「少女漫画の王子様に憧れているわけではないけれど、もし現れてくれるのなら、きみのようなひとがいい」「ネロ、シスターを受け入れたの」
西日が差し込む喫茶店の店内は客もまばらで、静かにクラシックのBGMが聞こえる。氷が溶けて薄くなったアイスティーをかき混ぜていたネロは、え、と手を止めて向かいに座るファウストの顔を見た。
「……なんで知ってるの」
「あのネロさんが、って学園中が騒いでいるよ。気付いていないの」
「だって誰にも言ってないし……」
どこから漏れたんだろう、とグラスにひしめく氷をがしがしとストローでつつき始めたので、お行儀が悪いよと窘める。
ファウストとネロが通う学園には、かつてシスター制度が存在していた。
幼稚舎から大学まで揃うこの学園は、古くは貴族令嬢の花嫁学校としての立ち位置であり、上級生が下級生の生活指導その他を担うこと、下級生は上級生の姿を見て学び、自身が上級生に上がった時は次の世代を導く、という循環が形成されていた。
時代の移り変わりと共に制度は廃止されて久しいが、生徒間での不文律としては未だ残っており、現在でも生徒の多くが『シスター制度』としてペアを組んでいる。最も、性質は変容し、良好な関係を築いているシスター達がいる一方で下級生にとってはいかに人気のある上級生にシスターをお願いできるかが一種のステータスとなりつつある。
ネロはまさしくその筆頭だった。ネロは、シスターを一切断り続けてきていたことで知られている。
この学園も昨今で強調される多様性を取り入れ、制服はスカートからスラックスまで生徒自身の意思で選択できるようになっているが、ファウストは、ネロ以外にスラックスを着用している生徒を見たことがない。
すらりと高い身長に、後頭部で結わえた空色の髪が軽やかに揺れる。
外見に違わず運動神経がよく、体育の時間があるとちらちらと窓の外を気にする生徒も多いくらいだ。勉強は苦手だとの本人談だが、幼少期に世界中を転々としていた時期があったらしく、複数ヶ国語が堪能。
穏やかに見える黄金色の瞳は、見る角度によって冷たい群青色を映すことがある。
皆が口を揃えて言う。『ネロさんが男の人だったらどんなに良かっただろう』と。
ネロは名家の令嬢や社長令嬢といった生まれながらのお姫様が多く在籍しているこの学園において、いっそ異質ともとれる存在だった。
「どうして受け入れたの」
宝塚のトップスターよろしく学園中の視線を集めるネロは、その視線をあまり好ましく感じていないことをファウストは知っている。注目されたくない、穏やかにいたいだけなのだと、ファウストが引き籠る図書準備室にしばしば逃げてくる。
下級生とそれなりに近しい関係性を築くことになるシスター制など、ネロにとっては最も避けたいものだと思っていたのに。
うーん、とネロはお手拭きを無意味に広げたり畳んだりを繰り返している。
ネロにシスターを申し込んだ生徒は、二人から見て四つ下の学年だという。
「幼馴染がこの学園にいるから、って今年外部から入学してきて、その幼馴染から私の話を聞いたんだって」
「……それだけ?」
「まさか。で、放課後突然呼び出された。シスターになってくれ、って」
ネロはお手拭きを綺麗に畳むと、今度こそテーブルの端に置いた。どさ、と四人掛けボックス席の硬いソファに寄り掛かり、スラックスのポケットに手を突っ込んで苦笑いを浮かべる。
「王子様になりたいんだって。幼馴染の」
「王子様」
「そう」
幼馴染はそれは立派な家柄の一人娘で、将来は家督を継ぐことが決まっているらしい。
──愛情深い両親の元で育てられているが、外野から向けられる視線は金や権力しか考えていない下品なものばかりだ。どうしたら婿養子候補になれるか、まずは娘に近づくのがいいか、って。
『あいつは、これから一生ああいう奴らの前に立たなくちゃいけない。成人しても、結婚しても、家督を譲っても』
だから、自分が、自分だけは彼女をずっと守れる人になりたいのだとその生徒は言った。
『女だからとか関係ない。私は、私の意思であいつの心を守る王子になりたい』
それなら学園の王子様とか呼ばれているあんたに頼むのが一番だと思った、と。嘘も偽りもないひたすらに真っ直ぐな目でネロを射抜く姿は、ただ一人の友人を想う一人の人間として、真夏の空に直立する向日葵のような鮮烈さでネロの目に映った。
「同情から受け入れたわけじゃないんでしょう」
