此処にいる理由「あ~……流石に、しくじったかな」
洞穴の奥深く──洞穴というにはもう、原型を留め切れていないその場所で、彼はひとり呟いた。山の地脈に溜まっていた水が崩落の影響で染みだしているのか、不規則な水音が何処からか聞こえてくる。ぽたぽたと鳴り止まないそれが精神すらも蝕んでいくようで、ぶるりと身体を震わせた。濡れそぼった衣のせいで身体をいくら縮こまらせても寒い。寒くて、寒くて、本当に自分はひとりなのだと実感させられる。
九つの尾を持つ彼の名前は、魏無羨。
夷陵の山の奥深くで人々から後ろ指を指されながら暮らしていた彼は今朝、山の地鳴りで跳び起きた。連日の雨で緩んだ土盤が震動し、脆くなった箇所から次々に土砂が崩れ落ちていく。不味いことになると悟った魏無羨は住処を飛び出すなり麓の村近くまで駆けだして──今にも村に襲い掛かろうとしていた大量の土砂を自らの力で何とか食い止めたのだ。
いっそ村人の前で堂々と食い止めていれば良かったのだろうか、と考えた所で結局何も変わらないだろうなと自嘲する。森羅万象に何かと理由付けをしたがるのが人間の性だ、例え魏無羨が善行を働いた所で「そもそもこんな事態になったのはお前のせいだ」と言い出すに違いない。不満でも何でもない、これは諦念だ。
悪とされる「九尾」が人々の為に動こうとも、世界は何も変わりやしない。
そう分かっていても魏無羨は住処を飛び出して村人たちを救った。
それが正しい事であると信じている限り、魏無羨の足はどうしたって止まってはくれない。
──九尾、だと?
──ひいっ、む、村から出て行け!
多少の、否……大分無理をしてまで、大量の土砂を止めた魏無羨に村人たちは怯えと軽蔑の視線を向けていた。それに魏無羨は何を思うでもなく、ただ背を翻して立ち去ろうとしたのだが。迫りくる土砂から逃れようとしている最中に転んだのか、そのまま地面に座り込んで呆然としている子供を見つけた魏無羨は、通りすがるついでに抱き起こしてやろうと屈んだのだ。
脇腹に、強い、衝撃があって。
「……」
唇の隙間から鮮血が溢れ出した。
「お、俺の子に近付くな! 化物!」
魏無羨がゆっくりと振り返れば、口から血を流している姿が余程恐ろしく見えるのか、自分から近付いてきた筈の村人は一歩後ずさる。そんなに怖がるなら最初から子供をちゃんと見ておけば良かったものを、と未だ放心状態の子供を抱き上げて男の腕に押し付ければ恐怖に満ちていた瞳に意外だとでも言わんばかりの驚きが広がった。世間で何と言われているのかは知らないが、人間を食べる訳が無いだろう。
脇腹の怪我を掌で抑えながら、魏無羨は緩慢な動きで崩れかけの山へと引き返す。住処にしていた洞はいつの間にか塞がってしまったようで、潜り込めそうな洞穴を探して倒れ込めばもう一度山が大きく鳴いた。助けた報酬が命を脅かす程の大怪我とは。
伝承では不死身だと言われる九尾だが、そんな訳が無い。正確には限りなく不死に近い長寿だ。少なくとも力を使わない時、魏無羨の治癒力は普通の人間と何ら変わりないし、病気もすれば怪我もする。力もすっからかんに使い果たした上に直接致命傷を負わされた今、助かる見込みがあるかと言われれば──魏無羨自身が一番、自分の状態を良く分かっていた。
「ここで終わりになるんだろうか」
「うわっ住処に置いていた天子笑を結局飲み終えてないじゃないか。もったいない、」
「……閉鎖空間だっていうのに、何だってこんなに寒いんだ此処は」
「痛……彼奴ら、村を守ってやったのが誰だと思って──なんて言い方は違うか。人間にとって俺は災いの元でしかない」
「仕方がないんだ」
「酒が飲みたいな……」
「酒だ、酒。ここに天子笑みたいに上手い酒があれば身体も火照るし、痛みもまぎれるし、ちょっとばかりは良い終わり方になると思うんだがな」
口から溢れていく悪態やら願望やら、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。そんな物憂げな心境を表すように『九つ』の尾がふらふらと揺れ、力を使い過ぎた上に血も流し過ぎた身体は限界に近付いている。恨みも無ければ、未練も酒が飲みたいやら些細な事ばかりで、強いて言えば幼い頃に世話になった家族というか、肩を並べていた弟弟子に合わせる顔が無いというか……まあ、それは今更すぎるかもしれない。
