アイスとキミとあれとそれ 空調設備が壊れたらしく、学園の中は熱砂の国に変わり果てていた。そんな日の昼休み。サムの店には涼しむための品物を買い求める生徒でいっぱいだった。
その中にフロイドの姿もある。ふらふらと店内を進み、あふれる生徒らの間を縫って冷凍庫の前まで向かう。微かに冷気が感じるが、体から熱をとりのぞけるほどではない。
それはアイスを陳列する冷凍庫だった。中身がすぐ分かるようにガラス張りになっている。
フロイドは選ぶというよりも、手を伸ばすところにあるアイスを手にとった。自分のものと兄弟のもの、そしてもうひとつ。
店内はそう広いわけではない。しかしこうも人が多いと、レジまで行くのも一苦労だ。フロイドはとこ奥を見るような目をする。目の下にわずかなしわがいった。他の生徒らより体が大きい分──と、いうよりは不機嫌なフロイド・リーチとかかわるなかれという不文律のため、生徒らはフロイドの纏う空気を察知すると道を譲るのだ。そうしてできた、いわば不機嫌ロードを何食わぬ顔で進む。
「やあ! 小鬼ちゃん! 今日は熱いね。そんな日に何をお求めだい?」
「コレちょーだい」
レジ台にアイスを投げるように雑に置く。
「アイスかい! いいね! こんな暑い日はアイスにかぎる!」
マドルのやりとりを終えると「またおいで!」とサムは手を振る。フロイドは気怠げに手をふり、購買部を出ていく。頼りない足取りたが、迷うような素振りもなく植物園へ向かった。そこへ足を踏み入れた途端、暑さに湿度が追加される。じわりとまとわりつく暑さがあった。それでも中へと進んだ。そして作業をしていた兄弟の姿を見つけ、名前を呼ぶ。その声に活気はない。振り返った兄弟であるジェイド・リーチは相変わらず涼しげな顔をしている。白衣を纏う姿見ているだけで暑さが増していくというのに。フロイドは顔をしかめつつ、手の中のアイスをひとつ投げて渡した。
唐突に放り投げられたアイスを落とすことなくジェイドは受け取る。最初こそ驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの笑みを浮かべる。困っているような胡散臭い笑み。この兄弟が困る事などほとんどない事をフロイドは知っている。
「あげる。暑くて死んでるかと思ったのに、」
「さすがフロイドです。暑くて死にそうでした」
どこか嘘くさい声色は相変わらずだった。
「ん~~、」
手をひらりと振り、踵を返す。それでなくても湿度が高い。一分一秒でもいたくないと、背中に書いてある。しかし植物園を出たところでほとんど変わりばえしない暑さだった。フロイドは真っ青な空をひと睨みしたあと歩き出した。
中庭の一角。いつもなら彼はベンチにいるはずだが。いまは姿が見当たらない。この暑さで別の場所にでもいるのだろうか。辺りを見渡してみる。校内も外もさほど温度は変わらない。どこにいても暑い。いや、まだ校内の方が涼しいだろうか。フロイドは頭まで上手く回らなくなりつつあった。もういっそふたつとも自分で食べてしまってもいいか。短絡的な思考に陥りそうになる。
ベンチの後ろ側には低木があり、その奥は芝生、そして、背の高い植木が続く。
その木の影に、放り出された足を見つけた。見知った足の形だ。少し体をかたむけ、その足の続きを覗きみる。予想通り、探していた人物がいた。顔を険しくさせ、木にもたれかかっている。いつもは首元まで閉められたボタンも、しっかりと締められたネクタイも、今日ばかりは外されていた。袖を捲りあげ、あまり見ることのない腕が顕になっている。別段しっかりとした筋肉がついているほうではないが、華奢とも違う。
「小エビちゃん、」
そっと声をかける。すると、閉じられていた目がゆっくりと開いた。
「あぁ、フロイド先輩、」
