傘の下で二人 陽が天頂を越えたあたりから、しとしとと降り始めた雨。
ゆきは、部屋を出てすぐの縁側に続く廊下で、静かに空を見上げた。
庭には梅雨の花々が咲き乱れ、今美しいのは紫陽花だ。色とりどりの花を見ているだけで、穏やかに時間は過ぎて行く。降り注ぐ雨粒に手を伸ばし、柔らかな手のひらに受ける。
脳裏を過ったのは、明け方から江戸城へ登城している邸の主のことだった。
*****
「神子様、何をなさっておいでです?」
すでに馴染みとなった女中の一人が声をかけた。
「雨が降って来たから、リンドウさんを迎えに行こうと思うの」
「神子様が?」
「神子様、旦那様はお駕篭で帰っていらっしゃいますから大丈夫ですよ」
驚く女中の高い声と、傘を片手に今にも邸を飛び出さんばかりのゆきを見とがめて、女中頭が奥から出て来て言う。
しかし、ゆきから返って来た言葉は、掛けた声をまるで反映していない。
「それじゃあ、私お庭を回ってから門のところで待っていますね」
「え、神子様!?」
「なりませんよ、神子様!濡れてお風邪を召されます」
「大丈夫です、いってきますね」
結局、言い出したら聞かないのである。それならば、と慌てて女中頭が周囲の家人達に指示を出す。
結果、着の身着のまま、有り体に言えば神子装束で出て行こうとしていたはずが、借り物の被風に番傘という何とも言えない格好でゆきは表門に立つことになったのだった。
本当は、これに加えて供に誰かをと女中頭が邸中を探していたのだが、心の中でごめんなさいをして、こっそりと邸を抜け出してきた。
雨はまだ、しとしとと降っているだけだが、いつ夕立と変わるか知れない。雨が強くなればリンドウは本当に駕篭に乗って帰ってくるかもしれない。そうなれば、ゆきとはすれ違ってしまう。それに、雨によって色彩の変わった江戸市中はいつもと変わって見えて、ゆきの心を湧き立たせた。
(一緒に歩いたらきっと楽しい)
一人市中を歩いて迎えに行く時点で、口煩い彼が小言をはじめることは間違いないのに、そんな当然のことも忘れて、ゆきは道中を歩き出した。
*****
案の定というべきか。
江戸城への道すがら、ばったりと出会ったリンドウは、眉間がぴくぴくと動くのを必死で鎮めようと、何度も瞬きをした。
「リンドウさん、偶然ですね!」
「あのさ、神子殿」
偶然の筈が無い。
「そんな格好で何しているの?」
「あ、これですか?お邸の皆さんが着せて下さったんです」
「うん?」
「雨が降って来たから、リンドウさんを迎えに行こうとして。そうしたら、女中頭さんが濡れるからって……」
「それだ。君さ、何で僕を迎えに来ようとしているわけ?」
「え、いけませんか?」
いけないも何も。
「いけないね。もう、全部いけてない。まず第一に……」
傘を手にしたリンドウは、空いた手を腰に当ててゆきを覗き込む。
「こんなところで、偶然会うわけがないよね」
真相は、供を探しているうちにゆきが居なくなったのを、面食らった女中頭が連絡してきたからだ。こんなこともあろうかと、邸には連絡用の式神を置いているし、ゆきにも式神を持たせている。だから、場所はすぐに分かったが、まったくもってよろしくない。
「……そうだったんですか。ごめんなさい、後で皆に謝らなきゃ」
素直にしゅんとなる様は可愛らしいが、これに流されてはいけない。リンドウの大切な神子殿は、妙な所で子どもっぽい行動をとる。今回がまさにそれで、行動の元になった思いはいじらしく可愛いらしいものであっても、愛しさが募るだけに罪深い。
「第二に、せめて誰か付けて出歩いて。いつも言っているでしょ?怨霊は居なくなったとしても、君は女性で世の中はまだ平和とも言えないんだから」
「はい……」
「最後、第三だけど」
立て続けに小言を受けて、ゆきはすっかり小さくなっている。その顔は、大半は反省の意を表しているが、ちょっとだけ唇を強く引き結ぶのは、拗ねている証拠だろう。あんまり可愛らしい様に、リンドウは微笑を浮かべたまま目を瞑り、言いたかったあれこれを胸に仕舞う。そして、引っ込めたお小言の代わりに気になっていたことを指摘する。
