戻らない戻れない だって、知らなかったの。
初めてのことで、どういう風にしたら良いか分からなかった。
ちっとも嫌なことなんて無かったよ。
だけど、それを伝える方法を知らなかったの。
あと、もう少しだけ寄り添っていたいと思ったのに、すっと熱は離れていって、貴方が悲しそうに笑ってごまかすから。
多分、それは伝えられなかった私のために貴方がくれた思いやりだろうけれども、心の中でホッとする気持ち以上に私も悲しくなった。
どうしたら、伝えられるのだろう。
私が、貴方が思う以上に貴方を想っていることを。
机の上に置いた携帯電話をじっと見つめる。
休み時間の度に繰り返しているから、もう4回目だ。
基本的に、あまり盛況とも言えないメールボックスに一人お馴染みが増えたのは一年くらい前だった。
「ゆき、もう休み時間終わるよ?」
「うん、ありがとう」
学校で携帯電話を使えるのは休み時間の間だけ。心待ちにしているメールが来ない。
四六時中、会話のような短い文章を交わせるツールもあって、都や友人達とは、専らそちらでたわいない話を送りあっている。
待ち人の性格を考えたら、そちらの方を好みそうなものなのに、彼は頑なにメールへと文章をしたためる事にこだわった。
こんな時、会話ツールならさり気なく様子を伺ったり、自分の近況を知らせることも出来るのに。
(多分、怒っているんだろうな……)
何となく最後に会った日のやり取りを思い出した。
ただ、あくまで憶測であって、見当違いの謝罪などしようものなら、また不興を買うのは目に見えている。
だから、いつものように彼の気遣いに甘えてなし崩しにしてしまうか、やはり自分でしっかりと言うべき事をまとめて伝えるか。解決方法は二通りで、当然ながら後者をとるべきだった。
でも、考え始めると、途端に頭の中は雨の日の窓ガラスのように、次第に曇っていってしまう。
そもそも、伝えなければならないことを、どう伝えたらよいか分からなくて、こんなことになっているのだ。
(もう、授業が頭に入らないよ)
集中を失って、残りの時間をやり過ごす為に窓の外を覗く。
今日は本当なら、週一度のデートの日だ。だけど、誘いのメールは来ない。
そのまま、最後の授業の終わりを知らせる鐘が鳴った。
***
放課後、ゆきは寄り道もせずに自宅へ帰り、そのまま自室へと上がった。この時間は、まだ他の誰も帰宅していない。自身は高校三年生になって部活動を免除されているが、祟などはようやく本格的に活動し始める時期だ。都は大学が忙しいし、瞬などは研修医として言わずもがなである。
待ち人…リンドウは、元々この世界の人間ではなくて、ゆきが合わせ世となることを防いだ、もう一つの世界の住人であった。あちらでは、公家の名家である五摂家の嫡流としてそれなり以上の身分を持っていた。それを考慮してなのか、こちらの世界へやって来た時には、ご丁寧にも資産家の肩書きを龍神から与えられ、おかげで暮らしには不自由はしていないようだった。
初めは、リンドウがこの世界に慣れていないこともあって、辿々しい付き合いを続けていたけれど、次第にリンドウが馴染んでくるに従い、そこはやはり倍くらいの年齢差もあって、ゆきが翻弄されることが増えて来た。
これまでは本当に気付かなかったり、気付かない振りが出来ていた事も、意識してしまった今では難しい。
それに、本気で恋人として振る舞う時のリンドウの攻勢を『気付かなかった』ことにするのは相当に無理があった。
(また、思い出しちゃった……)
そもそもの発端。
友達にも、都にも、まして瞬に相談なんて出来る訳がない。
キスをされたのだ。
それも、これまでには無かったような、深くて甘いキスを。
驚いたと同時に、どうして良いか分からなくなってしまい、ぎゅっと目を瞑った。
思わず、目の前の胸を押してしまい、次の瞬間には悲しげな顔のリンドウが目に入ったのだった。
***
徹夜で没頭していた書類から顔を上げて時計を観ると、すでに日にちは変わってすでに夕方を過ぎていた。
(しまった、今日って……)
いつもなら、ゆきと約束して出かけるところを、連絡すらし忘れてしまった。
忘れた、なんて都合の良い言葉でぼかしているけれど、本当は忘れたかったんだということを自分は良く分かっている。
先日、ゆきに会った時のことだ。
初夏の折、蒸し暑い夕方だった。
少し伸びた髪を高めに結わいたゆきは、制服の夏服から伸びる手足は白く眩しくて、いつもは見えないうなじは一層真っ白で目がくらむよう。
魔が差したとしか言いようがない。つい、先に行く彼女の腕を取って引き寄せ抱きしめた。
最近の彼女は、すっかり慣れたのか少しばかり大胆だ。
「どうしました?リンドウさん」
腕の中、微笑みながら見上げてくる。
「いや、ちょっとね」
