特別な日【十日前】
「それじゃ、今日は帰ります」
「うん、おやすみ」
「おやすみなさい」
週に一度の逢瀬の後、いつものように蓮水邸へゆきを送り届ける。
時間は大体同じ。
口煩い保護者代わりが目を光らせているということもあったが、お互いが今を生きるものとして生活していくなかで作っていった距離感だ。
それくらいに、今や自分はこの世界に馴染んだと思うし、仕事も持っている。片や、ゆきも高校生として日々を過ごす身であり、適切な距離と決まり事を暗黙のうちに定められたのは良い傾向だと考えている。
大抵、彼女を送り届けた後は、上がりこんで、お茶を頂戴することもあるし、今日みたいにそのまま帰ることもある。
いつも変わらない。
日課というか、ゆきと自分が付き合う中での決まった儀式とも言えた。
それは今日も同じで。
変わらなかったんだけど——
その変化の無さに、少し前から僕は不安を感じていた。
「おい、どうした。ドアを閉めるぞ」
玄関から聞こえるのは、彼女の兄代わりの人物で、当代の星の一族である桐生瞬のものだ。思わず、ジトっとした眼で凝視してしまった。
「なんだ。閉めるぞ」
なおも見つめ続けると、眼前の青年は溜息をついて、閉じかけた扉を大きく開いた。
「……上がれ」
声と表情は明らかに諦めの念が篭められている。
対する僕も、青年の意外な言葉に思わず目を見開いた。つい、中途半端な返答が口をつく。
「僕、もう帰るよ?」
「いいから上がれ。鬱陶しい」
彼なりに思うところがあるのだろう。有無を言わせぬ圧力を感じて、とりあえず言われるままにお邪魔することになった。
静かな居間で男二人。沈黙したままお茶をすする。
「で、お前は人の家の前でなぜため息なんかついているんだ?」
「何のこと?」
「まさかとは思うが、お前、ゆきに何か不満でも」
「ちょっと待ってよ、そんなわけないでしょ」
「本当か?」
真剣に疑っているのだろう。僕を見る目は剣呑だ。
しかし、事実ではない以上、思い込まれるのは不本意だから少しの意趣返しも込めて反論する。
「大体君さ、そんなこと大きな声で言って、彼女に聞かれたらどうする気?」
いささか不躾な瞬くんの言い様に、わざと大げさに後ろを振り返る。だが、眼前の青年は表情を崩す事もなく言ってのけた。
「大丈夫だ。ゆきには部屋から出ないように言ってある。それに、それが事実ならば、彼女も受け止めるべきだろう」
「君も大概横暴だよね」
正論には違いないが、静かな暴君を前に、もう一度深い溜息をつく。
「俺の事はどうでもいい。お前がこの家の前で恨みがましい顔をしていた理由を言え」
「僕、そんな顔していたかな」
とは言え、彼の見立てはあながち間違っていなかった。
確かに、僕は気になることがあって、それをゆきには聞けないでいた。
この世界、このご時世。気になる事があるなら、インターネットで調べるなり、周囲の人間に聞くなりすれば、大抵のことは分かる。だけど、こと今回の懸念事項については、日常の忙しさを言い訳に放ったままでいたのだ。
それも意図的に。
何故かと言えば、事の発端からして少し嫌な予感がしていたから。
そうであったとしても、ひょんなことで、この世界でもかなり知識豊かな部類に含まれるであろう彼が、乱暴ながら手を差し伸べているのだから、乗らない手は無いと腹を括り“気になる事”について尋ねることにした。
「あのさ、ちょっとした質問なんだけど」
「なんだ」
眼光鋭く、瞬くんはカップを手にしたまま目線だけこちらに寄越す。
「瞬くん、その怖い顔どうにかならないの?」
「それが質問か?」
ギロリと睨まれる。相変わらず冗談が通じない。
「違う違う。あのさ、君たちの世界では節句の行事みたいに個人の記念日を祝うものなんだよね」
「そうだが、どれを記念日とするかは個々人で違う」
「例えば誕生日は?」
「当てはまる」
「君たちは祝うの?」
「どういう意味だ」
「いや、ゆきの誕生日とかどうしているのかなぁって」
ドンッとテーブルを叩く鈍い音がした。
「当然、祝うに決まっている」