まだはっきりとしない声で言い、体を起こす。白いカッターシャツが汗で少し透けて見えたような気がした。彼もこの暑さに参っているようだ。
「アイスあげる」
そう言ってフロイドは両手にあるアイスの袋を見せびらかすみたく前に掲げた。普通なら簡単に溶けるアイスだが、購買部のアイスは袋から出すまでは溶けない。袋にそういった魔法がかけられているのだ。
「アイス……」
小エビちゃんこと監督生が、ぼそりと言い終わる前に、アイスは投げられていた。「おわっ」と驚いた声を上げ、宙を舞うアイスを受け取ろうと構える。その間にもフロイドは低木を跨ぎ、芝生へと足を踏み入れた。監督生がアイスを受け取ると同時に、その横へ腰を下ろす。
「暑いねぇ」
すでにフロイドのアイスは袋から取り出されており、冷気でうっすらと白い靄がかかる。長方形で手で持てるように棒がささっている水色のアイスを口の中に放り込む。冷たさが口の中に広がった。噛むとしゃりっと音がする。
「そうですね。えっと、これ食べた後、なんか要求されませんよね?」
そう言う監督生を横目で見る。困惑している目がフロイドを見ていた。口からアイスを引っ張り出し、口を開く。
「要求してほしいの?」
「怖くて食べれませんが」
「……しないから食べなよ。なんの他意もないし。暑いから買ってきただけ。小エビちゃんは変なこと気にするんだねぇ」
言い終わると再びアイスを口にほおばった。監督生の目は「どの口が言うか」と言っていた。そして、無言のまましばらく受け取ったアイスを眺める。しゃりしゃりというフロイドがアイスを噛む音が続く。その音に監督生の喉が上下した。
意を決したのか礼を言った後、丁寧にアイスの封を切る。袋から取り出したそれはワッフルコーンのソフトクリーム。白いアイスクリームが渦を描きながら盛られていた。
「いただきます」
渦の先にかぶりつく。監督生はその冷たさと甘さに「ん~~」と大きな反応を示した。普段はリアクションの薄い監督生でも、今ばかりは素直に喜びをあらわにする。
フロイドはそんな彼に見入っていた。もとよりタレた目元がよけいに甘ったるくみえる。
袋から取り出されたアイスはこの暑さで急速に溶けだしていく。もう半分も残っていなフロイドのアイスでさえ、溶けだし棒をつたい手に流れた。残りのアイスを口に放り込み、棒を引き抜く。口の中でしゃりしゃりと咀嚼する。
その横で監督生も同じようにアイスを頬張っていた。顔にかかる横髪が邪魔なようで、指ですくい耳にかける。よく見えるようになった横顔は暑さのせいか少し赤い。汗で湿るうなじに、血色の良くなった薄いくちびる。白いアイスに這う赤い舌が見えた。
どこからどうみても冴えない男だ。別に崩れているわけではないが、アズールのように整っているわけでもない。至って普通──のように思う。そうだと言うのに、強く惹かれるものがあった。それが何なのか、今のところ答えはない。
フロイドは監督生の横顔をまじまじと見る。溶けだしたアイスが白い筋となり、彼の指を汚していく。それに気づくと、少し顔を歪めた。溶けだしたアイスは次から次へ液体に変わる。早く食べようとするが、暑さのせいでその速度を上回る速さで溶けていく。
白い筋は手どころか腕にまで流れ出した。監督生は慌てて、ぺろりと手のひらを舐める。赤い舌が日焼けのない手のひらを這う。
その動き一つ一つがスローモーションに進んだ。舌で掬いきれなかったアイスが腕につたう。その腕をまた舌が這う。
どうしようもなくなったのか監督生は滅多に見ないほど大きく口を開け──そんな姿をみるのは初めてだった──残りのアイスクリームを口に放り込んだ。ワッフルコーンまでは口に入らなかったが、これでもうアイスで腕は汚れないだろう。最後に手のひらに残った零れたアイスを舌で舐めとった監督生は不意にフロイドを見た。