だから此処でこの生が漸く終わる事には諦めに似た安堵すら抱えているというのに、そうだというのに、心の下の部分がじくじくと熱を持って痛んでいるのは何故なのか。
「もう話す元気も無くなってきた、」
だらんと動かなくなった左腕を冷めた目で見下ろしていれば、ふと、傷口を抑えていた右手に何かが当たる。人肌に近い温みを持つそれが何なのか気になって、衣の奥をまさぐると磨き抜かれた水晶のようなものが掌に躍り出た。熱を帯びているだけでなく、それは心なしかぼんやりと光を纏っている。夜空に光る星をそのまま切り取ってきたと形容しても違和感が無いような代物。
「温かい……」
これは、誰に貰ったんだったか。
(「綺麗だな! くれるのか?」)
(「……うん」)
(「へえ、贈り物に宝玉の類とは中々目の付け所が良いじゃないか」)
すごく、すごく昔だったことは覚えている。
(「綺麗な顔、物静かで勉強熱心、その上贈り物を選ぶ才能まであると来た。これは女の子たちが放っておかないだろうな~」)
(「……」)
(「アハハッ、冗談だって! そんなに拗ねるなよ。それとも何だ、今日はもう帰るのか?」)
(「……もうすこし、此処にいる」)
(「うんうん、お前って何だかんだ俺と話すの気に入ってるよな。照れ屋さんめ」)
(「やはり今日は帰らせてもらう」)
(「あっおい! 悪かったって!」)
まだこの尾が完全に九本にはなっていなくて、人間の前であってもある程度は隠し通せていた頃だ。
(「……その宝玉は、大切にして。絶対。何があっても、誰にも渡さないで」)
(「お、おお? 分かってるよ。流石に俺だって貰い物の宝玉を売り払ったりはしないっての」)
(「うん。出来れば、肌身離さずに持ち歩いて」)
頭が血液不足で上手く回らないこともあり、記憶を上手く辿れないが、大切にしろと念を押されて。肌身離さずに持ち歩いてほしいという可愛いお願いを叶えてやろうと思ってから、いつしか宝玉を携帯することは習慣と化していた。大切にしろと言う割には肌身離さずに、との要望。自らが望もうが望んでいまいが大小様々な事柄に巻き込まれる自分には無理難題にもほどがあったが、無意識に宝玉を守ろうとしていたのか、それとも宝玉自体の耐久度が酷く高いのか。傷一つないそれを握りしめていれば、身体中に広がっていた嫌な悪寒が和らぐ気がした。
そういえば、と朧気に思い出す。
人間とは思えないくらい、あの子は綺麗な心をしていたな、と。
***
忘れないで、とは言えなかった。
その代わりに、覚えていて、と己の最も大切なものを差し出して密かに念を込めた。誰かに物を贈るなんて初めての事で、柄にもなく声が震えたことを思い出す。
綺麗だな、と綻んだ唇から目が離せなかった。
他の者が何と言おうが、人間からどのように思われていようが、君を大切に思う気持ちに変わりはない。
変わる筈も、ない。
***
「おーい、此処はお前みたいに小っちゃな子供が来る場所じゃないぞ……って寝てるのか?」
ある朝、起きたら──とはいっても、魏無羨はたいてい昼下がりまで寝ている事が多い。すっかり太陽が高くなった真昼の外出は目が痛くて、薄目で歩いていればうっかり何かを蹴り飛ばしそうになった。最初は要らないものか何かを捨てられたのかと思ったが、目をごしごしと擦れば人間であると分かる。大分大きな衣の中に縮こまっているため人間だと気付くまでに時間がかかったが、何度魏無羨が自分の頬を引っ張ってみてもこれは夢では無く現実らしかった。
「ああもう勘弁してくれ……」
すやすやと寝息を立てている、とばかりに思っていたその子供を抱き上げれば掌にぬめるような感触が広がる。つんと鼻をついた鉄錆の匂いと、苦しそうにか細い呼吸を繰り返す小さな身体。封じ込めていた力を解いて尾を広げ、魏無羨は即座にその子供を知り合いの医者のもとへと連れて行こうとした──のだが。元々黒い魏無羨の衣を塗りつぶすような勢いで広がる血を見ていれば、着く前にこの子供が息絶えてしまう事は容易に理解できた。
どうする。
どうするか、なんて、考えようも無かった。
だって魏無羨は「そういうふう」に出来ている。
