そんな一日【はじめに】
○このお話は、風花記のリンドウエンド後をベースに、ゆきがそのまま江戸で生活している捏造設定となっております。
○慶くんは、家茂から譲位されて将軍になっており、リンドウは相変わらず、彼の補佐をしつつ幕臣として幕府に仕えています。
○また、チナミルートで生還したマコトさんが慶くんに仕えていたりします。
○舞台は、世界を救ってから少し経った1月末〜2月あたり。
○捏造満載ではありますが、少しでもお楽しみ頂ければ嬉しいです。
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江戸の朝は早い。
特に、武士の世界に放り込まれてからというものの、早朝に起き、昼は勤め、夜は静かに体を休めるといった具合に、質実剛健な生活を余儀なくされている。
至って問題のない生活。
少しばかりの息苦しさだとか、主に上司に起因する多忙さには辟易するけれど、何たってことはなかったのに。
君がやってきてからというものの、そんなことでは済まされなくなってしまったんだよ。
本当に、嫌になる。
いったいどう責任を取ってくれるの。
ねえ、神子殿。
1 朝の風景
明け六つの鐘が鳴る頃、廊下に面した障子戸の方から、鳥の鳴き声がした。
まだ、外は暗く、部屋の中はひどく冷えている。
ゆきは、顔まですっぽり被った布団の中で、二度、三度と瞬きをしてから、縮こまっていた手足をうんと伸ばした。
吸い込む空気の冷たさに、思わず息を詰める。
僅かばかりだが、目が覚めてきた。
それでも、どうにも布団から出る勇気が出なくて掛け布団を身体に巻き付けたまま躊躇っていると、二間続きになった部屋の反対側から物音がする。
いつも朝になると火鉢を持ってきてくれる女中に違いない。
コトリと音を立てて、障子戸が僅かに開くと、案の定、見知った女性が顔を覗かせた。
「神子様」
最初は小声で、まだ眠っているかもしれないゆきを気遣って声をかけてくれる。
「はい、起きています」
返事をすると、初老の女中は笑みを浮かべた。
「おはようございます。お目覚めでしたのね」
「おはようございます。でも、私まだお布団の中です。こんな格好でごめんなさい」
「いえいえ、今日もお寒うございますものね。火鉢をお持ちしましたから、すぐに暖かくなりますよ」
「ありがとうございます」
いつものやり取りをしながら、女中は少し離れた場所に火鉢を置くと、廊下の方に向かい、障子戸を開けた。
「少しだけ、朝の空気を入れましょう」
ひんやりとした空気が部屋を満たして、今度こそは、しっかりと目が覚め、頭も冴えてきた。
「このあと、お召し替えなさったら朝餉をお持ちしますが、よろしいですか」
「今日は、リンドウ……斉基さん、ご都合悪いのですか」
「旦那様からは、本日は登城されるので、神子様にはゆっくり過ごされるようにと申しつかっております」
「もう起きてらっしゃいますか」
「はい。自室で一刻ほどお過ごしになってからお出になられるとのことです」
「私、先にご挨拶してきます。朝ご飯はそれからでいいですか」
「もちろんでございます」
「じゃあ、お願いします」
女中に礼を言ってから、早速身支度を整える。
着るのは変わらずの神子装束で、時々、リンドウからは苦言を呈されることもあるが、動きやすいので重宝していた。それに、江戸での神子の評判を考えれば、着ていた方が便利な場合もある。
ひとしきり身なりを整えた後、鏡台の前に座って髪を梳く。櫛は黒い漆塗りの立派なもので、かつて世界が合わせ世となるのを防ぐために奔走していた頃に、怨霊退治のお礼として貰ったものだ。同じく漆で描かれた絵柄が大人っぽい意匠で気に入っていた。
「よし。完成」
立ち上がってから、くるりと回って身なりを確認する。それが済んだら、向かうのはリンドウの部屋である。
◇◇◇
起き出してから、身支度もそこそこにリンドウは自室で書を広げていた。
あと一刻もしたら、邸を出なければならない。
龍神の神子の尽力もあり、真っ二つに分裂しようとしていた幕府は、ひとまずは慶喜のもと、団結を取り戻そうとしていた。
年が明けてしばらくして前の将軍、家茂から将軍位を譲位された慶喜は、現在江戸城で精力的に政務に取り組んでいる。何しろ問題は山積しているのに、内輪もめがあったせいで、処理がまったく追いついていない。元々多忙な人ではあったが、今やこの国で最も忙しい人物といっても過言ではないだろう。
かく言うリンドウも、その慶喜に重用されている、と言えば耳障りがいいものの、様々な雑事も含む諸々を押しつけられて、目が回る忙しさだった。
自ら願って、この世界に慰留した龍神の神子。
蓮水ゆきとは、同じ邸に住み、何となく将来を誓った仲ではあるが、正直、星の一族としての任務を優先して付き従っていた頃の方が、まだ一緒にいる時間が長かったに違いない。
そんなリンドウの生活をしばらく見ていたゆきは、朝餉を共にすることを提案してきた。言い換えれば、朝餉『だけ』は一緒にという小さな約束だ。
ただ、幕臣として仕えている以上、どうしたって城仕えの身に合わせた生活様式にならざるを得ない。
今日だって、冬の寒い朝っぱらから登城予定だった。おまけに、執務に必要な準備が整い切っていないから、とてもゆっくり朝餉を食べる時間もなく、こうして文机に向かっているのだった。
(神子殿には、そのうちお詫びをしないとなぁ……)
理由はどうあれ、彼女との約束を破っている以上、申し訳ない気持ちはリンドウにだってある。
小さくため息をついて、再び手元に目を移すと、知った気配が近づいてきた。
襖戸越しに問われる。
「リンドウさん、入ってもいいですか」
「どうぞ」
返事の後、そろそろと襖が開かれて、ふわりと甘い彼女の香りがした。
「リンドウさん、おはようございます」
「おはよう、ゆき」
「今日は、登城されるんですね。お忙しいですか」
案の定、彼女がやって来たのは果たされなかった約束に対する確認の為だ。
「ごめんね。ちょっと立て込んでいて、この様だよ。埋め合わせはまた今度」
「それなら、簡単に食べられるもの、貰ってきますね」
「助かるよ、神子殿」
ゆきが微笑んで立ち上がった。それを見送ってから、また視線は書見台に向ける。
多分、言いたいことはあっただろうけれど、飲み込んで微笑んでくれた。希有な女性だと思う。優しく、慎ましいけれど、芯は強い。
でも、早くも古女房のように世話を焼かれるのも、事情を汲みすぎるほど汲まれてしまうのも、何だか寂しいものだった。
どうしてこんなことになっているのだろう。
(まあ、理由なんて幾らでもあるけれど……)
表向き、双方合意の譲位であった。というのに嘘は無い。
だけれども、派閥の溝というものは深く、そう簡単に解消されるものでも無いのだ。
新たな将軍の立場を固める為にも、ここで弱音を吐いて怠ける訳には行かなかった。
何しろ、ここに至って京の本家からは、手のひらを返したように幕府への助力を強く言い含められているし、何より、ゆきが安心して暮らせるようにする為にも、さっさと懸念事項は解消しておくに限る。
それでもだ。このままでは、ゆきに好きになって貰うどころか、愛想を尽かされてもおかしくない。
ありのままを好きになって貰うことが大前提だとしても、良いところを見せる暇すらないのはどうだろう。
再び、襖戸の向こうから軽い足音と共に、彼女の気配が近づいてきた。
