間でしたが、役者としても秀でた才能をお持ちである閣下にとっては『そうである』と認識するのに十分な期間です。実際、オンエアを見て泣きそうになってましたもんね」
「……茨だって人のことを言えないでしょう?」
ひとりで見るのは怖いということで日和を除く三人で共有スペースで一緒にオンエア見たのだが、楽曲のモチーフの影響かとてつもない寂しさに襲われ、ちょうど仕事から帰ってきた日和にすぐさま抱き着きにいった。ジュンは少し躊躇ってから抱き着いてきたが、茨は遠慮しますと言って輪に入ろうとしなかった。最後は日和においでと言われ頭を撫でられていたけれど。
「自分の話はいいんです」
ため息交じりの言葉に回想が断ち切られる。これは照れ隠しかな。言ったら話を終わらされそうだから胸の内に留めておくが、こういうところがかわいいと思う。
「で、今度はご自分がアイドル活動をやめることを想像してみたのですか?」
「……正解。すごい、よくわかったね」
「むしろこれが理由でなければ困ります」
はあ、と重めのため息を吐く茨はどことなく安心したように見える。もしかして心配をかけてしまったのだろうか。だとしたら申し訳ないことをした。
「……気掛かりがなくなったのなら、私の質問に答えて欲しいな」
「そうですねぇ……」
茨はあごに手を当てて目を細めた。彼が真面目に考え込むときの癖だ。茨も大概、もしもを考えるのが好きなのかもしれない。
アイドルをやめる。そんな選択肢、凪砂の人生には存在しない。輝かしいステージで歌い踊ることこそが人生の意味なのだから。だけど、もしも凪砂にはどうすることもできない事情が出来たら。何かしらのきっかけで心変わりしたら。そのとき、凪砂を導いてきたこの子はどういう反応をするのだろう、と。そんな好奇心と期待が湧いてきたのだ。
茨の視線が凪砂を捉える。どうやら考えがまとまったらしい。少し、ドキドキする。
「まず、原因を探ります」
「……原因」
「閣下がアイドルをやめるなんて天地がひっくり返ってもあり得ませんから。厄介事に巻き込まれたか、誰かに騙されているか……考え得る可能性を全てつぶしていきます」
「……うん」
そのつぶすは可能性のことを指しているという解釈でいいのだろうか。物理的に何かをつぶすつもりではないだろうか。どうも血の気が多いように聞こえる。
「原因がはっきりしたら障害を取り除きます。こんなところですかね」
「……茨は頼りになるね」
事実、慢心していない茨なら大抵の障害は対処できるだろう。外部の事情なら問題なさそうだ。あとは内面的な問題の場合。
「……じゃあ、私が私の意思で、やめたいと言ったら?」
「それなら簡単ですね」
「……?」
予想外の反応に首を傾げると、茨は口元に笑みを浮かべた。勝ち誇るような、そんな笑みを。
「閣下がアイドルを続ける上での利点をご納得いただけるまでプレゼンしますよ」
「……納得させられるの?」
「最高の交渉材料が手元にあるのに、させられないわけがありませんよ」
「……そう」
この先何があってもアイドルでいるために、道を外れそうになったときは連れ戻してくれたらいいなと思った。願わくば、隣にいるこの子が。
―――期待通り、いや、それ以上の答えだ。
「ご期待に添えましたか?」
「……うん。ありがとう」
「お礼を言われることではありませんよ。閣下にはまだまだアイドルとして活躍していただかなくては困りますからねぇ。相互利益というやつです!」
「……なら、私がアイドルをやめるその日まで、隣で歌い踊ってくれる?」
得意げに笑っていた茨がきょとんとした顔をした。何かおかしなことを言っただろうか。
「そう、ですねぇ……正直、自分などがいつまでアイドルとして必要とされるか分かりませんが」
一度言葉を切った茨は、大きなアイスブルーに凪砂の姿を映す。常に策謀を巡らせ、自身のことを最低野郎と卑下する茨が自分たちにだけ見せるこの真っ直ぐな目が、凪砂は大好きだった。
「閣下が、望まれるなら」
「……じゃあ、今からお願いしておこうかな」
「アイアイ! 閣下の仰せのままに!」
びしっと敬礼した茨がデスクへと戻っていく。休憩はここまでのようだ。名残惜しいけれど、いつまでも仕事を中断させるわけにはいかない。凪砂もまた、途中だった石の観察へと没頭しはじめた。