「……恨むなら、温情の所じゃなくて俺の所で倒れたことを恨んでくれよ」
きっと将来は美男子間違いなしの整った顔立ちを前にすれば多少の罪悪感が芽生えてきたが、これは救命行為だから、と首を横に振る。
そうして魏無羨は──力を注ぎ込むために、子供の唇を奪ったのだ。
***
「だから医療行為だって言ってるだろ!?そんな恨めし気な目で見るなって!」
「は、は、恥知らず!」
「はあ!? 俺だってはじめ」
其処まで言いかけた魏無羨はふと我に返る。耳を真っ赤に染めているこんな幼気な子供を相手に「お前が初めての口付け相手だ」と堂々と告げて良いものか、と。威厳も何もあったものじゃないからと言葉を濁して「ま、まあ俺は百戦錬磨だからな。口付け一つでそんなに騒ぐなよ」と真っ赤な嘘をでっち上げた。
「というか、命を助けてやったのに頬を叩かれるって何なんだよ女子じゃあるまいし。痛くなかったけどな、」
「……それについては、感謝する」
「おっ素直になれるじゃないか」
「だが君が恥知らずだという事は言動からよく分かった」
「えっとさ……お前、見た目にそぐわず言動が大人じみてるな……」
「子供扱いは嫌いだ」
「どう見ても子供なんだよな、お前」
***
「あれ、また来たのか。小さい子供が来るような場所じゃないって何度言えば」
「君に会いに来てはいけないのか?」
「駄目じゃないけど、危ないだろ?全く……」
***
「お前な、あんまり家を抜け出すと怒られるぞ」
「……そんな事はない。もう自立したようなものだ」
「ふーん、小さいのに頑張ってるんだな」
「小さいは余計だ」
「はいはい、俺より大きくなってから言おうな」
「本来の姿なら……」
「ん? 何か言ったか?」
「何も」
***
村が、燃えていた。
連日続いた日照りで乾燥しきった藁に引火して大火となったそれが、近くの村を焼き尽くしていた。
話によれば、これは近くの山に住む不吉な狐が起こした禍いだとして、近々討伐に打って出るらしい。
「待っ「悪い! 俺はもう此処にはいられなくなった、お前も此処にはもう来るなよ!」……待って、待ってくれ」
「何だよ、俺のこと引き留めるなんていつもなら絶対しないのに。まだまだ子供だな」
「茶化さないで、」
「……なあ、物わかりの良いお前なら分かるだろ。此処に来たらお前まで仲間だって言われて、きっと碌な目に遭わない」
「分かりたくもない! 君は、君は何も「そういう物なんだよ。理由付けをしたがるんだ、皆」」
ぶわりと、魏無羨の纏う空気が変わった。
初めて会ったときは八つだった尾が、九つに増えている。
「……じゃあな、」
「っ魏嬰!」
きっと勇気を出して伸ばされた手だった。
魏無羨の手を掴んだ小さな掌は、微かに震えを帯びていて、だからこそこの掌を守るために遠ざけなければならないと。
そう、思って。
「失せろ!」
頼むから俺に、お前まで失わせないでくれ。
そんな願いと共に手を振り払って、魏無羨は素早く夜闇に紛れこんだ。追いかけて来る足音と自分の名を呼ぶ声が、煩わしくて、耳鳴りがして、頭が酷く痛んで、……やがて周囲が静かになると、残されたのは喪失感だけ。
「結局、俺は……」
この掌には何も残らない。大切な人達も、守りたかった場所も、何一つとして。
***
薄れゆく意識の中、唇を動かしてその二文字を音にのせる。
──藍湛。
そうだ、あの子の名前、藍湛、藍忘機。
藍湛。
「藍湛、」
「……藍湛」
「お前に、一緒にいてくれてありがとうすらも言えなかった」
何故だか分からないまま、魏無羨の瞳からは一粒の涙が零れ落ちた。心臓をぎゅうぎゅうに締め付ける痛みを前に声が出なくて、怪我の痛みよりも、身体を蝕む寒気よりも、強く強く響いている。
数百年も経っているのだ。
あの人の子にはもう会えないと分かっていても、それでも。
「此処にお前がいてくれたらきっと、寒くないのに……」
切なさを孕んだ声が空気を震わせた。
***
「何故生きることを願わなかった!」
いっそ何かに取り憑かれているようなその剣幕に驚きながら、魏無羨は未だにぱちぱちと瞬きを繰り返していた。話の展開が早すぎて何も分からない。人の子だと思っていた相手は龍で、それも自分にくれたのは龍の宝珠で、それからそれから──龍の宝珠は、病を治したり、災いを避けたり、ありとあらゆる願いを叶える事が出来る。
