背中合わせの君 その日、僕は邸の広間で正座していた。
目の前には兄が居て、さも重大事だと言いたげに厳かに告げる。
「斉基、江戸の一橋公が我らの従兄弟君であらせられるのは知っていよう」
何を今さらと、言葉を返すのも億劫で黙礼で肯定する。
常なら僕の態度に逐一小言を言う兄が、気にかける様子もない。そのまま話を続けた。きっと、これから命じることに比べたら瑣末ごとなのだろう。
何となく予想はついていた。
「知っての通り、一橋家は公方の御身内の立場。家臣をもたれない。謀臣もなく大変心許ない思いをなされていると言う。なれば……」
——きた。
と、心のなかで呟く。
「斉基。下向して公に御仕えしなさい。重大事であるゆえ、京に残す役目諸々、心配せずとも私が引き受ける。そなたは、直ぐに支度をしなさい」
「諸々の手筈は」
「すべて整えた。心配せずとも、それなりの役をつけた故、よく御仕えするように」
「役をですか」
問うたものの、それ以上を聞かなかった。兄も答えない。
一礼して広間を出て息をつく。
兄は一族の名を呼ばなかった。
つまり、これは政治向きな話だ。
そして、一橋家に仕えるかのように聞こえたけれど、役を付けたと言っていた。
役を付けたとはどういうことか。
きっと、慶くんは預かり知らぬうちに進められた話に違いない。
今や京は、朝廷の日和見主義もいいところで、風見鶏のようにクルクルと方向を変える。
わが家は、徳川家と血縁関係にあり、比較的親幕府的な立場をとってきた筈だった。
しかし、朝廷内にも西国雄藩の手は伸びて、いつ何時、主義主張に反すると言って切り殺されるか分からない物騒な情勢だ。
多分、僕の役目は純粋に慶くんを助けることではないのだろう。
彼は、今の情勢からすると忌避すべき存在だ。
仕方がないのだと。
兄に問えば、きっとそう言うのだろう。
それでも、この状況を受け入れる気にならない僕は子供なのか。
大体、結局は決まった道筋に収束するのだと知っているのに、クルクルクルクルと。
飽きることなく頭を方々に向けて。
そういえば、慶くんは言わなきゃ良いのに、そんな世間の流れに逆らって意見した為に蟄居などという罰を受けたのだった。
どうせ、時がくれば頭の向きは変わるのに。今、この時、鶏が尾を向けていたからと言って、怒っていたらキリがない。
(面倒くさいな…)
京から、一族の監視下から逃れられるのはいい。
でも、今度は僕が誰かを監視することになるのだ。
案の定、江戸について知ったのは「目付」などと言う、公家の末子には過ぎた役職に就かねばならないことだった。
仕事は、幕府の役人全般を監視すること。これで、公然と中を探れる。よくも、こんな役目に己のような異分子をつけることができたものだ。
こじんまりとした邸は、なかなか住み心地は良さそうだった。
翌日、僕は一橋公に拝謁賜ることにした。
「公に於かれましては、この度の……」
ツラツラと口上を述べると、慶くんはあからさまに嫌そうな顔をしていた。
五歳年下の従弟はすっかり大人びてしまって、いまは酷い仏頂面をしている。
「それで終いか」
やがて、一言だけぶっきらぼうに言った。
それならばと、僕も付け足す。
「じゃ、もうひとつ。御役目ご苦労様です」
すると、慶くんは目を丸くした後、膝を打って笑い出した。周りを囲む家臣達の顔は蒼白だ。
「相変わらずだな。黙っていればよいものを」
「貴方に言われたくは無いですよ」
その後、退室して帰ろうとした所を引き止められた。別室に閉じ込められて随分と待たされて、いよいよ嫌気がさしてきたところで襖戸が開く。
現れたのは一橋慶喜その人だ。
「では参ろう」
「どちらへ」
「そなたの邸だ」
いきなりやって来たと思えば、これまた唐突に。
御三卿たるひとが軽率にすぎる。
本人ではなく偽者かと、思わずまじまじと眺めてしまったが、確かにそれは従弟だった。
道中、溜息とともに頭を抱えた。
思っていた以上に、この公は規格外で危なっかしい。あの家の誰にも制御出来ていない。
こんなひとを監視したからと言ってどうなるんだ。
