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    KAYASHIMA

    @KAYASHIMA0002

    🌈🕒ENのL所属💜右小説置き場。
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    KAYASHIMA

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    💛💜。マフィアボス💛×海の子💜の話。🧜‍♂️パロ。なんでも許して。かき終わらない。作業進捗です。随時更新予定。以前あげたものに加筆修正中。
    豪の海になりたい(大の字)
    最終更新 2022.08.10

    #lucashu

    【Lucashu】アーティファクト・マーメイド

    入江が見える。
    ごつごつした岩場。ざざんと打ち寄せる波飛沫の合間に、人影が見えた。「それ」は、オレの視線に気づいたのか、そうじゃないのか。一瞬オレのほうを見たような気がして、胸がざわついた。見てはいけないものを目にしてしまった気がして、目蓋を擦った。次にそこを見たとき、もう人影はなかった。気のせいだったのか、ただ波間に飛び込むうつくしい薄紫の尾ヒレを、オレは見た気がした。
    「……マーメイド?」
    幻を見せられたように、俺は海辺のジョギングコースでしばらく入江を眺めたまま動けなかった。出来ることならもう一度この目で確認したかったのかも。だって、あまりにも、綺麗だったから。



    海は、ときどき帰りたくなる場所だ。広くて、何でも包んでくれるし何でも流してくれるし、波の音は耳に馴染む。嬉しいとき、悲しいとき、怒りたいときも。海は変わらないから。でも怖い場所でもある。飲み込まれたら、戻ってこられなくなりそうで。だから、子どものころにやっていたサーフィンも、やめてしまった。想像よりも、海の中は冷たくて暗くて寂しい場所だったから。溺れたとき、すぐに海は助けてくれなくて、それで泣いちゃったから。それ以来オレは海は見るだけにした。
    なのに、オレはマーメイドを見つけてから海のことばっかり考えて、気づいたかサーフ道具を一式揃え直していた。成長した身体に合わせてボードもスーツも新調して、オレはビーチで柔軟をしていた。おかしな話だ。自分で考えてもそう思う。まるでマーメイドの歌に誘われて自ら海に沈みにいこうとしてるようなものだ。それくらい分かっていた。マーメイドは美しい歌声で船を座礁させるとか、そういう言い伝えもあるけど、オレは信じてなんかなかった。けど、どうだろう。本当かもしれない。だってオレは、怖かった海にもう一度入ろうとしているから。泳ぐのは得意じゃない。だけどサーフリーシュに繋がれている限り遠くへは流されないだろうって、間違った知識を持ってた(サーフリーシュはボードが流されないための事故防止のもので、命綱じゃないってことは後になって知った)。オレはサーフショップで、初心者でも波に乗れそうな天候とか波の状況を聞いて、マーメイドを見た日から、ちょうど十日後に、ビーチに戻ってきた。
    オレの住む町は、ビーチがたくさんあって、年中過ごしやすく海にはいるのに最適な季節が多い。というより、年中海に出ようと思えば出られるくらいだ。幸いなことに雨季もなく湿気が酷いときもあるけどまあ何とかなってる。ハリケーンに大ダメージを与えられなければ本当に素晴らしい街だ。美しく広大な水平線。あまりクラゲも出ず、青く澄んだ海に珊瑚礁、多くの海洋生物がすごす楽園が間近にある。マリンスポーツが盛んで、波に乗る若者も、シュノーケリングする人も、それに観光客だって多い。いざとなれば、ライフセーバーがいるこのビーチがオレを助けてくれるだろうと鼻息荒く海に躍り出た。
    結果は、本当に何もかも忘れちゃったみたいに、そう、初心者だった。海の水ってこんなにしょっぱかったっけ?ってなってるし、全く波に乗れそうにない。まあまだ再開して一日目だし、と油断しで、サーフボードに乗って浮いていると、ちょっと高い波に押されて、簡単に転覆した。
    「うっぷ!」
    足のつく場所だったし、オレはわりと冷静だった。すぐに沈んだ頭を浮かばせて、海の中で薄目を開けて、息が苦しくなる前に、って思ってたんだけど。サーフリーシュが、器用に足首に絡まって、抜け出せなくなっていた。
    「(oh my got!これはまずい)」
    こぽこぽと命ともいえる気泡が口の端から溢れてて、段々と焦りが、余計にオレから空気を奪っていって、足首のリーシュを解けない。その間に、多分流されてる。自分の髪が眩しい海藻みたいに見えてきて、意識が霧散していく。澄んだ水が太陽の光を浴びて青く光る。泳ぐカラフルな熱帯魚が、まるで様子を覗くように顔を出して、ちょっと遠くにはカメがのんびり揺られてる。そうだ、一回、力を抜いて浮かんだほうが早いかも、あのカメみたいに。って思い至るのに時間がかかって、肩の力を抜いた。徐々に浮いていく身体に、よしと気を落ち着かせて。ふと、広がる海の中を、自由に、誰よりも綺麗に、泳ぐ人の影を見た。ムダのない、軟らかな身体がしなる。うつくしいドルフィンキックだ。かぽ、と見惚れた口から空気が漏れて慌てて口を閉じた。
    「(やっぱり、マーメイドに呼ばれたんだ、オレ)」
    なんて考えていると、その人はオレの間近までもうきていて、海の成すままにたゆたっていた身体をザバン!と引き上げた。
    「ぷは!はッ、ごほ!」
    水面から顔を出して、おおよそ吸い込めるだけの空気を一気に取り込んだ。太陽が眩しい。視界がくらりと霞んだ。
    「吸うだけじゃなくて吐いて、吸って……そう、上手」
    「は、げほっ、はあ……」
    「ゆっくりだよ。大丈夫。ボードに乗って」
    オレの身体を後ろから水中で器用に支えながら的確に指示をくれる声は、落ち着いていて、穏やかだった。波に揺られながら呼吸を整えて、ようやく冷静さを取り戻したころ、声は次にやるべきごとを教えてくれて、いつの間にか絡まっていたリーシュは解かれて自由になっていた。浮力を使って、オレの身体をサーフボードに押し上げた。ざばんと音を立てて、ようやくオレを救ってくれた人物を見た。
    「大丈夫?自殺志願者とかじゃ、ないですよね」
    「あ、あ、っと、あ!違う違う!そんなんじゃないよ」
    彼の姿は入江の人魚に重なった。濡れた黒髪に、白い肌。といっても今目の前てボードを誘導している彼は白いシャツを着たままで、覗く肌の面積は多くない。ただ浮力でクラゲみたいに膨らむシャツから、肌が覗いていて、ちょっとだけ視線を釘付けにしてしまった。それに、水面にぼんやりと見える輪郭は、確かに人間の足の形をしていた。つまり彼にはきちんと二本の足があった。オレは完全にお荷物で、ボードの上で大人しくするしかなかった。彼は浜辺まで導きながら、訝しげにオレを見上げて、じいとアメジストの瞳を向けてきた。整った目鼻立ちの、美丈夫だと思った。薄い唇をへの字に曲げて、首を傾げているからそれがあまりに、なんというか可愛く見えて、オレは彼の質問の意味を飲み込むのに時間を要した。はっとして否定すると、彼はホッとしたように頬を緩めて微笑んだ。
    「そう、んへへ。よかった」
    「あの、キミは」
    「あ、そうだ、今あなた顔真っ青なんで、僕のところに来てもらいますから」
    「キミは誰?」って聞く間もなく真剣な顔をした彼の、少し強い声音にオレは黙って頷いた。「僕のところ」ってどこだろう。
    陸地にたどり着いて、彼の言葉の意味をようやく理解した。まるで骨を半分ほど溶かされたように身体に力が入らない。ふにゃふにゃとしてしまう。それに寒い。奥歯が噛み合わない感じ。ビーチに膝を付いて、「あ、あれ?」と理解の追いつかないオレの背中を彼はさすって、肩を貸してくれた。
    「気づいてないでしょうけど、随分長いこと海に出てたから、多分脱水症状です。あと体温も奪われてる。もうちょっと頑張って」
    自慢じゃないけど、結構鍛えた身体を、オレよりも細くて薄い彼は、どこからそんな力を出しているのか涼しい顔で淡々と、疑問に答えてくてた。ぴったりと張り付いたウェットスーツが窮屈で、それに状況を理解すると都合よく具合まで悪くなっていくみたいで、迷惑をかけっぱなしの彼に小さく「ごめんね」と呟くのが精一杯だった。
    たどり着いたのは、ビーチに併設された(オレがサーフィン道具を一式揃えた)、サーフショップだった。
    「ふーちゃん!脱水症状!あと身体冷えてるからタオルも!」
    「シュウ?って……ワオ、これはまたデカい人を拾ってきたな」
    待ってろ、とふーちゃんと、彼に呼ばれた男は裏に引っ込んで行った。確か俺がここに来たときに対応してくれた店員だったはず。随分と、仲が良さそうだ。と思った。それに。
    「(シュウ、っていうんだ)」
    そこでオレの意識はまるで名前を聞けた安堵にふっとブラックアウトした。



    こく、と喉が潤う感覚がした。冷たい水が乾いた身体に染み込んでいくみたいな。柔らかい、マシュマロみたいな感触が、唇に。ふわ、っと意識が浮上して、ぱちりと目蓋が開く。蛍光灯の明かりに一度目が眩んで瞬きをして馴染ませて、はっきりとした視界にひょこりとキレイな顔がドアップに写りこんだ。ド!っと心臓が飛び跳ねて、全身が驚きに震えた。
    「WT*!」
    「おあ、え、え?あ、すみません驚かせた?」
    まな板の上の鯉みたいに跳ねて、寝起きにしては腹から出た声に彼は驚いて、眉根を下げて困った表情をした。
    「あ、いや、ごめん。オレがビックリしすぎただけ、キミは悪くないよ」
    よく見れば、ウェットスーツの上は脱がされていて、何枚ものタオルに包まれていた。どうりで暖かかったんだ、と気づいてそして、彼の手に握られたミネラルウォーターのボトルについ先程喉を潤してくれたのはもしかしてと、こんなときばかりにフルスピードて働く思考が恥ずかしい。
    「あの、もしかして、水」
    「あ、ああ、えっと、んへへ、ごめんなさい。どうしても飲んでもらわなきゃいけなかったから」
    シュウ、と呼ばれた彼はオレのいいたいことが分かったのか、ぱちぱちと意志の強そうなアメジストの双眸を瞬かせて、そしてふにゃりとはにかんだ。後ろ頭をかきながらちゃぽ、と量の減ったボトルを揺らして。ほんの少し耳を赤くして。オレは自分で聞いておきながら「ああ、うん、そう。そっか。へへ、あ、あー、ありがとう」なんて、おおよそティーンみたいな経験のない男のような反応を返すので精一杯になっていた。ごそごそと身体を起こすと、彼はずれるタオルを甲斐甲斐しくかけ直してくれて、いちいちオレの心臓を擽ってくる。バカになったみたいに、ドコドコと打楽器みたいに鳴る鼓動が、彼に聞こえないかヒヤヒヤするほどだ。
    「あの」
    「ん、ん!なに?」
    「あなたのサーフボードとか、多分荷物とか、一応ここに持ってきてるので、確認して欲しいんですけど」
    動けますか?と首を傾げて不安そうにオレを覗き込んでくる仕草にますますおかしくなってしまいそうだった。
    オレは平静を装って「オーケー」っていって、傍に寄せられた、今日ビーチに持ち込んだもの、を確認して派手な桜色を基調にした柄シャツを取り出して羽織った。
    「うん。全部ある。ありがとう!それに本当に迷惑かけてごめんね、えーと」
    「いいえ。仕事?みたいなものだし。んはは。えっと僕、ここのサーフショップで働いてるシュウっていいます。闇ノシュウ」
    「シュウね!オレは」
    「あなたのこと知らない人、この辺りにはいないですよ」
    ルカ・カネシロさん。ってシュウに名前を呼ばれて、ときんを心臓がはねた。



    「えっと、ルカさんは、泳げないのにサーフィンを?」
    「NO!さんはいらないよシュウ。そう、正確にいうと上手に、泳げないだけで、ちょっとは泳げるよ」
    「ええ……」
    「初心者だってことはちゃんと分かってたんだけど、夢中になってたみたいで、本当にありがとうシュウ。キミは命の恩人だよ!」
    「うう、まあ、そうかもしれないけど。でもルカ、ちゃんと泳げるようになってから波に乗らないと、海は優しくないよ」
    じゃあシュウが泳ぎを教えてくれる?って、自分でもスムーズに教えを乞えたと思う。シュウは瞬いて、きょとんとした。そして、「もしかして、それ、狙ってた?」って、すんと澄ました顔をして、そしてくすくすと肩を揺らして。
    「仕方ない、かな」
    とアメジストの三日月を優しく煌めかせた。



