汝、隣人を愛し給えその名の通り、雨天の多い雨の街が珍しく晴れている日だった。
ネロはファウストを伴い、かつての店跡地に残る家庭菜園の様子を見に来ている。たっぷりと雨を浴びて育ったハーブがもりもりと茂る畑に、ネロがうきうきと鋏を持ってしゃがみ込んだ。
「これだけ育ってるなら暫くは補充しなくてよさそうだ」
「豊作だね」
大きく育った葉にぱちん、ぱちんと鋏を入れていく。魔法舎付近の市場でも同じハーブは手に入るが、水質の良い東産に慣れ親しんだ舌はやはりこっちでないと、と物足りなさを感じてしまう。乾燥させたものは香や媒介にも使うことができるから、可能な限り採り貯めておきたいところだ。
黙々と収穫に勤しみ、やがて大きな葉に隠れていた小さな葉や若芽が見え始め、徐々に土の茶色が表に出始めたころだった。
「あ、せんせ」
「ん?」
「足元。だんごむし」
小指の爪ほどの灰色をした畑の住民が、ファウストの足元をもぞもぞと行進している。そこにいたのが賢者さんだったら飛び上がっていたかもなぁ、とネロはのんびり笑って見つめている。賢者は虫というより、足の数が多いものが苦手らしい。この菜園に来るたびに足元や手元をしきりに気にしていた姿を思い浮かべる。
「きみはまあ、平気だよね」
「そりゃあな。足が多かろうが少なかろうが、こいつらなりの命のかたちだろ。流石に可愛いとは思わないけど、気持ち悪いとは思わないよ」
「安心して。ネロは可愛いよ」
「そーいうのはいいって……ほら、まだまだ採って」
事あるごとにネロを可愛がりたがるファウストに空の籠を押し付ける。足元をうろついていただんごむし殿はネロの近くまで移動してきていたので、気まぐれにちょい、と挨拶をしてやった。
「はは、丸くなった」
「こら。あまりいじめてやるな」
「優しいなぁ先生は」
「茶化しているのか?……あ、蜂」
「え、やだ俺刺されたくない」
ぶん、とネロの背後から一匹の丸い蜂がやってきた。今日は天気が良いからだろうか、いつもより来客が多い日だ。くるくるとネロの付近を飛び回っている蜂を追うように、ネロは視線や頭をくるくると動かしている。その様子がまるで蝶を目で追う猫のようで、ファウストは思わずくすりと笑った。
「刺さないよ、何もしなければ。彼等はよくエルダーの花にも集まる」
「ファウストの家の近くのか?襲ってきたりしねぇの」
「しないよ。彼等は案外目が悪くてね、動くものをみんな雌だと思って近づいてくる」
ネロのこともさっきまで雌の蜂だと思っていたはずだよ、とファウストが軍手をはめた人差し指を立てる。こっちにおいでと呼ぶような仕草に、先ほどの蜂がネロから離れてファウストの指の周りを飛び始める。ふくふくと丸い身体に不揃いなほど小さな羽を懸命に動かす姿に、ファウストは幼子を見守るような眼差しを向けている。
「近づいて、周囲を飛んで求愛して、初めて同族の雌でないことに気付く」
やがてファウストを雌の蜂ではないと気付いたのだろう。ふよふよとどこかへ飛び去っていった方向を、ファウストはじっと見つめている。
「……僕はね、ネロ。この世界が、人間達がどうなろうと知ったことではないんだ」
ほつり、天気雨のように紡がれる言葉に耳を傾けながら、ネロは手元の鋏を動かし始めた。金属が重なる音と緑が裂かれる音が二人の間に流れ続けている。
「人間が生きようと死のうと、どうせいつかはこの星だって滅びる。それが明日か、数百後か、いつ訪れるかの話だけだ」
「うん」
でも、とファウストが地面に視線を向けたので、ネロも倣って地面を見つめる。ころりと丸まっていただんごむしはいつの間にか元通りになり、もそもそと再び歩み始めている。いくつもの足を懸命に動かして、ネロやファウストの指先にも満たない距離に時間をかけて。二人が数歩で渡る距離でも、彼の中ではきっと途方もない長旅になるのだろう。
「僕達よりずっと本能に忠実で、数多の天敵に囲まれながらも懸命に生きている。私利私欲など知らない無垢な命を見るたび、彼等の世界は守ってやりたいと思ってしまう」
