走り出したら止まらない『俺、ファウストのこと好きだよ』
想いを告げたのはもう数日前のこと。
ファウストは普段と変わらぬ調子で『そう』とだけ答えた。その後、特段何も起こっていない。気まずくなるでもなく、かといって距離が縮まったわけでもなく。
……転機というのは、忘れかけた頃にやってくる。
午後のぬくい陽射しの下、ネロは中庭の噴水に見知った人の姿を見掛けた。
「先生、何してるの」
「ネロ」
何もしていないよ、と答えたファウストの足元にはレノックスの羊が構ってほしそうにうろついている。上着も帽子もない状態でいるから、きっと気まぐれに散歩に出てきただけなのだろう。羊はレノックスがどこかで日光浴させていたうちの一匹がファウストの所にやって来たのか。ファウストが羊を抱き上げて膝に乗せてやり、綺麗に整えられた毛並みを撫でてやると、気持ちよさそうにうとうとし始めている。
──可愛いな。
なんとも穏やかな光景にネロが頬を緩めていると、ファウストが視線をネロに向けた。
「きみはどうしたの」
「俺?俺はこれからカナリアの手伝い」
これだけ天気が良いのです、シーツもタオルもみーんなお洗濯しちゃいましょう!と張り切っていたカナリアが宣言違わず籠いっぱいになった洗濯物をせっせと干していたので、取り込みが大変だろうと思ったのだ。魔法舎中の洗濯物となれば、この後各部屋に戻して回らなければならない。
「さすがに一人でやらせるのは悪いし」
「そう。優しいね、きみは」
ふわりとファウストの目が優しく細められる。慈しむような眼差しにこそばゆい感情がじわりと広がるのを、ネロは甘やかに享受している。
「今は暖かいけど、風が出てくるかもしれない。身体冷やすなよ」
向こうからカナリアの声に混じり、リケとミチルの声が聞こえてきた。彼等も手伝いを申し出たのだろう。幼い子供達ばかりに働かせてはいけないな、とネロはファウストの傍から足を三人の方へ進めた。
立ち去るネロの後ろ姿をファウストがじっと見つめていたことを、ネロは知らない。
いっぱいになった籠を抱えてネロは魔法舎の廊下を歩いていた。シーツ類は出してきた各部屋に、タオルはキッチンや予備や救護用に。それぞれの戻し場所を頭の中に浮かべつつも、頭の大部分は中庭に関心が寄っている。中庭が見える廊下を選んだのは、まだファウストいるかな、というほんの少しの期待を持っていたから。そわそわと浮かれる心に追随するように風が吹き、さわさわと草木とネロの髪を揺らす。
噴水が見え始める辺り、思い描いていたファウストその人の話し声が聞こえた。やましいことなどしていないのに盗み聞きをしに来たようで、咄嗟に身を隠したネロは気配を消す魔法を重ねがけした。そう、と物陰から伺うと、ファウストは変わらず噴水に腰かけ、羊が二匹に増えている。
「……お前達は賢いから、僕の言葉も分かるのだろうな」
メェ、とまるで返事をするように鳴いた羊にファウストがそっと語り掛ける。
「ネロがね。……ああして皆に優しいネロが、僕のことを好きなんだって」
──分からないな。どうしてあの子が、僕のことを。
僕は陰気な引き籠りで、呪い屋で、誰かにあたたかいものを与えてやれる人じゃない。
ネロは無気力で責任感が無いように見せているけれど、面倒見もいいし他者の心の機敏を察知できる。僕の知らないネロの部分も多くあるだろうし、もしかしたらネロが努めてそう振舞ってみせているのかもしれない。けれど僕は、今僕が見ているネロの部分も正しくネロであると思っているし、好ましいと思っている。
──そうそう、あの子は夜明けみたいな雰囲気がするんだ。もう二度と戻らない夜に別れを告げるような寂しさと、訪れる明日への希望に満ち溢れたようなあたたかな優しさ。終わりと始まりの、その両方を感じる。素敵だと思わないか。僕は他者を呪って終わりをもたらすことしかできないけど、あの子ははじまりを作れる。朝食だって、一日のはじまりだろう?
──ふふ、分かっているよ。
僕も大概だ。理解してくれても、言葉を返してくれるわけでもないのに。君達にこうして熱心に一人話しかけてしまうなんて。
……好きな相手に好かれるというのは、こんなにも浮かれた心地になるものなんだね。
すまないが許してもらえるか。どうにか発散しないと爆発しそうなんだ。表情が緩むのも必死に堪えすぎて、正直顔がひきつりそう。さっき声を掛けられた時も、嬉しくて……変な態度を取っていなかっただろうか。ああ、叫んでしまいたい。
──こらこら、暴れないの。胸焼けがしそうだって?僕ばかり話していて申し訳ないけど、もう少しだけ付き合ってくれ。ほら、撫でてあげるから。
「(……俺は、何を聞いた?ファウストは、何を言った?)」
叫び出しそうになるのはこっちの台詞だ!と文字通り叫び出しそうになるのを、ネロは何度も唾と空気を飲み込んで堪えた。浮かれた心地を良い方向の意味でずたずたに破壊されてしまい、言葉を発することもできない。
今ここでネロが姿を現したら、ファウストはどんな反応をするのだろう。真っ赤になって狼狽えるのか、驚いて目を見開いて固まってしまうのか、言った通りだよと至極当然のような顔をするのか。分からない、予想がつかない。
ちらりと覗き見たファウストは穏やかな表情を浮かべ、ほんのりと紅がさしている。
──あんな顔もするのか。他でもない、俺のことで。
ぬくかった陽射しは冷えるどころか、じりじりとネロの内側を焼き焦がしていく。
「ネロ。ネロ・ターナー。いい男だ、彼は」
朝起きると朝食の香りがして一日の始まりを感じる。
昼間の空を見上げれば髪色を思い出すし、雨が降れば東の国での暮らしに心が向く。
陽が沈みかけた空と地平線はネロの目を見つめているようで。
静かな夜には二人で晩酌したいと願ってしまう。
「一日を過ごしていると、どの時間でも、ネロの面影がちらついてしまって」
人の気も知らずに……まったく、うっとうしいったらないよ。
落ち着いたアルトで紡がれる言葉は、ひとつひとつが秘めやかに奥ゆかしい。大切に、慈しむように、きらきらと世界に向けて放たれた言葉はネロの耳から身体へゆるりと溶けてゆく。積もり積もった甘い刺激がネロの胸の内をむずむず刺して仕方がない。愛おしさのあまり眩暈すら覚えたネロは籠を抱えたままずるりと壁伝いにしゃがみ込み、籠に積まれたタオルに顔を埋めて深呼吸を繰り返した。籠る呼吸の熱さに、今自分の顔がどれだけ熱を帯びているかを嫌というほど実感した。
「(ああ……聞かなきゃよかった!)」
もうネロの心は全部ファウストに持っていかれてしまった。洗濯物を届ける時も、この後予定していた夕食の仕込みも、夕食も。夜を越えて明日になっても、この心はきっとファウストから離れることができない。
「……人の気も知らねぇのはどっちだよ……」
はあぁ、とネロは盛大にため息をついた。早打ちをする心臓はあの日の答えを今すぐ聞きたいと訴えるが、度重なるファウストの告白に心はオーバーヒートしている。
六百年生きてきて初めて走り出した恋に、ネロは既に息切れを起こしていた。
乱れに乱れた心の影響で気配を消す魔法が消えていることにネロは気が付いていない。
ネロがすぐそこにいたことに気付いたファウストが魔法舎を揺らす声量で悲鳴をあげるのは、これから数秒後のはなし。