    オレはこの辺の街じゃ、知らないもののいない夜の管理人だ。それを隠したりしていないし、この稼業を恥ずかしいと思ったこともないからどうどうと朝も昼も夜も歩く。だからだろうか、オレはなんだかこの街に馴染んで、思う存分羽根を伸ばして飛んだり跳ねたり引きずり回したりしていた(ちゃんと仕事もしているという意味だ)。そんなオレに命の恩人ができて、なおかつオレの気になっている、幻か現実か確かめたくてたまらない入江のマーメイドにそっくりな(はっきりと顔も性別も分からないのになぜかオレはそう思えてやまない)彼。闇ノシュウ。よくよく調べてみるとビーチのサーフショップの店員で、ダイビングのインストラクターをしたりガイドをしたりしているらしい。だから泳ぎもレスキューも完璧で、オレはそんな彼の努力と実力に救われたわけだ。ただ、それだけしか手に入らなかった。彼の、サーフショップに務め始める以前の記録は、オレの優秀なファミリーでも入手できなかった。少しだけ、疑いを向けるような、痼を残すような経歴。カネシロに近づく輩は少なくはない。その刺客でなければいいと、神に祈りたくなった。そうじゃなければいい。目蓋を伏して、網膜に焼き付いたマーメイドの後ろ姿とシュウを映し出す。うつくしい、蠱惑的なアメジスト。アレが欲しいと、思ってしまっているから。疑念はそっと胸の裡に仕舞っておこう。オレは彼に興味がある。



    泳げないのにサーフィンなんてはやい、と実はわりと真剣に怒られて(すごく真剣な顔でシュウはオレに海は怖い海は優しくない。だから自分が強くなんなきゃダメって言い聞かせてきて、それがちょっとおかしかった)。だったら泳ぎを教えてよってねだったら、ちょっと渋い顔して、いいよっていった。オレは内心でガッツポーズをしたつもりだったけどちゃんとシュウに見られていた。
    シュウとのスイミング講習は週に一回。サーフショップの近くにあるプールで、水曜の夜だけ。って約束を取り付けて両手を超える日にちが経った。結局あの日以来オレはマーメイドを見ていないし、シュウにも聞けずにいる。
    今日は水曜日で、もうすぐ日が暮れる。オレはサーフショップに顔を出して、店番をしてるふーちゃんと呼ばれていた店員、ファルガーに声を掛けた。
    「Hey、ファルガー」
    「Hey、ルカ。そうか今日は水曜日か。シュウならもうすぐ上がってくる」
    「待たせてもらっていい?」
    「はは!本当に、謙虚なBOSSだな。聞かなくたって勿論OKだよ」
    ファルガーはからからと快活に笑ってオレを迎え入れてくれる。もう顔なじみだって背中を叩かれたとき、ジーンと胸が熱くなって、感動のあまりハグをお見舞する。ちょうどシュウが、ダイビングスーツを脱ぎながら戻ってきた。オレをファルガーは抱き合ったままシュウに視線を向けた。ばつって音立ててスーツの上半身剥いで腰に巻き付けて、ちょっと濡れた襟足が反動で肩に鎖骨に張り付いたところでオレはゴクリと喉を鳴らした。煩わしそうに前髪をかきあげて、そこでようやくシュウはオレたちの視線に気づいた。伏し目がちに、いつものふやけた顔からは検討もつかないセクシーで真剣な仕事中の表情だった。咥えた髪ゴムを指先に引っ掛けて、波紋みたいに広がった襟足を後ろで縛って。シュウはぱちぱちと瞬いて、気恥しそうにくしゃりと表情を崩して笑った。
    「あー……ねえ、見すぎじゃない?」
    「シュウは無防備すぎない?」
    「ずっとだ。もうずっとこうだ」
    「ふーちゃんも大変なんだね」
    「ねえなんの話?」
    晒された上半身は細いけど引き締まってる。腰がめちゃくちゃ細い。色も白い。これがギャップかあと呟くと、ファルガーが無言で頷いた。シュウは全く分かっていないようで、微かに眉間に皺を寄せて息を吐いた。
    「随分仲良くなったよね、ふーちゃんとルカ」
    「ああ、共通の推しが出来てな」
    「そうそう、良い話し相手になってくれるよ!」
    「ふうん」
    そう澄ました顔してシュウは「シャワー浴びてくるから待ってて」とオレの肩をポンポンと撫でて微笑んだ。
    オレはポカンとして、ファルガーを硬い顔で見つめると、彼はオレと同じ顔をして、そしてにやりと笑った。
    「まあ、シュウはずっとルカのことを知ってたから」
    「ゑ?」
    「知らなかったか?じゃあ、そうだな。本人に聞いてくれ!」
    そう、ファルガーは爽やかな笑顔で会話を打ち切った。



    「そう、いいね。随分上達してるよ」
    「トレーナーがいいからね」
    「んはは」
    ビーチに併設された室内プールは、ダイビングや普通のスイミングを習ったりに使える施設で、この時間をシュウが毎週予約してくれていて、水深の浅い場所で、オレはビート板に捕まってバタ足をする練習から始まって、水に浮かぶこと、息継ぎ、本当に初歩的なことをシュウは叩き込んだ。お陰で子どもみたいにとはいかないけど随分上達した。クロールはお手の物。あとはいざとなったときの立ち泳ぎとか、レスキューの仕方とか。
    「ねえシュウ、シュウって潜るのは得意?」
    指先がふやけてきて、プールサイドで休憩を挟んでいる最中、オレはちょっと距離を詰めようとドギマギしながら問いかけた。シュウは瞬いて、「まあ、ダイビングするしね」と答えた。
    「あー、ねえシュウ。さっきファルガーが教えてくれたんだけど」
    「うん?」
    「シュウってオレのこと名前以外も知ってた?」
    「ああ。あー。なるほどね」
    シュウはオレの聞かんとすることを理解したのか、眉根を下げて、少し恥ずかしそうに頬をかいた。
    「毎朝ジョギングしてるでしょ、ルカ。それを知ってたんだ。毎日、きちんとした時間に、ルーティンをこなす、あなたにはたくさんの影や噂が付きまとうけど、そういうことできる人だから、きっと、誠実な人なんだろうなって思ってたんだ。街では人気者だしね」
    プールに浸した足をゆらゆらとさせながら、シュウは視線を左右に泳がせて、そして緩く微笑んだ。
    「そうなんだ、はは!知られてたんだ」
    もしかして入江から見てた?とは聞けなくて、だけど湧き上がる高揚感に声が上擦って、オレは浮かれているかも。
    「ルカは、なんでサーフィンを?」
    「え?」
    こちらを窺うように揺れるアメジストに、キョトンとした俺の顔が映っていて、喉が鳴った。あれだけシュウに聞きたかったことをようやく口にできるのに、どうしてか、そのタイミングがくるとなんだか「子どもの絵空事」を信じてる大人みたいに恥ずかしい気持ちになるのは何でなんだろう。カラカラになった口を潤すためにミネラルウォーターを含んで、オレは小さく息をした。不思議だ。あんなに水の中にいるのに身体からは水分が消えてくんだから。なんて余計なこと考えて。
    「笑わない?」
    「笑わない、多分。笑ったらどうなる?」
    「そりゃあ、怖いことかな。オレを怒らせちゃうかもしれないから」
    ってわざとらしく低い声で答えると、シュウは「洒落にならないよ」と苦笑いをした。
    「マーメイドを見たんだ。入江で。キレイだったから、また会えないかなって」
    「……それで始めたの?」
    シュウは笑わなかったけど、少し戸惑って、瞬いて、首を傾げた。
    「そう。元々子どものころにちょっとやってたんだ。溺れて怖かったからやめちゃったんだけど。だからいちばん海に近づけるかと思って」
    「ふうん」
    ちゃぽ、と水面を揺らして、シュウは俯いたまま思案するように呟いて、そのまま身体をとぷんとプールに、静かに沈めた。あまりに綺麗に、飛沫ひとつ立てずに水に吸われるみたいに。オレはそのままシュウが上がってこないのではと焦った。
    「シュウ?」
    こぽこぽと気泡が上がってきて、ざぱんとシュウが顔を出した。濡れた髪をかきあげて、よく見えるアメジストがオレを見上げている。
    「溺れた恐怖心も超えちゃうくらい、そのマーメイドがキレイだった?」
    ぽたぽたと、シュウの長い睫毛から滴る水滴が、白い頬を撫でていく。
    「うん、そう。キレイだった。もう一度、会いたくて」
    夢見心地だった、もしかしてじゃなくてやっぱり、シュウがそうなんじゃないかって、核心に近づいてる気がして。
    「んはは。まるで恋みたい」
    「恋?」
    「そう、ルカはマーメイドに恋してるみたい」
    入江の波間に見えた、美しい薄紫の尾ヒレに艶やかな黒髪。そして、多分、オレを写したあの、瞳。胸の高鳴りを、シュウはまるで分かっていたみたいにオレの、タトゥーをなぞるように指先で、ちょうど心臓に、触れた。
    「速いね、心音。当たりかな」
    「そう、かも。あのさ、シュウ」
    「うん?なあに」
    「シュウ、って、マーメイド?」
    なんて、ちょっとバカみたいな聞きかたをした。率直に、どうやって伝えたらいいか、緊張した頭がうまく働かなくて。カラカラの喉から出た、掠れた声に、シュウは瞠目して、そしてけたけたと声を上げて笑った。
    「僕?んふ、ははははは!」
    二人しかいない貸切のプールに、シュウの声が響く。何がおかしいのか、真剣に聞いているのにと、眉間に皺を寄せると、シュウは笑い終えたのか、ふっと、力の抜けた、少し気だるげな笑みを口元に浮かべてプールに潜った。深い場所まで潜水して、そして鮮やかなドルフィンキックで、うつくしく水中を旋回した。泳いで、戻ってきたかと思えばオレの顔面にざばん!って水飛沫をお見舞して。
    「ぶあ!ちょ、シュウ?」
    「んはは。残念だけど、僕には泳ぐ能力はあるけど、ヒレはないから。僕はマーメイドじゃないんだ」
    ごめんね、って笑ったシュウは、少しだけ悲しそうだった。



    次の週、オレはどうしても外せない稼業が入って夜の街に繰り出していた。手に入れた連絡先に、断りの連絡を入れると「そっか、残念。また来週ね」とシュウから返事がきていた。あの日のマーメイドが、シュウじゃないといわれて、腑に落ちなかった。オレは、絶対シュウだと思ってたから。でも確かに、シュウは人間で、マーメイドじゃない。彼にはしっかりと日本の足が生えていて、きちんと地面を踏んでいる。「マーメイドに恋してるみたい」っていったシュウの顔が、まるで自分に恋をしているような顔をしていて、だからこんなに後ろ髪を引かれている。「オレが入江でみたあれが、マーメイドじゃなくてシュウだったら良かったのに」って。そう、オレはマーメイドにじゃなくて……そこまで至って、そぞろな意識を呼び戻す、不快な音がした。一気に思考が霧散して、苛立ちはオレを夜の管理人へと変えた。
    「失せろ、虫の居所が悪い」
    約一キログラムの鉄の塊を手中に収めて、指をかけたままのトリガーを躊躇いもなく引いた。乾いた薬莢の匂いと、濡れた着弾音。散る赤は、オレを冷ましていく。
    「(シュウにあいたい)」
    飛び散った返り血を指先でビッ、と払って息を吐いた。
    恋だ。オレはシュウに惚れている。例えハニートラップでも、オレはカレを奪いたい。深い海に沈むように、やっぱりマーメイドに呼ばれたんだとほくそ笑んだ。


    その次の週、オレはたまたまネットサーフィン中に見つけた、ある宣伝用の動画を見た。それは、入江から海に飛び込むうつくしい薄紫の尾ヒレをもつマーメイドで、気の強いアメジストの瞳を持った、男だった。自由に、青い海を泳いで、跳ねて、岩場でうたをうたっている。そんな、動画だった。オレはいても立ってもいられなくなって、まだ夕暮れもきていない、太陽が高い位置にある時間にサーフショップに駆け込んだ。店番をしていたのはシュウだった。ぜえはあと肩で息をして、突然現れたオレにシュウは目を白黒させて、ミネラルウォーターを差し出してくれた。受け取って、口を潤して、呼吸を整えて。
    「大丈夫?ルカ、どうしたの」
    「ど、したの?じゃないよシュウ!」
    「んええ?」
    シュウの肩を掴んで、握った端末を見せた。再生履歴の一番上を見せれば、シュウはきっと分かるだろう。オレが答えを見つけたことに。
    「あ」
    シュウのアメジストが見開かれて、そしてゆるゆると伏せられていった。
    「シュウだったんじゃん」
    「うん」
    「なんで、ウソついたの」
    「だって、ルカは本物のマーメイドに、会いたがってたから。僕は、偽物だし」
    「あの日、オレを見てたよね」
    ぱっ、と開いた長い睫毛のカーテン。じわじわと赤くなる目元をゆっくりと親指の腹で撫でた。きゅ、と唇を噤んだシュウは、ぽそぽそと囁く。
    「毎朝、見てたよ。あの日も。見られるとは思ってなくて。驚いちゃったんだ。まさかそれで、ルカとこうして会うようになるとも、思ってなかった」
    シュウはそこで言葉を区切って、普段はあんなに強気なアメジストを、ゆらゆらと揺蕩う水面みたいに潤ませていた。
    「僕は、マーメイドじゃないよ」
    「シュウはマーメイドだよ」
    だって、キミはオレを惑わせたから。って潤む目尻に唇を落として、ちゅうと吸った涙は海の味がした。