「リンドウさん」
「大丈夫だよ。入って」
手ずからお盆を抱えた彼女が、室に入ってくる。
「お茶と、おにぎりを作ってもらいました。これなら少しは食べられますか」
盆に載っている握り飯を見るに、リンドウ一人の為にしては数が多い。
「君も、それで朝餉を済ませるつもり」
「はい。ここで食べたら駄目ですか」
「構わないけれど、君はきちんとしたものを食べれば良いのに」
「大丈夫です。朝ご飯の分はお昼に回してもらいました」
「いや、そういうことじゃないし。それに、朝餉の残りものを昼に食べ無くても」
「せっかく作ってもらったのに、勿体ないです」
「そうかもしれないけれどね…」
何となく、このところの論点の相違を詰めだしたら時間がかかりそうで、ひとまず引くことにした。
間もなく邸を出る時間になる。
「それじゃ、行ってくるよ。神子殿」
「はい、行ってらっしゃい」
わざわざ、門近くまで付いてきたゆきに見送られて邸を発つ。
向かうは、江戸城である。
2 江戸城
幕臣は、明け五つが鳴るまでに江戸城に入り執務につかなければならない。
以前、ゆきに問われて教えると、『学校や会社と同じなんですね』などと言われた。
学校や会社はよく分からないけれど、江戸城詰めにはそういう決まりがある。
武士社会は、実務主義と思われがちだが、三百年近く同じ政体をとっているだけあって、存外堅苦しい慣例みたいなものが沢山ある。
京で公家の嫡子として暮らしたリンドウにしてみると、朝廷周りの回りくどさと較べたらずっと楽だと思えるのだが、幕府に連なる一同にしてみたら、儀式類を滞りなくやり過ごすことは……やはりそこは武官なので難儀らしい。
例えば大名の嫡子を御披露目する儀式なんかは、そこでの振舞いが後々まで影響しかねないこともあり、事前演習までして備えるのだ。その周到さたるや、立つ位置や座る場所までの歩数、返事の声色や間隔なんてことまで確認をする。
そんな存外堅苦しい世界にあって、新たに立った十五代将軍ときたら、破天荒な行為にいとまがない。
加えて、至って平然と事を起こすものだから、周りはいつも大慌てしていた。
破天荒の例は、あげれば幾つもある。
その一つは『自分で勝手に喋る』ことだ。
朝廷も幕府も、普通は位が高い程、直接臣下に言葉を降したりしない。
だけど、件の十五代将軍は、場を見切るや否や、どれだけ位違いの相手であっても、自ら指示を出し、説得に当たることも厭わないのだ。
これは、時に大変な問題で、幕府の中枢たる幕閣の頭の上を通り過ぎて事が進んだりする。但し、その点で慶くんは事務周りが几帳面だからまだ救いがあるけれど、振り回される方は気の毒だ。
彼の頭の回転について行くだけでも大変なのに、少しばかり覚束ないことを言う、空とぼけた、なんてことで、将軍直々に理詰めの弁論で絞られるのだ。正直、老中以下、幕閣達には同情を禁じ得ない。
江戸城に到着し、堂々たる門扉の前で一度軽くため息を吐く。そして姿勢を正してから門をくぐって執務室へ向かった。
リンドウをはじめ、御目付という役職につくものは複数居るが、機密事項を扱うことが多いことから、有難いことに個室を与えられている。
部下にあたる、御徒目付の部屋を抜けた奥の方が、御目付役の執務室になる。仕事が多岐に渡るため、城に一日籠もっていられる日は少ない。その為、城詰めの執務は当番制であった。
明け五つが鳴って、早速仕事に取り掛かろうとしたところで、声が掛かる。
『二条様』
「はい、なに」
『書状お届けに参りました』
「入ってすぐの所に置いてくれる」
『かしこまりました』
戸が僅かに明けられて、盆に乗せられた書状が室内に差し込まれた。
これも日常の風景である。
持ってきたのは、江戸城内にごまんといる茶坊主で、彼らは城内の様々な雑務を生業としている。そして、彼らこそがくせ者で、城内あちこちを回っているから、下手な城詰め幕臣より耳が早い。裏返せば、彼らが噂を広めているとも言える。
『二条様、昨晩も公方様はお休みになられなかったそうです』
「ああ、そう。僕に話したのはともかく、他で言いふらさないように」
『……承知つかまつりました。では』
言いぶりに違和を感じて振り返ると、差し込まれていた手が戸を抜けようとしていた。節くれが目立つ、しっかりとした大きな掌は、どう考えても茶坊主ではない。
「ちょっと待って」
声を掛けて立ち上がると、慌てて手が引っ込められて去ろうとする気配がした。リンドウが戸を開けて見回した時にはすでに遅く、手の主の顔は見られなかったが、角を曲がっていく姿は裃だった。
「まさか、ね」
御目付役の執務室には、直属の上司たる若年寄でも入れない。そもそも、周辺をうろつくのだって、並の御家人では危険極まりない行為だ。
軽々しくも、将軍の様子を話すことだって有り得ない。
「そんなこと、将軍直々に命じられても御免だよね」
言いながら、思い当たる節に山盛りの書状を探ると、ひときわ質の良い料紙の書状が山の中腹から現れた。
開けば、剛胆な字で一言。
【所用あり参上せよ。内密に】
すぐに書状の主は知れて、リンドウは頭を抱えた。こんな余分な趣向を凝らす必要があったのか。
去って行く裃を思い出して、気の毒になった。
まさかと思い、念のため一緒に積まれていた書状を一通り開いてみる。こちらは生憎…常の通りの仕事に関する書状だ。
仕事は山盛り、茶々を入れてくる主君。
無視してやろうかと思ったが、先の裃を思い出してやめた。彼がまた使いに出されたら気の毒すぎる。
リンドウは、大きなため息とともに、執務室を後にすることとした。
◇◇◇
「お呼びに従い、まかり越しました」
少々大げさな言いぶりで声を掛ける。奥に続く襖戸の前には上級武士達が裃姿で控えていた。
先の配達人は、この中の誰なんだろうと考えると頭痛がしてきて、リンドウは額を押さえた。
『構わぬ。入れ』
少しして声が返ると、左右に控えていた上級武士達によって襖戸が開けられた。
顔を上げないまま、室の中に足を踏み入れる。
上座に居るだろう将軍に対して、下座を取って正座する。
「よい、顔を上げよ」
リンドウが思っていたよりも、声が遠い。これは、位置を間違えたかと小さく息を吐く。
「それと、しばし人払いを」
「はっ、承知つかまつりました」
足音とともに、人の気配が去って行く。
先に、室へ案内してくれた上級武士のものだろう。
ようやく、顔を上げると、少し離れたところで文机に向かっている将軍……慶喜の姿が目に入った。
「それで、何のご用ですか」
「どうした、不機嫌だな」
嫌みたっぷりの第一声をものともしない。
変わらぬ様子で文机の書状に向かう慶喜に、リンドウはこめかみを押さえた。
「用が無いなら帰りますよ。僕も仕事があるので」
「用事ならある。だから呼んだ」
ここで、ようやく慶喜が顔を上げた。口の端には笑みさえ浮かんでいる。
「時に、神子は健勝か」
「はぁ、そんな話で呼んだの」
「そんな話とはなんだ」
「朝一番に、人まで使って呼び出しておいて、どういうことなんですか」
「まずは、話を聞け」
そのまま延々と愚痴ともつかない小言をされそうになって、慶喜はリンドウを遮った。
「すっかり江戸市中に怨霊の類いは居なくなったと思っていたものだが、近頃、築地の方で怪異の話がある」
「怪異ですか」
「夜ごと、何者かが徘徊している気配があるらしい。奉行所に調べさせたが、与力が後をつけている内に跡形もなく消えたという」