「その傘なに?それ、男ものだよね?」
ぽんとゆきの頭の上に手を載せて、撫でる。すると、ゆきは慌てた様に一瞬傘を見上げると、早口で話し始めた。
「あ、あの。傘どこにあるか分からなくて、お台所で見かけたのを借りて来たの」
最初から黙って邸を抜け出そうとしていたのを、自ら告白しているも同然だが、それに気づかず一生懸命顔を見上げて告げてくる。
「ふっ……」
ついに、笑いが堪えきれず声を殺して肩を震わせるリンドウに気付き、ゆきが頬を赤く染めた。
「もう、リンドウさんのいじわる」
「いじわるじゃないよ。言う事きかない君が悪いんでしょ?」
「そ、それはそうなんですけれど」
「しょうがないなぁ」
言って、リンドウはゆきの手をとった。
「お迎えに来てくれた事は嬉しかったよ」
「その、心配かけてごめんなさい」
「よろしい。それじゃ、ご褒美に……」
手を引いて、少し後ろを歩くゆきが横に並ぶのを待ってリンドウは言った。
「君、自分の傘持っていないし、買ってあげる」
「え、そんな申し訳ないです」
「え、じゃないの。そんな番傘みたいなの持って歩かせたら、僕があまりに甲斐性なしみたいじゃない。そんなのかっこわるいし」
「そんなことないです。私これで十分……」
「僕が嫌なの。たまには僕の言う事聞いてよ」
そこまで言われたら、ゆきとしては従うしか無い。それに、贈り物は嬉しい。
「ありがとうございます。リンドウさん」
「そうそう。笑顔で喜んでくれたらいいんだから」
「それで、傘屋さんはどこにあるんですか?」
「君、直接買いに行くつもり?」
「え、違うんですか?」
「直接行かなくても邸に呼べばいいよ」
「そう、なんですか?」
買い物だとか、そういった目的で市中を歩いたことのないゆきは、少し落胆した様子だった。あまりに萎れているのを見ていると、何だか可哀想になってくる。
相手が自分では無かったから複雑な気持ちなのだが、いつだったか、都や龍馬と下町を散策したと言って嬉しそうにしていたのを思い出す。
「じゃあ、日本橋辺りまで足を伸ばしてみる?色んなお店があるし」
途端に、ゆきの瞳が輝きだす。現金なものだ。
「はいっ、行きます」
「決まり。じゃ、とりあえず傘交換しよ?」
「え?」
ゆきは、まったく分からないといった様子で首を傾げる。
「君の傘、相当重いでしょう。こっちの方がマシだから交換」
差し出された傘をみると、艶やかな漆塗りの柄は細くて、和紙の貼られた傘部分も心なしか薄く、色美しいものだった。
「素敵な傘ですね」
「そう?君が持っている傘が無骨過ぎるんだよ」
ともあれ、傘を交換して歩き出す。目指すは日本橋の商店街である。
*****
日本橋に着いてからと言うものの、ゆきはキョロキョしっ放しになった。
道の両脇は全部お店だ。
「とりあえず、目的のものを買おうか」
リンドウに促され、暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ」
入るとすぐに手代が威勢の良い声を掛けてくる。そしてリンドウを確認すると深く頭を下げた。
入ってきたのは、不思議な出で立ちの若い娘と、どう見ても商人や使用人とは思えない男。男はよく見ると、上等な着物に袴をつけている。としたら、江戸城詰めの幕臣か。娘の着物も仕立ての良いものだ。
ならば、お忍びか。
いらぬ詮索をしていると、奥から番頭が出てきた。
「これは旦那様、どのようなご入用で」
「この子に傘を見立てたいんだけど、いくつか見せてくれる?」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
ゆきを、座敷に上がらせると番頭は手代に耳打ちする。
『ありたけの上等な傘を持ってきなさい。型録もね』
『承知しました』
値踏みされているとも知らず、ゆきは物珍しさに落ち着かない様子だった。