人は、今目の前に見えるものしかこの世界に存在しないと思い込みがちだ。けれどそれは違う。土を掘り返せば、水底を掬えば、彼方に目を凝らせば、数多の命が息づいている。夥しい数の命でこの世界はできている。
「僕達の隣人は、この数多くの命達だ」
ぱちん。ファウストがひときわ大きなハーブの葉を切り落とした。道管に残っていた水分が茎と鋏を伝って滴り落ち、土に吸い込まれてゆく。
「(──その中に、あんたは人間も勘定に入れてるんだけどな)」
ファウストは気付いていないのだろうか。それとも気付いていないふりをしているのか。
とっくに見捨てることなんてできなくなっているくせに、冷たく拒絶することで心の平穏を保とうとする行為はネロもよくよく理解できる。理解できるから、何も言わない。それでも、最後にファウストが後悔しなければいいなと思うのは、ちょっとした老婆心というものだ。
それに、ファウストのいう隣人を大事にしたい気持ちも理解できる。
最後に見たのは、恐らくざっと五百年は前。
「先生、質問です」
「なに」
「金糸蜘蛛と、白糸蜘蛛、って知ってる?」
「……知らない」
だよなぁ、とネロは少しの寂しさを込めて笑った。博識のファウストでさえ知らないのならば、後はもう、ネロより長寿の魔法使いしか知らないだろう。
「昔は普通にいた、珍しくもなんともない蜘蛛だよ。でも、吐く糸が金と銀でさ。その糸を使って装飾品や贈答品を作るために乱獲されて、いつの間にかいなくなっちまった」
「……」
「そんなの、沢山いるんだろうな」
何百年のうちに、人間は沢山の生き物を滅ぼしてきた。ある時は腹を満たすために、ある時は私欲を満たすために。滅ぼしたことすら認識していないものもあるだろう。忘れるほどに、人間は罪を重ねてきた。
一方的に断罪することは出来ない。ネロもファウストも、魔法が使えて長寿であることを除けば人間に変わりない。人間の中に溶け込んで生きてきた者と、人間と手を取り合えるのだと旗を掲げた者だ。結局のところ、切り離せずにここまで来てしまった。
「なあ、ファウスト。たまには俺も先生役やってやるよ」
ならば、何ができるだろう。何をすればいいだろう。
「願ってもみない提案だけど……どうしたの、突然」
「もちろんファウストは先生据え置き。で、俺は臨時の補助講師」
──忘れないこと。覚えていることは、できると思った。
「俺とファウストでさ、ヒースとシノに教えてやろうよ。俺達の周りにいる隣人達を。俺とファウストの二人分合わせりゃ、結構な数になるだろ」
人間を軽んじているわけではない。対人関係の果てに心に傷を負った者同士、そのしがらみから外れた無垢な命に惹かれるのは当然だった。
星の数ほどの命を見つめるには、百年にも満たない生ではとても足りない。けれど長寿の運命にある自分達はできる。滅びゆく命が確かにここに在ったことを、共にこの星の上で命を燃やし合ったことを、紙の上の記録ではなく記憶として紡げるのは自分達魔法使いだけなのだ。
「あいつらはきっと長生きするよ。その生の中で、覚えててほしいなって。例え滅びてしまったとしても、誰かが覚えているのといないのとじゃ違うだろ」
いつの間にか姿を消してしまった隣人達。もしかしたらどこかでひっそりと生きていて、何時かひょこりと出てくるかもしれない。その時は、新種だ新発見だと騒ぐのではなくて「久しぶり。元気だった?」と笑いかけてやりたい。
突然の提案に不思議そうな顔をしていたファウストは、やがてゆったりと顔に笑みを浮かべた。その双眸には確かな敬意が込められている。
「ネロにしてはいいことを言うね。普段からそうしてくれればいいのに」
「たまにだからいいんだよ、こういうのは」
お、やっとここまで来たのか。おまえ、明日もこの畑で生きてるといいな。
命の儚さも、生きることの厳しさも知っている。明日が等しく訪れてくれる約束なんか誰もできやしないから、せめて、この土の上で生きていたことは覚えていよう。
「──よし、これだけ採れれば十分だろ。先生、今夜これで美味いつまみ作るからさ、特別授業の相談しながら飲もうよ」
「いいよ。相談より酒が進みそうだけど」
「そりゃいいな」
この世界に生きた、そして今を生きる数多の隣人に乾杯しよう。