青嵐桜が終わり、新緑の季節になった。若気漲る瑞々しい緑の合間から降り注ぐ木漏れ日が、優しく地面をあたためる。青い香りで満ちた山中を、ファウストは穏やかな気分で散策していた。
ここ最近はニンゲンがこの世界に迷い込んだり、酒吞童子が暴れた後始末に駆り出されたりと忙しない日々を送っており、ようやく訪れた平穏である。
ひと歩きしたら寝て、起きて、腹が減ったら出前でも頼んでしまおう。
できるだけ怠惰に過ごすことを決めたファウストの視界の隅を、ふと何かがうごめいた。
ひょこりと草陰から顔を出し、安全を確認した先頭が合図をする。と、続いて数体が山道へと現れた。きょろきょろと何かを探す素振りを見せていた彼等は、ファウストの姿に気付くと揃ってぴたりと動きを止めた。
──魑魅魍魎だ。
明るい時間から珍しい。とはいえ、なんたってこんな所に。
酒呑童子が引き連れていた鬼達の残党だろうか、とファウストは目つきを鋭くする。一見したところでは妖力は強くない。この程度であれば放置しておいても大した影響は無さそうだが、だからといってそのまま見過ごすのもあまり気持ちのよいものではなく。まあ軽くひと扇ぎでもすればたちまち吹き飛ぶだろう、とファウストが団扇を取り出したところ、魑魅魍魎は絶望したような顔で狼狽え、ぴいぴいと泣きだすものまでいた。
……なんなんだ、こいつら。
早いところ対処してしまおうと団扇を持つ手を振り上げた時だった。
「ファウスト!待った!やめろ!」
良く知った声が焦りの色と共に山中に響き渡り、ひときわ強い風がびゅうと吹き抜ける。同時に漆黒の羽がはらりと数枚舞い落ちてきた。
「……ネロ?」
バサリ、翼をはためかせてネロがファウストの正面に降り立つ。現れたネロの元に魑魅魍魎がわっと集まり、あっという間に背後に隠れてしまった。さながら親鳥を見つけた雛のような光景を、ファウストは呆然と眺めていた。
「あー、悪かったなお前ら。もう大丈夫だから。ファウストもごめんな。ここ、あんたの散歩コースだったか」
「ネロ。その……彼等は」
「ん?ああ、悪さはしないから許してやってよ」
「いや、それはいいんだけど」
子分?と問えばそんなんじゃないよと肩をすくめた。
「多分、元々いた百鬼夜行に置いて行かれたはぐれもの。丑三つ時になると時々ウチの店に出てくるんだよ。だからその時、余った切れ端とかやってるんだけど」
御礼のつもりなのか、時折木の実や果実を持ってくることがあるのだという。
「今回は山菜が沢山採れる場所がある、って教えてくれてさ。案内してもらってたんだ」
ほら見てよ、と差し出された籠には立派な山菜が山盛りになっている。葉わさび、たらの芽、こごみ、こしあぶら。自分より力の弱い妖を喰らう魑魅魍魎がわざわざ好んでは口にしない食物の在処を探して、教えたのだ。彼等は相当にネロのことを慕っているらしい。
山菜をひとつひとつ手に取って語るネロの瞳は、新鮮で質の良い食材に出会えた喜びで満たされている。何でもないことのように彼等と接しているネロを、ファウストは尊いものを見る心地で見つめた。
筆頭に龍をおき、妖狐、鬼、化狸……と数多の妖怪が生きるこの世界。天狗も龍にこそ及ばないが、それなりに上位の妖である。下位の妖にも何ら変わることなく心を配るネロの心根の優しさを、ファウストは好ましく思っていた。
天にいるだけでは決して見えない存在がいることを知っていて、だから彼等と同じ地に立ち目線を合わせて寄り添う。忘れていないよ、見えているよと。彼等が世界から切り離されてしまわないように。ただそれだけで、けれど途方もないこと。
「そう。……すまなかったな、君達。ネロの友とは知らず、怖がらせてしまった」
ファウストはネロの足元にしゃがみこみ、背後に隠れる魑魅魍魎に目線を合わせて謝罪をした。しゃがんだ視界からは、普段何も考えずとも飛び立てる空がこんなにも遠く感じる。
まるで別世界だ。彼等はいつもこの世界で生きているのか。
恐る恐るといった風であった魑魅魍魎も、ネロが「ファウストだよ、俺の友達」と紹介したことで安全と判断したのか、隠れることをやめてファウストの前へ出てきた。友達の友達は友達、ということなのだろう。ファウストは彼等の世界の仲間に入れてもらえたようだ。
一連のやり取りを微笑ましそうに眺めていたネロが、さて街に戻るかと促す。
「少し休憩したら夜の仕込みをしないと」
「山を下りるなら、道中気を付けて」
「ありがと。な、ファウスト。今夜空いてる?」
「予定は無いよ」
「じゃあ店に来てよ。これ使って美味いつまみ作るから、一杯やろう」
お前らも来るならおいで、と声をかけられた魑魅魍魎もきゃいきゃいと色めきだっている。今夜は賑やかな晩酌になりそうだとファウストは笑みを浮かべた。
「いいよ。戌の正刻に訪ねる」
「分かった」
後でな、と山を下りていくネロ達に手を振る。友達と交わした今夜の約束を楽しみに、ファウストはもうしばらく散歩を続ける気持ちになった。今まで見えなかった世界への発見があるかもしれない。久しく感じてこなかった好奇心を胸に、ファウストは再び山道を歩きだした。後押しするように風が山を吹き抜ける。