    水曜日。日暮れ前。サーフショップ。
    「シュウはマーメイドスイムのライセンスを持ってるんだよ。両足固定のモノフィンに、フィッシュテイルを被せて。それで自由に海を泳ぐんだ。さながら人魚姫みたいにね」
    ファルガーは、シュウは本当にうつくしく泳ぐんだ。って感嘆して、オレは頷いた。
    「いつか一緒に泳ぎたいなあ、海」
    「泳ぐ?」
    そう囁いて、無防備な背骨を服の上から撫ぜたのは、意志の強そうなアメジストを煌めかせる、オレだけのマーメイドだった。



    「シュウは海が好きの?」
    「んえ?あ〜、そう、かも?」
    水曜日の室内プール。ちゃぷちゃぷと、およそ数ヶ月前まで泳ぐのが苦手だったとは思えないほど、ルカは水と戯れるのがうまくなった。季節が巡って、十月。春が終わりに向かっていく。年中穏やかといえど、多少空気が湿気て雨や、小さければ大したことないハリケーンかま通ったり。少し退屈な、それでいて暑い夏がもうそこまで顔を出してる。雨はすきだ。身体の熱を冷ましてくれて、海に入らなくても、水の中にいる気分を味わえるから。ぼんやりと、ひとつの季節をルカと過ごしたんだなあと、緩む頬をきゅ、と引き締めて彼を見る。当の本人は身体の力を抜いて、揺蕩うように水面に浮かんでいた。まるでウォーターベッドに寝てるみたい。そのまま溶けてしまいそうだなと思った。プールサイドに上がって、足だけ浸してそれを眺めていると、ルカは一度とぷ、っと器用に水面に沈んだ。本当に、水に馴染んだなあと思う。音もなく、シルエットが近づいてきた。ざぱんと水飛沫が上がって、水も滴るいい男、きらきらと光の粒を纏ってルカが顔を出した。僕の足の間に入り込んで、ぐっと近づいたルカの鍛えられた身体。ルカのほうこそ、御伽噺に出てくる人魚のようだ。誰もが見惚れるうつくしい彫像のよう。そんなふうに、ほう、と浮ついた息を吐いて、濡れた金糸から滴る水滴を眺めながら思考に耽っていると、ルカの腕が僕の腰に回されて、ひやりとした肌が触れ合った。
    「シュウ?」
    「んあ、あ、なあに?」
    「もしかして見惚れた?」
    僕を見上げてこてん、と首を傾げるルカと視線が絡んで、子犬みたいだなと思った。こんなに男くさいのに。頭をわしわしと撫でてあげたくなる愛らしさまで備えている。ずるいひと。しっとりと水を含んだルカの髪を撫でていると、子犬はライオンに変わった。くい、と片方だけ口角を上げて、生意気なで、セクシーな唇が弧を描いた。濡れたラベンダー色の双眸が蠱惑的に僕を誘う。ときん、と心臓が跳ねて、僕の青白い肌の内側を駆け巡る。頬に集まる熱がじわじわと広がって、いつだって彼の前では僕はティーンみたいだ。経験値の差を感じてしまう。
    熱を持つ僕の頬に触れる、節張った男っぽい指先に擦り寄って、双眸を閉じる。
    「んふふ。格好良いからね、ルカは」
    「ワオ。シュウが珍しく素直に褒めてくれた」
    嬉しそうなルカの声に、「僕はいつだって素直でしょ」と返すと、くつくつと喉を鳴らして笑う気配がした。
    「そうだったかな」
    「そうでしょ」
    プールサイドに置いた手にルカの手のひらが重なって、上半身を伸ばしたルカの顔が近づいてくる。鼻先が触れて、ちゅ、と唇を食まれた。
    「ん」
    「シュウ、くち」
    「んう、ん」
    熱っぽい吐息の合間にルカの掠れた声がする。薄らと、開いた唇の隙間からぬる、と厚い舌先が入ってきて、僕はそれを招き入れた。
    「はむ、ん……」
    「あ、む……ンん、ゥ」
    縮こまった舌をルカのそれが絡めとって、擽るように擦り寄ってくる。唾液があふれて、プールの水とは違う、粘膜の擦れる艶かしい音が鼓膜を震わせて、僕をおかしくさせる。ちゅ、くちゅ、って、咥内を蹂躙するルカの舌に舐められて、音が、厭らしく、僕の耳に響く。たまらなく恥ずかしいのに、このキスは蕩けるほど僕をダメにする。海の中で熱を分け合うみたいに、呼吸を分け与えるみたいに、溶け合うみたいで、気持ちイイ。
    「んふ、シュウって、キスするとすぐとろんってしちゃうね」
    「はふ、……う゛~、ルカが、じょうずだから」
    もっとくっついていたかった唇が離れていって、名残惜しい顔をしたと思う。あつくて、思考がぼんやりとする。僕は熱いのは得意じゃないのに。回らない思考がゆるやかに停滞して、こういうときは素直になるしかない。でも釈然としないから、できるだけ小さな声で呟く。開いた目蓋が、高揚で潤んだ涙腺からぽろっと水滴が溢れた。ルカは、僕が快感を拾うと泣いてしまうことを知っている。そのくらいの時間を過ごした、ってことだ。愉悦たっぷりの、満足気な表情をしたルカ。にんまりとした笑みを浮かべていた。
    「シュウって、本当にキレイだね」
    ざば!とことさら大きな水飛沫を立ててルカがプールから上がってきた。僕目掛けて。僕を押し倒して。
    「う、わわ!」
    ぱたぱたと、ルカから落ちてくる水滴を浴びて、見上げた先に美しい紋様のタトゥーがあって、見上げると、熱を孕んだラベンダー色と交わった。
    「今日のお勉強はここまでにしない?」
    「……仕方ないね」
    「はは!期待してるくせに」
    「ルーカ」
    窘めるように発した声に、ルカは楽しげに笑って、もう一度僕の唇を奪って。
    「愛してるよ、オレのマーメイド」



    「で、シュウは好きなの?海」
    「あれ、そういえば答えてなかったっけ」
    「うん。ちょっとだるそうなシュウ見てたら興奮しちゃって」
    「ルカ……」
    「あ。ちょっとまってて」
    あけすけない告白に、瞬いてさっきまで火照って、ようやく常温まで下がった熱がまた上がりそうになった。
    ルカの、この質問に、実のところ僕はどう答えようかあぐねていた。というのも、ルカが僕を初めて認識したとき。彼は僕をマーメイドだと信じて疑っていなかった。それは違うと否定して「人間だよ」と宣言した手前、「海は故郷みたいなものだから」なんていえないな、としこりとして残ってしまったから。シーツの中で、お互いにパンツ一枚身につけただけの格好で、俗にいうピロートークの真っ最中だった。僕の掠れた声に、ルカは一度ベットを滑り降りて冷えたミネラルウォーターを取ってきてくれた。「はい」って、ボトルを差し出してくれた。のろのろとそれを受け取る。たった今まで、結構激しく運動したあとだっていうのに、ルカはピンピンしていて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。僕はぴくりとも動きたくないのに。
    「ルカ、キャップあけて、ほしい」
    「んん!今の可愛いね。もっといってくれていいよ」
    本当に、指一本動かしたくなくて、受け取ったボトルをベッドに転がしてしまう。気だるさに勝てない。かりかりと、側面をつま先で引っ掻いてこちらに寄せようにも柔らかいベッドの上を重力に従って動き回るものだから、僕はすぐに諦めて、ちょっとだけ甘えた声でルカを呼んだ。ルカは瞬いて、ぱあ、と後光でも背負ったようにきらきらと眩しい笑顔を寄越した。この男、本当に夜の管理人なのだろうか、と考える回数は手足の指じゃとうの昔に足りなくなっている。転がるボトルを掴んで、鍛えられた二の腕がきゅ、と絞まるのを見届けて(この瞬間がちょっと好きだったりする)、重たい身体を引き摺って座ると、ぱきりとボトルのキャップが開く音がした。
    「ありがとうルカ」
    「いーえ、このくらいいつでもどーぞ」
    はらりと落ちた襟足を払うときに見えた、見える位置に散る鬱血痕と、ルカの背中に入る赤い線が生々しい。なんて考えていると、肩を引き寄せられて、吸い寄せられるように唇が重なった。
    「んむ」
    「ん〜……はい、水、欲しかったんでしょ」
    冷えた水と、ぬるい体温が混じった液体が喉を潤して、こくこくと餌付けされる雛のように甘んじた。
    「普通に欲しかった」
    「んはは!POG!」
    またじゃれるようにシーツの海中で足を絡めて、ベッドに吸い込まれた。
    優しく撫で付けるように、ルカが前髪を梳いて僕をじいと見つめてくる。緩んだラベンダー色。顔いっぱいに幸せって書いてある。精悍な顔を確かめるように指先でなぞって、僕は口を開いた。
    「いつだったかさ、ルカが、僕をマーメイドだと思って海に帰ってきた、っていったよね」
    「ああ、うん。そうだよ」
    「笑わない?僕が海が好きか嫌いか、答えるの、そういう感じだから」
    「んん?うん、笑わない、けど……笑ったらどうなる?」
    試すような、夜の顔をしたルカが僕を見ている。
    「そうだな、うーん。海に帰っちゃうかもね」
    そう、冗談で、揶揄うつもりで口にするとルカは瞬いて険しい顔をした。眉根を寄せて、への字に曲げた唇が不満を表していた。
    「洒落にならないよ」
    「僕も前に同じこといったよ」
    「そうだっけ」
    「そうだよ」
    少し緊張した空気に、ルカの鼻先を撫でてきゅ、と摘んだ。
    「ちょ、っとシュウ!」
    「んはは、冗談だよ」
    鼻をさするルカは、子犬に戻っていた。
    「僕、海で育ったんだ。マーメイドに育てられた、っていったら信じてくれる?」
    「信じるよ」
    考える間もなかった。ルカは、僕を見つめたまま視線を逸らしも言葉を詰まらせもせず、頷いた。僕が瞬いて、ぽかんとしてしまった。じいんと胸が熱くなる。真っ直ぐなルカに、また恋をしてしまう。
    僕の人生は海から始まった。母の腕に抱かれるんじゃなく、海の揺籃で育った。ちゃぷちゃぷ浅瀬で遊ぶときは亀の背中に乗って、イルカとキュイキュイ鳴きながら遊んで、泣いたらジュゴンに宥められて。僕は物心ついたころにはぷかぷか海に浮いていた。大きな赤と桜色の、光沢あるうつくしい鱗の上で歌を口ずさんで泳ぎを教わって。陸地にいるよりも海中で育った。
    「おっきなね、マーマンに育てられたんだよね、僕。生まれたときから」
    「それって、まるで御伽噺みたいだね」
    鼻先が触れ合う距離で見つめあって、ひそひそと秘め事を話すように囁く僕の頬を、襟足を撫でる。きらきらと、寝物語を聞くように瞳を輝かせてルカは僕を見ている。
    「んはは、でしょう。そのマーマンは優しくて厳しくて、本当に親みたいに僕を育ててくれて、だから海が好きか嫌いか、ってきかれると、難しい。海は故郷だから。好きだけど、怖いところでもあるのを、知ってるし」
    伏した双眸を、体温の高いルカの指先が撫でた。二本ある足を絡めあって、擽ったさにふくふくと笑みが零れた。
    「御伽噺みたいな話だけどね、ルカが、子どものころに溺れたっていってたでしょ」
    「ああ、うん。え、もしかして」
    「ルカを助けてくれたのは僕のパパ。マーマンのヴォックスっていうんだ。あのとき僕はヴォックスの鱗に乗ってた。大きな人魚だから、人に見られないように僕がキミをビーチまで運んで、息をしてるの確認して、海に帰ったんだ」
    それから、子どものころのルカを入江で見守ってたよ。あのとき助けたヒトが、ちゃんと生きて、生活して、成長していくのを。
    「それで、いつのまにかあなたに恋をした」
    子どものとき、同じくらいの年頃だろうってヴォックスに教わって、興味を抱いて、少年になって青年になって、毎日欠かさずおんなじ時間に現れるルカを追いかけた。
    懐かしむように、こんなに格好よくなるなんて思わなかったルカの、キレイな鼻筋を、唇を、目蓋を撫でた。ルカはゆるゆるとラベンダー色の双眸を揺らめかせて、鼻を啜った。
    「ルカ?」
    「っ、シュウ」
    「ああ、うん。まって、ちょっと恥ずかしい」
    うるうるとしたルカの目元を親指で拭うとその腕を掴まれた。大きなてのひらに包まれて、ルカの頬に触れた。じわじわと、込み上げる熱は水に慣れた僕にはいつだって熱い。馴染むのはルカの体温だけだとおもう。
    「待たない。オレは今胸いっぱいすぎて、心臓が爆発しそう」
    真っ赤になったルカの顔が近づいてきて、そのままとさりと押し倒された。のしかかったルカが、ぼたぼたと泣きながら迫ってくるのをその夜必死に食い止めて、眺めて寝かしつけた。凄くいいムードだったのは分かるけど、僕はもう体力が限界値だったから。