当然、目が合う。
「え?」
監督生は見るからに体を強ばらせ、目を丸くし、小さな声を上げた。
「だ、大丈夫ですか?」
「何が?」
指の先でアイスの棒を持て余しながら、首を傾げる。お互いに何度か瞬きをした。
「いや、鼻血」
「──え?」
思わず、アイスの棒を捨て、指の先を歯の下へ持っていく。ぬるりとした感触が指の腹にあった。その指を恐る恐る見ると、赤いものがべったりとついている。
「なんで……、」
ぼんやりとしている間にも、鼻血はとめどなく流れた。鼻の下をつたい、唇へと向かう。唇の先からぽたりと血が芝生へと落ちた。
止めなくては──そうは思っても鼻血の対処法など知らない。知っていることといえば舐めてればいいと言う、誰に教わったかも忘れた信憑性もない応急処置程度。
フロイドは舌を使い上唇を舐めた。血の味に顔をしかめる。それでも止まる気配はない。悩んだあげく、上を向こうとした時、監督生に止められた。
「ちょ、ちょっと、何してるんですか」
上向いちゃダメです──と言われ、フロイドは素直に顔を下げた。監督生は腰を上げ、ポケットからハンドタオルを取りだす。そして、芝生に膝をつくと、フロイドの顔を覗き込んでくる。
「血の出てる右の鼻、押さえてください」
素直に言葉に従った。その間に、鼻の下の血をハンドタオルで拭かれる。慌てていたのか、ワッフルコーンは芝生に転がっていた。
「しばらく押さえておけば、止まりますよ」
「うん──わかったぁ」
と、答える声は当然だが鼻声だ。
「暑いからですかね……って、アイスが……、」
ああ、と項垂れ転がるアイスを悲しそうな目で見る。そして顔を上げると、申し訳なさそうな視線をフロイドに向けた。
「すみません、せっかくもらったのに」
「ひひよ」
鼻を押さえているせいで声が出しづらい。監督生は転がるワッフルコーンをそっと指で拾いあげようとした時、不意に動きを止めた。しばらくじっと動かないでいたが、ゆっくりと体を起こす。
その顔色はよくない。
「あの……その、」
何か言いにくそうに口ごもっていた。
「なに?」
そのあやふやな態度に少し苛立ちフロイドは聞き返す。
「いえ、なんでもないです。すみません」
無意味な謝罪をくり返され、さらに苛立ちが溜まる。言いたいことは分かっているのだ。
フロイドの下半身──つまりムスコがそそり立っている事を気にしているのだろう。
「なんでオレがぼっ──、」
「言わなくていいですから」
監督生はフロイドの言葉をさえぎった。
「つーか、オレもわかんねぇし、」
人魚だろうとなんだろうと、勃ってしまったそれを放置するのは辛い。痛いほどの存在感はズボンを押し上げ窮屈だと訴える。出したい、楽になりたいという本能を抑え込むのはけっこう疲れる。
そもそも監督生の透けたシャツからうっすらとみえる肌を見た時から熱を持ちはじめていたなんて、今更言えない。
「ねぇ、いまシコっていい?」
「ダメでしょ」
軽蔑の色が混じる目が向けられた。
「……じゃあ、シコってくれる?」
「え? じゃあの意味も分かんねぇし、シコりませんけど。人魚の倫理観どうなってんだよ」
片側の顔を手で覆う。普段の敬語が崩れるほど動揺しているようだ。
「オレのアイス食ったくせに」
「……何も要求しないって言いましたよね?」
「そんなこと言ったけ?」
完全に軽蔑しきった目で睨まれた。
本当はいつもその声に顔に、向けられるすべてに、ほんのわずかな欲情を抱いている──と知ったら、彼はどんな目をするのだろうか。フロイドは小さく熱を零すように息を吐いた。
「……ほんと困るんだよねぇ、」
独り言のようにぼやく。
すると監督生は「俺のセリフですよ」と呆れ果てた声で言い、ため息をついた。