掌の上なら懇願のキスクロスを敷かれたテーブルを挟んで、向側に座っているのは誰だったかしら?
ふと、そんなことを考えた。
広大な公園の中にある天井と壁の大半がガラス張りのティールームはゆったりと開放感のある空間で、存分に射し込む陽光は、まばらに置かれた観葉植物の葉をきらきらと光らせる。テーブル上でほんのりと汗をかくガラスの水差しの中は、まるで星屑を詰め込んだように大小の輝きで満たされていた。
向かいの人物は、スッと伸びた脚を組み、手にした本を繰っている。指はほっそりと長く器用そうに見える。細い黒縁の眼鏡越しに見える瞳は長い睫毛が縁取っていた。
第二ボタンまで緩めたシャツに紺のジャケットが良く似合って居る。
少し見える鎖骨がいやらしくなることなく清潔感を保っているのは、育ちの良さが見てとれる姿勢とか、どこか洗練された所作のせいかもしれない。
「何かずるいです。」
思わずこぼれ出た言葉を、眼前のその人は少しの間考えたあと、繰っている本を閉じてから引き取った。
「急にどうしたの、ゆき。」
「分かりません。でも、リンドウさんはずるいです。」
素直なまま、よく推敲せずに言葉を返す。すると、大した話ではないと判断したのか、リンドウは再び本を繰り出した。
「君、今頃気づいたの?」
「真面目に聞いてください。」
「はいはい、聞いているよ。」
「もう、ほんとに聞いていますか?」
思わず前のめりになれば、何時の間にか伸ばされていた手のひらが頬を撫でた。
「珍しく、感情的だね。そういうの嫌いじゃないけれど、理解はしかねるね。ちゃんと説明してくれる?聞いているから。」
また子ども扱いして、と思ったが、ゆきは、それをぐっと呑み込んだ。
「このお店には、瞬兄と来たことがあるんです。」
「へぇ。」
「そのもっと前には、お母さんと来て。」
「そう。」
目の前のリンドウは、相槌を打ちながらも目線は本に落としたままだ。
「お母さんと来たときは感じなかったんですけど、瞬兄と来た時には少し違和感があって。瞬兄は落ち着いていたけど、私は中学生だったし、周りは大人ばかりで。何か浮いているみたいで。」
話しているうちに懐かしい情景が浮かんで来て、ついリンドウの様子を顧みることなく話し続けてしまう。
「それで、その時の瞬兄も本を読んでいたんですけど、突然パタンって本を閉じて、ゆき、出ましょうかって…」
パタンっ
と、音が会話にシンクロした。
意識を引き戻されたゆきは、話しながら胸元で合わせていた手をテーブルに置き、目線をリンドウに向ける。
本を閉じたリンドウが、じっと自分を見つめていた。
「それで、神子殿は僕に何をご所望かな?全然分からないんだけど。」
「えっと…。」
「僕からすると、君の方がずっとずるいよ。」
それだけ言うと、リンドウが席を立った。
「ゆき、出よう?」
二人無言で歩く公園は、まるで音も色彩も失ってしまったようだった。
常なら塞がっているはずの手のひらは、肩にかけたバッグの肩紐を握りしめていて、前を歩く人を追いかける。
「リンドウさん、待って!」
何でこんな事になっているのか、考えたいけれども今はそれどころではない。
決して見失う程ではないけれど、ゆきが普通に歩いたのでは追い付かない歩調で、リンドウの背は先を進んで行く。
『僕からすると、君の方がずっとずるいよ。』
何でこんな話になったんだろう?
