こいびとの権利先生。
ファウスト。
せんせ。
「ネロ、今日はやけに僕について回るね」
今この瞬間もそうだ。菓子を焼いたからどうか、と誘いに来てくれたことは嬉しい。けれど食堂に降りて皆と一緒に、ではなく、わざわざファウストのために茶まで淹れて部屋へやってきた始末だ。ご丁寧にも、先日興味があるとだけ話したサンダースパイス入りの茶葉で。ごくささやかな会話でも覚えていてくれる細やかさが、ファウストは素直にうれしい。
「え、そうかな」
「違うの」
「違わなくはないというか……」
生煮えの料理よろしく、煮え切らない態度でネロは視線を逸らしている。
朝食から午前中の講義、昼食、小休止を挟んでの実践訓練まで、ファウストの視界のどこか(概ねすぐ近くであった)で空色の髪がぴょこぴょこと揺れていた。同じ東の国の魔法使い同士、そして保護者同士という間柄から共に過ごす機会は確かに少なくない。それでも、追っては追い越し、また追ってくる時計の秒針よろしく今日のネロはファウストの周りをちょこまかとうろついていた。
何かあったのと問えば、ネロは「なにも無いけど……」と口ごもりながら、菓子とティーポットを乗せた盆を意味もなく持ち直している。
「今日先生いるな、って思ったら、一緒にいたくなったというか……」
ふわりとただよう、焼きたての甘い香り。いつも肝心なところでどこか言葉の足りないネロの代わりに彼の心の片鱗をファウストに届け、ファウストは正しくそれを受け取った。
「構ってほしかったの」
「いや……そういうわけじゃ、…………あるけど…………」
結局どっちなんだ、と問いただしてやりたい気持ちをそっと抑えつける。ネロが遠回しで回りくどい言い方をする場合、たいていファウストにとって都合のよい方が正解だ。つまり、この場合の正解は『ネロはファウストに構ってほしかった』になる。
「そうならそうと言えばいいのに」
魔法でテーブルセットを呼び出す。きょとりとしたネロから盆を奪い、クロスを敷いたテーブルへ並べていく。揃いのティーセットに、菓子はバームクーヘンとマカロン、キャラメルが少し。オーエンもにっこりと言わんばかりの甘々ラインナップだ。
「ほら、早く座って」
「す、座るったって」
「長椅子はいや?」
一人で腰かける椅子を対角線に並べて向き合うのも好きだけれど、長椅子に二人並んで座るのも好きだ。噴水のぐるりと大きな淵や広大な草原に並んで座るのとは違う。明確に切り取られた空間で身を寄せ合い、大切な人の一番近くにいられるのは、雨の日の相合傘に似ている。
ファウストが隣に空けた一人分の空間にお邪魔します、としずしず座るネロは借りてきた猫のように縮こまっている。
「ネロ、もう少しこっちにきて。片足が椅子に乗っていないじゃないか」
「んん……うん…………」
「もっとはっきり言ってあげようか?傍に来てほしいんだけど、って」
「……せんせ、なんか今日ぐいぐい来るね……?」
この男は何を言っているんだ、と思わずため息が出そうになってしまった。構ってほしくて部屋にまで訪れた自分の心とファウストの行動を、ネロはまだ何となく紐づけられないらしい。こうだったらいいなという想像が叶う瞬間を他人事のように見つめ、当事者になりきれないでいる。
「ネロは僕に構ってほしかったんじゃないの」
「……はい……」
「構ってほしいくせに、いざ構うとそう腰が引けるのはなんなの」
「いや……俺は構ってほしいけど、先生は構いたい気分じゃないかもしれないな、的な……」
──またきみは。
そうして僕の知らないところで僕のことを勝手に推し量って、勝手に諦める。
今度こそため息を堪えることができなかった。ひと息にはぁ、とはつかずに細く長く、深呼吸のように吐き出せたのはひとえにファウストの努力による。呆れても、怒ってもいない。ただ正しく伝わってほしいと思い続けている。
「──きみが、色んなものを諦めて生きてきて、今でも色んなものを諦めて生きていることは知っているよ。それがきみの処世術だということも」
「……」
「けれど、その中に僕を入れるな。僕のことだけは諦めないで。欲しがって」
「…………」
「きみは、僕を欲しがっていい権利を持っているんだよ」
こいびとなんだから。
背中を丸め、膝に立てた腕で顔を覆ったネロは照れて恥ずかしくなってしまったのだとひと目で分かるくらいに真っ赤だ。
遠回りで回りくどい、は言い方を変えれば思慮深く慎み深い、だろう。優しい言葉であるけれど、突き詰めすぎれば毒になる。毒を溜め込みすぎれば苦しいのはネロであって、ファウストは決してネロに苦しんでほしくない。甘えたい心を上手く外に出せないのなら、多少荒治療になっても外からファウストが与えてやるまでだ。好きな人──といってもネロ限定だが──に色々と手を焼くことが嫌いではないファウストは、未だ顔の熱に悶える恋人をふふんと得意げな心地で見つめる。
「…………もー、先生、ほんとつよいから俺くじけそう……」
「僕が強いのはきみのせい……いや、おかげかな」
「何で……いや、いい。いいです。答えなくていいから」
分かってるから、と逃げるネロに残念、と返す。
「僕がネロのことをいっとう好きだから、とは言わせてくれないの」