Darling電話が鳴っている。
自宅の親機、ということは店宛の電話だ。発注先か、業者かだろう。
出なければ、とは思う。
けれど覚醒したばかりで水中を彷徨うような意識の中、仲良くくっついている瞼をこじ開ける気力はなく、鼓膜から伝わるベルの音をただただ脳が認識している。
着信履歴は残るから、後で掛け直しさてくれないだろうかという期待は虚しく、諦め悪くベルは鳴り続けている。
ふと、隣から衣擦れの音がした。
ぺた、ぺた、と素足がフローリングを踏みしめる音、それから、カチャリと受話器を取る音。
「──はい、ターナーです」
起き抜けにしては掠れなく落ち着いた、他所向けに気持ち0.3トーンくらい上げた声。
ターナー。そう名乗った声が腕のかたちになって、ネロの意識を徐々に水中から引き上げていく。
暗かったばかりの視界が次第に光を認識して、白んできて、それから……──。
「──分かりました。……いえ、大丈夫です。わざわざご連絡いただきありがとうございます」
失礼します。
丁寧に言葉を締め、丁寧に受話器を置く後ろ姿を、薄く開いたばかりの目で眺める。網膜は正しく、一日のはじまりにこの世で一番愛しい人を映している。
「ネロ?起きたの」
ぺたぺたと素足の音が近付き、ベッドに横たわるネロの傍で止まる。視線を合わせるように覗き込んできたアメジストは、起き抜けのネロには陽の光より眩しく降り注いだ。
「おはよう?」
「ん……」
「今、クリーニングの業者から連絡あったけど」
後にしようか、と笑みを含んだ穏やかな声は電話よりもトーンダウンしている。落ち着いたアルトが起き抜けで空っぽのネロの身体にじわりと行き渡る。
「……でんわ……」
「うん、業者からだった」
「……ターナー、って……おれの……」
「僕もターナーだよ」
ゆっくりと瞬きをするシトリンがとろりと蕩けたままであるのを見て、まだおねむかなとファウストはネロの頭を優しく撫でる。指を差し入れて髪を梳き、頭皮に触れられる心地良さにネロの意識はまた微睡みそうになる。
「家族だよ、ネロ。僕たち」
かぞく、とどこか他人事のように繰り返したネロに、どこまでも愛おしそうな表情でファウストは頷く。
昨日、籍を入れた。
ようやく法的に同性婚が認められたけれど、まだまだ世間的にはマイノリティであるが故にいきなり飛び込むのはどうしよう、と躊躇していたネロの背中を、ファウストは真っ直ぐな想いで押した。
『僕は入れたい。堂々と、ネロ・ターナーは僕の家族だ、って名乗りたい』
視線を上げた先、チェーンに掛けられた揃いの指輪がファウストの心臓の上で揺れている。
「……なあ、」
「なに」
シーツに投げ出していた腕を上げ、まだ櫛の入れられていないくせ毛を整えるように指を入れる。ネロより細くて柔らかいそれは、同じシャンプーを使っているのにいい香りがする。
「あんたのとこにも、電話きたら」
「うん」
「俺も、ラウィーニアです、って出ていい?」
「いいよ」
そのまま甘えるように後頭部に手を添えれば、心得たとばかりにファウストはネロに顔を寄せた。触れるだけですぐに離れた唇は、悪戯っ子のように弧を描いている。
「お姫様でもキスしたら起きるんだよ?」
早く起きて、お腹空いたよダーリン、と朝食を所望されては起きないわけにはいかない。
身も心も浸すようなこの幸せは、夢ではなく、確かな現としてネロの手元に在る。
「──おはよ、ダーリン」
切ない程のあたたかさに喉が詰まりそうになりながら、ネロは目の前のひとに笑いかけた。