「それ、本当に怨霊なんですか」
「さてな。はっきりせぬゆえ、マコトに調べさせたのだが、やはり尋常のものではないと言うのだ」
「そうなの」
慶喜の口から出たひとの名前に、リンドウはぴくりと反応した。『マコト』というのは、天狗党の首領格として罪を問われ一度は死罪になったものの、ゆきが慶喜の命を受けて救った青年の名だ。
水戸の重臣、藤田東湖の子息という縁もあり、一橋慶喜であった時に、家臣として表立っては出せないものの雇い入れたのだった。その弟はチナミと呼ばれていて、かつては神子の八葉…天の朱雀として付き従っていたという点で、リンドウもまったく無縁というわけではない。
だがしかし。
「眉間にしわが寄っているぞ」
「え?って、うわっ」
いつの間にか近寄ってきていた慶喜に顔をのぞき込まれて、つい声を上げてしまった。
「うるさい。何をそんなに動揺している」
「っ、動揺もしますよ。そんな顔が目の前にあったらね」
「ほう」
にやにやと笑っている姿が憎たらしい。
正直に告白するなら、リンドウはマコトが苦手だった。
「それで、どうして神子殿が関係あるの」
「ただ事では無いゆえ、神子の力を借りたい」
「駄目だよ。ゆきは、もう神子を辞めたんだから」
「お前がそう言っているだけだろう」
「そうやって、ゆきを何だと思っているの。利用できるものは利用するって?彼女が、どれだけ苦労したか分かって言っているの」
「それは承知の上だ。恒久的なものではない、一時的な怪異であるし、神子自身からもお前からも、龍神の力が戻り、命が削られることは無くなったと聞いている」
話を逸らすことに失敗して、リンドウは心の中で舌打ちしそうになった。
「それなら、ゆきじゃなくてもいいんだよね。誰か、祈禱師か陰陽師でもやったら」
「そうか、お前が行くのか」
「いいや。僕は忙しいので」
「そうだろう。ゆえに、今日にも神子を訪ねにマコトとチナミが邸へ行くと言っていたぞ」
「そんなの駄目だよ!」
どこまで本気なのか、慶喜との会話は平行線を辿っている上、分が悪くなってきている。
「そんなにマコトが嫌いか」
「好きか嫌いかで言ったら嫌いだけど、今はそういう話をしているわけではないでしょう」
「へこたれないな」
「僕をなんだと思っているんですか」
「良き謀臣ではないのか」
「マコトくんがいるでしょ」
「ああ、二人の良き謀臣を持って、俺は恵まれているな」
何の気なしに慶喜は言っているのだろうけれど、そういう所もリンドウは気に入らなかった。
大体、一橋派を盛り立てる為に、命がけで尽くしたのは誰だと思っているのか。
おまけに、志のため不幸な偶然であったとしても、彼らの挙兵は大いに慶喜を窮地に立たせたし、そればかりか、龍神の神子は命を削ってまで彼を救い、なぜだか、とても懐いている。
だが、リンドウ自身、これがつまらぬ嫉妬心から出ていること位は十分理解していたし、分別もついた。
「……分かりました。僕がマコトくんとその怪異の解決に当たります。だから、神子殿は」
「そのあたりの采配は、お前に任せる。大幅に仕事を減らしてやることは出来ないが、上役には一筆書こう」
「助かります」
「お前の言い分は理解しているつもりだ。だが、弥生には私もお前も、京へ上らなければならない。後顧の憂いは無くしておきたいのだ」
「分かっています」
「ならば堪えてくれ。お前が引き受けるにしろ、恐らくマコトとチナミは神子の元に行っているだろう。調整を頼む」
「そうでしたね。心得ています」
大きくため息を吐いてから、座を立つ。
「それじゃ、行きますね。慶くん」
「頼むぞ」
「承知つかまつりました」
満足げに笑みを向ける慶喜に背を向けて、リンドウは一路、一刻ばかり前に出たばかりの邸へ戻ることになったのだった。
3 敵は内にあり
リンドウが登城した後、ゆきが自室で手習いの宿題を片付けていると年若い女中がやって来て告げる。
「神子様、よろしいですか」
「はい、なんでしょう」
「御店の御用聞きが参りましたので、お知らせに上がりました」
「あ、もしかして」
「はい。先日お気になさっていた商品を持ってきたそうですよ」
◇◇◇
ゆきがそれを初めて見たのは、今は良き友人でもある、お亀の唇の上だった。いつも人一倍綺麗に装っているお亀だが、その日は特に気合いが入っていたらしい。
上機嫌に語る彼女の下唇は、紅が塗られているのは同じだが、少しばかり青緑に光って見えた。
ゆきの視線に気づいて、お亀が首を傾げた。
「どうしたの」
「お亀さんの唇、艶々光ってるね」
「ああ、これ」
にっこり笑った彼女は、どこか自慢げでもある。
「あんたも案外目敏いな。今日は特別やし紅を重ねて塗ってきたの」
この後、佐助と連れだって出かけるというお亀は、幸せそうに笑う。唇が半月のように緩やかな曲線を描くと、再び青い光沢を放った。
「紅って、重ねて塗ると光るの?」
「ええ。上等な紅は重ねると玉虫色に光るのよ」
「へぇ。知りませんでした」
「江戸やったら日本橋玉やで売っとるのが人気やけども、値が張るから、普段は重ねては塗られへん。そやし、今日は特別」
「着物もお化粧もすごく素敵」
「おおきに」
ゆきの賛辞に満足げに応えたお亀が、ふと思案するように首を傾げた。
「ねえ、あんたも大人の女性らしく紅でも差したらどうかしら」
「え?」
「いつも年の差を気にしとるし、少しは大人に見えるかも」
「そ、そんな。私にはまだ早いよ」
「何を言うとるの。綺麗に装った若い娘を見て、悪い気になる男なんておらんよ」
邸に戻ってからも、お亀の言葉が頭にあって何だか落ち着かない。あの魅惑的な色を放つ口紅をつけたなら、ゆきも少しはリンドウに近づけるのだろうか。
ふと、邸の女中達に尋ねれば、パッと顔を綻ばせるではないか。
「京紅のことですね。神子様はお化粧にご興味がおありですか」
「ええと、あまり良く知らないの。でも、少し興味があって……」
「そうでしょうとも。女子はみんな美しく装うことに興味があるものですよ」
実際、神聖なる神子であるとは言うものの、女主人となる予定の少女は、あまり物を欲したりしない。それを、主人たるリンドウは時折残念そうに揶揄していたし、お付きである女中達にしても、女主人を美しく装わせることも仕事の一つであるし、楽しみでもあった。
「それなら、今度御店の御用聞きが来るときに、紅を持ってきてもらいましょう」
こうして、あっという間に段取りが付けられ、今日、御用聞きが京紅を持参したのだった。
応接間に移動すると、いつもの手代が丁稚と共に待っていた。
「こんにちは。今日はわざわざ有り難うございます」
「滅相も御座いません。いつもご贔屓有り難うございます」
手代は、丁寧に言ってから深々とお辞儀すると、脇に置いた漆の箱を、ゆきの方へ差し出した。
「早速ですが、ご所望の品をお持ちしました。最高級の京紅です。江戸では小町紅と呼んでおりますが、この睦月の時期に作られたものが、最も良い物だと言われております」
うやうやしく蓋を開けると、中には美しい瀬戸物の器と紅筆が納められていた。
「どうぞ、お手にとってご覧下さい」
「はい、失礼します」
瀬戸物の器を手に取って眺める。蓋はなく、ひっくり返すと器の中程に肌に沿って玉虫色の帯が輝いていた。
「わぁ、綺麗な色ですね」
「それが、紅でございます。紅筆に水をつけて、帯をなでて頂きますと、溶けて紅がとれるようになっております」