ゆきの育ての親を自認し溺愛する彼は、地に響く低音で答えた。ますます眼光は鋭くなって、威圧的な視線にさらされているこちらは嫌な汗が流れてくる。引き際を誤ると面倒なことになりそうで、何となく問いかけも探り探りになる。
「ああ、そう、だよね。それってゆきに限らず誰に対してもそうするものなの?」
すると、ここでなぜか瞬くんは黙り、たっぷり一呼吸をとった。
「誰でも、というわけではないだろう。社交辞令的に誕生日だという者に声を掛ける程度のことはするが、それとて互いの誕生日を知る程度には関係性を持ったと解釈出来る。だが、“祝う”というならば大体は親兄弟や親愛の情を持った相手を祝うものだ」
さすがと言うべきか。彼の回答は至極明快で分かりやすかった。
「へえ、参考になったよ」
言って立ち上がる。
恐らくここが潮時だろう。
瞬くんがカップをテーブルに置くと、先程から一転、凪いだ瞳で言葉を継いでくる。
「リンドウ、お前の質問の意図だが……」
彼が自分から僕と話を続けようとするのは珍しい事で、僕も彼と話すのはやぶさかじゃない。
それでも、ここが潮時だと僕の直感が告げている。夜も遅い。
「僕もそろそろ帰るよ。邪魔したね」
瞬くんが何か言いかけていたが、背中越しに手を振ると、そのまま僕は蓮水邸を後にした。
【一週間前】
先日の、蓮見邸での一件。
瞬くんのお陰で、自分の置かれた大まかな状況は把握出来たと思う。だがしかし、根本的な問題はこれっぽっちも解決出来ていないのだった。
そもそも、ため息のきっかけは、一週間ほど遡ったある日の出来事にある。
やはり、ゆきを送り届けた後の蓮水邸でのことだった。
「ねぇ、リンドウさんは誕生日どうするの?」
話し掛けてきたのは、当代の星の一族の片割れ。
異世界での怪異に絡んで手を焼いた、桐生瞬の実弟にして、ゆきの義理の弟だという桐生祟だ。彼女の尽力のかいあってというべきか、諸々の問題が解決した今、何事もなかったように元の鞘に納まっている。
その彼が、僕に問うてきたのだった。戸を背に歩き出そうとしていたのを止めて、再び玄関の方に向き直る。
「祟くんか。誕生日って言うのは何のこと?」
「あれ、知らないの?生まれた日を祝う日のことだよ」
「へぇ、そんな行事があるんだ」
祟くんの大きな瞳が、驚いたようにこれでもかと開かれる。
「ほんとに知らなかったの。おねえちゃんから何も聞いてない?」
「ゆきから?」
ここで祟くんが、わざとらしい位大きなため息を吐いた後、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「いや、聞いてないならいいよ。それじゃ、おやすみなさーい」
「え、ちょっと待ってよ」
「変なこと聞いちゃってごめんなさい。おやすみなさーい」
こちらの制止と問いかけには一切答えることもなく。
眼前で閉められたドアを前に、しばし固まったことは記憶に新しい。
(あの子、苦手なんだよなぁ)
大のおねえちゃんっ子である彼は、星の一族としても優秀な部類に属している。いわゆる『先見』や『占い』の能力が高いのだ。
いささか複雑な生い立ちの為か、育った環境なのか。年の割にしたたかで、ある種の『能力』と言った点では自分を上回る彼は扱いづらいのが本音だった。
まして、彼からは、大切なおねえちゃんを横からかっさらった嫌な奴と思われているようで、どうにもこうにも。
表面上のやり取りはともかく、どこかぎくしゃくとした雰囲気が拭えない。
(だからって、煮詰まってこんな所でお茶している場合でも無いんだけれどなぁ……)
散らかった頭では仕事も捗らない。気分転換を理由にして書類を片手に近くのカフェまで足を運んだものの、ちっとも進む気がしなかった。
ようやく秋の気配が感じられるようになった昼下がり。並木道に面したオープンテラスで、テーブルに突っ伏しそうになっていた時だった。
「あれ、リンドウさん?」
事の発端になった人物の声が名前を呼んだ。
ガバと身を起こして声の主を見上げる。
「祟くん!?」
そこには、制服を着た下校途中らしい祟くんの姿があった。
「こんなところで何しているの?割と暇なんだね」
笑顔で声も明るいが、言っていることは単なる厭味だ。
