ほうき星の尾に手を伸ばす「せんぱい!!」
賑わう会場に突然響いた緊迫した宙の声。反射的に隣を見た夏目の目に飛び込んできたのは、頭に水をかけられるつむぎの姿だった。その光景はまるで映画のワンシーンのようにスローモーションで現実味が全く無い。呆然とする意識がファンたちの悲鳴によって現実へと引き戻される。時を同じくして、いち早く駆け付けた茨が水筒を持つ女性の手を掴み上げていた。
「動かないでください」
「なんであんたがいるのよ! Edenとfineだけでよかったのに!」
茨の声など聞こえていないようで、女性はつむぎを睨みつけたまま可愛らしい声に剣を滲ませて喚く。髪留めについた羽根や耳元で揺れるりんごのイヤリング、ふわっとした形でありながら白と黒のコントラストで程よくシャープな雰囲気を持たせたワンピース。ほぼ間違いなくEdenもしくはfineのファンだろうに、己の腕を掴む茨や少し遅れて駆け寄ってきた弓弦に見向きもしない。何かがおかしいと直感が告げていた。
「いつまでfineのリーダー気取ってるの!? fineは英智様のものなんだから! 凪砂くんや日和くんは今はEdenだし、もう関わらないでよ……!」
何を言っているのだろう。めちゃくちゃな発言は感情論とすら呼べない程に支離滅裂だ。どうしてそんな風に思ったのかひとつずつ順を追って教えて欲しい、なんて現実逃避じみた思考を首を振って払いのける。ここは握手会の会場であり、本来ファンのみんなへ楽しい時間を提供すべき場だ。いつまでも彼女ひとりに付き合っているわけにはいかない。
「センパイ、とりあえず」
着替えて、と言おうとしたところで不意につむぎがブースから出た。止めようとする茨ににこっと笑いかけてから女性に近付き、目線を合わせるように少しかがむ。
「そんなに叫ばなくても聞こえてますよ。のど、痛くなっちゃいますから、ゆっくりお話してください」
未だ紺青からは絶えず水がしたたり肩を濡らし続けていると言うのに。それでも微笑むつむぎに誰も、直前まで叫んでいた女性すら言葉を失った。最初に我に返ったのは茨で、駆け付けた警備員に女性を任せるとつむぎに身体を寄せる。
「陛下、お着替えを」
「……っ、なんで陛下なんて呼ぶの!?」
再びの叫びが鼓膜を突き刺す。さして離れていない距離だ、小声で耳打ちしたところで聞こえてしまうのも無理はない。そんなこと承知の上だったのだろう、茨は意にも介さずつむぎの背に手を添えて淡々と移動を促している。悔しいが、さすがだと思ってしまった。
「茨くんはEdenでしょ!? こいつとは関わりないじゃない!」
ああ、彼女はどうにも怒りで視野が狭くなってしまっているようだ。確かに大きなライブを除けばSwitchとEdenが同じステージに立つことはあまりない。だが、アイドルも人間だ。同じ業界で活動している以上ファンに見せることのないプライベートでの関わりがあってもおかしくないと、少し想像すれば分かるだろうに。ましてや茨はつむぎと星奏館で同室であり、つむぎが何度かインタビューでその話をしているためわりとファンの間では知られていることだと思うのだが。
「さあ、早くご移動を」
言いながら茨が警備員に目配せする。頷いた警備員によって半ば引きずられるようにして連れて行かれる女性は、なおもつむぎに向かってよく分からないことを叫び続けていた。―――だというのに。
「怪我をさせないでくださいね」
心配そうな顔で見送るつむぎは最後まで彼女のことを気に掛けていて。つむぎらしいと思うと同時に、どうしようもなく、腹が立った。
*
ノックした扉が間髪入れずに開けられ、驚きと呆れが一緒に込み上げて来た。
「あれ? どうしたんですか、英智くん」
きょとんとした顔のつむぎは至っていつも通りに見える。あんなことがあったというのにどうして普段と変わらずいられるのだろうか。いっそ怖いくらいだ。
「あなたの日々樹渉もいますよ、先代さん」
「わっ、びっくりしました~」
「……相手を確認してから開けるべきだろう、つむぎ」
「てっきり伏見くんだと思ったので……」
あははと笑うつむぎに溜め息を吐いて部屋に入る。確かにつむぎをここまで案内したのは弓弦だし、英智が行くと言わなければ彼が来ていただろうから自然な思考ではあるのだが。今しがた危害を加えられた人間とは思えない警戒心の無さに目眩がする。他のアイドルたちには茨から単独行動を控えるよう指示が出ていて、会場からこの部屋までの短い距離でさえ渉が着いてきてくれたというのに。
