「……君が好きだから」
すっかり聞き慣れた声が、聞いたことのない声音でそう言った。琥珀の奥に灯る熱に気付かない振りをして背けようとした顔は、頬に優しく触れた手によって呆気なく固定されてしまう。
これ以上はだめだと警鐘が鳴り響いている。だというのに、脳の判断に身体がついてこない。
「……好きだよ、茨」
その言葉がずっと、耳の奥にこびり付いて消えなくて。
だから、俺は―――
1
微睡む意識がゆるやかに浮上した。二、三度目を瞬かせて上体を起こしたところで、セットしてあったアラームが鳴る。最近変えたばかりのメロディに耳を傾けながら両手の指を組んだ日和は、そのまま前から上へと持ち上げぐいっと背を伸ばし、十秒ほどそうしてからそっとアラームを止めた。
怒涛の夏が終わり、季節は秋へと移ろいはじめている。張り詰めていたES内の空気も徐々に落ち着きを取り戻しており、ビッグ3として働き通しだったEdenにも一週間の休息が与えられた。休息といっても大きな案件やスタジオでの収録がないだけで、雑誌のインタビューなど事務所で受ける仕事は数件入っているのだが。だとしてもそれなりにまとまった時間を自由にできる機会は貴重だ。
ベッドから降りてカーテンを開ければ、多少は柔らかくなった陽射しが降り注いでくる。さて何からはじめよう。とりあえず朝食を食べて、そのあとはこの間創にもらった紅茶を淹れようか。彼のフレーバーは毎回美味しいので、ゆったり飲める日まで取っておいたのだ。
弾む心で洋服を選び、共有キッチンへ向かおうとした足が先程とは違うメロディに止められる。スマートフォンから流れるそれは、ホールハンズではない私的な連絡であることを示していた。手に取った画面に映る名前に僅かに首を傾げ、通話ボタンを押す。
「もしもし、ぼくだよ!」
『おはようございます。日和くん、今お時間大丈夫ですか?』
「? 別にいいけど……つむぎくんがぼくに何の用?」
通話相手―――青葉つむぎは、かつてのユニットメンバーであり今では良き友人である。とはいえこうしてわざわざ電話を掛けてくるような用件に心当たりはない。一体どうしたのだろう。お腹が空いているから、長くなりそうなら朝食の後にして欲しい。
そうだ。どうせなら朝食を一緒にとって、そのままティータイムの話し相手になってもらおう。互いにESが活動の拠点になったことで前よりも顔を合わせることが増えたが、ゆっくり話す機会はなかった。連休初日の過ごし方として十分有意義だろう。
そこまで考えて、まだ答えが返ってこないことを訝しむ。難しい質問をしたつもりはないのだが、電話の向こうからは何やら唸るような声が聞こえてくる。本当にどうしたのだろう。
「つむぎくん?」
『ああ、すみません。ええと……説明が難しいので、俺の部屋に来てもらえませんか?』
「えぇ? ぼくまだ朝ごはんを食べてないんだよね! それからじゃだめ?」
『ううん……なるべく早い方がいいと思うんですよねぇ。あ、俺の部屋で食べますか?』
「それはあまりお行儀が良くないね……」
何だろう、この歯切れの悪さは。良くも悪くも必要以上に言葉を選ばないつむぎが具体的な説明をしたがらないのは不自然だ。まさか何か厄介事でも抱えたのだろうか。つむぎが副所長を勤めているニューディメンションは新規事務所故にまだまだ問題が多いと茨が言っていたし。
だとするならば、早めに話を聞いてあげた方がいいかもしれない。聞いたところで自分に出来ることがあるのかはわからないが。頼ってきた友人を無碍には出来ない。
「わかったね。紅茶を淹れてから行くから、ちょっとだけ待ってて欲しいね。つむぎくんひとり?」
『いえ、七種くんがいるんですけど……』
「え?」
今しがた立てた仮説がさっそく崩れた。茨がいるのにその手の問題でこちらにお鉢が回ってくるとは思えない。本当に一体どうしたというのか。
通話特有のノイズに紛れる小さな吐息。潜められた声がもう一度茨の名を紡ぐ。
虫の知らせ、あるいは直感というべきか。何か嫌な予感がした。それを決定付けるかのように、ようやくつむぎが本題を教えてくれた。
『ちょっと様子がおかしいんです』
◇
「やぁやぁ! お初にお目にかかります! 自分はコズミックプロダクション副所長の七種茨と申します! わざわざ御足労いただき恐悦至極であります! 敬礼~☆」
「……………」
「わあああっ! 帰らないでください、日和くん!」
思わず引いた取っ手は咄嗟に扉を掴んだつむぎによって身動きを封じられた。仕方なく手を離せば、力の均衡を失ったつむぎが情けない声をあげて壁に激突する。あう、と呻くつむぎを横目に、日和は視線を目の前の相手へと戻した。
「お腹が空いてるって言ったよね。今度は何を企んでるのか知らないけど、つまらないことにぼくを巻き込まないで欲しいね!」
「ああ、申し訳ありません! まずは挨拶をと思ったのですが、お客様を立たせたままでいるなんて配慮が足りませんでした……! さ、お入りください! すぐに食事も手配させていただきます!」
目線にも声にも不機嫌を滲ませてぶつけると、笑顔を貼り付けたままの茨はわざとらしい口調でまくしたてながら敬礼を解き、綺麗なお辞儀をして見せた。それからすぐさまきびきびとした動きで顔を上げると、中へと誘うよう大きく手を開く。
