夜が貴方のかたちをしていたら昼寝をしすぎたわけではなく、遅い時間に珈琲を飲んだわけでもない。心当たりは何も無いのに、ぐずぐずと眠れない日があった。もったりとした夏の夜の空気が身体にのしかかり、心まで重く沈めてしまう。そんな感覚に支配される。
騒音や隣人トラブルを避けたくて選んだはずなのに、防音対策のしっかりしたこの部屋は時折ネロにとって静かすぎた。わざと布団を蹴り飛ばしてみても、ばさりと一瞬音がたてばそれでおしまい。ラジオをかけても知らない曲ばかりで、どんなに情熱的な愛を歌っていても未知の国の言語のように身体を素通りする。
「……ファウスト、もう寝てるよな」
電気を消したままの暗がりで、ネロは端末を取り出した。ぼう、とおぼろげに光るディスプレイからメッセージアプリを開き、ここ数日のやり取りをぼんやりと眺める。
近所の野良猫がついに撫でさせてくれた。
調子に乗って肉じゃが作りすぎた……貰ってくれない?あ、豚肉です。
部署の後輩がネロの話をしていたよ。
来週末休み?KALDIで豪遊するつもりなんだけど、どう?
云々。
なんてことない他愛のないやり取りも、ネロにとっては手のひらに収まる宝物だった。ネロもファウストも頻繁に端末を確認するタイプではないから、返信の時間もタイミングもまちまちである。見れる時に見て、返事はできる時にする。そのくらいの緩さでいい。既読無視だの未読スルーだのと気にしすぎるのは、心を狭く縛り付けてしまう。
「……痛っ」
ああこんなこともあったなぁとファウストの残り香を集めるようにスクロールしていると、手が滑って端末を顔に落としてしまった。カバーをつけていないむき出しの機械はなかなかに痛いものだと拾い上げると、どこかでボタンを押してしまったのか、画面に呼び出し中の表示が出ている。
「うわっ、やべ」
慌てて切断を押す。呼び出し自体はほんの数秒だったようで、まずは切断できたことにほっと胸を撫でおろした。押し間違いで掛けてしまったから折り返し不要、気にしないでくれとメッセージを送っておけば大丈夫だろう。そう判断したネロがいざメッセージを送ろうとした時、ピロン、と端末が音を立てた。
「……あ」
ファウストからの呼び出しだ。
日付を跨ぐ前とはいえども遅い時間だ。規則正しい生活を送るファウストはとっくに寝ていると思ったのに、と普段ならば嬉しいはずの呼び出しに動揺してしまう。このまま放っておけば暫くのうちに切れるだろう。その時に、ごめんかけ間違いだったんだ、と謝ればよかったのだけど。
『……もしもし?ネロ?』
ぐるりと一周迷って、ネロは通話のボタンを押した。他に誰もいないだろうに、夜だからと声を潜めているファウストの姿が脳裏に浮かぶ。
「うん」
『どうしたの、こんな時間に』
「いや……さっき顔にスマホ落として。その時にボタン触ったみたいでさ」
用があったわけじゃないんだ、夜遅くにごめんなと電波越しに謝罪をすれば、おでこは大丈夫なのと密やかな笑いが返ってくる。
『何事も無いならよかった。何か事件でもあったんじゃないかと、少し心配した』
ファウストの落ち着いた声が耳から身体中に浸透していく。不注意とはいえ夜中に通話をさせてしまったネロを責めることなく、気遣わしげに寄り添う優しさに甘えてしまいたくなる。じわじわと宵闇のように浸食してきた感情に、これ以上はだめだなとネロは誰もいない部屋で一人自嘲的な笑みを浮かべた。
「ありがとな。もう遅いし、また来週──」
『ネロ』
ファウストの声は、時折驚く程に凛と響くことがある。
『本当に大丈夫?』
それは大抵、ネロが隠し事を暴いてほしいと本心では思っている時に発揮される。例えば、今のように。
『眠れないの』
「……」
『……寂しい?』
「…………うん」
そう。少しの沈黙の後、スピーカー超しに物音がする。パチン、と電気のスイッチを入れる音と衣擦れの音がしたから、ファウストが布団から身を起こしたのかもしれない。
『ネロ、明日は何か予定ある?』
「明日?無いけど」
『なら、出かけようか』
脈絡の無い、突然のお誘いに嬉しさより戸惑いが勝った。明日って何かあったっけ、と聞いたネロに何もないけどとファウストは答える。何も無くても出かけよう、と。
『買い物でも、映画でも美術館でもいい。何処で何をしてもいいよ。沢山歩いて沢山疲れて、夜には楽しかった思い出を抱えてぐっすり寝てしまえるように』
そうすれば、明日の夜はきっと寂しくないよ。
美しい詩を朗読するような穏やかな口調で告げられる提案に、ネロは泣きたくなった。夜がファウストのかたちをしていたら、もっとネロに優しく寄り添ってくれただろうか。ネロだけでなく、言いようのない寂しさに苛まれて夢を見ることもできない生き物たちは救われただろうか。取り留めもないことが頭をよぎり、すぐに消えた。
明日はファウストとの時間が寄り添ってくれる。ならば今夜は?どうしようもない寂しさを自覚してしまったから、独りの布団は死体のように冷たくて耐えられない。
「……ファウスト」
『なに』
「……まだ、終電あるから」
ファウストの家、今から行ってもいい?
痛いくらいに耳に押し付けた端末から、着替えと歯ブラシを持っておいで、と優しい声がした。