「とりあえず頭を拭いて」
「わざわざ届けに来てくれたんですか? ありがとうございます」
手渡したタオルで髪を拭くつむぎをじっと観察する。髪が傷んでいたり顔にぱっと見て分かる怪我が無いことを確認して内心安堵の息を吐いた。
英智のブースはつむぎのそれとはそこそこ離れていたのですぐに事態を把握することが出来なかった。状況確認のため近寄ろうとしたが渉と弓弦に止められてしまったので、こうしてタオルを届けに来たのだ。必要なら心のケアを、とも思っていたのだがそれに関しては杞憂だったようで何よりだ。
「終わったらこちらにお着替えをお願いしますね」
「えっ、なんでユニット衣装がもう一着あるんですか?」
「ふふふ。何があってもいいように全員分の衣装の予備を用意してあるんです」
「日々樹くんすごいです!」
聞こえてくるあまりにも緊張感のない会話に肩の力が抜けていくのを感じる。警備体制の見直しや来場しているファンへのフォロー、この件がSNSに漏れた場合の対処など、やるべきことはたくさんあるが、人心地ついても許されるだろうか。
「あ、会場はどうなってますか?」
「Eveのふたりが中心となって即席のトークショーをしてくれてるよ。こういうときの日和くんは本当に頼りになるね」
「さすがですね〜。なら、ファンの子たちも大丈夫ですかね」
本当に、どこまでもいつも通りだ。理不尽に傷つけられたのに怒りも悲しみもしないで―――
「……あの子も、少しは気分が晴れたでしょうか」
―――耳を疑った。突然のことに理解が追い付かない。いや、言葉の意味は理解出来ているのだけれど、言っていることを理解したくない。
「あなた、やはり気付いていたんですねぇ。彼女が何をしようとしているのか」
「え? それはまあ、見えてましたから」
「待ってくれ」
それまでと同じ空気で話を進める渉とつむぎを信じられない顔で見てしまう。世間話をするような感じで言わないで欲しい。
だってまさか、もしかして。
「……わざと避けなかったって言うのかい?」
手を止めることもなく、ごく当たり前だというようにつむぎは頷く。
「隣の夏目くんや他のファンの子たちにかけられたら嫌でしたし」
「だからって……今回は水だったけど、危険な液体の可能性だってあるんだよ?」
「なおさら、俺で良かったです」
そう言ってつむぎが笑うから言葉に詰まってしまった。なんて言えば今の気持ちをつむぎに伝えられるのか、全く見当もつかない。
彼女は英智と凪砂と日和の名前を出していた。つむぎがその三人と一緒にいるのが気に入らないのだと。
―――今回の握手会は当初、fineとEdenとKnightsで行う予定だった。しかしKnightsに急遽外せない仕事が入ってしまい、代わりにSwitchが参加することになった。かつてのfineのメンバーが揃ったのは単なる偶然に過ぎない。それなのにつむぎに害意を抱き、あまつさえわざわざ会場に来て危害を加えるなんて、はっきり言って普通ではない。それを分かっているのだろうか、この底抜けのお人好しは。
「英智くん?」
黙り込んだことを不思議に思ったらしいつむぎが顔を覗き込んできたので、彼の頭に被せたままになっているタオルへと手を伸ばしわしゃわしゃと拭いてやった。全然拭けてないじゃないか、へたくそだなぁ。
「わあ!? いいですよ、自分で出来ますから……!」
「うるさい。じっとしてて」
短く告げれば案外素直に言うことを聞いたのでそのまま拭き続ける。今はまだ顔を見られるわけにはいかない。きっと情けない顔をしているだろうから。ああ、手が微かに震えている。どうか気付かないでくれ。理由を聞かれても上手く答えられる気がしないんだ。
「……馬鹿だな、君は」
小さく呟いた声はタオルに吸い込まれ、つむぎの耳に届くことはなかった。
*
突如開催されたトークショーは即席とは思えない程の盛り上がりを見せていた。会場の中心に簡易ステージを作り、MCはバラエティに慣れているEveで回し、他のユニットからひとりずつゲストとして参加する。時間を決めてゲストを交代することで誰のファンであろうと飽きさせない。はじめは不安や恐怖で揺れていた空気はすっかり和らぎ、会場は楽しい雰囲気に包まれている。見事な手腕だ。
「……お疲れ様」
宙と交代してブースの裏に下がってきた夏目は、差し出されたペットボトルを見て思わず目を瞬かせた。それ自体はごく一般的なミネラルウォーターなのだが、驚いたのは差し出してきた相手だ。