    眠るルカのあどけない、夜の匂いの全くしないマフィアのボスの頬を撫でて、ちいさく歌を口ずさむ。うみのこもりうた。ヒトの言語では聞き取れない音の連なり。泣いて赤くなった目元にキスを落として、寝ているあなたに僕は囁いた。
    「僕を、人の世界に引き戻したのはあなただよ。ルカ」
    恋を、したから。
    目覚めたルカに、「今度ヴォックスに会いに行こうか」って聞くと、ルカは嬉しそうに明るい表情で頷いて、「どうしよう、親に挨拶なんて、さすがのオレも緊張するよ」と真剣な顔をしたからつい、笑ってしまった。



    マーメイドは半人半魚の幻想だとか、ジュゴンだとか、そういった見解が出されている。人魚の涙や鱗には不老不死になれるとか。そもそも存在すればきっと、富を持つ全ての人間が欲しがるだろう。伝説・伝承・伝聞。存在しないから価値のあるもの。誰も、その姿を現代において目にしたものはいないーー……。なんて、全く思考が追いつかない(というより止まっている)話を右から左に受け流して、オレは暇を持て余している。サーフショップのちょっとした座れるスペースで、シュウが人と話してるのを眺める。十一月。初夏だ。良い気候が続いてる。シュウは最近忙しそうだ。サーフィンにダイビング。マリンスポーツを楽しむ観光客に地元民のために働いてる。このところ毎日、白のキャップにイエローの目立つTシャツのなかに、ロングスプリングっていうウェットスーツ着てる。レスキュースタイルらしい(目立って、それでいて迅速な行動ができるって、なんだか得意げに話してくれた)。ミラーレンズのサングラスをキャップのつばに乗せて、白の短パンから覗くスーツの黒がちらりとして、そこからすらっとして、程よい筋肉のついた足が伸びる。発光する白さだ。そういえば、シュウって日焼けするのか聞くと、「僕、焼けないんだよね」って微笑んでいたのを思い出す。オレも焼けない気がする、って笑うと「ルカは焼けてもハンサムさが増すだけだよ」ってはにかんでた。オレの頭は気がつけばシュウのことばかり。シュウのことを考えると、自然と口角が、口角が。

    「この辺りでは、人魚が見られるってウワサがあるよぬ。マーメイドスイムが盛んなのもそれが理由だって聞いたよ。うつくしい青い海。人魚がいてもおかしくないよね。そうだ、シュウはどうしてマーメイドスイムを?」
    「海を自由に泳ぎたいから、かなあ」
    「人魚姫に憧れたりは?」
    「んはは。どうかな、そうかも」
    シュウの楽しそうな声だけ拾って、一瞬、視線がオレをに向いた。アメジストからの熱っぽいアピール。シュウは、オレにとってのマーメイド。小さなころに彼に助けられたオレだけの。確かに、人魚姫みたいだとシュウを見ると、すでに男に向いてて、目元を弛めて笑ってた。
    「じゃあ、マーメイドはいると思う?」
    「さあ、どうかな、この辺は確かにキレイだからジュゴンは多いし、ジュゴンをマーメイドだっていうなら、いるかもね」
    「そう、なるほどね。じゃあキミは……もしだけど、人魚を見たら世に広める?」
    「んはは。そうだなあ……しないかな。いないから、魅力的なんだと思うから」

    シュウは今、小説の執筆のために取材をしにきている若い男、アイク・イーヴランドと談話をしている。白いシャツ、が似合う爽やかな男だ。終始和やかな雰囲気で、シュウも相手も寛いで話を進めている。オレはファルガーと並んでカウンターでその様子を眺めるだけで、他人と話すシュウ、を初めて観察していた。オレと話すとき、大体二人きりだったことを思い返す。楽しそうに、穏やかな表情で、控えめな音で笑って。ぼんやりと眺めていたら、ファルガーが肘で小突いてきた。
    「顔、顔が怖いぞBOSS」
    「え?そんな顔してる?」
    耳打ちしてくるファルガーが、神妙な顔で頷いてオレの眉間を指さす。そんなにだろうか、と頬をマッサージして、眉間をほぐす。いつもならシュウを見てるだけでにこにこと上がる口角が、真一文字だったらしい。
    「嫉妬か?」
    「ハハ。まさか。っていいたいけどそうかも。彼はシュウに好印象与えてる」
    「確かに、だけどルカ、シュウはお前一筋だぞ」
    「分かってるよ」
    分かってても、他の男と話してるシュウ、を見て嫉妬しないとはいえない。オレは、シュウを独占したい。内に秘めた、伝えるのもはばかられるほど、自分に縛り付けたいっていう欲求が日に日に増してゆく。ファルガーは、シュウが陸に上がってきたときに彼を拾った男だと聞いた。
    「ファルガーは、年の離れた兄さんって感じ。ふーちゃんがいなきゃ僕はこうして人に馴染めてたかさえ怪しいよ」
    そう、シュウが懐かしむように両目を細めて、優しい眼差しをファルガーに向けたことを思い出す。ファルガーは良い奴だ。こうしてオレを受け入れて、シュウを任せてくれる。それに話し相手として最高に心地がいい。気兼ねなく、友人のように話せる。POGなやつ。
    シュウはあまり自分のことを話したがらない、というより何を話していいのか困ってる、ときがあって。それは言葉を上手に選べないからだといっていた。
    「シュウは陸に上がってから言語を学び始めたんだ。驚くべきスピードだったぞ。今じゃ全く俺たちと遜色なく話せる。だけどたまに、上手く言い表せない感情とか、そういうものに言葉を詰まらせるんだ」
    オレの知らないシュウのことはだいたいファルガーから聞いた。シュウは言葉を知らなかったこと、乾燥に弱くて陽射しが強いと逆上せてしまうこと。歩くより泳ぐほうが楽なこと。でも一番大事なことは、ちゃんと本人から聞けているからこうやって、ファルガーに嫉妬心を抱かずに済んでるんだと思う。

    「ルカに恋をしたから僕は陸に上がったんだよ」

    シーツの海で、シュウがいった言葉。オレのためにシュウがたくさん頑張ったこと。自分から口にしないいじらしさが愛おしい。真一文字だった口角がようやく上がっていく気がした。

    「そういえば、アイクはどうして、あー……今になってマーメイドの小説?を書くことにしたの?」
    「あはは。笑わないかな」
    「笑わないよ、教えて欲しいな」
    アイクは「昔僕はマーメイドを見た気がするんだ、この辺りでね。そのことを思い出して、書いてみたくなったんだ」と、まるでオレみたいなことをいったから、ぽかんと呆けてしまった。まさか、まさかアイクもシュウを?なんて。俺の混乱を知る由もないシュウは、キョトンと瞬いて「なるほどね」となんだか静かに目蓋を伏した。そして。
    「アイクなら会えるかもね」
    とアメジストを細めて笑っていた。
    「じゃあまた、もしかしたらキミの講習を見学させてもらいに来るかも」
    「んふ、いいよ。なんならアイクの参加も歓迎するよ。あ、そうだ。ねえアイク、もし取材するなら、近くの水族館でちょっと面倒そうに働いてる……」
    「いいの?……へえ……」
    なんて、たった一時間程度の談笑で随分仲の良くなったアイクをシュウは楽しげに会話を弾ませながら見送った。オレは、そう。簡単にいうなら「面白くない」だ。むすりと大袈裟に顔を顰めてシュウがこちらを向くのを待ってみる。ファルガーはやれやれって肩を竦めてるらしい。
    でもシュウにはそんなことどこ吹く風だ。カランカラン、ってショップのドアを閉めて振り返ったシュウは、まず初めにオレを見て、ふにゃりと弛んだ笑みを浮かべた。よし、許そう。というよりオレの子どもみたいな嫉妬が溶けていった。
    「ルカ」
    漣(さざなみ)のような穏やかな声が、胸のざわめき(煮立つ嫉妬とかそういうの)を沈めていく。
    「シュウ、お疲れ」
    「ふーちゃんありがと」
    「ルカは待ちくたびれてるぞ」
    「んはは、そうみたい」
    ファルガーにもう一度小突かれて、ハッと我に返ると、シュウがカウンターに両肘をついてオレを見上げていた。薄い唇が弧を描いて、アメジストの柔らかい眼差しが、オレだけを見ている。ぽ、と頬に熱が集まる。だって、こんなのあざとい。くふくふと、喉で笑ってる。
    「ルーカ、待った?」
    「ま、ってない。オーケー、悪かったって。小さい嫉妬してた、気づいてたの?」
    楽しげにすうっと細められた双眸が、悪戯にひかる。オレの負け。降参といわんばかりに肩を竦めて両手をあげると、シュウはにぱ、って満面の笑みを浮かべた。耳が赤くなってるのをオレは見逃してない。
    「んはは。嫉妬、って嬉しいんだね」
    「お熱いなお前らは」
    オレは顔を両手で覆って唸った。


    さくさくと砂浜を歩く。シュウがこのビーチを見回るとき、オレが着いてくようになってしばらく経つ。賑やかな昼下がりのビーチを、シュウはほとんどボランティアのようにパトロールしている。いわく、「僕たちの海で事故なんて起きて欲しくないから」だそうだ。チャラけたサーファーも、ビキニのレディも、シュノーケリングするグループも。みんなシュウを知っている。このビーチだと、オレよりシュウのほうが名が知れていて、人気者。それが嬉しいような、嬉しくないような。誰にも触れさせたくないって感情が、どうしようもなく沸いてくるから困る。今だって、シュウの番犬よろしく、にこにこ笑いながら圧を振りまいてるんだからほとほと自分のことながら恐れ入る。キャップの後ろの穴から結ったポニーテールが歩くたび揺れるのを眺めて、人目もはばからずオレたちは手を繋ぐ。地元民は分かったように冷やかしてきたり、手を振ってきたり。あまりに穏やかで、自分がどんな立場の人間なのか忘れそうになる。シュウの隣は心地良い。まるで海に抱かれてるみたいだから。

