田舎町の酒場とはいえ、ここが一番大きな店なのだから昼間からそれなりに盛況だった。
酒臭い店内に、ひときわ目立つ大男がいる。尊大な態度で椅子に踏ん反り返っており、同じ卓には媚びた面持ちの男達が侍っていた。どう見てもヤクザと手下のチンピラ達といった風情だ。
「お姉ちゃん可愛いなあ」
「きゃあ」
親玉風の男は、杯を置いて去ろうとしていた店員の娘の尻をぺちりと叩いて飛び上がらせる。
「な、なにするんですか! 人を呼びますよ!」
振り向いた娘は空になったトレイを胸に握り締めて抗議するが。
「坊ちゃん相手にそれはやめたほうがいいですよ?」
「どちらが捕まるかわかんないよね」
取り巻き達が小馬鹿にして囃し立てるので、店員は駆け足でそそくさと逃げた。
幾つか離れたテーブルからそんな低俗な光景を観察しながら、ラーハルトはフードの内側で溜息を吐いた。
「よりにもよって、あのバカが情報を持っているというのか」
向かいの席のヒュンケルは、傾けていたグラスを置いた。
「ああ。ここの領主の息子らしいな。勇者の装備品を持っていると自慢して回っているらしいぞ。もちろん、真贋の程は定かではないが」
いくつもの街で消えた勇者についての情報を収集している二人は、これまでは身分を明かすだけで協力を得られていたのだが。どうも今回はその雲行きが怪しそうだ。
「めんどうだな。締め上げて吐かせるか」
腰を上げるラーハルトを、ヒュンケルは小さな手振りで制止して座らせた。
「よせ。ここで『表に出ろ』などと言ってみろ。領主におもねる役人どもが総出で坊ちゃんとやらの救出にくるぞ」
「ではどうする」
「そうだな……」
ヒュンケルは顎に手をかけて逡巡した。
「こちらがあいつを連れ出すから騒ぎになるのだ。逆に、あいつがこちらを連れ出せば、むしろ周りは見て見ぬフリをするだろうよ」
そう嘯いて、ヒュンケルはくだんの男に不敵な流し目を向けるが。
「しかし、どうやって?」
喧嘩を売るならともかく、売らせる手段などあるのか。
訝しむラーハルトを残し、ヒュンケルが席を立った。
「任せてくれ。昔からオレは人を怒らせることにかけては天才的なんでな」
お手並み拝見、とラーハルトが眺めていると。
スタスタと歩いて行ったヒュンケルは、通り過ぎざまその男のテーブルの角に盛大に腿をぶつけて杯を転かした。当然のごとく立ち上がって息巻く子悪党どもへ、半笑いの不誠実な詫びを述べてそのまま立ち去ろうとする。
得意気にしていただけはある。見ているだけで無性に腹が立つ。ラーハルトは舌を巻いた。
そして領主の息子とやらが立ってヒュンケルの手首を握った。期待通りの展開だ。このまま激昂して『表に出ろ』をやってくれれば。
しかしどうも様子がおかしい。
無駄に大きい図体のその男はヒュンケルを引いて表には出ては行くのだが、激昂はしていない。むしろ笑っている。
ラーハルトはざわつく店内の片隅からそっと発った。
連れ去られるヒュンケルの後をつけて、何分経ったろうか。
手を引かれてどこまで行くのだ。取り巻きどもはついて来ていない。細い路地は人通りもない。絶対におかしい。
袋小路に辿り着き、やっと手首を放されたヒュンケルは、肩を掴まれて振り向かされて、キスをされる。
その動きがラーハルトにはスローモーションに見えた。平時と変わらぬヒュンケルの澄ました顔に、バカの唇が近付いていく。
あり得ない。
ボゴッ。ドサッ。
鈍い殴打音と、重い男が地に伏す音が鳴る。
ラーハルトは唇が触れる前に瞬間移動のごとく男を殴っていた。
ヒュンケルは倒れた男を感慨も無さそうに見下ろしている。
「どうするのだ、情報源が気を失ってしまったぞ」
「おまえなあ!」
せっかく助けてやったのに、この言い草。さすがは人を怒らせる天才だ。ラーハルトはその危機感のない間抜けヅラに人差し指を突きつけた。
「殴るなり避けるなりせんか!」
「しかし危害を加えられたわけでもない」
「加えられたろうが! 接吻されそうになったのだぞ!」
「だがそれで怪我をすることもないだろうに、過剰防衛だ」
話が噛み合わない。埒が明かない。
ラーハルトは袋小路を抜け出した。
人目を忍んで、人が一人通れるくらいの建物の隙間にヒュンケルを誘うと、振り返って、腕組みをした。
「いいか良く聞け。おまえは口付けくらいは慣れているのかも知れんが、本来はみだりに他人に許すことではないのだ。誰でも出来るなどと思われては際限なく奪われるぞ。醜聞を吹聴されたくなくばこれからは控えるのだな。それがおまえのためだ」
だがヒュンケルは予想外の返答をした。
「慣れはまったくない。したことがないからな」
「なに だったらなおさら守らんか! 最初の口付けなのだぞ」
「口と口が付くくらいで、一体なにが起こるというんだ……?」
本気の戸惑いが伝わってくる。価値観が違いすぎる。
「騎士の忠誠の儀式のようなものか?」
「そう、ではない……」
「わからんな。握手や乾杯とどう違う。初めての握手などは相手を選んだか?」
「いや……」
「それに、初めてと二回目がどう変わる。二回目と三回目については変わらんのか?」
「そこまで詳しい事はオレにも明言できん」
「……さほどの知識も無いくせに人に説教を?」
呆れ顔のヒュンケルに怒りが湧く。さすがは天才だ。ラーハルトは己のこめかみを揉みほぐした。
「とにかく! 最初の口付けは間違いのない相手を選べ! それだけだ!」
「よかろう。おまえにする」
「──」
建物と建物の隙間の暗がりで、ヒュンケルが歩み寄ってきて、ん、と口を上向けた。
「初めての相手は間違いない者を、だろう? ならおまえが最適だ」
「簡単に決められては困るっ。オレも初めてだ!」
唇を寄せられ、咄嗟に踵を返して避けた。
自慢ではないがこれまでの人生では口吻など、したいともされたいとも感じたことはない、初心者なのだ。
「ラーハルト……」
ヒュンケルの低く沈んだ声色が背中にグサグサと刺さってくる。
「おまえは……最初の口付けの相手がオレでは不服だというのか?」
煽る天才。そうかも知れない。
またぞろ人を焚き付けるようなことを呟いてくるものだから、どんな挑発的な顔で睨んできているのかとラーハルトは憤りと共に振り返ったのだが。
でも、ヒュンケルがまるで捨てられた犬みたいな目で見上げてきていたから、思わず抱き寄せてキスした。やはり天才だ。
2024.01.28. 10:30~11:50 +20分 =通算100分 SKR