「お武家様に直接ご足労賜ろうとは。手前どもはお邸にはお伺いしておりませんで?」
手代が商品を持ってくるまでの間、番頭が探る様に聞いてくる。
「多分、邸のものが世話になっているだろうけれど、今日は特別。見なかった事にして」
「承知しました」
やはりお忍びか。
そう思ってみれば、連れの娘も商家の娘や武家の娘と言うより、公家の姫君のような風情があるように見えてくる。
「お待たせ致しました」
手代が、丁稚を引き連れ戻ってくる。
「うわぁ」
ゆきの目の前に、色とりどりの傘が並べられた。
「こちらは、美濃からのもので、無地に蛇の目、色もたくさんありますよ。それから……」
次々に取り出され開かれる傘に目移りしながらも、ゆきはとある一本に目をつけた。
「その、赤紫の傘」
「こちらですか?」
手代が、ゆきに傘を差し出す。
広げて覗き込めば、小骨に繊細な糸飾りが施されている。糸は色とりどりで思わず見とれてしまう。
「ふうん、なかなかお目が高いね」
隣に居たリンドウは、一緒になって覗き込むと傘部分に触れて感心したように頷いた。
「これは京傘です。細工は真田紐、傘は羽二重になります」
「じゃあ、それちょうだい」
「ちょっと、リンドウさん!」
あっさりと購入を決めたリンドウに、ゆきは慌てて声を掛ける。
「こんな立派な傘、買って頂くわけにはいきません」
「でも、これが気に入ったんでしょ。構わないよ」
「私が構います」
「変なこと言うね。傘くらい僕だって買えるよ」
「それはそうかもしれませんけど」
渋るゆきに、リンドウは苦笑する。
「じゃあ、素直にありがとうって言って。変な気使わないでよ」
そうゆきに言いおくと、何やら手代とリンドウは言葉を交わす。
「それでは、後ほどお届けに参ります」
「うん、よろしく」
「リンドウさん?」
「行こうか。傘は後から邸まで持って来てくれるよ」
「そう、なんですか?」
「そうなの」
暖簾をくぐり、道に出れば雨のにおいが濃くなっていた。
「雨も強くなって来たし、帰ろうか」
「……はい」
またしょんぼりとしている。
「なぁに、そんなにお買い物したかったの?」
「ち、違います!」
一転、真剣な表情でゆきが言う。
「違います。ただちょっとリンドウさんと一緒に、町中を歩いてみたかったの……」
最後、心なし声が小さくなってしまう。恥ずかしくなってリンドウを見上げれば、意外にもきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「町中を、一緒に?」
——ああ、そうだった。
ゆきにしてみたら、現代風にいう所の『お散歩デート』な気分だったが、幕末の、それも公家の御曹司であるリンドウにそんなこと察せるはずもない。
「だから」
それでも、こんな時だからこそ分かって欲しいと思い、ゆきは恥ずかしさを堪えて言葉を継いだ。
「リンドウさんと二人きりでお出かけしたかったんです。晴れの日だけじゃなくて、雨の日も、風の日も。どんな日だっていいから」
ふっ、と頭上から笑い声が聞こえる。
「あ、ひどい!」
「だって、あんまり可愛らしいことを言うんだもの」
そして、リンドウは手元の傘を閉じるとゆきの手から傘をとりあげた。
「リンドウさん?」
「こっちおいで。二人で傘をさしていたら近くに来られないだろう?」
言って、肩を抱き寄せる。ぐっと近づいた胸元からは、少し水気を含んだ沈香の香りがした。
雨降りの江戸市中は、普段と違い人通りが少ない。人ごみの中を、ゆきと二人連れ立って歩けば相当目立つのは自覚していたから、好都合だとリンドウは思った。
「こういうのって、君の世界ではよくするの?」
「お散歩ですか?」
「うーん」
何か考える様にすっと宙を見上げたあと、リンドウがゆきを覗き込んだ。
「お散歩というか、恋人を迎えに行ったり、二人で買い物したり、一緒に傘に入ったり……」
ふと言葉を切る。
「手を繋いだりとか」
ま、今日は両手が塞がっているけど、と肩をすくめる。