「あー、たまにはね。君は学校の帰り?」
「見ての通りだよ。それじゃーね」
相変わらずの素っ気なさで去っていく。呼び止める間もなく背中を見送っていると、彼が振り向いた。
「あ、そーいえば、おねーちゃんから話は聞いた?」
少し離れた所から叫ぶ祟くんに、こちらもやむを得ず声を張る。
「何の話?全然分からないんだけれど!」
「分からないなら、いいよー!」
「ちょっ、祟くん。こっち!」
再び膨れ上がった疑問に聞きたい事は山ほどあれど、大声でのやり取りなんか続けていられない。手を振ってこちらに来て欲しいと手招く。祟くんは、しばし思案顔をしていたが、やがてこちらへと歩いて来た。
「あの、僕はリンドウさんと違って、そんなに暇じゃないんだよね」
開口一番、軽く牽制される。だけど、これで退くほど僕も若くも青くもない。
「それは承知の上で頼むよ。この前から君の話がどうにも腑に落ちなくて困っているんだ」
はぁ、とため息をつくと祟くんが向いの席に座る。
「すみませーん。ストレートティーひとつ。あ、あのケーキも一緒にください」
座るなりウェイターに注文をかけてから、ようやく彼は僕の方を向いた。
「それで、何を聞きたいの?」
「前から君が言っている“おねえちゃんから聞いた”って話のことだよ」
「あー、それは駄目。教えられない」
「なんで!?」
「だって、おねえちゃんのことを、僕が勝手に教えられるわけないでしょ?それぐらい察しなよ」
いささか勝手な言い分に少しムッとする。
「君の言い分はわかるよ。でもさ、それなら何で僕に“聞いた?”なんて問いかけるわけ」
「さあね」
「さあねって」
祟くんは運ばれて来た紅茶を一口ふくむと、丁寧にソーサーへとカップを戻した。
「そういえば、誕生日がどういうものかって言うのは分かったの?」
目の前の少年は、一転の笑顔で問いかけてくる。
「え、それは……。一応理解はしたよ」
「それならさぁ、分からない?僕としては不本意だけど、一応、あんたとおねえちゃんは付き合っている者同士なんでしょ?」
「その通りだね」
すると、祟くんは笑って目を細めると言葉を継いだ。
「それ、本当?段々信じられなくなってきたよ」
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。まあ、僕は元々おねえちゃんがあんたと付き合っているなんて認めたつもりないけど」
「真っ向から否定されるとちょっと傷つくね」
「そう?」
話しながら感情が高ぶってきたのだろうか。素っ気ない返事は、敵意剥き出しのものだ。
続けて、彼は鼻で笑うと一息に告げる。
「ちょっとは頭使って考えてみなよ。あんたの誕生日は一週間後。恋人の誕生だよ。おねえちゃんから何か相談があって当然だと思わない?そりゃ、祝う気もないなら、何にも言わないかもしれないけれどね」
——祝う気もないなら、何にも言わないかもしれないけれどね
散々に言われて、もうこれ以上は無いだろうと構えていたところに、ものすごい爆弾を投げ入れられたような気がする。
聞き間違いだろうか。
「えーっと、それどういう意味?」
心臓が激しく鳴っている。
聞かなきゃいいのに僕はご丁寧にも聞き返してしまった。
そんな僕の様子を見て、祟くんが、もう一度盛大なため息をつく。
「だから、おねえちゃんはあんたの誕生日を祝う気がないかもしれないねって言ったの」
「え……」
案の定、耳が捉えたのはろくでもない言葉で、頭は驚愕の事実を理解した。
こと、瞬くんの話を聞いた時点で薄々気付いていたけれど、そこには踏み込んではいけないと考えずにいたのだ。
しかし、今度こそ容赦ない物言いで、聞いてはいけなかった事実が突きつけられる。呆然とする僕を前に、祟くんは一転穏やかな瞳で、爽やかに告げた。
「残念でした。ま、今後があるなら来年は頑張ってアピールしてみたら?」
「ちょっと待ってよ、祟くん」
「それじゃ、僕もう行くね」
祟くんは、『ごちそーさま』と、そこだけは律儀に告げると、呆然としている僕を置いて去っていったのだった。
【一週間前の夜】
その夜、つい不安にかられてしまった僕は、ゆきに電話をかけていた。