曖昧に返せば、細い腕が僕の腰に回って、そのまま頬を寄せてぎゅっと抱き返された。
「変なリンドウさん」
彼女の首筋から、香るのは石けんと軽いコロンと汗とが混ざった、何とも言えない甘い香りで心を惑わせる。
軽く、唇に触れるキスをした。
二度、三度と啄むと、同じ様に彼女も返してくる。
一層近づいた首筋から、さっきよりも濃厚な香りがした。
「んっ……」
片手は彼女の腰を抱えたまま、もう片方の手を頬に当ててキスをする。
今度は、啄むようなキスではない。
しばらくの間、逃げられない様に長いこと塞ぐ。
息が上がったゆきの唇が薄く開いたところで、舌を差し入れて、歯列をなぞった。彼女の肩が跳ねる。
ここで、止めておけば良かったのに、その時は、ただ目の前のゆきが可愛くて愛しくて、誰にも渡したくないと胸が焼けた。
「っふ……、リ、リンドウさん」
苦しげに名を呼ぶ声さえ、扇情的で一瞬意識が飛んでいたのかもしれない。
ふと、強く胸を押されて彼女の顔を見ると、きつく瞑った目に笑顔は無かった。
「……っはぁ」
放されて息を吐く姿は、どこか無表情にも思える。
(ああ、やってしまった)
気付いて後悔した時にはもう遅い。
「ごめん」
とっさに出た言葉がこれだったから救えない。
彼女が傷ついたような顔をした。
でも、多分、自身も同じような顔をしていただろう。
そのあと、取り繕うことも出来なくて、無言のまま彼女を自宅へ送って別れてしまった。
まるで初めて恋をした少年でもあるまいし、何て無様なんだろう。
言い訳するのは簡単だったけれど、それは出来ない相談だった。
一度超えてしまった一線は、戻す事は難しい。何より、味をしめてしまった。
多分、次に彼女に会ったなら同じ様にしなければ気が済まなくなるだろうことは、想像に容易かった。
ゆきはどう思っているだろう。
性急に過ぎると怒っているだろうか。
それとも、何とも感じていない…なんて?
でも、きっといつも必ず届いていた連絡が無かった事を気に病んでいるだろうことは容易に想像がついた。
ここは、責任ある大人としてきちんと連絡を取るべきだろう。
ひとつ大きく息を吸ってから携帯電話を手に取った。
携帯電話を前に机に座ったまま、随分と時間が経って、いつの間にか眠ってしまったらしい。
着信音に目を覚まして、ディスプレイを見る。
ずっと待っていた人からの連絡だった。
「は、はい。ゆきです」
慌てて電話にでれば、一日空いただけなのに、胸が痛くなるくらい懐かしい声。
「ゆき。今、電話大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
思わず、こみ上げてきたものがあって、鼻をすする。
「ゆき?」
「あ、ごめんなさい。電話、嬉しくて」
「そんな……。ほんとゴメン。僕っていつも何でこうなんだろう」
情けなさそうにため息を吐いて言うリンドウの声が硬い。
「あの、私この前は」
「そう、この前。謝ったりしてごめん」
「いいえ、私こそ……」
そこまで言ったものの、何と繋げていいのか分からない。
「びっくりした?」
まだ、少し硬い声は、きっとリンドウ自身も計りかねているのだろう。
「はい、少し……」
「そうだよね」
もしかすると、彼は勘違いしているのかもしれない。ゆきが上手く反応できなかったから。
「あの、リンドウさん。私、その……」
嫌じゃなかったです、と言おうとしたのを遮る様に、リンドウの声が被る。
「でも、多分またすると思う」
「え?」
「だって、やっぱりしてみたら凄く幸せで、君が愛しくて。でも、君が嫌がっているのに僕が良いからってそんなことするのは躊躇われる。でも多分、君を前にしたら堪えられないと思うんだ」
「それって、私と会ったら、また…そのキスしたくなるから会えないってことですか?」
「そう取った?そうとも言えるかも」
「……リンドウさん、ずるい」
「ごめん。でも、もう戻れない」
そんなのは、きっと自分も同じで、リンドウの言い分は本当に勝手なものだ。怒っているのではないかと心配した自分がバカバカしくなるほどに。
「戻らないでいいです」
「え?」
「戻れないのは私も一緒ですから」
一息に言うと、電話の向こうで息をのむ音が聴こえた。
「リンドウさんが私を好きだと思ってくれるのと同じ様に、私だってリンドウさんが好きなんです。だから、多分、したいと思う事も同じですから」
ガタっと、恐らく携帯電話を取り落としたんだろう音がして、その後取り繕うような咳払いが聴こえた。
「そんなこと言って、ずるい大人につけ込まれても知らないよ」
その声は、少しの動揺を含んではいたものの、もう硬さはない。
「大丈夫です。リンドウさんがずるいひとなのは知っていますから」
ようやく、元通り…より一歩進んだ所で、また隣に並べる。ゆきは、微笑みを声に乗せてそう答えた。
【終】