「なんで?」
「なんでって」
まさかそれを聞かれるとは、ゆきも思っていなかった。
「なんでって……」
困惑した様子で繰り返すゆきの頭上から、また笑い声が振ってくる。
「あ、また!」
「だって、そんなこと悩むまでもないのに」
ムッとして、ゆきは反撃を試みる。
「そうです。聞くまでもないくせに、リンドウさん悪趣味です」
「お、辛口だね」
何でも無い振りをして、本当はものすごく勇気を出して、リンドウの腕に自分の腕を絡める。大きく息を吸ってきっと顔を見上げた。
「好きだから。リンドウさんが好きだからです」
「ん?」
「リンドウさんが好きだから、一人で居るときも、どうしてるかなって気になって。雨が降って来たけど大丈夫かなって思ったんです」
「ちょっと待って、ゆき……」
リンドウが口を挟もうとするのを許さず、言い募る。
「それに、逢いたかったんです。すぐにでも!」
奮然として言い切ったゆきを見下ろすリンドウの顔は呆然としている。はっと正気に戻ったゆきはみるみる間に頬を赤く染めて下を向いた。
「あの、何か言ってください……」
「ああ、うん……」
しばしの沈黙が二人の間を流れる。焦れたゆきが再び見上げると、そこには耳まで赤く染めた男の姿があった。
「君、本当に時々ものすごく大胆だよね」
「だ、だって本当のことですから!」
「ふうん、まだ攻めるんだ」
思案顔になったリンドウは、面白いことを思いついたらしく上目遣いに笑顔が浮かぶ。
「僕のお株を奪おうったって、そうはいかないよ」
「なっ……」
次の瞬間には、顔の上に影が落ちて唇が重ねられていた。
傘の陰で軽く翳めるようなキス。
顔をあげたリンドウは、ペロリと自身の唇を舐めた。
「さて、本当にそろそろ帰ろう?さっきの傘が邸に届くし、他にも色々と持って来てくれるよう頼んでるから」
言ってゆきを見れば、真っ赤な顔でふるふると震えている。
「ね。僕に勝とうなんて、まだ早いよ。もうしばらくは僕に振り回されてもらわなきゃ」
ゆきは、潤んだ目できっと睨みつけてみせるが、格好がつかないどころか、これでは喜ばせるだけだ。案の定、嬉しそうにニヤリと微笑ってリンドウが言う。
「これは、お仕置き」
ようやく、邸を囲む生け垣が見えた所で背後から光が射してきた。リンドウは傘を閉じると、空いた手でゆきの腰を攫う。
「ようやく上がったね。たまには、雨の日の散歩も悪くないかな」
「離してください」
「やーだ」
完全に腰を抱えられて動けないゆきは、押し付けられた胸元をぽかりと一つ拳で打った。
「もう、いじわる」
「でも好きなんでしょ?」
「うん……」
表門では、居なくなった主を案じた女中が二人を待っていて、玄関につけば家人一同が出迎えた。
申し訳ないと思うと同時に心に温かいものが灯る。
「すっかり君も馴染んだじゃない。もうここでずっと一緒に暮らす?」
いたずらっぽく笑いながら言ったリンドウは、自分を見上げて微笑むゆきを見て息をのんだ。少し頬を染めて見つめてくる顔は本当に綺麗で、不覚にも胸を打たれた。
「はい、って言ったら?」
「それは、もちろん大歓迎だよ」
沢山の日々の中の、雨の日の一日。
それはこの先も、何度でも訪れる日々のひとつにしか過ぎないかもしれないけれど、傘の下で二人交わした言葉と想いは、唯一のものであって欲しいと二人は願った。
*****
「ところで、あのお武家の旦那はどちらの方だったんだい?」
番頭が、傘と他の数々の品を丁稚に持たせて店を出ようとする手代に声を掛けた。
「それが、何と二条様でございました」
「それは、まあ……」
思わぬ大物がかかったものだ。手抜かりない応対をしたことにホッと安堵の息をつく。
「それじゃあ、あの姫様は」
雨の恵みをもたらす龍神の神子様ですよ。そう言って、手代は颯爽と店を出て行った。
あれが、噂の龍神の神子————
神子が去った後に雨はあがり、怨霊の瘴気の無い江戸の空には七色の虹がかかっていた。
【終】