『はい、蓮水です』
「ゆき?僕だけど」
『リンドウさん、こんばんは』
携帯越しに聞こえるゆきの声は、いつもと変わらない。
「君の声が聞きたくて、少し話をしてもいい?」
「っはい、もちろんです」
偽らざる本音を告げると、ゆきは、相変わらずの初々しい反応で、恥ずかしげに声を詰まらせた後、嬉しそうに答えた。可愛らしい彼女の様子が目に見えるようだ。
小一時間ほど話し込んだあと、僕は次のデートの約束を取り付けることにした。
「それで、ゆき。急だけど来週の水曜日会えないかな。僕、一日休みなんだ。学校が終わったら付き合って欲しいところがあって」
すると急に携帯の向こうが静かになる。
「ゆき?」
『あの、ごめんなさい。その日は用事があるんです』
「え。あ、そうなんだ」
一瞬、頭が言葉の理解を拒んだが慌てて取り繕う。
「それじゃぁ、しょうがない」
『そ、それと。私、リンドウさんに言わなきゃいけないことがあって』
ゆきが、少し躊躇いがちに切り出した。
ついに、この一週間頭を悩ませた“おねえちゃんから話を聞いた”の真相が判明するのか。
「なに?ゆき」
『今週末の約束、延期にさせてもらってもいいですか?どうしても外せない用事があるんです』
またしても、想定外で理解不能な言葉が聞こえた気がする。
「うん?」
『本当にごめんなさい。あの、また電話しますから』
その後、彼女と何を話してどう電話を切ったのか。まったく覚えが無い。あまりに衝撃的過ぎて、頭が理解する事を拒否している。
えっと、とりあえず僕の誕生日に彼女は用事があって、さらには今週末のデートも取り消したいと。
いや、今週末のデートは『延期』と言っていた。という事は次が無いわけじゃあない。でも、ここ最近はすっかり習慣化していたし、予定をキャンセルされたのは初めてだ。
続けて、恐らく一年のうちでもかなり重要だと思われるイベント日すら断られるっていうのはどういう事態なんだろう。まあ、急な誘いだったし、彼女にだって都合はある。そんなことは分かり切った事じゃないか。
ゆきにデートを断られたという事実に納得ゆく理由をつけようと、頭は次々とそれらしい想像を紡ぎ出す。
だけど、結局は納得なんて出来る訳が無く、しかしこの作業をやめてしまえば、何か大切なものを失ってしまいそうで。僕は夜通し頭の中でそれらしい理由を探し続けた。
【二日前】
「多分、ゆきは僕の誕生日を知らない」
「それはない」
間髪を入れずに眼前の人物は答えると、額に手を当てて笑い出した。
ここ数日、寝る間も惜しんで考えた結果、一番無難で有りそうな理由はこれだと結論づけたのに。一考もされずに否定されたことで、僕もちょっと不貞腐れた気分になる。
「ちょっと、こっちは真剣に言ってるんだから笑わないでくれる?」
「だ、だって。お前が、相談があるとか呼び出すから何かと思えばさ……っ」
目の前で笑い転げる姿にため息しか出ない。
「はぁ……、なんで君になんて相談したんだろう。己の選択に不信しか感じないね」
件のオープンテラスで向き合うのは、八雲都。ゆきの従姉である。一見、爽やかな美少年風だが、歴とした女性で元黒龍の神子でもある。都くんはようやく笑うのを堪えると、再び話し始めた。
「しかしさ、何でこんな面倒くさい話になってるわけ?」
「それは……」
僕は、事の始まりと経過、現在の状況について都くんに話して聞かせた。
「なるほど。祟がねぇ〜」
顎に手をあてて、うんうんと頷く彼女の表情はどこか明るい。他人の不幸は蜜の味とも言うし。
人は他人の不幸をほくそ笑む事はあっても、己の利無しに手を差し伸べるような事は万に一も無いと思っている。
居るとしたらそれは余程の酔狂だ。冷たいだなんて批判は的外れで、実際、他人事なのだし当然と言えば当然のことだ。だから、ここで都くんに盛大に笑われたことは水に流すとして、本題に取りかかる。
「それなら聞くけど、ゆきは僕の誕生日を知っていて無かった事にしているっていうこと?」
「ゆきは、そんな子じゃない」
「じゃあ、なんで」
(やっぱり、祝うほどの事でもないと思われてるってこと?)
