江東の炎「あっ──!」
天高く舞い上がった蝋燭の火。燭台から溢れんばかりのその炎は、まさしく、
「……ここに、」
つう、と頬を涙が一筋伝った。自分が悲しんでいるのか喜んでいるのかも分からなくて、口からはただ笑みが漏れるばかり。一度流れ出した涙はどうにも止まってくれそうになく、馬鹿の一つ覚えのように声を上げて笑った。墓前で気が狂ったとでも思われただろうか。此処に周瑜様がいれば、相変わらず風情も何もあったものじゃないなと苦笑されるに違いない。それでも良いと思った。それが良いと、心の底から思った。
風に煽られて激しく揺れる炎の紅に、貴方の後ろ姿を思い出す。
「此処に貴方はおられるのですね、周瑜様、」
──江東の兵たる諸君が戦わず降伏するものか!
普段は寡黙な周瑜様が声を荒げた日のことを、覚えている。
長江の岬に駐屯する曹操の百万もの大軍を前に兵からは恐怖の声があがり、孫権様がこの状況に苦悩している様は、その表情から誰しもが読み取れ、書簡を抱える腕に思わず力を入れてしまった事。紐で括り結んだばかりの書物たち。少しだけよれてしまった木簡を前に、不安で押しつぶされそうになっていた時の事だった。
周瑜様らしくない、そう、あれはまるで──孫策様のような。江東の小覇王とまで呼ばれた方の面影を私は確かに見たのだ。孫氏の魂は死んでも江東を守るんだと声高らかに仰っていた孫策様の意志を、周瑜様は誰よりも理解していた。
もっともっとこの国を良い所にする事が私の使命だ、と語っていた周瑜様の横顔を思い出す。
「……周瑜様、私、周瑜様が呉の地を見つめる時の眼差しが好きでした」
「貴方が孫策様と共に守り、導き、築き上げていこうとした呉の未来が好きでした」
「周瑜様の、誰よりも呉を……江東を愛する志の高さが、私にはずっとずっと眩しかった……」
貴方の力になれたのだろうか。知略では決して勝てはしないだろうが、部下として少しくらいは貴方の苦悩を減らすことが出来ただろうか。むしろ困らせてばかりだったような気もする。だけど、本当に心の底から叱られた事は無かった。
「君、……まあいい。悪くない出来だ、次は此処を直したまえ。それで及第点はとれるだろう」
「上司に頼み事とは随分と気楽なことだな……?」
「この書簡を孫策の元に届けて欲しい。ああ、火急の用と言えば火急の用だな」
此奴は駄目だな、と言いたげな瞳を向けられたこともあれば、信頼の眼差しを向けられた事もある。良くも悪くも何処にでもいる部下の一人として、周瑜様には良くして頂けたと思う。女だからと侮るような官僚が多い中、男女の贔屓目なしに公平な立場で扱ってくださった。
「周瑜様は覚えているでしょうか、いいえ……あの御方はきっと覚えていないでしょうね」
(「仕事の出来ない無能と仕事の出来る有能、其処に男女の区別など存在しない。なぜならば、役立たずは何処まで行っても役立たずなのだから」)
淡々と説かれた言葉は決して自分に向けて放たれた言葉ではなかったが、その何気ない言葉に官僚試験前の自分がどれだけ勇気付けられた事か。声の主を探そうと廊下を曲がった先で、銀の髪をたなびかせている周瑜様の事の音色と出会った。
「あれが、周瑜様……」
そうして私は、周瑜様の力になりたいと心の底から願ったのだ。
周瑜様も孫策様も亡き今、遺された孫権様と彼を支える諸侯たちを狙う者は少なくない。だとすれば自分には何が出来るだろうか。託されていったものと、失われていったもの、色々な事を考えているうちに泣き過ぎで頭に鈍痛が走った。
「……私は、見届けます。貴方が形作ろうとした江東の繁栄を、この地の行方を、例えそれが望ましい結末では無かったとしても必ず最期まで」
「だからどうか……江東の行く末を、炎のように高く燃え盛る貴方の志で照らしていてください」