「何してるノ、乱センパイ」
「……私はしばらく出番がないから、普段出来ないことをやってみたくて。どうぞ」
「ありがとウ」
相変わらずよく分からない先輩だな、と思いながら喉を潤す。スタッフの多くは忙しなく走り回っていて細かいところまで手が届いていないので、好奇心とはいえやってくれるのは助かるが、日頃凪砂を閣下と呼び、その呼び方に相応しい扱いをしている彼がよく許したものだ。
そこまで考えて、当の茨の姿がないことに気付く。
「茨くんはどこに行ったノ?」
「……私もそれが知りたくて。ここにはいないみたいだけど、探しに行こうにもひとりで動くなって言われているから」
「なラ、大人しく待ってるしかないネ」
すれ違いになっても困るし、何より余計な混乱を避けるためにも不必要な行動は控えるべきだ。
「……つむぎくんのところに行かなくてもいいの?」
「……ウン?」
話題の転換が急すぎて頭が追い付かない。茨を探すのを手伝って欲しいのかと思ったが、こちらを見る凪砂が心配そうな顔をしていたから、単純に夏目を気遣っての言葉だと分かった。もっと分かりやすい言い方があるんじゃないだろうか。
「Switchのリーダーとしテ、ファンの子たちを放ってはいけないヨ。それニ、渉にいさんが様子を見に行ってくれてるしネ」
「……英智くんもね」
凪砂が小さく笑う。そのとき、近くの扉から茨が姿を見せた。
「おや、珍しい組み合わせですね」
「……おかえり、茨。ひとり?」
「ええ、そうですが」
「ボクたちには単独行動するなって言ったのニ」
「自分は良いんですよ、対処出来ますから」
「……そうかもしれないけれど、心配だから次は私を連れて行ってね」
凪砂の言葉を笑顔で流した茨は簡易ステージの方を覗き込み、日和がこちらに視線を向けたタイミングで手短にジェスチャーをした。日和は目に見える反応こそしなかったが、会話を少しずつまとめはじめる。
「……つむぎくんの用意が出来たんだね」
「はい。五分程でこちらにいらっしゃいます。陛下にもステージで少しお話し頂いてから、本来の握手会の形に戻します」
ふぅ、と短く息を吐いた茨がこちらを見た。どうしたのかと黙って見返せば、少し躊躇ってからおずおずと口を開く。
「……対応が遅れてすみません」
「何のことかナ」
「違和感はあったんです。我々やfineのファンだと思しき格好で陛下の列に並んでいることに。ですが、合同の握手会ならそういうこともあるかと見逃してしまいました」
殊勝な態度に面食らってしまった。それなりに大規模な握手会ということで茨も警備に関わっていただろうから、責任を感じるのも無理はない。しかし、今回のことは誰にもきっと予見出来なかった。ファンに――彼女のことをファンと呼んでいいのか分からないが――故意に傷付けられる可能性を考えながら舞台に立つアイドルがどれくらいいるだろう。
もしも、考えなければならないというのなら。
「別に茨くんのせいじゃないヨ。センパイがあんな風に思われてるんだっテ、把握しておくべきだったのはボクだ」
リーダーとして、ユニットメンバーのことを守る義務がある。事が起きてしまった以上、そんなこと考えもしませんでした、なんて言い訳は通用しない。
「……ふたりとも」
ぽん、と肩が叩かれる。夏目と茨の間にそっと入ってきた凪砂は、ふたりを交互に見ながら優しく微笑んだ。
「……反省するのは大事だけれど、今は目の前にいるファンの子たちに愛を届けよう」
ガチャ、と音がして、先ほど茨が入って来た扉からつむぎが顔を出した。そして夏目を見つけ、安心させるようににこっと笑いかけてくる。ちり、と胸の奥が焼け付くように痛んだ。ペットボトルを持つ手に力がこもる。
なんでそうやって笑うんだ。傷付けられたのは夏目ではなくつむぎなのに。
「陛下、あちらへ。猊下と日々樹氏もご一緒に」
タイミングよくつむぎを呼ぶ声がして、茨を先頭に三人はそのまま簡易ステージへと歩いて行った。何故か凪砂もついていき、夏目だけがブースの裏に取り残される。
ひとりになった途端、色んな感情が込み上げてきて思わず座り込んだ。握り締めたペットボトルがみしりと音を立てる。
「……自分のことも大事にしてヨ……つむぎにいさん……っ」
絞り出した声は歓声に掻き消され、誰に届くこともなく。
しかし後日、つむぎのスマホには赤色と黄色の小さな鈴が、鞄には最新鋭の防犯ブザーが付けられたとか。