どうしても思考がそこに行きついてしまう。
「まあ、なんだ。お前、祟に言われなきゃ誕生日なんて気にもしなかったんだろう?だったらいいじゃん」
「良くないよ!」
知ってしまった以上、これを気にしないで流すことなんて絶対に出来やしない。
「しょうがないなぁ」
僕の切羽詰まった思いが少しは伝わったのか。ようやく、都くんは姿勢を正した。ちょっとは考える気になったらしい。
「あのさ、ゆきは本当にいい子だ」
「そんなこと知っているよ」
「私の天使だからな」
「あっそ。それで?」
「なんだが、ちょっとぽやっとしている所があるのは否定できない」
「それは同意だね」
だからさ、と都くんは腕を組むと僕に言った。
「きっと、誕生日を忘れてるんだ」
「え!?」
「分かった訂正する。日にちを間違えているか、勘違いしている可能性がある」
僕が不満げな声を上げたことで都くんは言い直したけれど、大して意味するところは変わってない。
「それって、忘れたり間違えたりするくらい僕の誕生日はどうでいいってこと!?」
「ばか、飛躍するなよ。人間そんなこともあるだろ」
「こんなところで、そんなこと言われてもね」
「あーもー、面倒くさいやつだな!」
都くんが苛々した様子で手元にあったフォークを僕に向けてきた。
「先の尖ったものを人に突きつけないの」
「お前は母親か。じゃなくて!」
反論はしつつ。彼女も、元々育ちが良いだけに、きちんとフォークをケーキ皿に戻してから再び言葉を継ぐ。
「ゆきに直接聞いてみたらいいだろ?」
「なんで!?」
「本当のことなんて、あの子にしか分からないんだから当たり前だろ」
「そ、そんなこと」
分かっているし、出来ていたら相談なんかしていない。
——ようは、聞くのが怖いのだ。
回りからは慇懃無礼だの、態度が大きいだのと言われる事もあったけれど、存外、小心で卑屈な自分の思考回路は嫌という程分かっている。もし、この事態を、今の話を慶くんが知ったら、大きくて深いため息をついたに違いない。相変わらず、困った奴だと。
そんな僕の心境が読めたのだろう。黒龍の神子であった彼女は、気配の変化や人の心の機微には敏感だ。
「今さら、怖じ気づいたってしょうがないだろう。なるようにしかならない」
なおも、僕が黙ったままでいるのを見て、都くんは首を傾けて伺う様に言葉を継ぐ。
「リンドウ、ゆきのこと信じてないのか?」
「……っそんなことないよ」
「なら、分かるだろ?大丈夫だって」
都くんは笑顔で続けた。
「私もさ、あの子について色々と不安になったこともあったけど、今こうして信じているからこそ、絆も強くなったって思っている」
最初は、恋人が誕生日を祝ってくれないみたいだ。どうしよう、くらいの話題だったのに、段々と人生相談みたいな展開になっている。
そして、堂々たる並木道に面したオープンテラスで、ただでさえ目立つ容貌の彼女と、小一時間も顔を突き合わせて語り合っていたのが良くなかったのだろう。
「あの、都くん。真面目な話をしている最中に悪いんだけど」
「なに?」
「すっごく、視線感じない?」
言われて、都くんは繕うこともなく、あからさまに周囲を見回した。すると、やはり分かりやすく周りがざわついた。
「んー。まあ、良くあることだけど今日は多いかな」
事も無げに言う。
「多分、リンドウと居るからじゃない?お前、目立つし」
「君に言われたくはないね」
「なんだよ。褒めてやったのに」
「え?どの辺が褒めてたの?」
「なんだ、気づけよ。鈍いやつだな」
「すまないね、鈍くて」
「ほんとだよ。反省しろよ」
なんとなく、本題がうやむやになったような気がしないでもないが、都くんは言うだけ言うと席を立った。
「それじゃ、この話は終わり。まあ、大丈夫だから気にするなって」
「他人事だと思って」
「他人事だからな」
消えない視線を意に介すこともなく、都くんがウェイターを呼び止める。
「すいませーん、お会計」
「ああ、ここはいいよ」
そう告げて、やってきたウェイターに支払いを済ませる。
「へぇ、いつの間に」
都くんは口笛を吹いて愉快そうに笑った。
「あんた、そういう気遣いはいいよな。そういうとこは、ゆきに合ってると思う」
「そう?」
なんだか、褒められたのか馬鹿にされたのかよく分からないが、上機嫌の都くんとはそこで別れた。
ちなみに、数々の視線とざわめきの要因は後に知れることになる。おかげで気に入って足しげく通っていたあのカフェにはしばらく近寄れなくなった。
【???】
(痛っ、なにするんだよ都姉!)