    「あ、ペディキュア、剥がれてる」
    シュウの声に、海を見ながら遠くに飛ばしていた意識を引っ張り戻した。さくさく、乾いた砂を踏むシュウのビーチサンダルから覗く形の良いつま先を彩る黒のペディキュアが、欠けていた。
    「ワオ、本当だね。今夜塗り直してあげる」
    「ん、ありがとうルカ」
    少し熱を持て余してるのか、赤らんだ頬が目に入って、オレは肩にかけたサコッシュからボトルを取り出した。シュウは、熱に弱い。初夏の昼下がり、オレには耐えられる暑さでも、シュウにはキツいらしいから。
    「シュウ、シュウ」
    「ん?」
    オレはシュウの手を引いて、波打ち際に足首まで浸る。ぱしゃぱしゃと水飛沫を立てて、とりあえずシュウを海へ。揃いで買った色違いのビーチサンダルが波まで揺れてる。気持ちよさそうに目を閉じたシュウのキャップを脱がせて、「いい?」と聞くと、「うん」って帰ってきてそのまま上を向いた。ぱきりとボトルの蓋を開けて、ミネラルウォーターをシュウの頭からかけてやる。びちゃびちゃと顔面から水を浴びて、俯いて項を濡らして、服が濡れるのも構わずに五百ミリ分の水を堪能している。
    「ぷは、あ〜……ありがと、ルカ」
    「きもちよかった?」
    空のボトルをサコッシュに戻して濡れた髪を掻き上げて首を振るシュウ。首筋から滴る雫とか、濡れたシャツが貼りついてるのとか、最初はドギマギしたけど慣れてきた。シュウは生き返った。って顔して数回うなずいて、ふにゃりと頬を弛めた。
    「このままここ歩いていい?」
    「いいよ」
    指先を絡めて、波打ち際に足を踊らせながらシュウが歩く。じゃりじゃりと湿った砂が指の隙間にはいるから、結局オレも海に足を浸して歩く。シュウはちゃんと海をみまわして、仕事してる。整った鼻筋にきれいに揃ったパーツ。長い睫毛に時折隠れるアメジストが真剣で、普段のふにゃっとしたシュウとのギャップに、オレは毎日惹かれてく。ご褒美みたいな昼下がりだ。
    「あ、ねえルカ、ルカもマーメイドスイムやってみたりする?」
    オレを見上げたシュウの瞳がキラキラしてて可愛かった。緩む頬をそのままに、だけどさっきまでいたアイクの存在を思い出して、考えるふりをして返事を濁した。
    「ん〜、オレはいいかな」
    「……ルカ、聞きたいこと、ある?」
    オレの表情を、すぐに見抜いてしまうシュウ。困ったように眉根を下げて、ぎゅ、と少し絡めた指先に力が入ってる。オレの態度に一喜一憂する、かわいいシュウ。湧き上がる高揚感が、口角を上げていく。
    「アイクにも、会ったことあるの?なんだか自信ありげだったなってさ。またマーメイドに会えるよって」
    「ああ、ンはは。そっか、嫉妬?」
    「そうだよ、嫉妬」
    オレだけじゃなかったの、って耳元に顔寄せて囁くと、シュウは面白いくらい肩を揺らして「あえ、え」と鳴き声を上げた。耳が赤くなってる。
    「う〜……僕じゃないよ。違う。たぶん、ヴォックスだよ。アイクから磯の香りがした」
    シュウは、遠く水平線を見ながら呟いて、すこしだけ懐かしさを言葉に滲ませた。オレはなぜか、堪らなくなって、ぎゅうとシュウの手を強く握った。なんだか、海に消えてしまいそうな、気がしたから。
    「シュウ」
    「ルカだけだよ」
    お返しといわんばかりに、シュウは少しだけ背伸びして、オレの耳元に唇を寄せてこういった。
    「僕の王子さまはキミだけだよ」
    って。
    「人魚姫、やっぱり憧れたりしてたの?」
    「んふふ、どうかな。僕はマーメイドじゃないから」
    だからこうしてルカと歩いてお喋りしてるし、
    「夜にはこの足に、ペディキュア塗ってもらえるしね」
    とアメジストを細めたシュウが、沈む夕陽に紛れて艶っぽく微笑んだ。
    「お気に召すままに、オレのマーメイド」
    ざざん、と寄せては返す波間。シュウの腰を抱き寄せて触れるだけのキスをした。このころには、シュウがこっち側の人間じゃないって確信を持ってた。深入りしすぎてる。それは喜ばしいことでもあり、後ろめたさにも繋がった。オレは、シュウをこちらに引き込むべきか、腹を括れないでいたから。

    IV

    ジュゴンはその数を減らしている。密猟だ。古くから人魚だといわれ、その肉を貪られ。今では特定の、海域にしか存在しない絶滅危惧種に指定されてる。僕の兄弟だ。最近、また減っている気がする。遠く、水平線を眺めて跳ねるイルカの背ビレをみて、視線をビーチに戻す。
    サーフボードに立って、波に乗るルカが映る。はじめて、波に乗ろうとして溺れかけたルカを思い出してくすりと笑みがこぼれた。波に、風に乗って。太陽光に透ける金糸がきらきらと弾けて、眩しい。目を細めて、視線がルカばかりを追いかける。サーフィンをするなら泳げなきゃダメ、って少し強めに伝えて始まった、夜のスイミングスクール。ルカは運動神経が良くて体幹もいいからすぐに泳ぎ、水に馴染むことを覚えた。抗わないこと、怖がらないこと。それさえ身につければ、海は少し優しくなる。ルカには海を嫌いになって欲しくなかったから、嬉しい。風を読んで、水と心を通わせる。ルカは立派な海の男になった。ビーチに足を運んで、彼の姿を眺める人たちは少なくない。ルカ・カネシロ。この街の夜の管理人。大きなマフィア・ファミリーを束ねる若きボス。彼がいなければこの街はもっと治安が悪かっただろうって、誰しもが口を開いて頷くだろう。ただのギャングじゃなくて、街のボス。ときに優しくときに冷酷な、二面性に惹かれる人も、少なくはない。僕にとってのルカは、ボスの部分が隠れたまひるまの太陽。柔らかい月の光に紛れる彼を、まだ知り得ないでいる。これから、見せてくれるんだろうか。ルカは隠したいんじゃないだろうか。現に今も、こうしているうちも、ルカは隠し通してる。裏の世界を僕に見せようとも、引き込もうともしない。生半可な覚悟じゃ、どうにもできない。そういう世界に生きてるんだな、って拙い知識で分かっているような気だけしてる。
    海では無敵だって胸張れるけど、陸じゃ足手まといなのかな。なんて、考えてしまう。僕は、少しでもルカに近づきたくて、海から上がったのになあ。
    目を閉じて、波の音だけを感じて。磯の香りを吸い込んで。海では視覚や嗅覚より、聴覚が優れていないと生きていけない。ヒトよりよく聞こえる耳は色んなものを拾ってくる。どぷ、と海が何かを飲み込む音がした。僕も飛び込もうか、とシャツに手をかけたところで顔を上げる。と同時に小さな波に乗り損ねたルカがすっ転んだ。バシャン!と波飛沫に混ざって紺碧に好かれたルカが水面から顔を出す。水浴びした犬みたいに首を左右に振って、濡れた髪をかきあげた。腕のタトゥーが、光ってるみたい。水も滴るいい男を体現するルカ。 彼の全てを知りたいと思う、僕は欲しがりだろうか。脱ごうとしていたTシャツをそのままに、ビーチサンダルをビーチに脱ぎ捨てて、僕は海に飛び込んだ。まとわりつく布は、ちょっとだけ邪魔だけど、特段泳ぐのには支障がない。足さえ自由なら、僕は潮の流れに乗って誰より早く、この海を泳げる。たくさんのプランクトン。カラフルな熱帯魚。うつくしい珊瑚のベッド。その遠くで、同じヒトが揺蕩っていた。灰茶色の髪がゆらゆらとして、海と同じエメラルドの目が僕を見ていた。彼は一度旋回して、そして去っていく。僕はそれを見送って、海中から顔を出した。
    ちゃぷちゃぷと波に揺られて、辺りを見回して。探していたルカはサーフボードに乗ってパドリングしていた。ビーチに戻ってる。今日は引き上げるのかな、そう思って僕も海に潜った。スポットライトに射される珊瑚礁のうつくしさを眺めながら。
    「ぷあ、ふ〜」
    「あ、シュウ〜」
    ざば、と浅瀬まで引きあげて、Tシャツの裾水絞ってると、僕の脱ぎ捨てたビーチサンダルを拾って笑顔で手を振ってるルカが見えた。背中に太陽があるのに、前にも太陽があるみたい。眩しくて、目を細めて手を振り返した。ぎゅ、ぎゅ、と裾を絞って皺をパン!と叩いて伸ばす。多少濡れてたほうが僕には丁度いいし、なんならルカは水着だけ。眩しい白い肌にタトゥーを余すことなく見せつけてる。逞しい身体。羨ましいと、実はちょっと嫉妬してる。さくさくと細かい砂を踏みしめてルカに並ぶ。スマートにする、って腰を抱かれて挨拶だといわんばかりにチークキスを右に左に。
    「マーメイドプリンセスが靴を落とすなんて知らなかったなあ」
    「んふ。ルカ、ニヤニヤしすぎだよ」
    「んははは!」
    口を開けて笑うルカは周りの空気まで陽気にさせる。伝播するように、頬がゆるんで楽しい気持ちにさせてくれる。恭しくしゃがみ込んだマフィア・ボスが、チープなビーチサンダルをまるでガラスの靴みたいに履かせようとしてきてる。
    「シュウ、」
    「……ルカって、ずるいんだあ」
    「んん!惚れ直すだろ?」
    戸惑っていると、夏の陽射しを思わせるジリジリとした視線で見上げられて。僕はお手上げだ。肩を竦めて、少し足を浮かせる。大きな手のひらが丁寧に砂を払って、ビーチサンダルをつま先に。見下ろすと分かる、ルカの綺麗な金の睫毛。高い鼻筋。綺麗な造形美。ついぽつりとこぼれちゃった呟きに、ルカはセクシーな口元を歪めて笑った。両足丁寧に履かされたビーチサンダル。立ち上がったルカは満足気にふん、と鼻を鳴らしてる。
    「いつも、んふ、惚れ直してる、よ?」
    しっとりとしたルカの襟足を両手で包んで、骨格の部分を、気分は犬をあやす様に撫でて、抑えきれずにくふくふと笑いが我慢できずに漏れる。
    「シュウ〜?」
    「んふ、あはははは!」
    大人っぽい表情してたルカが、みるみる頬をふくらませて子どもみたいにむくれてくのがおかしくて、声を上げて笑ってしまった。

    「あ、そうだ。ルカ、今日の夜時間ある?」
    「うん?あるよ、今日は急なことさえなければね」
    「じゃあ、会いに行こうか」
    ビーチを歩きながら、瞬いて首を傾げるルカの指先を絡めとって、僕はひっそりと囁いた。ルカはキョトン、と瞠目したあとラベンダー色の瞳を煌めかせた。
    「いいの?」
    「うん、いいよ」
    「ンんん!POOG!」



    ルカのセーフハウスから見える入江を眺める。
    太陽が水平線にゆらゆらと、沈んでいく。海面に伸びるひかりの道筋がだんだん細くなっていくのを見届けて、ルカに声をかけた。
    「ルカルカ、ちょっと泳ぐからウエットスーツ準備してね」
    「オーケー!シュウは?」
    「僕は大丈夫。なんたって里帰りみたいなものだから 」
    ふーちゃんに選んでもらって誂えたフルスーツを取り出して、ルカは顔を上げた。僕はいつも通り、スプリングにTシャツだけ。夜の海で少しでも月の光に反射するように、白。夏といえど陽の陰った海は体温を奪われやすいから。長く浸かるならスタンダードなスーツのほうが、ルカの体力消耗は少ないだろうと思って。「ちょっと着てくるよ!」って揚々と寝室に姿を消した。きっと似合うんだろうなあと、すぐに姿を見せてくれるだろうルカを想像して、ふふ、と頬が弛んだ。
    例えるなら、久しぶりにバイクの遠乗りをするような、そんな気分。わくわくと、緊張。その狭間でそわそわとしてる。青地の柄シャツに白の短パンを履いたルカが顔を出して、僕と同じように落ち着かなそうな顔をしてて、視線を泳がせていて肩の力が抜けた。
    「(ルカも、一緒だ)」
    ほんの少し、共有できるだけで満たされる。
    「あは、なんだか緊張しちゃうな、ってバレバレ?」
    「んふ、ふふ。うん。僕も、緊張してたから一緒だよ」
    お互いに顔を見合わせて、クスクスと笑いあって、じゃあ行こっか。って手を繋いで海に。



    ルカが僕を見出した入江に、キュイキュイとイルカの鳴く音が漣に混じって聞こえてくる。まひるま、あんなに明るくて美しく輝く水面が、今は黒一色に近い。真っ暗で、底の見えない不安を駆り立てる。二面性。そう、まるでルカみたい。
    「ちょっと怖いよね、夜の海ってさ」
    「海は、優しくもあって、怖くもある。だからおかあさんみたいっていわれるんだよ」
    「でっかいかあさんだ」
    「んはは。そうそう」

    だから怖いのは少しだけ。って囁いて。手を繋いで、少し悪い足場をそろりそろりと進んで。潮騒の鳴る、真暗な海へ。ぺちゃりと足をつける。少しだけ、冷たい底。陽の光を吸われた砂の感触が足の指をしゃらしゃらと流れていく。
    「昼と違って冷たくなるんだなあ、海って」
    「太陽ってすごいんだよね」
    ルカの感嘆に頷いて、今は隠れて反対側に回ってしまった太陽を追いかけるように上から水平線へ、視線を流す。ルカも同じように頭ごと動かしてた。やさしい、夜だ。ゆらゆらと水面に鏡の白い月が揺蕩ってる。その明かりを頼りに、ルカの手を引いてざぶ、ざぶ、と腰あたりまで浸かるくらい海を進む。
    キュイキュイ、と僕らを呼ぶ楽しげな声がする。
    「キュイキュイ」
    喉を絞って音を出す。反応するようにぱちゃ、と飛沫が上がってイルカが顔を出した。
    「わ、イルカ?」
    「んふふ。そう、今から彼らとランデヴーだよ」
    ツルツルとした頬の部分を撫でて挨拶をすると、イルカはキュイ、とひと鳴きした。二頭のイルカ。彼らを交互に見て、ルカは夜の中でも分かるほどきらきらと双眸を煌めかせた。
    「最高だね!」
    最低限。このイルカたちは水面に近い場所を潜航してくれるはずだということ、苦しかったら優しく撫でてあげると水面に顔を出してくれること、あと。
    「トップスピードは出さないと思うから、安心して、って」



