水族館の空気はひんやりとして気持ちいい。大きな水槽の中で泳ぎ回る色鮮やかな魚たちを眺めていれば時間が経つのはあっという間だった。
「浮奇、そろそろ次のところも見に行く?」
俺は聞こえた声にハッとして顔を左に向け、いつのまにか俺の手を握っていたスハと目を合わせた。水槽の照明がこちらを向くスハの顔の半分を照らしている。
スハの優しい笑顔が俺の心をふわりと温めて、美しい水の中に入り込んでいた意識は彼のおかげで現実に戻ってきた。
「……スハ、手あったかい」
「うん。だから浮奇の手もあったかくなるまで握ってて。ちょっと寒いよね、上着貸そうか?」
「ううん、スハと手を繋いでいたら大丈夫だよ」
俺はスハの温かい手をぎゅっと握り返し、その手を引いて水槽から一歩離れた。俺たちが立っていた場所にはすぐに小さな子どもが駆けてきて、ぺたっと顔をくっつけるようにして水槽の中に夢中になり始める。
くすっと甘い笑い声に俺はスハの横顔を見上げた。やわらかく弧を描くその唇にキスしたい気持ちをグッと堪える。手を引っ張ればその瞳には俺だけが映るから、今は、それだけで。
「次、どこに行こうか?」
「浮奇は何が見たい?」
「スハが見たいもの」
「……それならどこでも見られるよ」
俺が首を傾げると、優しく目を細めたスハは目的地も言わずに歩き出した。その手に引かれて俺もゆっくり足を動かす。どこに向かっているのか少し気になったけれど、スハが連れて行ってくれるところならどこでも良いか、と考えるのをやめた。
いつもそうするように、スハは歩きながら何度も俺のことを見て、目が合うたびに幸せそうに笑った。左右どころか頭の上にも水槽があるんだからそっちを見ればいいのに。人は少し多いけど手を繋いでいるし迷子にはならないよ?
「あ、浮奇、目をつむって」
「うん? どうして?」
「いいから。はやくはやく」
スハが楽しそうに笑ってそう言うから、俺はすっと目を瞑った。ひやりと涼しい暗闇は少し不安だったけれど、スハが俺の手を握ってくれているから怖くはなかった。少し歩くよ、と手を引かれて恐る恐る足を踏み出す。他のお客さんたちの話し声や小さな子どもの高い声が聞こえる中、スハの気配にだけ意識を集中させた。
「目を開けて、浮奇」
優しく囁かれた声にゆっくりと目を開けた俺の前には、クラゲの水槽がいくつも並んで静かにライトアップされていた。「わぁ……」と思わず声を漏らした俺をスハがくすくすと笑う。スハの方に顔を向けると彼は体ごと俺に向けていて、水槽の方は少しも見ていなかった。
「へへ、浮奇の可愛い顔が見れた。作戦成功だね?」
「……もしかして、スハが見たいものって、……俺?」
「あ、バレちゃった」
「……いつでも見られるじゃん」
「いつでも見られるけど、ずーっと見てたいんだよ。私の好きな人はいつだってすっごく可愛くて少しも見逃せないんだから」
他の人が言ったら揶揄ってるの?って聞きたくなるくらい大袈裟なことを、だけどスハは本当に嬉しそうに笑って言うから、その言葉を疑ったりはしない。俺は体をスハの方に向けて両手で彼の手を握った。
「ねえ、スハ」
「うん? なに、浮奇?」
「大好き。俺のことを好きでいてくれてありがとう」
「……私も浮奇のこと、大好きだよ」
「うん、知ってる。ありがとう」
「……あー、もう、なんでこんなに人がいっぱいいるところで可愛いことするの? ……キスしたい。でも我慢するから、ハグさせて」
「ふふ、うん。俺もスハのことぎゅーってしたい」
背伸びをしてスハに抱きつき、イタズラに頬を擦り寄らせる。俺の背中を支えたスハの手がピクッと震えたのに気分を良くしてささやかに笑い声を溢した。
逃げるように俺から一歩離れたスハは可愛らしく頬を染めていて、俺は幸せで堪らなくなった。男らしくぐいぐい来てくれるスハだって大好きだけど、俺の些細な言葉や行動で照れてくれるスハも大好きなんだ。
「う、うき、もう、おわりっ!」
「えぇ? まだ一秒しかハグしてないよ。スハはそれで足りちゃうの?」
「足りないけど、でも、キスもしたくなっちゃうからダメ……」
スハの頭の上にしょぼんと垂れたミミが見える気がする。「してもいいのに」と言って揶揄う言葉を紡ぐ予定だった口を閉じて、俺はスハの手をそっと引いた。
一歩、後ろに足を動かして、引っ張られたスハが足を踏み出したのを確認してもう一歩下がる。繋ぐ手を片方だけにしてから、俺はまだまだ見足りないクラゲの水槽の間をゆっくりと進んだ。
ちらっと振り返ると俺のことだけを見てるスハと目が合う。たぶんスハがいつもするみたいに、俺も無意識のうちに笑みを浮かべた。
「見過ぎ」
「……ごめんね?」
「悪いと思ってないでしょう。いいけど、せっかくだから水族館も楽しんでよ」
「楽しんでるよ!」
「じゃあさっきの水槽にいたクラゲの名前は?」
「な、名前は、……わかんないけど」
「ふ、俺も名前まで見てない」
「浮奇ぃ、いじわるしないでよ……」
「ごめんごめん。でもね、俺だけじゃなくてスハにも一緒に楽しんでほしいのは本当。あの時のクラゲ可愛かったねとか、そういう思い出話をした時にスハが覚えてなかったら寂しいもん」
そうでしょ?と首を傾げてスハの顔を覗き込むと、スハはちょっとだけ唇を尖らせて拗ねた表情をした。駄々を捏ねる子どものような仕草もスハがやると色っぽく見える。またイタズラ心がくすぐられた俺は我慢できずに踵を上げてスハの耳元に唇を寄せた。
「可愛い顔しないで、キスしたくなる」
「っ!」
「そろそろイルカショーの時間じゃない? 行こっか」
「浮奇⁉︎ もう……! 楽しんでるでしょ!」
「もちろん。大好きな人とのデートだもん、楽しいに決まってる」
「そう、いうことじゃ、なくて……。……私も、本当にちゃんと楽しいよ?」
「……ん、わかってるよ。魚より俺に夢中なだけだもんね?」
「……うん、そうだよ。ずっと浮奇に見惚れてる」
また照れて可愛い顔を見せてくれるかと思ったのに、スハは甘く囁くようにそう言うと真面目な顔で俺の頬をそっと撫でた。心臓が高鳴ってドキドキする感覚は好きだけれど、不意打ちはズルい。熱くなってしまった耳はきっと髪で隠れて見えないはずだ。
上目遣いで見上げたスハは余裕を取り戻して笑みを浮かべていたから、俺は拗ねたフリで誘うように唇を尖らせた。
「……見惚れるだけ?」
俺の言葉にグッと息を呑むスハに満足して口角を上げればスハはすぐに揶揄われたことに気がついて「浮奇〜!」と泣き真似をした。くすくす笑って、繋いだままの手をぎゅっと握る。
「ほら、行こ?」
「……あとで絶対キスするから」
「うん、楽しみにしてるね?」
そんな簡単に照れてあげないよ。それに、楽しみなのは本心だ。デートの間、俺にキスしたいってずっと思っててよ。