春陽の兆し SS―――ウィンターライブの決勝戦を終えた、数時間後。茨が考えたスケジュールに則って秀越学園寮の自室でベッドに横になっている凪砂は、じっと暗い天井を眺める時間を過ごしていた。
身体には疲労が溜まっているはずなのに、どうにも目が冴えてしまっていけない。今すぐ寝付くのは無理だと判断し、ストールを羽織って部屋を出た。
外はすっかり夜の帳が降りている。この時間に出歩くことはあまりないので、目に映るものも、耳が拾う音も、肌に触れる空気も、全てが新鮮だった。
(……星が綺麗だ)
見上げた空では無数の星々が瞬いている。つい数時間前の自分たちも、あんな風に輝いて見えていたのだろうか。そう在れたのなら良いなと、思う。
深く息を吸ってみた。冷たい空気が流れ込んで来て心地が良い。そのままゆっくり吐き出せば、白くそまったそれが静謐な空間に溶けていく様が美しかった。
たまにでいいから夜の散歩をスケジュールに組み込んでもらいたい。お願いしたら、あの子は笑顔で聞き入れてくれるだろうか。それとも、健康に悪いと苦笑しながら却下されてしまうだろうか。
脳裏に思い浮かべた顔はどちらの表情も見せてくれない。無感情にどこか遠くを眺めている。これは、最後に見た茨の表情だ。別れ際に見せた顔ではない。取り繕うのが上手な茨がさっさと隠してしまった、素の顔、というものだ。少なくとも、凪砂はそう解釈している。
(……あの子は、何を思っていたのだろう)
スポットライトに照らされないステージには、今凪砂を包んでいるのと同じ程度の闇が広がっていた。だから、すぐ近くにいた茨の様子もよく見えなかった。
―――……ふふ、残念だったね、茨
―――んん、良いですけど〜……
胸中が気になったから、再びライトに照らし出された相棒に話を振った。悔しがるかな、とか。不機嫌になるかな、とか。ぼんやりとした予想は悉く外れ、返ってきたのは「無」だった。
きっと、全く無かったわけではないはずだ。自分と違って茨は情緒が豊かだから。あの表情に含まれた情動を、凪砂が知らないだけなのだ。
(……会いたいな)
そして答えを教えて欲しい。凪砂が知らないことを教えるのは、今では茨の役目なのだ。
―――不意に、静寂の中に微かな音が混ざった。遠くから聞こえたそれは車のブレーキ音だろうか。こんな時間に車で秀越学園の寮に乗り付ける人間など、ひとりしか心当たりがない。
ちょうどいい、散歩も兼ねて迎えに行こう。もしかしたら、スケジュールを破っていることを咎められてしまうかもしれないけれど。ウィンターライブでは頑張ったのだから多少は大目に見てもらえるはずだ。導き出した言い訳を片手に、凪砂は正門へと軽やかなステップを踏み出した。
数分と経たずにお目当ての人物を見つけた。黒いロングコートを羽織っているため、目を凝らさないとそこに居るのが分からない。だからこそ選んだものなのだろうが、そのまま夜に溶けてしまいそうで少し怖い。
「……茨」
白い吐息に乗せて名を呼ぶ。ワインレッドの髪が闇に踊った。弾かれたように振り向いた茨は、凪砂を認めると大袈裟に溜め息を吐いた。
「こんな時間に何をなさっているのですか、閣下」
「……散歩。随分と遅かったね」
「馬鹿共のせいでやることが山積みですから」
「……そっか」
頭に手を置いて曲線をなぞる。ひくりと肩が跳ね、レンズ越しのアイスブルーが何か言いたげに見上げて来た。どうかしたのかと問う前に茨がそっと口を開く。
「ご期待に沿えず申し訳ありませんでした」
「……ウィンターライブのこと? それなら、茨の責任ではないよ」
どちらも全力を尽くした結果だ。悔いが全くないわけではないが凪砂としては概ね満足している。それに、茨がどれだけ頑張っていたかは隣で見ていた凪砂が一番知っている。謝る必要なんてどこにもない。労いの気持ちを込めて親指をおでこに滑らせるのと、アイスブルーが細められるのはほぼ同時だった。
「自分のやり方は、お気に召しませんか」
「……え?」
思ってもいなかった言葉に目を瞬かせる。その隙にやんわりと手を払いのけられた。一歩、二歩。背を向けて距離を取りながら茨が続ける。
「閣下は彼らの勝利を心からお祝いなさっていたようなので。正しくない自分と組むのはお嫌になったのではないかと思いまして」
何を言われているのか分からない。けれど、茨が珍しく、素直な心を見せてくれている気がする。理解したい。もっと、茨のことが知りたい。
言われた言葉を反芻する。『正しくない』なんていつ口にしただろうか。記憶を少しさかのぼって―――数時間前のやり取りに思い至る。
「……もしかして、私がスバルくんに言ったことを気にしているの?」
一瞬の、しかし体感としてはそれなりに長い沈黙が二人の間に流れた。
「……まさか!」
元気な声と共にぱっと振り返った茨は、見慣れた笑顔を浮かべていた。
「すみません。大舞台を終え、さすがの自分も疲れが出ているようです。さ、早く戻りましょう。風邪を召されては大変ですよ」
「……茨」
「明日はオフですが、明後日には生放送がありますからね」