    イルカの背に掴まって、潮の流れを読んで波間を進む。まるで走り抜けるように、光の届かない暗い海を駆ける。時々振り返って、イルカの背を両手で掴んでシュノーケルを付けたルカと目が合うたびにちょっとおかしくてぶくぶくと泡が漏れた。
    ざば、ざぶ・ざぶ、キュイキュイ。水面にから顔を出して息継ぎをして、潜って。を繰り返して十数分。イルカの足(例えるならね)ならそのくらい。ヒトの足ならもっとかかる。冷たい水に浸かるには、慣れてないルカにはキツかったかもしれない。イルカが寄せられるギリギリまで島の近くまで運んでくれて、頬を撫でながら「ありがとう」って声をかける。もうすぐルカも追いつくだろう。ちゃんとしがみついててくれてるだろうか。
    「ぷは?はあ!すごいな!イルカはこんなに速くキレイに泳ぐんだ!キミはスゴいね、POG!」
    顔を出して、髪をかきあげて、スタートと変わらずキラキラしたラベンダー色は健在だった。ルカを運んだイルカにハグをして、お互いにキュイ、とPOGってコミュニケーションが取れてるみたいでおかしかった。
    「んふふ。ルカはすごいなあ」
    「キュイ」
    「キュイ」
    喉を鳴らして、寄り添うイルカに頬を寄せる。つるつるとして、優しい海の温もり。こうして頬ずりするのも久しぶりだなあとにやけてしまったり。そのときだった。びゅ!と顔面目掛けて海水を吹きかけられた。
    「うあ!」
    「ははは!オマエ、泳ぐの遅くなったんじゃね?」
    ざばりと、水面から顔を出した人物は、灰茶色の髪をかきあげて、雫を指先ではじいた。朝の海の色をした瞳。
    「ミスタ!」
    「おう、久しぶりブラザー」
    にひゃりと笑った彼は、僕と同じ海で育った兄弟みたいな存在。波をかいて近づいてハグをすると、ミスタはちょっと嫌がりながらも背中をとんとん叩いてくれた。
    「シュウ?」
    少し低い、ルカの声が背後からして、ざぶんとミスタと勢いをつけて引き離された。スーツに包まれたルカの厚い胸板にとす、と寄せられて、ぱちぱちと瞬いてしまう。見上げたルカは、少し険のある視線をミスタに向けていた。じわじわと、脈拍が速くなっていく。もしかして、これは。なんて期待をする。
    「んは。ふ〜ん?嫉妬?随分心が狭いボスみたいじゃん」
    「ミスタ!」
    にひゃりと悪戯っこみたいな笑みを作ったミスタの顔にお返しとばかりに水をかけると、「ふぁ!」って素っ頓狂な声を出して首を左右に振った。
    「ダレ、そいつ」
    不機嫌そうな声が降ってきて、そろりと見上げるとルカが拗ねたように唇を尖らせて僕を見ていた。それがちょっとかわいくて。
    「んふ」
    口角が抑えきれずに上がって、笑みをこぼしてしまった。「シュウ〜?」ってむすりとした声がして、肩まで揺らしてしまう。
    「んはは、ごめんねルカ。彼はミスタ。僕の兄弟みたいな存在だよ」
    「そうそ、オレたち同じような境遇なんだわ」
    僕の肩を抱くルカが、じいとミスタを見据えたまましばらく波に揺られて、「ルカ?」って声をかけるとようやく胸を撫で下ろして笑みを浮かべた。
    「オーケー。心が狭かったよ、ミスタ。オレはルカ、よろしく」
    「オーケーオーケー。そんくらいじゃないとシュウはあげらんないなって思ってるし。及第点かな、なんてな!よろしく、ボス」
    にひゃりと笑いあったふたりは、どことなく、自由で奔放で、それなのに寂しそうなところがあって、なんだか似てるなと思った。
    イルカにお礼を告げて、浜辺へと上がる。「っしゅ」とくしゃみをしたルカに「平気?」って尋ねると「シュウを抱きしめたら平気」なんて返ってきて顔が緩んでしまった。静かな入江。この島はほとんど人の手が入っていないし住んでるものもいない。無人島だ。島の端から端まで歩いて十分もあればたどり着ける小さな場所。盛り上がった大地に熱帯林が青々と茂って、生物の楽園にもなっている。山に囲まれるようにぽっかりと中心に穴が空いていて、島の中身をくり抜いたみたいな入江が隠れている。開いた天窓からは月明かりが燦燦と入り込んで、ターコイズの海が優しく照らされる。この、入江にほとんど波は立たない。どうしてかはよく知らないけど、浅瀬の色をした底なしの海が、口を開けているらしい。ブラックホールみたいに深く広く、海底まで抜けているって、ヴォックスから聞いたミスタがいっていた。
    「すっごいな。こんなとこがまだ隠れてるなんて」
    「はは。隠してる、んだよ」
    白い砂浜は軟らかくさらさらと足の指をすり抜ける。気持ちのいいベッドみたい。ルカの感嘆にミスタは笑って「Shh……」って口元に人差し指を寄せた。
    こぽ。と、まるで泉のような海面に大きな泡が浮く。こぽこぽ、と数を増して、やがて大きな黒い影がゆらりと現れた。隣でルカが、僕の手をぎゅっと握って鋭い眼孔を海面に向けている。本能みたいに、ルカは時おり狩人のような目を持って他人を射抜いてくる。染み付いた習慣なんだろうな、と知らないことを知ったように飲み込んで、手のひらをきゅ、と握り返した。
    「大丈夫だよルカ」
    ど、ぷ。と重たい音を立てて、海面が浮き上がる。一夜にして滝が出来たように、湧き出た水が押し上げられて流れて、やがて彼が姿を現した。
    艶やかな黒髪に美しい美貌の君。金色の大きな瞳は星の瞬きみたいに明るく、照らされるように眩しい。大きな大きな、偉大なる海の父。マーマン。煌びやかな磨かれた赤と桜色の鱗が混じる鮮やかなフィッシュテイル。見せつけるように尾ビレをざぱりと一凪して、海面を叩いてみせてくれた。
    「ハアイ、愛し子たち。会いたかったよ」
    「ヴォックス!」
    「ハイ、ダディ。まあオレはわりと来てるし」
    ずい、と顔を寄せたヴォックスの頬にハグをして、子どもが親にするみたいなチークキスをする。久しぶりの、家族との再会に胸が弾んだ。ヴォックスは月色の瞳を緩やかに細めて微笑んでいる。
    「ああシュウ、会いたかったぞ。オマエは陸に上がったきりほとんど顔を出さない。その男に嫉妬してしまいそうだったぞ」
    意地悪に、口角を片側だけあげて笑うヴォックスが、ルカを見つめてくつくつと喉を鳴らしている。悪ふざけだ。ルカは、ヴォックスを眺めたまま空いた口が未だに塞がってないし、それがなんだかおかしくて笑ってしまう。
    「んふふ。ルーカ、大丈夫?」
    「こ、この人が、シュウのパパ?」
    「いかにも、シュウを育てたのは私だ。母なる海の父、マーマンだ」
    ヴォックスが上体を起こすだけで波飛沫が立つ。白い砂浜を飲み込んで僕らのくるぶしまで簡単に濡らしてしまう。見下すようで、慈しむような視線のまま、ヴォックスはルカを射抜いていた。
    「あの小さかったBOYが、随分立派になったものだ」
    「あはは。ヴォックスが、まるでルカも育てたみたいな感傷に浸ってるわ」
    「うるさいぞミスタ、海に愛されている人の子はみな等しく愛し子だ」
    「オレが海に?」
    ようやっと、我に返ったルカがヴォックスを見上げて首を傾げた。ミスタはおかしそうに笑っているし、ヴォックスはその問いかけに、ちらりと僕に視線をよこしてにんまりと口角を弛めた。
    「シュウに愛されているだろう?」
    「……ヴォックス、恥ずかしいから……」
    止めるすべもなく、わざとらしい甘ったるい息を吹きかけながらヴォックスは囁いて、にやにやとしている。両手で顔を覆って、集まる熱を隠す。あつい。自分の感情を他人に言いふらされるのは、この上なく恥ずかしい。きっと耳まで赤くなってる僕の肩を、ルカが逞しい腕で抱き寄せる。触れる体温を分けられて余計にあつい。
    「そうなの?」
    って、ルカがひそひそと、耳元で囁いてきて、僕は羞恥心に殺されてしまいそうだった。僕はぐももった声で、「そうだよ」と呟くだけしかできなかった。
    「でもなんでシュウに愛されてたら海に愛されてる、のと同じに?」
    ルカの問いかけに、ハッと覆った手のひらを外した。ルカが知らないことがある。僕は慌ててヴォックスを見上げて、小さく鳴いた。
    《まだいってない》
    《……そうだと思っていたよシュウ》
    「シュウ?」
    「オレたちの秘密の会話に使うんだよ、イルカとか、ジュゴンとか、そういうヤツらとコミュニケーションをとるための音波みたいなもん」
    ミスタがルカに答えてる間に、僕は深く深呼吸をして、ルカの手をぎゅっと握った。
    「シュウは私の愛し子だ。故に、加護を受けている。そのシュウに愛されている自覚があるだろう?ルカ・カネシロ」
    ルカは聡い。知らないフリをしてくれる。僕はあまり隠し事が好きじゃないし、ルカも上手くない。だから今まで深く考えてこなかった。だから僕自身のこと、をルカに告げるタイミングを先延ばしにしてきた。僕は人のこといえないな、って。ルカの隠してる夜の闇を、知りたがるくせにすっかり自分のこと忘れてた。大事なことは自分から伝えたい。それを、ヴォックスは汲んでくれた。
    「あるよ。もちろん。それにオレだってシュウを愛してるから、シュウは街にも愛されるよ」
    「ふ、はははは!嗚呼、良い男に育ったな。夜の支配者よ。だが、まだまだお互いを深く知る覚悟はないようだな?先は長いようだが?」
    「ダディ、お節介だって」
    からかうように軽快なヴォックスとミスタのやり取りに、僕は肩の力を抜いて、ルカをそろりと見上げた。ルカは僕を見てた。それだけで、心臓はドキリと鼓動する。隠しごとに、怒っているだろうか。思考がぐるぐるし始めて、機会を失ったことに僕は動揺していた。のだけど。
    「シュウ、今度ふたりでプライベートビーチに行かない?」
    「……へ?」
    真剣な眼差しで、ルカは今まさに僕とふたりしかいないみたいな熱視線を寄越して囁いた。話の道筋が見えなくて、瞬いていると、ルカは急にぽ、と頬を赤らめてごにょりと濁しながら呟いた。
    「いや、あの。あ〜……ヴォックスを見てたらシュウのマーメイド姿を見たくなっちゃった」
    しばしの沈黙。ヴォックスもミスタも、ルカの発言に瞬いて、顔を見合わせて、爆発したようにゲラゲラと笑いだした。
    「はあ、はあ!ははは!心配ないでしょ、ダディ」
    「ふははは、はあ!は!そのようだ、マイ・サン」
    ばちゃばちゃと、ミスタは砂浜に転げて笑ってるし、ヴォックスはより一層慈愛に満ちた月色の眼差しを蕩けさせた。
    「シュウ、心配ないさ。オマエは強い海の子だ」
    「……分かってるよ、ヴォックス」
    再び身を屈めたヴォックスの頬に自分も擦り寄って、目を閉じた。冷たい素肌。ヴォックスの浮かぶ海面が、鱗を反射させて桜色に光ってるのが好きだ。彼一人でうつくしい珊瑚礁のようで。
    「ルカ、来なさい。未来のパパにキスはないのか?」
    ヴォックスの、愉悦に満ちた声色に、僕はぎょっとしたけど、悪くないなって思っちゃってて、何も口を挟めなかった。ルカはキョトンと瞠目したあと、表情を引き締めた。真剣なラベンダーの双眸が僕を一度見て、ヴォックスに向き合った。
    「もちろん!認められたってこと?」
    「とりあえず?まあ第一段階かもよ」
    ミスタがにやにやと口を挟んで、ルカが「へえ、なんだか燃えるね」と返した。勝気な、ライオンだ、ルカって本当に。何度もときめいてしまう。僕の顔面は今緩みっぱなしだ。
    「ヴォックス、オレはルカ・カネシロ。あなたに感謝してるんだ。オレと、シュウを巡り合わせてくれたキューピッドだからね」
    そう、真っ直ぐな人見でヴォックスを見上げて、ルカは大きな僕のパパの、頬にキスを返した。
    「ふむ……なるほど、これはこれは、狡い男に捕まったなあシュウ」
    「本当にね」
    感慨深げにチークキスを受け取ったヴォックスが、横目に僕へ視線を寄越して囁いた。ルカって天然タラシなんだ。って分かってたけど改めてそう実感した。
    少しの間、ルカとヴォックスが話をしてて、僕はミスタと久しぶりの兄弟水入らずを堪能した。白い砂浜に腰を下ろして、二人並んで。
    「そういやオマエ、オレに厄介な客連れてきたろ」
    「んはは、アイクは厄介じゃないでしょ」
    「めっちゃ質問責めにあったんだけど?良いん?アイツに話しちゃって」
    ミスタはげんなりと、わざとらしく肩を竦めてるけど、声は弾んでて、多分アイクを気に入ってる。
    「ミスタの自由だよ。アイク、悪い人じゃないから」
    「お人好しよな、シュウはさあ」
    「ミスタだってそうだよ」
    「んなわけ」
    「そうなんだって」
    お互いにじ、と睨み合って、無言のまま立ち上がってシンクロするように海に飛び込んだ。桜色の海面がぱしゃんと揺れて、顔を出して水を掛け合う。ばしゃ!ばしゃ!って、顔面目掛けて水鉄砲の容量で手のひらを絞って圧して。
    「クソ!おま、昔からそればっか、ぶあ!うま!」
    「んはは!ゲーミングゲーミング」
    「何してるのあれ」
    「可愛らしい兄弟喧嘩さ」
    小さくヴォックスとルカの掛け合いが耳に入って、幸せだなあって頬が緩んだ。家族みたいだ。本当に、あったかいな、って心からそう実感できた、最高の里帰りだった。まあ近いからいつでも顔を出せるんだけど。
    「んはは、ほらミスタ!エイムが甘いよ!」
    「マ、ジで!陸にあがってから変な知識ばっか増やしやがって!」
    「変って何さ!ミスタだってずっぷりじゃん!」
    「シュウほどじゃないね!」
    ぐるぐるとヴォックスのまわりを旋回しながら顔を出して、隠れて。さながらシューティングゲームみたいに水鉄砲の銃撃戦を繰り広げていると、うずうずとしたルカが飛び込んできて、まるで子どもに戻ったみたいにはしゃぎ倒してしまった。天然の天窓から、月が傾いて見えなくなるまで、ついうっかりはしゃいでしまった。
    「また顔を出すんだぞ」
    「何回目だよ。オレだけじゃ不満なわけ?」
    「オマエはもっと人間社会に馴染むべきだ」
    「あーあーあー!聞きたくなあい!」
    「ミースーター?」
    「んふふ」
    耳を塞ぐミスタに、口酸っぱく小言をつらつら並べるヴォックスは本当に素晴らしいパパだ。
    「またくるよ!ヴォックス」
    そう、僕の肩を抱きながら答えたのはルカだった。ヴォックスは、目尻を緩めて微笑んで、「嗚呼、やはりオマエは狡い男だ」とそう囁いた。