「綺麗な青緑色なのに、溶くと赤くなるんですね。不思議です」
「薄く塗るのも清楚で可愛らしい印象ですが、厚く重ねると唇の上で玉虫色の光沢が出ます。これがまた、粋だと言うので人気なのですよ」
確かに、お亀の唇は青緑色に光っていた。
「いかがでしょう。実際に塗ってご覧になられますか」
「え、いいんですか」
その時、襖越しに女中から声を掛けられた。
「失礼いたします」
「どうしました?」
「ご来客です。それが、…小栗様のお使いとのことで、どのようにいたしましょう」
「小栗さんのお使い、ですか」
「ええ。お二人いらしてまして、一人はチナミ様です」
「え、チナミくん?」
チナミは、かつてゆきが江戸の怨霊を浄化して回っていたときに、八葉の一人として支え助けてくれた仲間である。
彼は、一度は失った兄を取り戻し、今は江戸で暮らしていた。
「もちろん、お通ししてください」
女中に告げてから、馴染みの手代に向き直る。
「ごめんなさい、お客さんが来られたので。また今度、お店に伺っていいですか」
「ええ、お待ちしております。それに、お申し付けがあればすぐに駆けつけますから」
「ありがとうございます」
少しばかり名残惜しくしまわれる京紅を見送り、ゆきは懐かしい来客への対応に頭を切り替えたのだった。
◇◇◇
再び、別の応接間に移ると、見慣れた緋色の髪と、もう一つ。
「お待たせ、チナミくん……とマコトさん?」
「ゆき、久しいな」
「こんにちは、ゆきさん」
揃って待ち受けていたのは、チナミとマコトの兄弟であった。
「達者でやっているか。慣れぬ生活に気苦労も多いだろう」
「うん。時々、分からないことがあって困ることもあるけど、お邸の人たちは皆親切だから大丈夫」
「そうか」
「それより、チナミくん達の方が大変でしょう?リンドウさんも、とても忙しくて少し心配」
「ゆきさんに心配して貰えるのなら、張り切るべきか甘えてしまおうか、魔が差してしまいそうですね」
穏やかな口調で加わってきたのは、マコトである。
「そうでした。マコトさん、お久しぶりです。小栗さん……、慶喜さんのお使いと聞きました。どんな御用ですか」
「はい、実は」
マコトの口から語られたのは、江戸でまた怨霊騒ぎが持ち上がっていること。調べたところ、人間の仕業とは思えない点があること。
「ご存知の通り、慶喜様始め、お目付殿も我々も弥生には上京せねばなりません。それまでには江戸の憂いは無くしておきたい」
「それで、神子の力が必要なんですね」
「はい」
「そんな事が起きているなんて、私まったく知りませんでした……」
ゆきの顔が曇る。
「お前が責任を感じる必要は無い。調査は内密に進めていたし、お目付殿は、ゆきには話さないだろうからな」
「え……」
チナミの言葉に、ますます眉がひそめられる。
「あ、と悪い意味ではないぞ!」
「ゆきさん、貴女を心配されているのですよ」
慌てて言い募るチナミの後に、マコトが付け足した。
「私は、もう体も大丈夫ですし、皆さんのお役に立てるのなら手伝いたいです」
「貴女ならば、そう仰ると分かっているからこそでしょうね」
少し悲しげに微笑むマコトに、ゆきは首を傾げた。
「マコトさん?」
「それを圧して、お願いするのです。勿論、私とチナミは、貴女に従い、お護りすることを誓います」
「お前に負担をかけること、申し開きも出来ん。だが、ゆきにしか頼めないことだ」
「二人とも、そんな風に言わないで。私たちは仲間でしょう?私に出来る事があるなら、それをしたい」
「ゆき……」
「だから、私」
話がまとまりかけた所で、廊下を駆ける音が近づいてきた。
「ちょっと、待った!」
襖戸が開かれると同時に良く知った人が大声で割り込んでくる。
「なに勝手に決めているの。駄目だよ」
「リンドウさん!」
「お目付殿!」
ゆきとチナミが揃って声を上げるのを横に、リンドウが足取りも重々しく室内へ入ってくる。
「あの、おかえりなさい」
「はい、ただいま」
「えっと、何かあったんですか」
「大いに何かあったね」
ゆきに応えながら、彼女の隣に座り込むと、リンドウはマコトの方を向いて息を吐いた。
マコトが、一見穏やかに口の端を上げ、笑みとともに告げる。
「留守中に失礼しました。慶喜様から火急の用件を賜りましたので」
「ああ、聞いたよ。事情は承知している」
「ならば、お目付殿っ」
チナミが割って入るのを横目で制して、あくまで、リンドウはマコトに視線を向け続ける。
「君が、神子殿に助力を得るよう、慶くんに進言したんだろう?」
「ゆきさんの助力が必要だと判断しましたので」
「どうして、そんな事が分かる」
「昔から、そういったものに敏感なのです」
「へぇ、さすが八葉。天の朱雀候補だっただけあるということかな」
瞬時に、二人の間に冷風が吹く。
「リンドウさん……」
不穏な空気に、ゆきがリンドウを窘めるように見上げた。
「神子殿は、ちょっと黙っていてくれる」
「お目付殿、我々とて決してっ……」
「チナミ、しばし静かにしておいで」
冷ややかな空間の中で、涼やかな笑みでリンドウとマコトが対峙する。
「ともあれ、本件についての裁量は僕にある。上様もご承知だ」
「では、お目付殿の判断に従いましょう。当代にとって最良の決断をされるよう祈念いたします」
「良く言うよ」
「貴方様こそ」
お互い笑顔なのに、場は冷えるばかりだった。
何故、急転直下で氷点下まで冷え切ってしまったのか。ゆきも、チナミも困惑が隠し切れない。
耐え兼ねて、口火を切ったのはゆきだった。
「リンドウさん、意地悪はやめて下さい」
「意地悪だなんて心外だね」
「私を心配して下さっているんですよね。でも、大丈夫ですから」
「君が大丈夫でも、僕が嫌なの」
拗ねた風に言うリンドウを置いて、今度はマコトに話しかける。
「マコトさん、本当にごめんなさい。リンドウさんが頑ななのは私のせいなんです」
「承知していますよ。ただ、少し悔しいかな」
「えっ」
私も、形振り構うこと無く貴女を慈しみ護りたかった。声にならない想いを飲み込んで、マコトはリンドウに問いかけた。
「どうなさいますか。私も、チナミも貴方様に従いましょう」
「僕が、怨霊には対応するよ。案内も含めて二人は一緒に来て」
「承知しました。よいな、チナミ」
「はい、ですが……」
「私も行きます!」
ゆきが勢い良く割り込む。
「だから、駄目だよ。僕の言うこと聞いてよ」
「聞けません。だって、怨霊を浄化出来るのは龍神の神子だけです」
「君は、もう神子じゃないでしょ」
「でも、まだ龍神の宝玉は元に戻っていないし、八葉は八葉のままです。リンドウさんだって、私を神子殿って呼んでいます」
「それは……」
「それに、慶喜さんのお願いは、もう江戸に怨霊が現れないようにすることです。叶える為には、浄化が必要じゃないですか」
「君ね、誰の味方なの?」
相変わらず、言い合いになれば平行線を辿るやり取りに、リンドウがため息を吐いた。
「本当に、君とは話も気も合わないよね」
「知っているくせに。リンドウさんは意地悪です」
「諦めが悪くて頑固者だし」
「置いていくなら、勝手について行きます」
「僕が、そんなこと許すと思っているの」
「絶対について行きます」
「ああその。ゆき、お目付殿」
チナミが、咳払いをして、目の前で始まった犬も食わない会話をやっとの思いで遮る。
「ああ、すまなかったね」