その一連の動作が、彼の纏う空気そのものが、まるで出会った頃のようで。心臓を冷たい手で撫でられているかのような、言い知れない焦燥感を覚えた。
「と、とにかく、話を聞いてください」
体勢を立て直したつむぎがじっと見つめて来る。レンズ越しの瞳はどこまでも真剣で、この状況が決しておふざけの類ではないらしいと物語っていた。
意識して鼻から深く息を吸って心の揺らぎを鎮め、日和は部屋へと足を踏み入れた。
「―――ぼくたちのことがわからない?」
持ってきた耐熱ボトルを茨に渡してソファに座り、とりあえずざっくりと要点を教えて欲しいと頼めば、つむぎからとんでもない回答が返ってきた。
「はい。いつもより遅く起きたのに七種くんがまだ部屋にいたので、Edenの誰かとお出かけする予定でもあるんですか、って聞いたんです。今日から数日間お休みなんだって前に凪砂くんが言ってましたから。そうしたら『どこのユニットですか?』って……」
「………」
ちらりと茨を見遣る。紅茶を用意する背中は見慣れたそれだ。しかし入室時のやり取りを思い返すと、馬鹿なことをと一蹴するわけにもいかなかった。むしろそういうことだったのかと納得すら出来てしまう。
記憶喪失。浮かんだその言葉を脳内で反芻してみる。……どうにも現実味が無い。今にも誰かがベッドの影から「ドッキリ大成功」なんて看板を掲げて出て来るんじゃないか―――そう思うのは、現実逃避だろうか。
「つむぎくん、昨日の夜茨に会った?」
「いえ、俺が帰ってきたときにはまだ七種くんいなくて……」
「……そう」
連休前日ということもあって昨日は遅くまで仕事が入っていた。星奏館に帰ったのは確か22時を過ぎた頃。別れ際の茨に変わった様子はなかった。何かあったとしたらその後ということになる。
「ご歓談中失礼致します! 食事の準備が整いました!」
溌剌な声が思考を断ち切る。白い皿に乗ったサンドイッチと二人分のティーカップが置かれ、質素なローテーブルが食卓へと変わる。
「味気の無い軽食で申し訳ありません! キッチンでしっかりしたものを作ると申し出たのですが、陛下に止められてしまいまして!」
「今の七種くんをこの部屋から出せませんよ」
「あっはっは! 陛下は心配性ですなぁ!」
うるさい声に反して丁寧な動作で紅茶が注がれていく。花丸をあげてもいいかなと思うくらいには綺麗な所作だが、どうにもパフォーマンスに見えるのは彼の纏う空気のせいだろう。こちらに視線を向けないくせに全身でしっかり様子を伺ってくる。率直に言って不愉快だ。これならばいつものように正面から御機嫌取りしてくる方が可愛げがある。
「お待たせいたしました! どうぞ、お召し上がりください!」
「……きみの分は?」
当たり前のように離れようとする茨を呼び止めると、茨は笑みの形をした顔を軽く傾げた。ワインレッドの髪がふわりと踊って、まるでドラマのワンシーンを見ているような気持ちになる。
「自分はもう済ませたのでお気になさらず! 何やら大事なお話があるようなので、邪魔にならないよう向こうに……」
「これは、きみが朝食用にと昨日買ってたものだよね」
語気を強めて遮ると笑顔が強張った。何で知っている、とでも言いたそうな眼差しは無視する。
「ぼくたちが話しているのはきみのことだね。だから、きみも同席して」
思考停止したのも束の間、すぐさま口を開こうとする茨を先手を打って黙らせる。離れたところで聞き耳を立てながら日和たちのことを調べる算段なのだろうがそうはさせない。誤魔化しの手段を手に入れさせたら真実が見つけられなくなってしまう。
「つむぎくん、凪砂くんとジュンくんに連絡は?」
「まだです。大事(おおごと)にしていいかわからなかったので」
「じゃあ二人のこと呼んできてくれる? この時間ならまだ出掛けてないと思うから」
「わかりました」
慌ただしく出ていく背中を見送り、扉が閉まったのを確認してから茨へと視線を戻す。相変わらず表情筋は強張ったままだが笑みは保っている。さすがの胆力だと変なところで再評価してしまった。
警戒心の強い茨のことだ。見ず知らずの人間と二人きりになれば絶対に態度に出ると踏んで、最後の確認のためにつむぎに出て行ってもらったわけだが、これはもう疑いようがない。
茨は、Edenのことを忘れている。
「………ひとまず、お食べになられたら如何ですか?」
黙り込んだ日和に何を思ったのか、単純に場を繋ぐためか。理由は知る由もないが、こんな空気の中食事を促され、何だかちょっと気が抜けた。どう考えたって悠長にご飯を食べてる場合じゃないのに。けれどまあ、お腹が減っては何もはじまらないので言葉に甘えることにした。
サンドイッチを一口かじって咀嚼し、飲み込んでから紅茶を口に含んでゆっくりと喉を潤す。どちらも美味しい。優秀な舌はそう判断しているはずなのに、全然心が踊らない。全くもって悪い日和である。
「お口に合いましたか?」
「まぁね」
当たり前だ。このサンドイッチは、最近朝食を碌に摂っていないという茨に他でもない日和が勧めたものなのだから。