みんなみんな君のため 欲しいものが手に入らないなどということは無くて、望めば両の手に納めきれぬ程に与えられた。
ただ傲慢に、この世に得られぬものは無いと信じられたらどれ程良かっただろう。
それが例えば、人ひとりの運命だったとしても。
『二条の御曹司ともあろう方が。あのようなもの、他に良きものは幾らでもありましょうに』
邸の奥へ案内される途中、呆れとも憤りとも取れる声音が漏れ聞こえた。
主の身の上に相応しく、常なら粗相など考えられぬゆき届いた家人しか居ないこの邸にしては珍しいことだ。
案内の先に立つ、古参の女中が小さく詫びを言った。
取り立てて気にすることもなく、客人、江戸幕府奉行職を賜る小栗忠慶はただ嘆息する。
さてはまた、主の悪い癖が出たらしい。
通された室で畳縁を眺めていると、しばらくして聞きなれた足音が近づいてきた。
それを合図に目線をあげれば見事な調度品の数々が目に入る。華美ではないが、品のある質の良い品ばかりである。
艶やかに光る飾り棚の上に、色あせた櫛が置かれているのに気づいたところで、間近でかすかな衣擦れの音がした。顔を向ければ、邸の主が少し不機嫌な様子で敷居をまたごうとしているところだった。
一見しただけでは、この邸の品々と主とは釣り合わない。
目の前の男は、着衣は着崩しているし、髪も肩まで伸ばしたものを額にかからぬよう結いあげただけだ。
じっと見つめられたのが落ち着かないのか、斜に構えたままで、挨拶もなく問いかけてくる。
「どうしたの、慶くん。あまり見られるのは好きではないんだけど」
「いや、今度は何を壊したのだろうと思ってな」
その話?と嫌そうな顔をすると、邸の主……呼び名をリンドウという、は小栗の正面に座りこんだ。
「別に、何にも。それより何か用があるんじゃないですか?」
「相変わらず話のすり替えが上手いことだ。そこの櫛か?」
「それは大した話じゃない」
「では何をした」
確かに、櫛だけで良く躾られた女中が大仰にボヤくとも思えない。
じっと見つめると、リンドウはしばし躊躇った後、俯き加減でポツリと言った。
「花を」
「枯らしたのか」
しかし、それも大したことではなかろうに。
再び見つめれば、バツが悪そうにしながら続ける。
「舶来ものの……。兄上から無理を言って譲って頂いた鉢があるんだけど」
「関白殿から?枯らしたのか」
「違う、枯れたの。もうこの話はお終いにしましょう」
無理やり話を打ち切って、リンドウは小栗に用向きを促した。
珍しい話ではない。
小栗はリンドウを幼き頃から見知っているが、このようなことは頻繁にあった。
例えば、鉢植えの手入れなど大事なものであれば信用のおける家人にでも任せればよいのである。しかし、それをしない。
特段、鉢植えを好むわけではない。それが小鳥でも皿でも書物でも同じだった。気に入ったものは手ずから世話をしないと気がすまないのである。
しかも、限度を知らない。
自身の大切なものだ。出来うる限り手をかけ、慈しみたいのは良く分かる。だが、四六時中側を離れず、下にも置かない扱いで没頭する。
有体に言えば過剰なのである。
これが、相手がモノであればまだ良いが、生き物……まして人であった時には悲劇である。
本人の望む望まざるに関わらず、それなりの家柄、立場にあるリンドウの一挙一動は軽くはとられない。
相手の立場に、本人の気質もあいまって、とんでもなく重いものになってしまう。
「まあ、それだけではあるまいがな」
「なにが?」
思わず零れ落ちた言葉にリンドウが反応した。
「そういえば、昔、先見の話をしてくれたことがあっただろう?」
小栗が言うと、驚いたような顔でリンドウが答える。
「そんな話をしにきたの?」
「いつか降臨する神子の為に星の一族は庭を整えるのだと言って、珍しい花を見つける度、取り寄せて手ずから世話をしていたな」
「そうだったかな?まあ、みんな枯れて土にかえったよ」
何ともないように言っているが、当時はまだ年若く素直な時分だ。そわそわと、浮き足立つ気持ちを無理に抑えながら、しかし丸見えの状態であった。
『僕の生きているうちに神子が降臨する。そして、僕は神子殿をきっと気に入る。』
『歴代の神子殿は、みな花が好きらしいよ。差し上げるなら珍しいものがいいだろうか』
『この櫛は、代々とても美しく清廉な姫君が愛用されていた品だそうだ。細工も素晴らしいし神子殿に相応しい品だよ』
いっそ清清しいほどに。
妄執とも取られかねない執着心は深い愛情の裏返しなのだろう。
しかし、過ぎた愛情はそれが全て正しく伝わるとは限らない。
可愛がっていた小鳥を逃がした時、脈々と受け継がれてきた一族の予言書を片っ端から捲った。
たかが小鳥一羽の運命など記されているはずが無かったけれど、そこはかとなく、それは運命であったのだと感じた。
京での暮らしが息苦しくなり、江戸に出てきた時もだ。
己の意思固く家を出たはずが、気付けば兄の、一門の掌の上だった。
自分がどれほど心を傾けようと、この世に存在する総てのものは、あらかじめ決められた運命を外れることは出来ないのだと、リンドウは悟った。
「本当に。どうしたの慶くん。つまらない昔話だ」
「思えば、ことごとくお前の大切なものは運命に攫われていったが、神子だけはまだ分からないのだな」
「はあ」
「だから、諦めきれずに集めているのだろう?花やら櫛やら。神子の為に」
「つまらない勘繰りだよ」
何でもないような口振りだか、顔は眉が下がり少し心細げだった。どうやら、あながち間違いではないようだ。
「神子には、お前の真心が伝わるとよいな。お前の紡いだ運命の通りに」
「……何言ってるの。頭、大丈夫?」
「さてな。少し、花の芳香にやられたらしい」
「それは大変だね。お嫌でなければ、花見でもしていく?酒でも呑みながら話を聞こうか」
「風流なことだ」
「おかげさまでね」
小栗の言葉に、リンドウは肩をすくめると、側に控えているだろう女中を呼んでから立ち上がり、部屋から出ていってしまった。
京に神子が降臨したらしい。
噂を聞きつけた本家は、遣いをやって、あっという間に江戸の邸にも素晴らしい庭を整えてしまった。
それだけでも腹立たしいのに、神子の為に育てていた、なけなしの鉢を枯らしてしまったとあっては堪らないだろう。
彼の気質からしても。無力な自分の運命を疎ましく思ったに違いない。
どんなに厭うている振りをしても、やはり彼は星の一族として神子に仕える使命を持って生きてきたのだから。
有能で聡い癖に酷く面倒で、だけど情が深い。
この難解な年上の従兄弟殿を理解してやれるものが、これまでどれだけ居ただろうか。
しかし、お役御免となる時期は近いだろう。
小栗は、リンドウが”気に入る”はずの、まだ見ぬ龍神の神子に思いを馳せた。
さて、もう少しだけ背中を押してやらねばならぬか。
リンドウが戻り、本題に入るまでの僅かな間でも、彼の気が済むまで“先読みの神子殿”の話に付き合ってやってもいい。
予想される、ちょっと後の己の運命を思い、庭を見ながら苦笑した。
みんなみんな神子のため
そんな君のために少しだけ背中を押してあげよう