「いえ。差し出がましいようですが、そいつ…ゆきは、一度言い出したら聞かない性質です。こうなったら、梃子でも動かない」
「本当に、余分なこと吹き込んでくれたよね」
「それは、しかしっ」
「もうよろしいでしょう。決まったことを遂行するのが最優先です」
ここまで黙っていたマコトが言う。
「ゆきさん。ここは聞き分けて下さい。まずは我々で対処して、事情が許さぬようであれば、再度お願いに参ります」
「マコトさん……」
「貴女のお気持ちは、しかと受け取りました。どうか、お気になさらないで下さい」
微笑みと共に告げるマコトに、心細い表情でゆきが項垂れる。これが、リンドウには面白くなかった。
(僕の言うことには耳を貸さないのに、マコトくんの言うことは聞く。ゆきは、いつもそうだ…)
神子と星の一族としてあった時も、最後まで、ゆきはリンドウの言葉には耳を貸さなかった。
最も、【神子を辞める気は無い?】なんて言葉に、彼女が頷く筈も無かったのだが、何とも言えない暗い気持ちが胸の内に沸き上がってくる。
いつだってそうだ。リンドウにとっての一番の敵は内にある、この自身の心だった。
大切なものを慈しみたい。
只それだけの筈なのに、大切だから独占したい、傷一つ負わせたくない、誰にも触れさせたくない、見せたくない……段々と積もっていく想いは、重い鎖になって大切な人も自身も縛ってしまう。
(駄目だ、冷静になれ。最近は、制御出来ていたじゃないか)
心の中で、念仏のように繰り返す。
「お目付殿、早速ですが件の場所へ参りましょう。ご案内致します」
リンドウの心中を知るはずも無く、ゆきとの話を切り上げてマコトが言った。
「ああ。頼むよ」
「では、な。ゆき」
「……うん。チナミくん、マコトさんも気をつけて」
立ち上がって室を出ようとしたリンドウの羽織の裾をゆきが掴んだ。
「ゆき?」
「リンドウさん。どうか、気をつけて……」
「心配しないで。すぐに終わらせるから」
「あの、私っ」
「大丈夫だよ。邸で待っていて」
裾から手が離れるのを見届けて、再び裾を翻す。
ところが。
「リンドウさんっ!」
一歩踏み出したところで、突然の声と背中に暖かい感触がして、慌てて振り返る。気づけば腰に腕を回されて、ぴったりとくっつかれていた。
「ちょっと、ゆき?」
「あの、私やっぱり一緒に行きます」
爆弾発言に、リンドウは一瞬返す言葉を失って硬直した。
さっきまでのやり取りは何だったのだろう。ゆきは、納得しないまでも、話は理解してくれたのではなかったのか。
「君さ、僕はともかく…いや、良くないけれど、マコトくんの言葉に頷いていたじゃないか。なのに、もう前言撤回なわけ」
「皆さんが心配してくださっているのは分かります。でも、今はもう命を削る必要は無いし、怨霊を浄化できるのは神子だけなのに、見て見ぬ振りは出来ません」
「だから、君が大丈夫かどうかは関係ないの」
「関係あります。力があるのなら、皆のために正しい方法で使いたいんです」
思わず目眩がするような、真っ直ぐな訴えに怯んだ。それを逃さず、ゆきが言い募る。
「お願いです。私も連れて行ってください」
そうだった。
いつだって、一番手強いのは当の神子自身。
どれほど懇願しようとも、一度だって折れること無く、最後は長年培ってきたリンドウの悲観的な運命論を打ち破ってしまったのは、この神子だった。
「お目付殿。恐れながら、こいつ…ゆきの頑固は筋金入りです。ここで強引に言うことを聞かせようとして、後腐れるよりは、連れて行った方が」
遠慮しつつも、はっきりとチナミが言う。
面倒な事になる前に、ゆきを連れて行けと。
普段は正直好きじゃ無いと思いつつ、こんな場面では常識的な発言をしてくれるのではないかと期待して、リンドウはマコトの方を見た。
が、しかし期待は外れる。
「ゆきさんの思い、しかと受け止めました。ならば、私は全力で貴女を支援します」
さっきまでは、ゆきを宥める側に居たはずなのに、この変わり身の早さはどういうことだろう。
ここまで考えて、リンドウは自分の誤りに思い当たった。
——そもそも、八葉というものは神子に危険さえ及ばなければ、基本お役目に忠実なのだ。
お役目とは、神子に付き従い、神子が果たすべき役目と願いが叶えられるように、彼女を守り支援することだ。
何も、間違ってはいない。
結局、根負けしてしまう自分自身に小さく溜息を吐いてから、リンドウは無言のまま、ゆきの願いを了承したのだった。
4 三十路にして惑う
築地までは少し距離がある。
三人は歩きながら、意気込んだ様子で先を行く少女を見つめていた。
「相変わらずというか、変わりないのですね」
「はあ……、言わないでよ」
チナミの弁にリンドウが溜息を吐いた。微笑とともに、マコトが付け足す。
「お目付殿にも制御できないとは、思わぬことでした」
「ちょっと君さ、面白がっているよね」
結局、邸に留めること叶わず同行するゆきは心なしか嬉しそうだ。
こうなった以上、彼女が同行することについての是非を言っても仕方が無い。諦めて目の前の問題に頭を切り換えることにした。
改めて、マコトに問いかける。
「それで、一体どんな怨霊なのか目星はついてるの」
与力以下、探索の専門家達が追っても捕まえるどころか掻き消えたと言うのだ。これまで相手にしてきた怨霊とは一風異なっている。
「恐らく、核となる怨霊は一体。動物と思しき怨霊が共に居ますが、核は人間です」
「へぇ、なぜそう思ったの」
「動物と思しき怨霊は、分身したように複数目撃されることがありますが、力は弱いようです。遭遇した者が神社に逃げ込んだ際、鳥居付近でかき消えたとの噂がありました。対して、人型の方は目撃談にぶれが無い」
予期せぬ詳細な分析に、リンドウは目を丸くした。
「マコトくん。君、すごいね」
「恐れ入ります。朧げな姿は私も見たのですが、後は辺りをあたって得た情報です」
嫌味でも何でもなく、リンドウは彼の説明に感心していた。
陰陽師とて、人並外れた神通力を持ったという大昔の陰陽師ならともかく、今は占いだって体系的な分析に基づくもので、調査は重要なのだ。
あの慶喜が気に入って使っているのだから、無能な筈がないのだが、彼は際だって優秀なのだろうと容易に推察できた。
続けて問いかける。
「場所はもしかして……」
「外国人居留地の側ではありますが、内ではありません」
「そう。それなら、調査するのに大きな障害は無さそうだね」
隅田川を横目に歩き続けると、ようやく目的地である築地に辿り着いた。
築地と言えば、外国人居留地の他、各地の名品が届く港や、武家屋敷なども建ち並び賑やかな場所である。
「わぁ、何だか久しぶり」
心なしか、ゆきの声が弾んでいる。
八葉の一人である龍馬しかり、アーネストしかり。ゆきにとって縁ある者との幾つかの思い出は、この築地にある。親友たるお亀と再会したのもこの地だった。
まだ、この世界での滞在期間が短い彼女にとっては、どれも重要な出来事だ。
それを思うと、暢気だからと言って頭から窘める気にもなれず、三人は苦笑する。
しかし、そこは神子である。すぐに花の微笑みは潜められて、ゆきは表情を曇らせた。
「こんなに明るくて、活気のある場所なのに。まだ、怨霊が居るだなんて」
「常の時代も、そういった怪異はあったはずなのです。そう言った意味では、今回の対応は大げさかもしれません。ただ、今も非常時は続いていて、つい先頃までは貴女が力を尽くして怨霊を浄化されていた」