いつもなら、困らせるようなことを言うのはリンドウの方で、それでも、本当はちゃんと分かっていて最後はゆきに冗談だよと言って安心させてくれる。
そうなのだ。どこか子供のようで捉えどころの無いリンドウを伴って現代へ還ってきて、ゆきは、彼をなるだけ不安にさせまいと心に決めていた。どんなことがあっても、自分がリンドウを守らなければと、神子でなくなっても使命感のようなものを心に秘めていた。
しかし、龍神の助けもあってか、思いのほか早くリンドウは現代に馴染んだ。江戸にいた時は、過酷な日々で顕在化していなかったのか、ゆきが気づいていなかっただけなのか。
恐らくは元々持ち合わせていたのだろう彼の洗練された所作や、ソツの無い立ち居振る舞いは、この世界にあっても非常に彼を有能に見せたし、特別に生まれ育った者の持つ、生来のものだろう華は周囲を惹きつけた。
まるで、ゆきの知らないどこか遠くの人のように、しがない女子高生の手が届くような人ではないような、そんな風に思う事が多くなった。
今日だってそうだ。医師としての社会的地位を持つ両親に伴われてこそ、ゆきとて、それなりの場所や店へ赴くこともある。ただそれは、両親あってのことで、普段のゆきはただの女子高生に過ぎない。
いつも冷静でソツの無い瞬兄とてそれは同じだ。ゆきが、たまの日本と頑張ったテストのご褒美に、まだ学生の瞬にねだって訪れた思い出のティールーム。どこか落ち着かない気分で瞬兄を見れば、彼も同じだったのだろう。早々に店を出ようと決まりが悪そうに言ったのだ。
だけど、リンドウは違った。散歩の途中にゆきがねだると、特段躊躇うことなく足を運んでくれた。少しどきどきしながらお茶をサーブされている自分の横で、のんびりと本をめくっている。その姿は、とても場に馴染んでいて、落ち着いた大人の男性に見えた。
私が守ろうなんて、そんな必要はまったく無いんじゃないかしら。それどころか、この人とお茶を飲んでいる自分は周囲からどんな風に見えているのだろう。私は、彼のなんだったっけ?
どんどん先に行ってしまう、知らない男の人になってしまう。
『リンドウさんは、ずるいです。』
それで零した言葉だった。
思考を一瞬奪われているうちに、前を行っていたはずのリンドウの姿が見当たらなくなっていた。いよいよ不安が募る。
(どうしよう、どうしよう…。)
足の運びを速める。焦燥感は次第に胸を支配して息が詰まりそうになった。履きなれないパンプスが脱げそうになって足をすり気味に走ると、今度は道の隆起に足を引っ掛けてつんのめる。
喉まで上がってきた嗚咽を呑み込んで走る。どこに行ってしまったのだろう。
一本道を抜けたT字路、池を囲む芝生の上に座り込むリンドウを見つけたのは、ゆきの息も上がった頃だった。ほんのわずか、息を整えると芝生へ足を踏み入れた。
「リンドウさん…。」
恐る恐る声をかけると、返事は無いまま、こちらを振り向いた。謝らなければと、ゆきが口を開く一寸前にポツリと穏やかな声が聞こえた。
「ごめんね。」
「え…?」
「ごめんね、ゆき。」
思いもよらない言葉に、どう応えたら良いか分からない。
「なんで、リンドウさん…。」
ぱちりと合った目線は、逸らされることなくゆきを見つめている。どことなく縋るような目線に促されて距離をつめた。そのまま、隣に座りこむ。
「ゆきは、僕じゃ駄目?僕はどうしたらいい?」
「そんな。」
なんで、そんなことを言うの?喉まで出掛かったが、あまりのショックで言葉が出ない。
「僕は、ゆきが居ればどこでどんな暮らしをしたって構わないんだよ。だけど、君について君の世界に来たからには、君や君の周囲の人たちに恥ずかしくないようにしなきゃって、僕にしては珍しく努力したと思うんだ。」
芝生についた手のひらの小指と小指が一瞬触れた。いつもなら重ねられるはずの手のひらは怯えるように遠ざかる。
「おかげで、君のご両親にも嫌われては居ないと思うし、瞬君たちともそれなりに上手くやっていると思っていた。この世界でも、一応の立場を得た。だけど…。」