(祟、お前は話をややこしくするんじゃないよ)
(誤解だよ。これは事故だからね)
(はぁ?)
(だってさ、まさかおねえちゃんが一言も話してないなんて思わないだろ)
(そうかもしれないけど、祟が余分な事するからだろ)
(やっぱり、お前だったか)
(え!?)
(瞬!)
(リンドウの様子がおかしいと思えば……)
(なんだ、お前も知ってたのか)
(誰か、このことをゆきに言ったか?)
(……)
(……)
(そうか。彼女はまったく気づいていないぞ)
(相変わらずだけど、おねえちゃんも大概鈍いよね)
(そこが、ゆきのいいところでもあるけどな)
(だとしても、このままだとサプライズ成功どころか泥沼になるのは目に見えている)
(だよなー。どうするんだよ祟)
(ちょっ、僕に全部押し付ける気?)
(誰も、好き好んで泥船になんて乗りたくないだろう)
(そりゃそうだ)
(僕だって嫌だよ)
(分かった。俺が話すから、お前達はこれ以上余分な事をするな)
(おい、人聞き悪いこと言うなよ。余分な事してるのは祟だけだからな)
(あ、都姉ずるい!)
(いいから、お前達は大人しく準備を進めろ)
(はーい。ちぇっ)
(わーかったよ。じゃあ、任せた)
【当 日】
迎えた晴れの日に、いよいよ僕の心の中はどんよりと曇り模様になっていた。
前日、仕事関係の電話を捌いている中で何度となく“明日のお休み、楽しみですね”と投げかけられるのが苦痛過ぎて、途中からは頭を空っぽにして生返事をするのに務めた。相手に悪気がないのは分かっているけれど、昨日の僕にとっては超一級の拷問と変わらない。
目覚めるといつもより少し遅い時間で、眠りすぎたせいか頭が痛む。目覚ましにコーヒーでも、と行きつけのカフェを思い浮かべたものの、あそこにはしばらく行けないんだった。何もかも具合が悪い。
仕方がなく、自分でコーヒーを淹れて机に向かう。何か気晴らしをしようったって、気力が全く湧かないのだからしょうがなかった。
(久しぶりに、のんびり家具でも見る?それとも、スーツの一着でも新調しようか)
仕事の書類を手にしつつ。日頃、多忙で出来ずにいたことを思い浮かべる。それでも、少しの気力も回復しなかった。
(これは重症だな……)
考えてみれば。
ある年齢を過ぎてからというもの、こんなにも一つの出来事に拘うことがあっただろうか。
(あ、あったね)
思い当たったのは、異世界でのこと。
ゆきに、神子をやめさせようと、苦心しながらも散々に振り回されていたあの頃がそうだ。
結局、自身がこんなにも自制が難しくなるのは、いつだってゆきが絡んでいる時だということか。対象がボロボロになるまで執着する自分にはお似合いだ。今や、自分自身がボロボロになりかけているけど。
自嘲気味に呟いた後で、頭から振り払う。まずは、目の前の仕事に没頭して、早くこの一日を終えてしまいたかった。
目論み通り、ひとしきり集中して仕事に取り組んだ後、ふと時計をみやれば時刻は夕方になろうとしていた。
(何だか疲れたな)
手にしていた書籍を揃え机に置いて、首を回す。立ち上がり、リビングのソファに向かって身を投げ出した。
(そろそろ、学校終わったかな)
やっぱり考えるのはゆきのことで、先日約束は断られたばかりなのにも関わらず、彼女の予定を思い浮かべた。
ああ、用事があるというのは本当だとしても、すでに終えて家に帰ってはいないだろうか。それとも、勘違いで用事は昨日か明後日だったりしないのだろうか。
「そんな、都合がいいことあるわけ……」
言いながら首を竦めた時だ。
玄関の方から、高くて間延びした機会音が聞こえて来た。ソファに寝転びながら聞き流す。すると、もう一度ドアホンが甲高い音を立てる。
(まさかね)
