Traveling, thrilling ②「すごい、広い」
壁掛けのテレビとソファが置かれた洋室に、奥には二台のベッドが並ぶ寝室。窓際には小さな二人がけのテーブルセットが置かれ、豊かな自然を臨める広縁。
サイトで見た写真よりもずっと広く感じるツインルームを構えたこのホテルが、今回のデートの拠点だ。
駅前から少し離れた一角にひっそりと建つこの宿は隠れた名宿と呼ばれているに相応しく、チェックインその時からちょっとたじろぐ程の至れり尽くせりのサービスを受けた。
ファウストはもうその頃からそわそわと落ち着かない様子で、スタッフからの説明に相槌を打ってはいたものの、果たしてきちんと聞いていたかは怪しい。その分俺が珍しくきちんと聞いておいたからいいけど。
二人分の荷物を詰めたキャリーケースを洋室に置き、ふぅとひと呼吸つく。丁度大きな行事が重なったために駅前は大変な人の賑わいで、人混みをかき分けながらファウストの手を引き、もう片方ではキャリーケースを引くというのはなかなかの重労働であった。今夜……いやもうおっさんだから明日辺り、筋肉痛がくるかもしれない。ぐるりと回した肩は本日の酷使に抗議するようにボキボキと音を鳴らしている。
「ネロ、大変だ」
「なーに」
部屋に通されるなり、目を輝かせてあちこちうろうろと熱心に見て回っていたファウストが呼んでいる。いつものファウストなら、到着したらまず荷物を整理して、備品を確認し、可能ならば着替え……ときっかり手順を踏んだはずだ。それをとっぱらって、もっと言うのならばキャリーケースを運ぶのも、脱いだ靴を揃えてスリッパを出してやることさえも全部俺がやってる。何もかもをすっぽかしてしまうのは、それだけファウストが羽を伸ばしている証拠なので喜ばしい限りだ。ネロ、ともう一度呼ばれたので、ご要望にお答えすることとする。
「見て、檜風呂」
「へー、いい香りじゃん。ひと部屋にひと風呂なんて結構贅沢」
「と、日本酒が瓶で置いてある。風呂酒が出来るよ」
「…………」
やはりスタッフの説明は右から左に通り抜けていたようだ。にこにこと嬉しそうに日本酒のラベルを眺める姿は、外食デート時にどのワインを飲もうか吟味している時と同じ表情で、俺が好きな表情のひとつ。好きなものを見ている時の顔って可愛いじゃん?
とはいえ、この日本酒は風呂酒用にわざわざご用意いただいたものではない。その事実はきちんと伝えるべきだろう。
「ファウスト、その日本酒は風呂酒用にじゃなくて、風呂桶にお湯をはったらそれを入れるんだよ」
「……風呂に?」
「そう。ほら、ここに書いてあるだろ。美肌効果?とかがあるんだってさ」
「……それは、料理人的にはどうなの。食事以外のことに使う件について、きみの見解を聞きたい」
「え?まぁ、みかんの皮を乾燥させて風呂に浮かべたりするのと同じなんじゃねーの。粗末にしてるわけじゃないし」
「ふぅん……」
全部屋にプライベートの檜風呂、そして日本酒丸ごと一本を入れる日本酒風呂。この二つは確かにこの宿のウリらしい。先程スタッフからにこやかに説明されたうちのひとつだ。女性に人気なんですよ、と。俺たちは野郎同士だけどな。
じ、と説明書きに目を通していたファウストが俺を振り向いた。別れを惜しむような悲痛な表情を浮かべて、それはそれは大事そうにボトルを抱えている。
「……でもやっぱり、酒は酒として楽しみたい…………だめ?」
こーの呑んべぇさんが。
そんな顔して俺がだめなんて言うはず無いだろうが。
「ファウストが飲みたいならいいよ、飲んじゃおう。冷やしておいでよ」
「やった」
日本酒一本でそんなに嬉しそうにしちゃって……あー可愛い。
宿に着いてから、ファウストは随分ぽわぽわしている。俺は全国出張で外泊慣れしているけど、ファウストの部署はまず出張がない。それに、好んで旅行に出掛けるタイプでもないと言っていたから、外泊行為自体にテンションが上がっているのかもしれない。
珍しいこと、今まで体験してこなかったことを、どんどんやらせてあげたいと思う。新たな出会いがある度にこうして無邪気な子供のように喜んで、感動と興奮を隠さず伝えてくれるのなら、何度だって、何だってしてあげたい。
「ねぇ、ネロ。この後ラウンジに行こう。宿泊者限定でバーがあるって、さっきスタッフが説明してた。この時間ならウェルカムドリンクでスパークリングが貰えるみたい」
「飲みたいの?」
「うん」
「まだ15時回ったところだけど?」
「いいの。今日はもう宿を楽しむことに決めた。飲んだ後は夕食の時間まで館内を探検して、お腹を空かせよう」
宿を楽しむこと。これって素敵なことだと思う。外泊時はどうしたって元々の目的──例えば出張や観光──に意識が向きがちで、寝られればいい、安ければいい、ということも多々ある。戻って寝るだけの空間ではなく、戻ってきたら、ここに居ればこれができる、あれをしよう、と思えること。
拠点となる宿を知り、楽しむというのは、我が家に抱く感情に似ている。
「なるほどね。それから?」
「料理長……今回は僕専属のじゃなくてこの宿の料理長、渾身の夕食を味わって」
「ファウスト専属料理長は三日間休業中だからな」
「檜風呂にも一緒に入ろう」
「二人で入っても余裕そうな大きさだったもんな」
「出たら冷やしておいた日本酒で晩酌して」
「うんうん」
「同じベッドで明日の計画を話しながら寝落ちる」
「ベッド二つあるけどいいの?広々使わなくて平気?」
「いつも一緒に寝ているんだから、広々よりくっついていたい」
あれもこれもとやりたいことを指折り挙げていくファウストの姿に顔が緩み、遂にふは、と思わず笑みが零れてしまう。
段々と『この宿で楽しみたいこと』から『俺としたいこと』に中心がズレていることに気が付いているのだろうか。
ファウストが求めるものの中心には確かに俺がいることが、俺は素直に、心底嬉しくて。
ウェルカムドリンクも日本酒も飲む前から、俺の心はファウストにすっかり酔ってしまうのだった。