そりゃそうさとネロは肩を竦めてみせる。同情で面倒を見てあげるほど私は優しい人じゃないよと冷徹ぶるけれど、その心根は深い優しさで満たされていることをファウストは知っている。
「私が王子様とか言われているみたいに、あいつもきっとこのお姫様世界では異質なんだよ」
似ている、と。そう思ったら見捨てるなんてできなくなってしまったのだという。
「この学園に来たのは私の意思じゃないし、フリルやレースたっぷりの日傘を差して御機嫌よう、とか柄じゃないし」
「そんなきみも一度は見てみたいけど」
「こんな小綺麗で温室みたいに閉ざされた箱庭でぬくぬく大事に囲われて、いい香りのする花を咲かせたら卒業してめでたく殿方の元へ出荷されるとかグロくて無理」
「散々な言い様だね」
眉を顰めて心底不快そうな顔で言うネロに笑ってしまうけれど、それは確かにこの世界のひとつの真実だ。決められたレールの上を決められたように歩き、外の世界を知らない無垢なまま蝶よ花よと消費される。
「あいつはきっと自由だ。決められた人生を歩む必要なんてなくて、自分の選択次第でどうとだって生きていける。けど、友人のためにこんなところに飛び込んで、私のことも利用できるなら利用してやるって強かさでさ。正直救われたのもあるよ。下の奴ら、私たちのことブランド品みたいにしか見てないじゃん」
自分と云う存在を他者に消費されるつもりはない。これはネロがシスターを断り続けた理由だった。どうやら彼女はネロをまるで喧嘩の師匠のように見ているらしく、なるほどネロが気に入るわけだとファウストは納得した。
「道しるべのひとつくらいになってあげようかな、って思ったんだ」
「そんな大層なものじゃないけどさ」
明日は一緒に制服の採寸に行ってくるよとネロが姿勢を正して座り直す。サイズが合っていなかったの、と聞き返したファウストにネロは首を横に振った。
「スラックスにするんだって。かっこいいから」
ほんの少しだけ嬉しそうな声色を滲ませるネロに、ファウストは可愛いねと返した。ネロも、シスターも、どちらに対しても。
「……はあ。私の王子様もついにシスターを持ったんだ」
今度はファウストがソファにとさりと寄り掛かった。正直少し悔しい。ネロが年下ならどこに逃げたってシスターにしたし、年上だったら何とかして申し込んだのに、とぼやく。
「放課後のデートも回数減かな……」
「なんで。むしろ増やしたいくらいだけど」
「寂しい……」
「減らさないって」
拗ねないで、とネロが腕を伸ばしてファウストの頭を撫でた。むっすりと見つめてやるとご機嫌とりのように頬を撫でられ、かと思えばネロははたと動きを止めた。
「ファウスト、今日少し化粧してる?」
「……デートの約束してたから」
「おめかししてくれたの?嬉しい」
可愛いよと眦に愛おしさを乗せて告げてくるネロは、いつもきちんとファウストを見てくれる。前髪を切れば似合ってるよと少し出した額にキスをしてくれるし、何か嫌なことがあった日はこっちにおいでと抱き締めてくれる。ラウィーニア家のお嬢さん、ではなくただのファウストとして接してくれるから、ネロがシスターに抱いた気持ちも理解できてしまう。きっと、彼女は良い未来に進むことができるだろう。
「……ネロ」
「ん?」
「キスしてって言ったら、してくれる?」
じ、とファウストを見つめていたネロはファウストの頬から手を離すと、おもむろに席から立ち上がった。わがままだったかな、と今更後悔したファウストに横から囁きを落とす。
「ファウスト、詰めて」
ネロはファウストの隣に身体を滑り込ませると、スカートを踏むくらい傍に腰かけた。するりと左腕で腰を抱き、右手でファウストの顔を優しくネロに向けさせる。
「いつもは人がいるところだと嫌がるのに」
「……ネロを取られた気分になった」
「私はファウストだけの王子様だし、ファウストは私だけのお姫様でしょ」
口開けて、とのネロのお願いに素直に従えば、そのままかぷりと食べられた。ネロの上着を掴むと応えるように強く抱き寄せられる。隙間を許さないとばかりに密着した身体で触れ合う二人の胸の膨らみが、この関係性のちぐはぐさを露呈しているようで憎らしかった。
たっぷり味わって離した唇を銀糸が繋ぎ、ぷつりと切れる。濡れたファウストの唇を舐めながら、白馬の代わりにポルシェに乗って迎えに行ってあげようか、と悪戯めいた笑みを浮かべるネロに、きみなら本当にやってくれそうだとファウストは微笑んだ。