「はい。いつも以上に慎重な対処が必要だということですものね」
マコトの言葉に、ゆきが頷く。
相変わらず、時々目が覚めるように聡い返事をする。
「おや」
外国人居留地への入り口付近に、袴に二本差しの武士が立っていた。彼は、こちらに気づくと深々と礼をして、話しかけるまで姿勢を崩さない。
「君は?」
「お目付様、マコト殿、チナミ殿。お待ちしておりました。奉行所の命で皆様のご案内を致します」
この築地を管轄する奉行所の与力で、以前、怨霊の探索を行った担当者であった。
「もしや、そちらのお方は」
「初めまして。私は蓮水ゆきです。龍神の神子として怨霊を浄化しに来ました」
「神子様。かたじけないことでございます」
「神子殿、君ね……」
相変わらず、初対面の者にも易々と名を明かす。その点もリンドウの不満の一つになっていたが、もはやそれを咎めるのも無駄かと、途中まで上げた声を引っ込めた。
「それで、これからどこへ行けばいいのかな」
「怨霊どもは、神出鬼没で昼夜と無く現れます。この後、裏通りに入ったところでの目撃談が多く、そちらへ参った後、お目付様の陰陽道のお力をお示し頂ければと」
「はいはい。それじゃ、行こうか」
案内の与力を先頭に、四名が続く。
与力の後ろにリンドウとマコトが続き、ゆきを挟んでチナミがしんがりをつとめる。
「あ、あれ。ねえ、チナミくん」
「ゆき、しっかり前を見て歩け」
道中、マコトが話したのと似た内容を与力が話して聞かせる合間に、時折、チナミがゆきを窘めるような声が聞こえていた。
それからまた少し。
表通りから離れて大分寂れてきたところで、ぱたりと人通りが絶えた。
突如、周辺の空気が変わる。
「おいでなすったか……」
案内役の与力が刀を構える。
隣では、同じくマコトが刀を抜くと刃を起こした。
「それじゃあ、いくよ」
リンドウが印を組み、マントラを唱えると、急速に周囲に冷気が広がる。
果たして、目の前で寄り集まった霧が動物…犬か狼のような姿をとっていく。数は二体。
「っ待て、ゆき!」
後方で構えていた筈のチナミがゆきの名を叫ぶ。
意識を後方に持っていかれ、リンドウの集中が途切れたことで数の均衡が崩れたのだろう。
霧で出来た狼が、与力とマコト、リンドウに向かって襲いかかってくる。
目の端に映ったのは、何かに導かれるように進むゆきの姿だった。
「ゆきっ!」
咄嗟に叫ぶと、追うようにマコトが叫んだ。
「チナミは、ゆきさんを追え!我々は、こちらを片付けてから行く」
「はいっ、兄上!」
チナミが行くのを見届けると、刀と扇を巧みに操り怨霊に応戦する。
「お目付殿!」
マコトの声に気を引き戻され視線を戻すと、もう一頭に対峙する与力が、今にも引き倒されようとしていた。
再び印を組みマントラを唱える。取り出した札で簡易な罠を張り、怨霊がその場から逃げるのを防ぐ。次いで、札を貼り付けた小刀で怨霊に斬りかかった。
「かたじけない!」
「僕も一体一は自信ないから、援護して!」
与力と共に一頭の怨霊に当たる。
リンドウは、行く道で聞いたマコトの分析を思い出していた。
人間と動物の怨霊。動物の方は、力は弱いが分身して人目に良くつく。本体と思しき怨霊は中々姿を現さない。
——恐らく、この狼達は本体から目を逸らす為の囮なのだ。
「だとすれば、神子殿とチナミくんの方に、本体が居るってことか……」
小さく呟くと、隣に来ていたマコトが言う。
「私もそう思います。急ぎ、この場は片付けましょう」
そこからは、与力を庇いながら刀を振るうマコトを術で援護しながら、二頭の怨霊にあたる。彼の剣技は見事なもので、併せて振るう扇も相まって、まるで舞うようにも見えた。頭頂部で結わいた長い髪が、ゆらりと残像を作る。
(様になっているよなぁ……)
そんなことが心中に浮かんだ。リンドウは決して武士になりたいとは思わない。だが、マコトとチナミの兄弟しかり、八葉しかり。そして、慶喜を見ていると、己の志に邁進する姿を眩しく思うこともあった。
怨霊の一体が消滅し、残り一体にマコトが斬りかかる。
結界との境界で斬りつけられた怨霊は消滅し、ふっと周囲の冷気が和らいだ。
「これで、終いでしょうか」
辺りを見回しながら与力が言う。
「いや、まだです」
マコトの視線の先を追うと、怨霊の切れ端のような小さな光の玉が道を進んでいた。
「もしかすると、本体に戻るのかな」
三人は、光の玉を追うことにした。
◇◇◇
「おい、ゆき。止まれ!」
一方、駆けだして言ったゆきを追うチナミは、ようやくゆきの姿をとらえて静止するように声を投げた。
「あ、チナミくん」
「あ、じゃない。勝手に列を離れるとは何事だ」
「ごめんなさい。でも、あの女の子が……」
「なに、どこに女子がいると」
ゆきが指し示す先を見ても、人の姿は見当たらない。
「あ、待って!」
「こら、ゆき!」
見えない者を追う神子と、それを追う八葉。これまでも、あった光景だが、今はゆきとチナミ二人きりだ。
「これ以上は危険だ。お目付殿と兄上の到着を待ってから…っ」
ふと、視線の先で霧が集まったかと思うと、異人の少女の姿が現れた。
「なっ……!」
「ねぇ、待って。あなたは誰?」
怯む様子も見せず、ゆきが問いかける。
「どうして私を呼んだの?」
ゆきが言う通りなら、ここまで彼女を導いたのは、目の前の異人の少女の姿をした怨霊ということになる。
再び、少女の姿をした怨霊は歩み出した。
追って行くと、やがて小さな神社の前に出る。少女の姿をした怨霊は、そこで立ち止まり、黒い穴の空いたような虚ろな目でゆきとチナミを見つめた。
「そこに、何かがあるの?」
ゆきが尋ねると、小さくうなづく。そして、無言のまま指で境内の中を指した。
「じゃあ、一緒に行こう」
言って、ゆきが境内に入ろうとすると、少女は首を振る。
「駄目なの?」
「その娘は怨霊だろう。お前が浄化する前の江戸ならいざ知らず、神社内に入れる筈が無い」
「あ……」
今気付いたと言うように、ゆきが俯く。
それを見て、チナミが意を決したように少女の怨霊に向き直った。
「お前の望みは何だ。境内に何がある。事によっては、代わりに願いを果たしてやらんこともない」
虚ろな目がチナミを見つめた。しかし、声が聞こえてくることはない。
「これでは、どうしようもないな」
二人が途方にくれていると、後方から足音が聞こえてきた。複数の人間と、獣の駆ける音だ。
「チナミ!」
「っ兄上」
「ゆき、気を付けて!」
マコトにリンドウの声がする。
その時、チナミな目の前を小さな光の玉が通り過ぎて、突如大きく膨らんだ。
「「危ない!」」
重なる声に、チナミが咄嗟にゆきを庇う。光の玉は、そのまま少女の怨霊にぶつかると弾けた。
「なっ、何だこいつは」
驚愕するチナミの前には、黄色の長い毛に覆われた、大型犬が座っていた。
「狼じゃないのか」
追いついてきた、リンドウが呟く。
「この子は、狼じゃないです。私、元の世界に居た時に見たことがあります」
そっと前に出てきたゆきが、黄色の大型犬に手をのばす。
「こら、危ない!」
リンドウが、ゆきの手首をとって遮ると、黄色の大型犬が目の前にある手を舐めた。
「うわっ」
相手は怨霊の筈なのに、妙に生々しい感触がして、慌てて腕を引っ込める。
「この子は、牧羊犬、羊を追う犬で、外国生まれの犬です。元の世界では、普通に愛玩動物として飼われていました。大人しくて賢いんですよ」