自分から振ってきたのに、この話は終わりだとばかりに背中を押される。触れられたくないのはきっと本心に近いことだからで、だったら尚更、このままで終わるわけにはいかなかった。
身体を反転させ、茨の手を引いて抱きしめる。びくっと肩を跳ねされた茨が条件反射のように抵抗するのをぐっと抑え込むと、諦めたのかはたまた単に疲れたのか、大人しく腕の中に収まってくれた。
「閣下~? どうなさいました~?」
「……わからない。でも、こうしたいと思った」
「はあ……」
釈然としていない様子の茨の頭を、今度は抱き込むようにしてそっと撫でる。
傷つけたのかもしれない、と思った。スバルへの発言に茨の努力を否定する意図は全くなかったというのに。自分の思考を正しく言葉で相手に伝えるというのは難しい。そう思ったら抱きしめたくなった。こうすればきっと、少しは気持ちが伝わると思ったから。
「……そうか。愛を、感じて欲しいのかな……」
「はい……?」
茨が心底怪訝そうな声を出したが、思考に耽る凪砂の耳には届かない。
ぬくもりを共有することが愛だと親友が教えてくれた。
ならば、ぬくもりを共有したいと思うこの気持ちもきっと、愛なのだろう。
*
(なんなんですかねぇ、この状況……)
己を拘束しながら何やら考え込んでいるらしい最終兵器様を横目に、茨は心の内で大きなため息を吐いていた。心の底から疲れているのでさっさと解放してくれないだろうか。そもそも、なんでこんな寒い中散歩なんてしていたんだこの人。今日だけは顔を合わせたくなかったから就寝予定時刻を大幅に過ぎてから帰ってきたというのに。
ウィンターライブの結果をどうこう言うつもりはない。身内の不祥事を読み切れなかった己の落ち度が敗因であり、Edenの実力が彼らに及ばなかったわけではない。消化不良なのは否めないが、その分も上乗せして次の機会に挽回すればいいだけのこと。
そう、頭では整理がついているのに。
―――……勝敗には意味がないけれど。君たちの、今宵の勝利には価値がある
穏やかな声が紡いだ言の葉が、小さな棘となって心に突き刺さって抜けない。
争い事が嫌いな凪砂らしい賛辞だと思う。だからだろう、ふいに疑問が浮かんだのは。
(もし、自分たちが勝っていたら。それでもあなたは、その勝利に価値があると言ってくれましたか?)
そのビジョンが、茨には思い描けなかった。自身の勝利を喜ぶよりも戦った相手の健闘を称え、勝敗に意味などないと笑う様子しか浮かばない。
褒めて欲しいわけじゃない。Edenの栄光は茨の歩みに必要なことであり、誰かのためにやっているわけではない。自分で選んだ道を自分のために歩いているに過ぎない。
ならばどうして、この棘は抜けないのだろう。
(いくら考えても答えが出なかったから、自己分析が済むまで会いたくなかったのに)
余計なことを口走ってしまった上に捕まって身動きを封じられるなんて。全くもって何もかもが思い通りにいかない日だ。こういうのを厄日と言うのだろうか。
ちらりと腕時計を見遣ると間もなく二つの針が重なるところだった。そういえば遠くで鐘が鳴っているような気もする。もうそんな時間だったのか。
「閣下、いい加減離してください。日付が変わるどころか年を越しちゃいますよ」
「……え? もうそんな時間なんだね」
今しがた思ったことを凪砂も言うものだから、なんだか気が抜けてつい笑みが零れた。凪砂が不思議そうに首を傾げたので誤魔化すための咳払いをひとつ。
「外で年越ししたなんて殿下に知られたら怒られてしまいますよ」
「……あったかくしていたって言えば大丈夫だよ」
「閣下が大丈夫でも自分が怒られるんですってば」
「……私が口添えしてあげるから」
だから、もう少しこのままで。
そう言わんばかりに身体に回された両腕に力が込められる。意味がわからない。これ以上考えることを増やさないで欲しい。なんてことは口が裂けても言えないので、黙って凪砂の気が済むのを待つしかない。
全ての針が重なる。それを告げる前に「……年、越したね」と凪砂が笑った。なんでわかるんだ。
「満足しましたか?」
「……うん。ありがとう」
「どういたしまして」
やっとのことで自由が返って来たので、軽く肩を伸ばしてから凪砂の背を押して歩き出す。ストールを羽織っているとはいえ大分身体が冷えてしまっただろうから、寮に帰ったらあたたかい飲み物を用意しなくては。
「……茨」
「はい~? 今度はなんですか~?」
「……来年も、一緒に年を越そうね」
思いがけない言葉に思考と足が止まりそうになった。何とか持ちこたえてどう応えるのが正解かと考える。その間、およそ十秒。
「…………もう今年ですよ」
「……あ、そっか」
絞り出したのははぐらかす言葉で、けれど凪砂は気を悪くした風もなく微笑んだ。本当に、よくわからない人だ。考えても考えても理解できる気がしなくて、この人絡みのことを考え続けても仕方ないのではと、数時間分の自己分析さえどうでもよくなりつつある。
(……まあ、もしこのまま良好な関係が続いていくのなら、その程度のお願いは叶えてもいいかもしれませんね)
出した結論は心の中にしまったまま。寮へとたどり着いた茨は、凪砂のために厨房へと向かうのだった。