    帰路もイルカに揺られて、ちょっと唇紫色にしちゃったルカが、それに気づかず高いテンションを維持したまま矢継ぎ早に言葉を並べるのを宥める。とにかくシャワー!熱いのじゃなくて温いのからね!って投げかけると、「シュウも一緒に」って腕を引かれて一緒にぬるま湯を浴びた。まるで初めてのことを体験して寝付けない子どもみたいに興奮したルカを、ベッドに引き摺ったら腕の中に引きずり込まれた。
    「シュウ〜、シュウ」
    僕の名前を呼びながら、ふやけた顔で笑うルカの頬を撫でる。温かさを取り戻した体温が心地良い。
    「ほら、もう寝る時間だよ」
    僕の手を包むルカのてのひらが温くて、微睡みがつま先からじわじわと迫ってくる。
    「ねむい? 」
    「うん」
    ルカの囁くような声が近づいて、鼻先が触れる。微睡みに溶けたラベンダー色が緩慢に瞬いて、眠りを誘発される。とろ、と緩くなる意識が舌足らずに頷いて、視線が絡む。薄く孤を描いた形のいい唇に誘われて、ゆっくりと触れる。ちゅ、と柔らかい音を立てて、名残惜しく離れて。双眸を閉じてしまったルカに小さく「おやすみ」と額にキスを落とした。



    時間って思っているより早く過ぎる。ルカをホール島(ヴォックスの現れるポイント)に連れて行ってからもう一週間。雨季のない夏場は繁忙期だし、海は賑わってて人がたくさんいて。目まぐるしい。ふーちゃんのサーフショップもてんてこ舞いになる日があって、はしゃぎ倒した観光客が危うく溺れかけてるのをもう何度救助しただろう。照りつける太陽に、もくもくと育つ雲とエメラルドのコントラスト。最高の海、を堪能してゆく人たちを見送るのは楽しいけれど。
    「(なかなかルカとの時間が取れないのが、玉に瑕、ってヤツだ)」
    今日もビーチから遠くはるかな水平線を眺めて息を吐いた。ルカにいいたいことがあって、そのタイミングを逃し続けてることが、自分が思っているよりストレスになってるみたいだ。はあ、と吐いたため息が夏に吸い込まれてくれたらいいのに。誰もが浮かれる夏の熱が、僕には強すぎる。このところ忙しそうなルカはあまり海にも顔を出さない。代わりにルカは僕に公言していないけど、ひとりボディーガードを送り付けてる。ビーチにそぐわない屈強そうな男が付かず離れず僕を見ている。顔を、見たことがなかったら多分伸していたかもしれない。たまに目が合うと、申し訳程度、済まなそうに頭を下げられる。ルカは自分と関わったことで僕が敵対組織に狙われると思っているのだろうか。だったら。
    「ルカが守ってくれたらいいのに」
    漣に消える、願望が波に飲まれていった。
    肩を落として、耳が拾う音に違和感を感じた。なんでもない顔をして夏の陽射しに十分当たって乾き始めた身体をぐ、と伸ばす。
    この夏、ジュゴンがまた密猟されている。ともなって、僕のことを嗅ぎつけるグループがその存在を現し始める頃合でもあった。何度も経験してきた、許されざる愚行。ジュゴンはマーメイドといわれることもあって、その存在価値は高い。古くは不老不死になれるとか、飢饉の際にやむおえず食したとか。ジュゴンそのものにおとぎ話のような伝承が残されていて、今でもそれを利用する輩、が存在する。僕がこの陸地に上がってしばらく経つ。海の子と呼ばれて、海洋生物に好かれていることはこのビーチでは知れ渡っている。ジュゴンも、その限りではない。つまり彼らは「僕がジュゴンを呼べる」と勝手に思い込んでいる。観光客に紛れる、イヤな音のする二人組をそろりと窺ってため息をついた。どうにかしなくちゃいけない。どこから湧いてくるのかは知らないけど、僕はジュゴンを呼べないし、そもそも呼ぶものでもない。だって彼らは「来てくれる」のだから。ルカは知らない。ルカが僕を見つけるよりずっと前から、何度もこの身を拉致されてきたこと。そのたびにひとりで対処してきたこと。「海の子」と噂される、本当の理由。僕は自分の口からルカに伝えなければならない。というより、自分から、伝えたいと思っている。でもとりあえず、今日は何とかしなくちゃ。
    [夜、帰れなくなっちゃった。ごめんね]
    乾きはじめた身体が、傾き始めた太陽にあてられて、よりいっそう水分が抜けていく気がした。



    「ねえシュウ、明日って空いてる?」
    そう、ルカが尋ねてきたのはそれから数日後だった。なし崩しに(っていいかたは良くないかもしれないけど)、ルカのセーフハウスに身を寄せてもう随分経つ。夕方には引いていく人の波に合わせて僕は仕事を終えるけど、ルカはまちまちで、大抵は夜に数時間姿を消してしまう。昼間に姿を見せないときもある。特に最近は読めない。今日は、どうやらもう出かける予定もないみたいで、ラフな格好で部屋をうろついていた。「ただいま」って小さく声に出して、久しぶりに明かりの灯った家に帰りついた気がする。どたどたと、大きな足音が近づいて、顔どころか身体いっぱい覗かせたルカが、そのまま僕を抱きしめる。「おかえりシュウ」って首筋に顔を寄せて目いっぱい息を吸われたのには流石に驚いて厚い胸板を押しのけて真っ赤になってしまった。火照る熱に動揺する僕を、ルカはニヤリと口角を歪めて笑うものだから、さらに恥ずかしくて唸るしか出来なくなってしまう。しばらくからかわれて、満足したルカの言葉に瞬いた。
    「明日?急だね」
    「そうだよね……」
    しゅんとしてしまったルカがあまりに元気のないゴールデンレトリバーのようで、きゅんと可愛さに胸が弾む。明日、まあ一日穴を開けても大丈夫だろう。最近よそよそしかったルカが、いつもどうり僕に触れてくれる現実が嬉しいし。よそよそしいのは、きっとホールでの僕とヴォックスの会話からだ。僕が、隠し事をしているって、気づいてから。沈みそうになる気持ちを押し上げて、落胆するルカをぎゅうと抱きしめた。
    「いいよ、明日はルカのために休んじゃおう」
    「本当に?いいの?」
    「いいの、僕もルカとの時間を作りたかったから」
    そう囁くと、ルカは僕の身体を抱き寄せて大きな手のひらに腰を支えられてつま先が浮いた。
    「わ」
    「んはは!ありがとうシュウ」
    喜色を浮かべたラベンダーがきらきらとして、眩しくて目を細めた。



    ベイエリアから小さなボートに乗って、揺られて。泳ぐよりも大きなざばざばと立つ波の音に耳を傾けて、少し離れた場所を泳ぐイルカたちを眺める。ボートなんて、はじめてかも。そうルカにちょっとだけ緊張して告げると、瞬いた彼は思い切り吹き出して僕の前髪を撫ぜた。
    「大丈夫!怖くないよ!」

