夜明け前の一刻 息苦しさで目を覚ました。視界に映る室内は暗い。まだ夜明け前かな、なんてぼんやり考えながら喉を潤すために身体を起こそうとして、失敗する。力を入れたはずの腕は上体を支えきれずに崩折れてしまったし、大した衝撃じゃなかったのに頭がぐらぐらして仕方ない。なんだか身体も熱い気がする。ああ、体調を崩したのか、と。妙に冷静な思考で結論付けて、無理矢理に身体を起こした。
今日は午前中に流星隊の仕事が入っている。そこに穴を空けるわけにはいかない。夏に毒蜂に刺された傷口は一応塞がったが、痛みが完全に取り去られたわけではない。未だ残る流星隊への風評被害を拭い去るには行動で示すしかない。信頼というのは積み重ねるのは大変なのに崩れるのはあっという間だ。仲間たちが一生懸命頑張っているのに、自分のせいで台無しにするなんて嫌だ。
まだ時間はある。今薬を飲んで寝れば、ある程度動けるようにはなるだろう。薬の効きは良くない方だが何もしないよりはきっとマシだ。薬箱はどこだったか。電気をつけたら迷惑になるし、手探りでいけるかな。転ばないように気をつけ―――ベッドから一歩踏み出したところで、不意に視界が明るくなった。
「何をなさってるんですか、高峯氏」
ため息混じりの呆れた声に名前を呼ばれ、眩しさに咄嗟に閉じた目を開ける。緩慢な動きでそちらを見れば、声音同様呆れた顔をした茨がベッドから降りるところだった。数週間ぶりに寝巻き姿を見た先輩は近くまで来るともう一度ため息を吐いた。
「そんな状態で暗闇の中を歩こうだなんて無謀すぎますよ」
「……すみませ……起こし、ちゃって……」
「お気になさらず。自分、微かな物音でも目が覚めるので。……座っていてください」
抗う気力も意味もないので素直に従う。他のふたりも起こしてしまっただろうかと目を向けるが、あるのは空のベッドだけ。そういえば、光はドラマの撮影でしばらく帰れないと言っていたっけ。つむぎに関してはいないのがだいぶ当たり前になってきている気がする。それは茨も似たようなものだが。身体を壊しそうで心配なんだよなあ。体調を崩してる今、人のことなんて全く言えないけど。
そんなことを取り留めもなく考えている間に茨が薬箱とペットボトルを取ってきてくれた。症状を聞かれて答えると「これですかね」と迷いなくひとつの小瓶を取り出した。
「空腹時の服用は推奨されていないものですね……。十分程お待ちいただけますか? お粥でも作ってきますので」
「え……いいですよ、そこまでしてもらうわけにいかないです……」
正確な時間はわからないが、まだ早朝とすら言えない時間帯であることは確かだ。いくら同室とはいえ、別のユニットの先輩、しかも他事務所の副所長に迷惑を掛けるのは心苦しい。
「立つのもやっとでしょう。大人しくしていてください」
三度目のため息。小瓶を受け取ろうと伸ばした手がやんわりと掴まれる。冷たくて気持ちがいい。心地よさにこのまま甘えてしまいたくなる。でも。
「……ほんとに、大丈夫、です……」
実家を出た以上、自分のことは自分でやるべきだと思っている。相手が同じユニットの暑苦しい先輩ならば、あるいは委ねてしまったかもしれないけれど。寮の部屋が同じというだけで別段親しいわけでもない先輩に頼るのは、違う。半分は意地みたいなものだった。
ちく、たく。秒針が時を刻む音が聞こえてくる。茨は何も言わない。気を悪くしただろうか。せっかくの厚意を断ったのだから当たり前か。途端に胸の内で不安が膨らむ。ガラスを爪で引っ掻くような焦燥感。どうしよう、今からでも謝ったほうがいいかな。でもなんて? 今更お願いしますだなんて言えるわけもないのに。
思考と静寂を無機質な音が断ち切る。スマートフォンに着信があったらしく、茨は「すみません」と言ってベッドから少し離れた。こんな時間に電話が掛かってくることなんてあるのか。副所長って本当に大変だ。
「これはこれは、つむぎ陛下。お疲れ様であります! 今からお帰りですか? ……ええ。大変恐縮ではありますが、お使いをお願いしたく」
茨の声を聞くとはなしに聞きながらぼーっと床を眺めていたが、さすがにしんどくなってベッドに身体を預ける。熱を発散させようとシーツに顔を押し当ててみた。ひんやりとして気持ちいい。このまま眠ったら治らないかな。
「はい、ではそのように。失礼します」
通話を終わらせた茨が戻ってきて、顔の前にペットボトルを差し出してきた。そういえば喉が渇いていたんだった。受け取って身体を起こそうとしたところで「そのままで結構」と止められた。寝転んだままでは飲めないと思っていると、茨が一度視界から消え、すぐに戻ってきた。手に持っている細い棒はなんだろう。
「つむぎ陛下がご自身の朝食のついでに何か買ってきてくださるそうです。それを食べてから薬を飲んでくださいね」
「え……?」
ピリッと紙を破いた茨は片手で器用にペットボトルの蓋を外すと、取り出したストローを差して先端をこちらに向けてきた。半ば無意識に咥えて中身を吸い上げながら今し方言われた内容を反芻する。青葉先輩がなんだって?
「いやあ、タイミングが良かったですなぁ。これで自分がわざわざキッチンに行く必要はなくなりました」
そう言って笑う茨の顔は普段よく見るそれではなく。どう表現していいかわからないが、なんとなく、奏汰を思い出す顔だなと思った。
「ん……あの、七種先輩……」
「はい?」
熱に浮かされた頭ではわからないが、きっと自分のために何かしてくれたに違いない。睡眠は貴重なはずなのに、今も尚ベッドに戻る様子はなくこうして傍に居てくれる。その優しさが、うれしい。
「……ありがとう、ござい……ます」
ほんの僅かに目を見開いた茨がすぐさま笑みを浮かべる。それはいつもの笑顔で、安心すると同時になんだか勿体無い気がした。さっきのはきっと、なかなか見られない表情だっただろうから。
「同室の人間として当たり前のことをしただけですよ」
少し寝てください、と聞いたことがないくらい穏やかな声で言われ、大人しく目を閉じる。眠りの海に沈みながら、遠くで響く歌声を聴いた気がした。
それからおよそ十数分後。何故か茨をベッドに押し込もうとするつむぎと抵抗する茨の喧騒で翠は目を覚ますことになるのだが、それはまた別の話。