切望し過ぎて、ついに幻聴が聞こえてきたのかと思ったが、確かにドアホンは鳴っている。だからと言って、それが待ちかねた人とは限らない。でも、何か荷物が届く予定はあっただろうか?来客の予定は元々ない。
これが最後とばかりに、もう一度ドアホンが鳴った。
「……っ!」
モニタを確認もせず、玄関へ走る。
やっぱり、これは天が定めたもうた運命で、君と僕とは必ず巡り会う——
壮大な脳内ナレーションとともにドアを開ける。
「こんにちは、リンドウさん」
視界が歪んで、グラっと身体が傾いだ。眼前の人物が慌てて腕を伸ばす。僕を支える相手の腕と肩を掴み、万感の思いと共に吐き出すように言葉を継いだ。
「また君か」
「悪いけど、僕だって好きで来たんじゃないよ」
「今、すごく泣きたい気持ちだ」
「そっくりそのまま返すよ」
発言はあながち嘘でもないらしく、祟くんの顔は、不満そうな中に心細そうな気配を漂わせている。
「とにかく、僕と一緒に来て。別に変なことはしないから」
「そんな風に言われると、余計に不安になるんだけど」
僕が掴まれた腕を引っ込めようとすると、祟くんが慌てて掴み直す。
「いいから来てって!おねえちゃんの頼みなんだから、素直に聞いてよ」
「え!?」
思わず聞き直す。するとじれったそうに祟くんが言った。
「だーかーら、おねえちゃんに頼まれて僕はここに来たの。分かったら、さっさと準備して僕と来てよ」
祟くんに連れられてたどり着いたのは、どこかで見た事のある邸宅の前。
「見覚えがある道のりだと思えば……」
「はい、到着。さっさと中に入って」
ここは、蓮水邸だ。間違いない。
「ちょっと。祟くん、聞きたいんだけど」
僕が呼び止めるのを気にもせずに、祟くんは廊下を歩いていく。そして、リビングの扉をあけた。
「ねえ、祟くんっ!!」
けたたましい破裂音とともに、きらきらとした紙切れが飛び舞い散る。
「ハッピーバースデー!リンドウさん♪」
真っ先に飛び込んで来たのは、愛らしい彼女の声。
「ゆき?」
「驚きましたか?今日はリンドウさんのお誕生日パーティーを開こうと思っていて」
秘密にしていて、ごめんなさい——
彼女の告白に、張りつめた気が瞬時にくだけちって、膝から崩れ落ちそうになる。僕の誕生日パーティー、秘密にしていたって?
すると、僕の心を読んだかのように、瞬くんが言う。
「ゆきの不手際で、色々と心労を掛けたようだが悪気は無かったのは間違いない。許してやって欲しい」
「そんな、許すも何も」
「まあまあ、折角の日に辛気くさい顔してたら始まらないだろ?とりあえず、乾杯といこうぜ」
上機嫌の都くんに連れられて、大きなダイニングテーブルに導かれる。そこには、テーブルから溢れんばかりの心づくしの料理が並んでいた。
「はい、どうぞ。リンドウさん」
ゆきが、満面の笑みでグラスを差出す。
「それじゃあ、おねえちゃんが音頭をとってよ」
「うん。じゃあ、リンドウさん、お誕生日おめでとうございます。一緒にこうしてこの日を祝えるのがとても嬉しいです。この世界に来てくれて、私たちの側に居てくれて有り難う」
『乾杯』
彼女の澄んだ声のあと、皆でグラスを合わせて中身を飲み干す。その場に居たのは、ゆきに瞬くん、都くんと祟くんという、いつものメンバーだったけれど、各々、淡々と、あるいは清々しく。または、照れくさそうに僕の誕生日を祝福する言葉を掛けてくれた。
後日、蓮水邸でのシークレットパーティーに至った理由について瞬くん及び、ゆきからも報告があった。
「お母さんにリンドウさんのお誕生日のことを話したら、折角だから皆で盛大に祝いなさいって。本当は二人とも日本に戻ってくるつもりだったみたいだけど」
さすがにそれは叶わず