今度こそ、リンドウの制止を受けること無く、ゆきは目の前の大型犬の怨霊に触れた。
実態はぼんやりとしているにも関わらず、撫でると毛並みの良さを感じさせるような滑らかな感触がした。
「リンドウさん。この子達の言葉を聞く方法はありませんか。きっとこの神社に用事があるのだと思うんです」
「怨霊の言葉を聞く、ねぇ」
決して嫌みでは無く、リンドウは真剣に思案した。そのような術はあっただろうか。
「そうだ。リンドウさん、あのお札を使ってみます」
「あのお札?」
「本来の姿が見えるお札、以前くださいましたよね」
八葉達と怨霊退治に駆け回っていた頃、珍しく手に入った強力な術がかかった古い札をゆきに贈った記憶が蘇る。
「最後の一枚だけ残してあったんです」
いつも腰に付けている巾着から札を取り出すと、ゆきは少女の怨霊に向けてかざした。
「あなたの本当の気持ち、教えて」
お札が、一瞬閃光を放つと周囲に違う風景がうつしだされる。
意外にも、映し出されたのは欧風の室内で、そこには寝具へ横たわる少女が居た。少女の手には人形が握られている。傍らに居るのは、黄色い大型犬だ。眠っているのか否か、この様子だけでは分からない。
何より、驚くべきは目の前の少女の怨霊が横たわる少女では無かったことだ。正確には、横たわる少女の持つ「人形」と「怨霊」とが、うり二つだった。
やがて場面が変わる。泣き崩れる異人の夫婦と思しき男性と女性。港を離れる船。
再び場面が変わり、黄色い大型犬がこの神社の境内で座っている光景が写った。その姿は、寝具の傍らで佇んでいたのと変わらない。時折、賽銭箱の向こうの社の方へ首を向けては何かを確認するように見つめて、また元に直る。
お札の写した世界の中で、季節が過ぎていった。
やがて。効力が切れたのだろう。突如、写っていた全てが消えてしまった。
「あっ、お札が……」
「これ、どう思う?」
リンドウが、マコトに問いかける。
「……推測でしかありませんが、恐らくこの犬の怨霊と少女の怨霊が、先の犬と人形なのでしょうね。何らかの理由で故郷に戻らず、ここに留まって怨霊化したのでしょう」
「僕もそう思うよ。古来より人型には魂が乗り移りやすい。君は、さっきの人形だけれども、長く主と共に居たことで主の魂の記憶が乗り移っているんじゃないのかな?」
リンドウが、少女の怨霊に話しかけると、少女は肯定とも否定ともつかない虚ろな目を向けた。
「長らく、この神社に居たが江戸が浄化されたこと、怨霊として力をつけすぎたことで、境内に居られなくなった。そんなところだろう。事情は分かったよ」
話をまとめて、ゆきの方に向き直る。
「ゆき、一緒に境内に入って社を訪ねよう。他の皆は、入り口を見張っていてくれる」
鳥居をくぐる。少女の怨霊と黄色い大型犬の怨霊は、それを妨げる様子も無く二人を見つめた。
「どうやら、正解だったようだな」
「はい、兄上……」
マコトとチナミ、与力の三人に怨霊二体。不思議な連れ合いは、しばしその場に佇んだ。
5 夕方に勤め
冬の日暮れは早い。
社の前まで来ると、大樹の影が伸びて独特の雰囲気を醸しだしていた。
「ねぇ、リンドウさん」
「なに」
「あの二人は、ここに住んでいたってことでしょうか」
「まあ、そんなところだろうね……」
ゆきが尋ねると、何か考えるように上目遣いでリンドウが答える。
「住むと言ったら、多分ここしかないよね」
小さな神社の小さな社。
人一人が住むのは難しい大きさだ。
少し思案した後、リンドウは祝詞をあげてから丁重に手を合わせた。
「失礼いたしますよ」
小さな社に近づくと、扉を開く。
「きゃっ」
ゆきの手元に崩れるように落ちてきたのは、古びたフランス人形だった。
「これ、さっきのお人形」
「やっぱり、ここに本体が居たんだね」
再び、丁重に扉を閉めてお祈りしてから、人形を手に鳥居の方へ向かう。
「さあ、これをご本人に渡してみようか」
再び、鳥居をくぐり境内から出ると待ちかねたように、留守番達がこちらに顔を向けた。その中で、寄り添って動かない少女の怨霊と黄色い大型犬の怨霊に、ゆきは近づいた。
「あなたが探していたのは、これかな」
ほとんど変わらない、ぼんやりとした輪郭が、僅かに笑みを浮かべたように見えた。
「本体が無く、成仏しようにも出来なかったんだろう。そして、主を置いては成仏出来ず、この犬もずっと現世に留まっていたってところかな」
「お前、忠犬だったのね。偉いわね」
怨霊を撫でる奇妙な光景に苦笑しながら、リンドウはゆきに言った。
「これで未練は無くなったのなら、神子殿。彼女たちを浄化してあげてよ」
「……はい」
ゆきが、胸の前で手を握りしめる。
(白龍、聞こえる?お願い力を貸して……)
神子にしか聞こえない鈴の音がした。
「めぐれ天の声、響け地の声……かの者を封ぜよ」
柔らかな光が少女と大型犬を包んでいく。
消える最後の瞬間、二人が微笑んだように見えた。
「これが、神子の浄化というものなのですね。初めて見ましたが、何と神々しいものでしょう」
唯一、神子の浄化を見たことの無かった与力が、口をぽかんと開けて呆然と言う。
「これで一件落着かな」
幕引きに向かう雰囲気の中で、ふとマコトが刀の柄に手を掛けた。
「いえ、まだ……」
言うが否や、複数の人間の足音が取り囲んだ。
「幕府の犬どもめが、こんな所で暢気に談笑しているとはな」
「まさかと思ったが、本当に居るとは」
寄り集まりの浪士達と思われる一団が抜き身を手に、鳥居を背にしたゆき達を取り囲んだ。
「これは、怨霊じゃないよね」
「ええ、彼らは人間です。お目付殿」
「貴様ら無礼だぞ。我々は南町奉行所の…」
「言わずとも承知だ。幕府の犬と龍神の神子ご一行様だろう」
「お目付殿、ゆきさん。さがっていて下さい」
マコトとチナミ、与力の三人がリンドウとゆきを背に前に出た。カチリと鍔が鳴ると、一斉に斬りかかる。
乱戦状態の中、リンドウは鳥居の中にゆきを押し込めると何枚かの札を取り出しマントラを唱えた。
「ゆきはここで大人しく待っていて」
「そんな、私も戦います!」
「今度こそ駄目だよ。彼らは怨霊じゃないんだ」
「……はい」
ゆきが頷くのを確認して、リンドウは輪の中に飛び込んだ。
「マコトくん、援護するよ!」
「かたじけない!」
術の掛かった札で、押し寄せる浪士達を足止めする。それを侍三人がなぎ払う。
しかし、二人同時に斬りかかられて、体格に劣るチナミが押されて体勢を崩した。
「うっ」
「チナミくん!」
それを見たゆきが、言いつけを破って飛び出す。
「馬鹿か、ゆき!」
「チナミくん、あっちの小道へ!」
それでも、乱戦に加わるのは無謀だと悟ったのか、ゆきが脇の小道へ逃れようとする。やむを得ず、従ってチナミがゆきの後を追った時だった。
小道の向かいから、浪士が一人飛び出した。
「ゆき!」
「っ!」
突然の急襲にレイピアを構えることも出来ず、斬られることを覚悟して目をつむる。
しかし、次の瞬間に見えたのは、峰打ちを受けてくずおれる浪士の姿だった。
「ご無事ですか。ゆきさん」
「えっ、総司さん……?」
「無事か、神子」
総司を先頭にした新撰組一同の後ろから、見知った頭巾姿が現れる。
「皆さん、お願いします」
総司の声に、控えていた新撰組が乱戦に加わった。数の利を失い、急速に浪士達の勢いが衰え、次々と捕縛されていく。
「慶喜…さんですか?」
「ああ、面倒に巻き込んで済まなかったな」
「こんなところに……」