魏無羨が「まだ生きていたい」と願えば、宝珠はそれを叶えていただろうと藍忘機は怒気を孕んだ声で零した。しかし魏無羨が考えていたのは藍忘機の事。九尾の命は「最期にもう一度、あの子に会いたい」という想いのままに力尽きようとしていた。
宝珠は、後者を魏無羨の願いとして受け取ったのだ。
「血だらけの、冷たくなり始めていた君の身体を前にした私がどんな気持ちだったか……!」
藍忘機が泣いている。いつも澄ました顔だった幼子が、いつの間にか自分をすっぽりと覆い隠せるくらいに大きくなって、頭には立派な角なんかも生えていて、真っ白な彼の衣を汚してしまうからと離れかければ強い力で引き戻される。
ずっと探していたひとが突然目の前に現れて、死にかけていた。
そんな藍忘機の心境を思えば、魏無羨も流石に申し訳無さを感じ始めて、怪我人は自分の筈だが……と思いながら大きな子供の背を摩ってやる。昔に戻ったみたいだな、と言えば無言の後に微かな声で「……うん、」と肯定された。
「魏嬰、魏嬰」
「うん、」
「私と三千年を生きて。千年生きた狐は神獣として天狐に、天狐がさらに二千年生きると空狐になり、狐耳を持った人の姿の神になると言う。もう誰にも君を傷つけさせたりしない、私はずっとそばにいる。君の傍にいる。君の手を、もう二度と離しはしないから」
「……その理論だと、俺はもう三千年生きてることにならないか? 神様ではないけれど、元から人の姿だぞ俺は」
「茶化さないで。魏嬰、それだけの時間があれば君が禍のもとだなんて誰一人として言わなくなる。私がそうして見せるから、だから」
「アハハッ……もういいよ、」
魏無羨が「ありがとう」を言えなかった事を後悔していたように、藍忘機も後悔していたらしい。魏無羨の手を掴んでいられなかったこと、それから数百年の時をかけてずっと魏無羨を探していたということ。
「もういいんだ、藍湛」
なら、もう魏無羨にはそれで充分だった。元から人間を憎んでも恨んでもいなかった、魏無羨はただ、誰かひとり。たった一人でいいから、自分を信じてくれる人と共にいたかっただけなのだ。
「お前さえいてくれたらそれで良いよ。生きる理由なんて、此処にいる理由なんて、それだけで」
「……魏嬰、君は優しすぎる」
「そんな事はないさ。お前を望んでいる時点で十分に強欲だろ?」
藍忘機の涙を拭ってやりながら、「でもまあ、」と魏無羨は言葉を続ける。
「お前が俺を望んで、お前が俺の傍にいてくれるのなら──千年でも二千年でも悪くはないな」
「魏嬰、」
「かつて俺が拾ったお前の命に巡り巡って助けられたんだ。今度はこの命、お前が好きにする番だろ?」
静かにうん、と頷く姿を見ていたら何だか意地悪をしたい気持ちになって、魏無羨はぐいーっと両手で藍忘機の頬を引いたり押したりしてみる。笑わせて見たり、口を尖らせてみたり。
「──それで、藍兄ちゃんは俺のことどうやって治したの? 羨羨に教えてよ」
されるがままになっている藍忘機に一言囁けば、その耳があっという間に紅く染まる。
「恥知らず、」
「ハハハッ! やっぱりこうでなきゃな、っ!?」
美しい琥珀の瞳が近付いたかと思えば、唇が触れあった。驚きに固まる魏無羨の肩を引き寄せると、口付けは少しずつ深まっていき、情報量の多さに硬直したままの魏無羨を藍忘機が優しく見つめている。
お前、そんな顔出来たのかよ。魏無羨の胸中はその一言に尽きた。
「……もう、言われてばかりの私ではない」
「は、お、お前」
「君が蒔いた種だ」
俺の可愛い藍湛は何処に行ったんだ、と頭を抱えれば額に、頬に、藍忘機が柔く口付けを落としてくる。しかしその耳元が紅に染まっている事に変わりはないと気付いた魏無羨はむしろ自分から藍忘機の肩に両腕を回して抱き着いた。二人の身体はぴったりとくっついて、まるで最初から一つになる運命だったかのように影が揺れる。
「……言っておくが、昔言った「百戦錬磨」なんてのは噓だからな」
きょとんとしている藍忘機にハハハッと高笑いして、それからとっておきの秘密を明かすように囁けば、藍忘機が強く強く、募らせた積年の想いをぶつけるように抱き返してきた。
──俺の初めては、あの日、お前を助けるために交わした口付けだよ