それでも、蓮水夫妻はわざわざお祝いのカードとプレゼントを贈ってくれた。とにかく、こんなことは初めてで、色々と不安にさせられたけれども、蓋を開けてみれば、皆の気持ちに暖かくなる。
「それで。薄情な女の子は、僕を驚かせてどうしようと思っていたのかな?」
「それは、本当にごめんなさい」
都くんの仮説は半分当たっていて、ゆきは僕が誕生日についてまったく無知であったことを知らなかった。そして、シークレットパーティーをほのめかすことを忘れていて、本当にシークレット状態になっていたことに気付いていなかった。
これが悪い事に、手伝いを依頼されていた祟くんが僕にそれとなく聞いたのがいけなくて。完全なるやぶ蛇状態に、祟くんなりに困っていたのだということを後に聞かされた。
「僕、結構傷ついたんだよね。ゆきは、僕のことどうでも良くなっちゃったんじゃないかって」
「そんなことありません」
「本当に?」
「その証拠に、こうして今日はずっとリンドウさんの側に居ますって約束したじゃないですか」
誕生日の後の週末。僕は、流れてしまったデートの振替を楽しんでいた。
腕の中にはゆきが居て、家の中ずっと二人で話をしたり、映画を見たり。
「こういう時間が、何よりのプレゼントだよ」
もちろん贈られたプレゼントも嬉しいものだった。趣味のいい、アンティーク風のカフスボタン。
「喜んでもらえたなら良かったです。私達みんな、リンドウさんが居てくれることが嬉しくて有り難うって伝えたいとずっと思っていたから」
背中から華奢な身体をギュウと抱きしめる。心持ち、力を込めて。すると、彼女が胸の前に回る僕の腕に手のひらを重ねる。
「来年も、その先もずっと。一緒にお祝いしましょうね」
彼女の言葉は、この先続いていく未来の話で、その日々を一緒に積み重ねていこうという誘い。言いようの無い熱い思いが胸の奥から湧き上がり心を満たしていく。
彼女が愛しい。
「ゆき、好きだよ」
「私もです」
「愛している」
そのまま、頭のてっぺんから耳の後ろ、うなじから首筋まで唇で辿る。
「っ、リンドウさん。くすぐったいです」
「しっ、そのまま」
やんわりと、ゆきの口を塞ぎ後ろからのキスを繰り返す。耳の後ろのキスにくすぐったそうに身を捩る彼女を腕に閉じ込めたまま。
最後に、覗き込んで唇を塞いだ。
「んっ……」
息が続かなくなるまで。息が絶えても離れがたき思いを堪えて、ようやく唇を放す。
ゆきが、ほっと息を吐いて潤んだ瞳で僕を見上げた。
「もうっ、リンドウさん苦しい。酷いです」
「君を前にして、口付けを禁じられる方がよっぽど酷くて惨いことに思えるけど」
「また、そんなこと言って」
“はぐらかさないでください”
ちょっと怒った様に言う彼女の頬は赤く色づいて、可愛さの余り意地悪をしたくなる。
「今日は特別な日でしょ?ちょっとぐらい、僕のわがままを聞いてよ」
「いつも、リンドウさんはわがままばかりです」
「お、結構言うね。そんな悪い子にはお仕置きが必要かな」
「え、リンドウさ……」
再び、可愛い抗議の言葉を口にしようとするのを、僕の唇で塞ぐ。
時折漏れる声が甘く、ともすれば消えてなくなりそうになる僕の存在を呼び続けてくれているような気がした。
そんな、都合のいい思考を繰り広げながら。
「僕、本当に生まれて来て良かったよ。君に会えて初めてそう思えた。だから、今年こうして誕生日を祝ってもらえたのは必然だったんだと思う」
「リンドウさん……」
「この世の誰にとっても、誰かが自分を思ってくれるなら誕生日は本当に特別な日で。僕にとっても、これからも君と居る限りずっと特別なんだ」
「そんなの」
当たり前です
満面の笑みで僕に告げる君が嬉しくて、もう一度その頬を捕まえて深くて甘いキスをした。
特別な日、万歳!