ゆきの問いかけは、場が片付いて追ってきたリンドウに引き取られた。
「慶くん、こんなところで何しているの!?」
「そなたらの加勢に出した新撰組が別の情報をつかんだのでな。何でも、築地を徘徊する幕臣と龍神の神子を急襲する手筈だという」
「それで、貴方が自ら来たんですか」
「たまには良いだろう。8代なども市井にはよく出て居たと聞く」
「そんなまさか」
もし、ここに都が居たなら、両脇にリンドウ、マコトを従える慶喜を見て、そっちじゃないと突っ込んだだろうが、今のゆきには知る由もない。
「隊長、すべて捕縛いたしましてございます」
「ありがとうございます。上様、どうされますか」
「退くぞ。長居は無用だ」
総司の問いに答えると、早速慶喜は踵を返した。
「マコト、チナミ大儀であった。今日はこれにて身体を休めるといい」
「は、承知いたしました」
「ありがとうございます」
兄弟が、深々と頭を下げる。
「それじゃあ、僕たちも帰ろうか」
それを見て、リンドウがゆきに声を掛けると、思い出したかのように慶喜が続ける。
「ああ、リンドウ。確か夜番だったな。神子を送ったらすぐに登城せよ」
「え、何言っているの」
「今日は、城詰めの予定だっただろう。すぐに戻って執務につけ」
「ちょっと、朝から怨霊だの何だのって……。人使い荒すぎですよ」
不満を隠さないリンドウの様子に、慶喜が頭巾を下げてにやりと笑った。
「仕方があるまい。お前にしか頼めぬ仕事が多すぎる。リンドウが居なくば私は立ち行かないぞ」
思わぬ、真っ向からの賛辞ともつかない言葉に、面食らう。
「また、そういうこと言って……」
それでも、心の奥に湧いた歓喜が隠せなかったのだろう。ゆきがリンドウを見上げると、口の端が僅かに上がっていた。
「では、この場はお開きとする。解散」
慶喜の一言で、長い一日が終わろうとしていた。
6 日が落ちて
邸までの道中。
先ほどまでが嘘のように穏やかな時が流れていた。
ゆきとリンドウの二人は、寄り添って道を歩く。
「ねえ、リンドウさん」
「なに」
「今日はありがとうございました」
ゆきの謝意に、思い当たる節が無いとリンドウは肩をすくめる。
「一体どうしたの」
「だって、はじめはあんなに反対していたのに。最後は何も言わないで見守ってくれたのはなぜ?」
「そんなの、君が一生懸命頑張っているのに当たり前だろう。言わせないでよ」
「でも……」
「君はさ、怨霊にすら心を開かせるんだな。驚かせてくれるよ」
職業柄もある。それでも、リンドウの人生の中では『あれも駄目』、『これも駄目』。禁則ばかりに縛られて、息苦しい思いをしてきた記憶の方が多い。
その縛りから救い出してくれたのが、ゆきだった。
——運命に決まりなんてない。
鮮烈だった。
日本橋に差し掛かると、両脇に商店が建ち並びにぎやかになってくる。その中でも一際賑わっている店があった。
「あ……」
ゆきが声を上げる。
「どうしたの」
「あの、少し寄り道をしていいですか」
ゆきの目線は、あの賑わっている店に向けられている。
「構わないよ。その分だと本当に身体は大丈夫みたいだね」
「はい、では行ってきます」
小走りで店に向かう彼女の後を追う。
見れば、最近江戸で評判の京紅屋だった。
奥の座敷に並べられた紅を興味深げにゆきが見つめている。
「ゆき、京紅に興味があるの?」
「あ、はい。つけている人を見て綺麗だなと思って、ちょっと興味があります」
「それなら、買ってあげるよ。今日のご褒美にでも」
「え、いいんですか」
いつもなら、度を超す勢いで遠慮する彼女には珍しく、瞳を輝かした。
「もちろん。毎回言っているけれど、僕はそこまで甲斐性なしじゃないよ」
「今度、手代さんが来たらお願いすることにします」
あんまり嬉しそうに言うので、リンドウは思わず苦笑した。
店の番頭が気づいて、声を掛けてくる。
「そこのお嬢様。よろしければ、試しに紅を引いてみますか」
「あの、お願いします」
番頭の申し出に、座敷に座ると女中が出てきて紅を引く。薄い桃色だった唇が、瞬く間に玉虫色の妖しい色を放つ。
「どうですか?」
紅を引き終わって、ゆきがリンドウを見上げる。
紅を掃いた唇が、白い肌に一際映えて、見つめると吸い込まれるようだった。
愛らしい少女が、妖艶な女人に見える。
「君も、もう女の子じゃないってことかな」
「え?」
思わず漏らした呟きに、ゆきが首を傾げた。
一瞬捕らわれていた唇の魔力から解かれて、リンドウは慌てて冗談めかす。
「いや、背伸びしたい年頃ってことかと思ってね」
「もうっ!」
ゆきが、頬を膨らましてリンドウの腕を掴む。その顔を見つめて微笑んだあと、頬に手を当てた。
「リンドウさん?」
「やっぱり、君にはまだ早いよ」
言って、唇の紅を親指で拭う。
「もうしばらくは、可愛い女の子でいなよ」
「似合わなかったですか」
「いいや、すごく綺麗だった」
心配しなくても、紅は買ってあげるよ。そう言って、ゆきを促すと店を出る。日が落ちて、道は薄暗くなっていた。
「早く帰らないと。真っ暗になる」
「そうですね」
「あーあ、本当に登城しなきゃ駄目なのかな。あの人は鬼だよ」
「ふふ、頼りにされているんですよ」
ゆきが、リンドウの右腕に手を伸ばす。
「私も、頼りにしていますから」
手をつなぐと、ぬくもりと鼓動が伝わってくる。
「長い一日だったね」
「はい」
「今度、話を聞かせてよ」
「何のお話ですか」
「ゆきが、紅に興味を持った理由を詳しく」
「恥ずかしいです…」
「そんな変な理由なの」
「違います!」
◇◇◇
その後、旧知の大英帝国通訳官を通じて、築地の怨霊の正体が判明した。
数年前に来日して、しばらく暮らしていた商人の一人娘が流行病で亡くなったという。悲嘆に暮れた夫妻は帰国を決意したが、出航当日に娘の可愛がっていた飼い犬が姿を消したらしい。そのまま、出航の時刻が来てしまい、泣く泣く犬を残したまま、夫妻は帰国した。
「珍しく、日本の文化に非常に興味をお持ちの夫妻でした。その娘もよく近隣の寺社を巡ったりしていたそうです。それで、どうも娘の一番気に入っていたあの小さな神社に、彼女の大切にしていた人形を奉納したようなのです」
しきたりも何も無視した無茶苦茶な行為ではあるが、それなりに純粋な思いから行ったことである。
問題は、あの人形に娘の魂の欠片が宿ってしまっていたこと。
「それに、あのわんちゃんは気づいていたんですね」
「主を置いては行けぬと、ずっと寄り添っていたのですね」
邸の一室でお茶を飲みながら、ゆきとアーネストが語らっていると、廊下を駆けるけたたましい音がした。
襖戸が勢いよく開かれる。
「ちょっと、何しているの!?」
「ああ、リンドウさん。お邪魔しています」
「おかえりなさい」
「ただいま…って、ゆき、今何時だと思っているわけ?」
「もうすぐ、夜九つ?」
「深夜に、他人を。しかも男を勝手に入れるのはやめて欲しいんだけど」
「アーネストだから大丈夫かと思って」
「いや、大丈夫じゃないから」
「随分、夜も更けてしまって帰るのは大変ですね。リンドウさん、今日は泊めて頂けますか」
「構わないけれど。君も、ちょっとは遠慮したらどうなの」
「ゆきが、どうしても話を聞きたいと言うので仕方が無く参上したのですよ」
「えっと、リンドウさんの分もお茶を貰ってきますね」
「ゆき!」
沢山の日々の中の、賑やかな一日。
そんな一日が、今日も過ぎていく。