こんなひとを放って置いていいんだろうか。
やがて、邸に着いて自ら先導する。廊下を渡る間、慶くんは忙しなく視線を巡らせていた。
「粗末な邸で恐れ入ります」
「いや、やはりどことなく武家屋敷とは違う雰囲気になるものだと感心していた」
「厭味ですか」
「そうではない。お前らしいと思った」
「そう」
慶くんの顔は、今日はじめての笑顔だった。
時々。時々、凄くズルいと思うくらい、このひとは素直だ。
それはやはり、貴人の生まれによるものが身に染み付いているのだろう。
客間で一献傾ける。まさか、この厄介な従弟と酒を汲み交わすことになるとは考えたこともなかった。
開け放した戸の外には、月と少し寂しい庭が見える。
「この庭、花は植えないのか。少しばかり貧相だ」
「そうだね。僕の好みじゃないかな」
「整えたなら知らせるがいい。花見でもさせてもらう」
「花を愛でる趣味なんて、御ありでしたっけ」
問えば、意味深に笑う。
「目付、そなたは私を何者と心得る」
「一橋慶喜公と言えば、位は三位、将軍の御後見……」
目の前のひとが頭を振った。
「そういう通り一遍を問うた訳ではない。今さらだろう」
僕が応えずにいると、慶くんは自嘲するように続けた。
「思惑あって寄越されたのは百も承知している。お前は、私にどう踊って欲しい」
「実のところ、朝廷はともあれ僕には思惑なんて無いよ。別に志も無い。この世はなる様にしかならない」
「相変わらずだな」
特に感慨もわかない。そのまま黙っていると再び慶くんが続けた。
「その考え同感だと言いたい所だが、立場上、行き着くところまでは役を演じねばならぬ。ただ、台本が好き勝手に書き換えられるのは余り面白くないものだ」
彼は盃をくいとあおった。
「さて、これは酔人の戯言であるが、本を書きたいと思っている。風見鶏を回す風となる男の話だ」
耳に入ったのは、出来れば聞かないでおきたかったような話だった。
「風を吹かせたいと仰いますか」
「どうだ、陰陽師よ。そのような話を聞いたことはないか」
「さて……」
「私は、流されるのも良いものと思っている。だが、どうせなら己が風上に居た方が気分が良いものだ」
真剣な目で。酔っているのは事実だろうが、この人がどこまでも正気なのは確かだった。
眼を合わせ続けることが出来なくて、手のひらに置いたままだった盃を握り直す。頭の中には、思い描いては握り潰して片隅に捨ててきた数々がよみがえる。
佐幕か尊皇か。
南紀か一橋か。
この二つは相対し釣り合っているようで、そうではない。
選択肢は両の天秤には置かれていない。
そのくらい、今の時世は狂っていた。今日の尊皇が一橋を斬り殺し、明日の佐幕が将軍を糾弾する。そして、三日後には全く逆のことが起きるのだ。
「いまの貴方は、日本中敵ばかりだ。お国もとすら貴方を信用していない」
「信用ならねば、そなたも乗るには躊躇うという訳か」
「さて」
「いや、道理であろう」
そういう感慨は持たない性質の筈なのに、笑んだ慶くんは微かに落胆して見えた。
多分、この人は十と少しで御家を継いでから、散々落胆を重ねてきたのだろう。感慨を持たないのでは無くて、持つことを放棄したのだ。
それなのに、まだ僕には少しだけ期待したのだとしたら、それは、とても悲しかった。
期待されて突き放された君
期待しては突き放される僕
笑うしかないくらい、可笑しな組み合わせだった。
でも、彼は素直なのだ。
突き放されても尚、役目を果たさなければならないと、自分でも気付かないくらい切実に思ってしまっている。
何しろ、その昔、幼い頃のお伽話だとしても、神子の伝説に入れ込む僕を馬鹿にしたりしなかったんだから。
ここに、ひとつ思い描いていたことがある。
手のひらにある盃を一気にあおった。
「多分、一歩間違えたら奈落の底に落とされるよ」
「なに。どうせ何をしようと最後は腹を斬らされるのだ。今さらであろう」
思わず苦笑してしまう。
「世が乱れて怨霊が跋扈しているのに、幕府も朝廷も手をこまねいて見ているだけだ。これを君がすべて排除する」
