フロ監♂ 下を見るな。下を見るな。
監督生はぶつぶつと同じ台詞を繰り返す。
今、ここは地上からた十メートルほど離れた位置。どれだけ足を伸ばそうとも、父なる大地に足はつかない。そうなると、面白いもので足は伸ばすどころかこわばり折りたたまれ、頼りない柄にしがみつくのだ。
呼吸は勝手に浅くなる。
だと言うのに、相棒はというと呑気に「飛べたぞ!」なんて笑っている。首根っこ捕まえて今すぐ叱り倒したい。が、今は無理だ。
柄を掴む手のひらには汗が滲み、いつか滑って離してしまいそうで、余計に力がこもる。
「ぐ、ぐりむ、落ち着いて、落ち着いて、いいか? 今すぐ、下に、地面に戻るんだ」
お前こそ落ち着けと言われてしまいかねないほど、声は裏返り震えていた。
「おい! 子分、喜べ!」
柄の上で、足先のみつけたグリムは回転してみせる。「!」と叫びそうな声は声にすらならなかった。
「や、やめ、やめて、」
恐怖の前にたったとき、男であろうとなんであろうと、ただの怯えた人間に成り果てる。弱々しい声は今にも泣いてしまいそうだった。
「何言ってんだぞ。よろこべ、子分」
「……うんうん、すごい、すごいから。親分、早く地上に降ろして……お願い、お願いします。ほんと一生のお願い」
目を閉じる。
怖い怖い。落ちたら死ぬ。絶対、死ぬ。驚くほど真横に死が迫っている。冗談抜きで今回は終わりかもしれない。
午後から行われている飛行術の授業。生徒らは各々練習をしていていた。得意なもは悠々と箒を乗りこなしていた。苦手な生徒ははジャンプをした程度の高さでよろよろと飛行している。そんな中、唐突に──そうなんの心構えもなく──浮いたと思ったら地上から十メートル離れたここにいた。これは成功ではない。ただの失敗。暴走。少しでもグリムの意識がぶれれば、下へ真っ逆さま。
喉が大袈裟になった。
神様、仏様──なぜこんなにも試練をお与えになるのか。いつもなら天を仰ぐところだが、今は物理的に不可能だった。
「ぐりむ、こわい……むり、おろして、はやく、ほんと、こわい」
聞いたこともない弱った声にグリムはつぶらな瞳をぱちぱちとさせた。
「どうしたんだぞ、子分……」
「だ、だい、だいじょうぶだがら、うごかないで、ゆっくり、下へ、地上にもどして」
別にゴーストだって、人の怒声だって、胸ぐらを掴まれたところで、どうにかやってきた。怖くないといえば嘘になるが、大した問題ではなかった。だが、これはだめだ。高所はどうしようもない。それはもう本能に刻まれている恐怖のようなもの。今、意識を保っていることが不思議なほどだ。それはきっとグリムの監督生としての意地だ。
「……おねがい」
こめかみやら背中から汗がしきりにながれる。喉はからからで声も嗄れていた。
「下? 下がどうしたんだぞ」
嫌な予感。それはもう嫌すぎる予感。
「だ、だめ──ぐりむ、下を見るな……、」
そう声を絞り出したが、時は既に遅し。
「ぶなっぁ?! ここここ、これ、ど、」
グリムは飛べたことだけを喜んでいたのだ。こんなにも高い位置にいるとは思いもよらなかったのだろう──そんな事だろうと、はじめから知っていたけども。
「落ち着いて、いいな? 慌てるな、あわてるな、おちついて──、」
後はよく覚えていない。グリムの「ぶなぁぁ?!」という絶叫が耳に響いていた。
それでなくてもやる気が出ないというのに、なぜ飛行術の練習などしなければならないのか。フロイドは柄の先端に顎を乗せ、ゆらゆらと体を揺らす。
つまんない──その感情に支配されていた。
他の生徒らは各々真面目に練習している者もいれば、おしゃべりに夢中になっている者もいる。だが、飛行術の担当教師はバルカス。脳まで筋肉でてきている彼に目をつけられては後々面倒だと言うことを熟知している生徒らは適度に練習する振りをする。そんな中、もちろん後にも先にも興味がなくなっているフロイドは箒に乗る素振りも見せない。
ぼんやりとする不揃いな色をした瞳に明るい空が写る。そして、それを見つけた。
地上から離れ高く飛ぶ──何か。
なんだあれ──フロイドは目を凝らす。それは生徒だった。箒にまたがるのは、見知った人物。そして箒の上で立っている小さな生き物。
「え、小エビちゃん……と、アザラシちゃん」
あんな高く飛べるなんて、やるじゃん。なんてわけない。グリムはお世辞にも魔法コントロールが出来ているといえない。小エビちゃん──監督生は言わずもがな。つまり、あの位置にいることはたぶん予想外の出来事。
「もー! ほんと、なにやってんの!」
フロイドは考えるよりもさきに体が動いていた。バルカスさえその事態に気づいていない。
箒に跨り、地面を蹴る。フロイドとて飛行術が得意な訳ではない。人魚は空を飛ぶ必要がないからだ。だが、身内の二人よりずいぶんマシな方ではある。
その時、グリムの絶叫がした。そしてゆっくりとバランスが崩れていく。監督生はなんの抵抗もなく、箒とともにひっくり返っていった。
気絶している。
「くそっ、」
風の抵抗を受けながらも、真っ直ぐに落下していく二人の方へ進む。ひゅう、と風の音がした。
箒から手を離し無抵抗に落ちていく監督生にグリムがしがみついている。
その監督生の手を掴もうと、手を伸ばす。それでなくても飛行術は苦手だ。繊細なコントロールなど、出来るわけがない──なんて言っている場合ではなかった。
「小エビちゃん!!」
落ちていく監督生の腕に手が届き、そのまま腕を掴む。途端に、フロイドまでバランスが崩れていく。ぐらり、と箒が揺れると、力ない監督生の腕が手から離れていった。
舌打ちする時間すら、もうない。
もうすぐそこに地上。落ちればどうなるのか。怪我で済めば奇跡だろう。
柄を握る手に力がこもり、手の甲に血管が浮いている。力任せに監督生の運動着を掴んだ。そして、乱暴に上と放り投げる。その間、風抵抗をなくすように魔法をかけたが、うまくいかず、わずかな抵抗がなくなっただけだった。だが、それだけでもないよりマシだ。
監督生の体が少しだけ浮く。
フロイドはその間に地上へと全速力で降りていき、箒を投げ捨てる。そして、監督生が落ちてくる下へ潜り込み、自身の体をクッション材とした。どさり、と監督生の重みが胸へとのしかかる。意識のない監督生はフロイドの胸の上で力が抜け、ぐったりとしていた。
怪我をした様子もない監督生に安堵した時、顔面に影が落ちる。「ぶなっ?!」という音とともに、顔面にグリムが落ちてきた。グリムはグリムで怯えてしまいそのままフロイドの顔面にしがみつく。フロイドはシラケた目をした後、グリムの首根っこを掴み、顔から引き剥がす。
フロイドが救出に向かった事で事態に気づいたものの何も出来なかった生徒らは、フロイドの行動にきょとんとしている。
そして、グリムが投げ捨てられ、ばいんと芝生にバインドした後、感嘆の声があがった。そしてまばらに拍手の音がした後、それはにぎやかな喝采に変わっていった。