    プライベートビーチまで一乗りらしい。昨日ルカが誘ってきたのは、僕のマーメイドスイムを海で見たいから、って欲求が我慢できなくなったから。なんていってたけど、僕としてはふたりで過ごせるだけで十分だった。十十分の航海。ボートが近づける限界まで寄せされた島は、どこかホール島によく似た景観をしていた(まあ、無人島なんてだいたいおんなじようなものなんだけど)。白い砂のビーチに、様々な鳥たちの鳴く声。風に揺られる木々の音。自然が織り成すそれらが耳に馴染んで心地よかった。
    「シュウ~、準備できた?」
    「もう少し」
    ウエットスーツのパンツだけ履いて、モノフィンを嵌める。足首から下が固定されて魚のように陸地では一気に不自由になってしまう。その上から、ルカが一度しか見たことのない薄紫の尾びれをした、鱗まで綺麗に施されたフィッシュテイルを被せていく。ボートの先端部分の開けた場所に座り込んで、それらを準備して、僕はTシャツを脱いだ。潮風が頬を撫ぜて、夏の陽射しが肌に刺さる感触がする。焼けはしないけど、やっぱりじりじりと焼かれていく気分になる。不思議だけど。腰元のジッパーを上げきって、ひとりで立ち上がるのも億劫な状態になったところでルカが船尾のほうから顔を出した。
    「シュウ?」
    ちょっとだけ不格好に振り向くと、ぽかんと惚けたルカと目が合った。
    「んはは。どうしたのルカ」
    「あ、いや!うん、えっと」
    「念願のマーメイドに会えて嬉しい?」
    イタズラに、そう尋ねると、ルカが微かに頬を赤くして「からかうなよ」って呟いた。
    海でもプールでも、このフィッシュテイルになったなら守らなくちゃいけないことがある。水深は五メートルまでしか潜ってはいけない。ひとりではいけない。寄せられた波打ち際は、多分それよりもちょっと深いかもしれないなってボートから覗いているのを、多分さっきからルカがパシャパシャとスマートフォンで撮影してる。青い水着。いつも見てるウエットスーツじゃないやつ。爽やかな、海にも空にも負けないブルーがよく似合ってた。画面越しで満足するなら、宣伝用にアップロードしてる動画でいいじゃん、って。なんだか寂しさを感じて、ずりずりとボートの端の端まで移動して、勢いよく船端を蹴った。
    「シュウ!」
    ドパン、と海面に飛び込んで、小さな水泡たちが収まってきたころに目を開く。うつくしいクリアウォーター。太陽の粒子がきらきらと水面で弾けて屈折して、青にも緑にも色を変える透明な海。くるりと身を翻して、身体をしならせる。ひとつになった足を揃えて揺らして、ゆっくりと海面から顔を出した。張り付く髪をかきあげて、ボートを見上げると、柵から身を乗り出さんばかりに僕を見るルカが目に入った。
    「ルカ!おいでよ!」
    僕の声に、ルカは弾かれたように美しいフォームで海に飛び込んできた。酸素を吸い込んで、とぷ、と頭を沈める。泡の中から現れたルカの手を掴むと、指を絡めてつなぎ止められた。そんな、些細なことで僕の心臓はきゅんとする。透明度の高い海中の中で、一際眩しくルカの金色の髪が揺らめいて、ついつい見惚れてしまう。ゆっくりと海を蹴って、一度海面から顔を出した。
    「ぷあ!もう、シュウ、急に飛び込むなよ」
    「んはは、だって、ルカがちゃんと僕を見てないから」
    ルカの、根幹にあるものをまざまざと見せつけられる。入江の岩場にいた、幻想を探す瞳をするから。ルカは気づいていないけど、今でも夢幻を求めてる。ふ、と海底に沈みかけた意識を引き上げるのも、またルカだった。
    「見つけるよ、どこにいてもね」
    波間に差し込む一筋の光のように、ルカの言葉は僕を照らす。さも当然だといわんばかりの得意げな顔。形の良い唇が孤を描いて、笑っている。ちゃぷちゃぷと素肌に当たる満ち干きが僕らを揺らして、青く澄んだ海に迎え入れられている。
    「見つけてね、どこにいても」
    そう、祈るように零した僕の口を、ルカは呼吸ごと奪ってくれた。覚悟は、できてる。
    しばらく海の中をふたりで泳いだ。手を繋いで、ゆっくりと息を分け合って。珊瑚礁に隠れる小さな熱帯魚とかくれんぼをして、砂に馴染むヒトデにイタズラしてみたり。浅瀬まで遊びにきたイルカと戯れて。まるで幼いころに戻ったみたいに。僕を見る、ルカの視線が夢を見てるみたいで、この瞬間ばかりは理想のマーメイドを演じようと思った。少し手を離すと、ルカは追うように腕を伸ばしてくれる。その指をわざとすり抜けて、からかうように笑うとルカは少しムッとして、海面から顔を出した。そろりと鼻まで顔を出すと、待ち構えたルカと目が合って、そのまま腰を捕まえられて逞しい両腕に抱き上げられた。足の届く場所まで来ていたらしい。ざば!と波が立って、僕は簡単に海面から暴かれた。落ちないように腰はまだ海に浸ってるけどルカの首に腕を回してバランスをとる。
    「わ、わ!ルカ?」
    「シュウが逃げるから〜」
    膝をおって、きら、と太陽の光に反射する尾ひれを叩きつけると、ルカはますますにまりと口角を弛めた。
    「やっぱりシュウはマーメイドだよ」
    僕を見上げるルカのラベンダーがあまりに優しくて、「今だけだよ、マーメイドでいてあげる」って眉根を下げて笑うと、ルカはそれでもいいよっていいながら僕を海に下ろした。ので思い切りルカの顔面に尾ひれで水しぶきをお見舞したら、ちょっとだけ目を光らせて、追いかけてくる。
    「んはは、」
    「笑いごとじゃないって!すごい飲んじゃっただろ」
    「ん、ふふ……だって……ルカとこうして泳ぐのが楽しくて」
    ルカは瞬いて、しょうがないなって顔でラベンダーの双眸をゆるゆると蕩けさせた。



    「は〜!休憩!ちゃんとレストスペースの準備してきたから」
    陽に透ける金糸をかきあげて、余すことなく晒されるルカの肉体に僕は何度も見惚れている。ざぶざぶと、エメラルドの波間を掻き分けて、ルカはビーチに上がっていくのをじっくり眺める。僕はといえば、海では向かうところ敵なしでも、このヒレだと水のある、浅瀬にぺたんと座り込んで惚けるしかなくなってしまう。とりあえず張りつく後ろ髪を乱雑に握って、絞って水気を落とす。ささん・ざん、と寄せては返す波が僕に跳ねて、ときおり顔を出す蟹が横切っていく。
    「シュウ〜?」
    少し遠くからルカの呼ぶ声がして、振り返る。ビーチパラソルがたった、そこだけ人工的なレストスペースが見えた。
    「ルーカー」
    マーメイドは歩けないんだよ!って声を上げると今までに見たことない速さでビーチの沙を蹴って走ってきたルカに、僕は瞬くばかりだった。そこから何をするも、ベンチに座るも海に繰り出すも、僕がビーチの砂を踏むことはなかった。気を良くした(ご満悦ともいう)ルカが至れり尽くせり、移動のたびに僕をお姫様みたいに抱いて額や頬にキスを落としてきたからだ。恥ずかしさに推しやろうにもルカはビクともしなかった。空のいちばん高い場所で輝いていた太陽が、何時しか水平線のほうが近いところまで傾いてきている。ルカは鼻歌を刻みながら僕を岩場に座らせて、少し離れた場所で懐かしむように双眸を細めながらこちらを眺めていた。
    雲の多い空に、太陽が落ちて海面を光らせてる。切れ間から差し込む光の筋が黄金(こがね)色に変わって、まひるまの、明るく強く、そして眩い時間が閉じようとしている。神秘的だとおもう。太陽を失う夜の海が、近づいている。あれだけ澄んだ青が広がっていたのに、光の届かない場所が増えるほど海は色を落としていく。
    「ーーーーー」
    それが少し悲しくて、最近、夜が怖いから。喉を開いて鳴らす音は人には理解されないもの。ヴォックスがよく聞かせてくれた、物悲しい子守唄だといってた。潮風に、波の音に、馴染むように並んだ音の連なり。
    「シュウ、帰ろう」
    真っ直ぐなルカの双眸が、硬く強ばっている気がした。伸ばされた腕に縋って、多分今日最後のお姫様抱っこだ。寄せられたボートに戻って、僕はルカに声をかけた。
    「ルカ」
    「ん?」
    「聞きたいことが、あるでしょう」
    水を吸ったフィッシュテイルを脱ぎ捨てて、モノフィンを外して、僕は二本の足で立っていた。ひんやりとしてきた風が抜けて、黄色く染まる海に包まれて、まだ黄昏の、曖昧な瞬間を、僕は待っていた。ルカは振り返って、静かな瞳に僕を映した。
    「隠してることがあるだろう」
    その声はいつもより低くて、落ち着いていた。
    「あるよ」
    「部下を撒いたことと関係が?」
    「ある」
    「シュウ、キミは」
    くしゃりと歪んだルカの顔を、僕は優しく拭ってあげられなかった。
    「ねえルカ、僕が、本当のマーメイドだったら……もっと簡単に僕を攫えたのかな。あなたを、困らせることはなかったのかな」
    「シュウ?」
    「ルカが僕を、どうしたいか分からないんだ」
    ずっと、胸につかえていた。俯いてしまいそうな頭を持ち上げて、ルカを見据える。逆光。金色の太陽を背にするルカは、やっぱり格好良いと思った。
    「僕は、海からきた。陸より海のほうが馴染む。そのことを誤解したヤツらに、追われたりするんだ。ジュゴンの密漁が最近盛んに起きてるでしょう? 」
    そう問いかけるとルカは静かに頷いた。
    「ルカのテリトリーにまで出てきたのは、僕のせいなんだ。僕が、彼ら(海洋生物)を呼び寄せられるなんて、勝手に勘違いして」
    「じゃあ」
    「ルカの部下を撒いたのは、同じようにヤツらを撒かなきゃいけなかったから。ルカに、心配をかけないように」
    でも、それがルカを疑わせたんだね。そう、振り絞った喉がきゅっとした。ルカと出会ったころ。僕を疑っていることには気づいてた。気づいてて、何もしなかった。だって僕にはやましいことなんか何ひとつなかったから。今も、ひとつだってありはしないから。揺れるラベンダーの瞳が、ゆっくりと瞬いて、困ったように微笑みをうかべた。
    「なんで頼ってくれない?オレはこのあたりのマフィアの頭だ。オレがいえば、シュウが危険な目にあうことなんてなくなるだろ」
    どうして守らせてくれない?そう震えた声をあげたルカを、僕は強く睨んだ。
    「守られたいわけじゃないからだよ。ただ、ルカに甘えて、ルカの力を分けてもらって、自分が楽になりたいわけじゃ、ないからだよ」
    日が落ちてゆく。海が暗くなる。夜が、くる。
    「ルカは、僕に見せたがらないじゃない。キミの仕事、あなたの生き様、あなたの一面。優しく笑うルカしか、僕は知らないのに、そんなの……壊せないじゃない」
    ずっと、ルカは僕との時間を大切にしていることを知ってた。まるで「普通」に生きているみたいで、幸せそうだったから。ルカは、僕を夜に求めていない。それに気づいたとき、僕は酷くショックだった。ルカが息を飲む気配がした。
    「僕が、中途半端だから、ルカを困らせるんだね」
    「違う 」
    「ねえルカ。僕は知られてやましいことなんてひとつもないよ。あなたが、真剣に調べれば、全部分かるはずだよ」
    「シュウ」
    頭を振るルカの、柔らかい髪を撫でて、僕は小さく息を吐いた。
    「僕を、そっちに連れていくのが怖いんだよね」
    震えた肩を、僕は抱き締めなかった。
    「僕ら、大切なことは言葉にしてこなかったね」
    僕らに、明確な関係性と呼べる名前はないこと、気づいてた。愛してるって伝えても、好きだっていわれても、僕らはそれ以上にも以下にもなれていない。キスをして抱き合って、セックスしたって。ずっと、曖昧だった。項垂れるように肩を落として、いつも健康的な顔色を青くして言葉を探すルカを、この日はじめて見た。物悲しげに揺れる、ラベンダー。
    「ねえ狡いかもしれないけどさ」
    一歩、僕はボートの端に後ずさる。ルカは気づかない。
    「僕、ルカのことが好きなんだ。小さな頃からね。恋人になりたいんだ、本当は。でもね、ルカがこのまま僕らにの関係に名前をつけずに、いつか……僕を手放す気なら、このままでもいいよ」
    太陽が海に飲まれる瞬間だった。もうほとんど吸われてしまった微かな黄金色がルカを照らして、驚きに見開かれたラベンダーをよりうつくしく煌めかせた。開きかけた口、ルカの言葉を遮って、僕は喉を震わせた。
    「ルカが、昼の太陽でありたいなら、僕はそれだけを愛するよ。でもね、きっと欲張っちゃうから、全部知りたくて、ルカを全部、欲しくなって、しまうから。そうならないように、すぐにいなくなっちゃってもなにもいわないでね。んはは……ねえ、ルカ、ちょっとだけ、離れよう?ごめんね、よく、考えて、僕のこと、僕の、覚悟……」
    僕は最初から、変わらないよと囁いて、海に飛び込んだ。
    暗い夜の海。ルカの、「シュウ!」って呼び声だけが鼓膜を揺らして、あとは泡になった。
    つめたい。



    濡れたまま、びしょびしょで僕はファルガーのサーフショップの戸を叩いた。
    「誰……シュウ?」
    「んはは……ごめんね、夜に」
    「いや、それは構わないが……シュウ?」
    なにがあった?ってふーちゃんの声があまりに優しくて、僕は潮に満ちた大粒の涙を落とした。




    続。


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    Replies from the creator

    KAYASHIMA

    DONEIsアンソロに寄稿しましたお話です〜。
    第2弾もまたあるぞ!楽しみだ〜。
    【💛💜】衛星はホシに落ちた『衛星はホシに落ちた』







     僕は恋を知っている。
     僕は自覚も知っている。
    「恋を、自覚したから」、知っている。
     ルカという男に恋をしてから、僕は彼の周りをつかず離れられず周回する軌道衛星になった。決して自分から、形を保ったまま離れられないけれど、ルカの持って生まれた引力には逆らえずに接近してしまう、どうしようもない人工物。それが今の僕。近づきすぎたところで大きなルカには傷一つ付けられないで、きっと刹那的に瞬く塵になるソレ。そんなことは望んでいないし、そもそも自覚したところで、ルカという数多に愛される男を自分のモノにしたいなんて、勇気もない。それに、そうしたいとも思わなかった。百人のうち、きっと九十人がルカを愛するだろう。僕には自信があった。そのくらい、魅力に溢れている。だから、誰かのものになるのはもったいないと、本気で考えてしまったから。まあ、どう動けばいいのか分からなかった、ってのも、あるんだけれど。何を隠そう、右も左も分からない、僕の初恋だった。心地のいい存在。気負いしなくていいし、持ち上げなくてもいい。危なっかしいのに頼りになる。幾千の星に埋もれない。ルカは僕にとって一等星だった。
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