馬鹿な……と、慶くんは呻いた。
「どのようにする。お前がすべて祓うとでも」
「勘弁してよ。なんで僕が」
「私が、というなら当然だ」
さも当たり前のように言う彼に苦笑する。
「違うよ。貴方も知っているんでしょう」
ここで、そのまま続けるのを僅かだが躊躇う気持ちが生まれた。
今から告げることは、正気では到底理解し難いことだからだ。
しばしの沈黙を挟んで、焦れた慶くんが促した。
「言え。リンドウ」
「え、誰?」
「何だ、お前の名だろう」
事もなげに、目の前の従弟は佇んでいる。
今日はじめて彼が呼んだ僕の名は、多分一族の他には彼しか知らない名前だった。
「よく憶えていたね」
「あれだけ意を込めて言われたなら忘れられまい」
「それなら、話は早いや」
ああ、もう面倒くさいことばかりだけれども、こんな規格外の殿様を、自分のほか誰が操る機会があるというのか。
「龍神の神子が降臨するよ」
「まことか」
「一族の書に書いてある。間違いないよ」
「しかし、降臨したからとて、どうするのだ」
ここで、僕もはじめて笑った。
「僕を使いなよ。これでも神子を奉る一族なんだ……。力は無いけれど」
僕の言葉に、またほんの微かに慶くんの雰囲気が変わった。
何年経っても相変わらず自虐的な僕を哀れに思ったのだろう。
気にすることなどないのに。
「龍神の神子は、怨霊を祓うのではなく浄化する。陽の気が溜まれば土地の風水は好転するよ。勿論、民意は君に集まるだろう」
「成る程……」
「それに、南紀……、白衣の宰相殿は神子に大変執心されている。幕府の動きは大分制限されるでしょう」
慶くんは、顎に手をやり目を瞑った。何やら熟考する。
「幕府の閥は宰相だけにあらずだが。龍神の神子だけでは弱いのではないか」
「それは大丈夫だよ」
とっておきを僕は持っている。種は明かせないけれど。
「必ず宰相殿の動きは止まる。それ以外なら、君が何とか出来るでしょう」
「さもあらん」
慶くんが、ぽんと膝を打った。
「ならば、リンドウを信じよう。早速、委細を詰めねばならぬな」
大変な重大事にも関わらず、軽く言って笑う。そればかりか、銚子を手に僕の盃に酒を注いだ。
溢れるか溢れないか。
ギリギリのところで酒が揺れている。
僕はそれを、零さないように慎重に口元へ運びながら。そして一気にあおった。
「これも、酔人の戯言ですけれど」
一度、言いおく。
「君がしくじれば僕も首が危ないんだ。だから君の背中は僕が守るよ」
「お前がか」
「そう。人選誤ったね」
「いや、並みの御家人どもより心強い。感謝する」
今度はからりと笑うでもなく、凛と整った表情に笑みを載せてくる。それだけで、彼が真意からその言葉を口にしたと知れる。
事実、この奉公が綱渡りになることは薄々分かっていたのだ。
表向きは公儀の役人として働き、裏では一橋公に仕える。
僕はまな板の鯉も同然で送り出された。情勢に寄っては、いかようにでも罪を被せられて消されるだろう。
兄は納得していたかは別としても、それを分かっていて僕を送り出したのだ。
少しだけ胸が痛む。
それでも、君がわざわざ聞いたりするから。
「リンドウ。俺の側に居れば、それだけで命が狙われる。覚悟はよいか」
そんな今さら。
「なる様になるまで、お供しますよ。……慶くん」
「さようか。では、参ろう」
公儀の目付として働く傍ら、北町奉行の補佐を命じられたのはそれから間も無くのこと。
表向き、僕は幕府を監視し幕府は僕を監視している。
時折、一橋の情勢を伺いながら、龍神の神子の支援をする。
張り巡らされた綱の上を歩く。
心底、面倒だという思いは変わらないけれど、自ら面倒を背負い込んで突き進むひと達を助けるのが少しだけ楽しくも思えてきた。
いま、僕は確かに生きている。
「玉が…」
今まさに、宰相の手に渡った筈の龍神の玉が弾け飛んだ。
宰相の御前から辞して、広い城内を早足で進む。
眩いばかりの神気に導かれて辿りついた一室に少女は居た。
さて、ここから舞台は始まる。
驚いたように周辺を見回す少女にそっと近づく。
「静かに…」
【了】