見つめあった瞳が揺れているのが分かる。彼の目が揺れているのか、自身の瞳が揺れているのかは、今のゆきには分からなかった。
「最近、ゆきは僕と距離をとるよね。一緒に居ても、すぐに目をそらすし。手をつないでも離してしまうし、愛しているよって言うと怒るし。」
「それはっ。」
「ごめんね。どうしたら君は喜んでくれる?僕にはこの世界に君だけなんだ。君がいなければ僕には何の値打ちだって無い。この世にだって意味は無い。あの時、君が居ない世界なら滅びればいいと言ったのは本気だよ。君に愛されないなら僕は…。」
「リンドウさん…っ!」
名を叫んだ後、ゆきは隣で丸まっているリンドウの背を渾身の力で抱きしめた。
「なんで、なんでそんなこと言うの?私が、瞬兄の話をしたから?手をつなぐの恥ずかしがったから?愛しているって、ちゃんと言えなかったから…。」
そこまで言って気づいた。
目の前の大人は、いつも一生懸命にもがいているのに、それを隠す困った子供だ。格好つけて大人ぶっているけれど、本当は余裕なんか無い…。ゆきを追いかけて現代まで来てしまった。追い詰められた気持ちもふざけてごまかしてしまう困った大人だ。
だから、せめて私だけは全部分かってあげようと、何があっても寄り添って支えようと誓ったはずなのに。
あんまりにも、現代に馴染んだ風にするリンドウが自然だから。出来過ぎて、まるで嘘のようで。あんまりにも、ゆきには出来過ぎた御伽噺のような恋をさせてくれるから、すっかり忘れてしまっていた。知らないうちに自分のことだけでいっぱいになってしまっていた。
「ゆき、泣かないで。」
長い指が、繊細な動きで涙を拭った。
「ほんと、僕ってかっこ悪い。君のことがこんなに好きなのに酷いことして泣かせてばかり。」
「違います。こうやって、リンドウさんと色々話して、笑って、喧嘩して…。そういうのが本当に幸せだから、泣きたいくらい大事だから、泣いているんです。」
「はは。何それ。」
「こうやって一緒に過ごしている内に、知らないリンドウさんをいっぱい知って、嬉しくて。でも、凄く幸せすぎて、段々不安になってきて…。私も、自分に自信が無くなってきて…。」
離れていた手のひらが重なったと思ったら、くいと引っ張られて瞼に柔らかなぬくもりが触れた。それは一瞬で、驚いたことで涙がひいた。
「ね、ゆき。僕を嫌いじゃない?」
「嫌いじゃありません。」
「それじゃ、こっちへ来てよ。」
座り込んだ自分の前をリンドウが指差す。
ゆきは弾かれたように立ち上がり、その場所へ体を移す。ぎゅっと目を瞑り、それから精一杯の笑顔で目の前の人を見上げる。
「さっきまで泣いていたのに。もう笑った。」
「リンドウさんが居てくれるからですよ。」
「これからも、手をつないでくれる?」
「はい。いっぱい手をつなぎましょう。」
「会ったら抱きしめてもいい?」
「二人だけの時ならいいですよ。」
「可愛いねって言ってもいい?」
「友達の前じゃなければいいです。」
注文が多いな、と言いながらも段々といつものようなやり取りに、リンドウの声も明るくなる。
「それじゃ、毎日愛しているって言ってもいい?」
「…リンドウさん。」
いつもなら、調子に乗りすぎです!と口を尖らせて抗議するところだ。だけど、今日は違う。素直になれなくて悲しませてしまった大切な人に、素直になりすぎて傷つけてしまった大切な人に、本当の気持ちを伝えたい。
「私も、愛して…」
言葉は、軽く触れた唇に止められて。その後、吐息ごと全て持っていかれてしまう。
そっと名残惜しい熱が離れていくのを、ゆきはぼんやりと見送った。すると、リンドウがゆきの手首を取る。今度は手のひらの中心に熱いキスを落とす。
「覚えている?あの時の誓いはまだ生きているよ。僕は、君の手を離さない。ずっとね。」
まあ、誓いというか懇願だったけどね。
言って破顔する。
「だから、君も僕を離さないで?」
「私頑固ですから。嫌と言っても離しません。」
お互いの手をとって、手のひらに口付ける。
掌の上には懇願のキス。
狂おしいほど愛しい気持ちと約束のキス。