赤い屋根一際目立つ赤い屋根。
待ち合わせ場所にも、街のシンボルにもなるようにと願いを込めてやったぜ、と屈託なく笑った人間の顔は、もう忘れた。
「何か気になるものでもあるの」
余所見をしながら歩いていたせいで、前を歩いていたファウストに見事にぶつかった。怒られるかな、という予想に反して案じるような声色に、この人は本当によく俺のことを見てくれているなと思う。
──この街には、ネロの過去が少しだけ眠っている。
「あの赤い屋根の建物がさ、まだ残ってたんだなって」
「ああ……街のシンボルだとか言っていた」
「あそこ、昔の俺の店」
中央の国にほど近いこの街は、規模は小さいながらも隣国との物流がそうさせるのか、東の国の中では比較的活気のある街だ。独特の陰鬱な空気は底に抱えつつ、晴れ間が覗いたような軽快さを持ち合わせている。
ここで、ネロはごく短い間だけ、店を開いていた。
「色々あってさ。すぐ魔法使いってバレたもんで、片手で足りるくらいの年数しか居られなかったけど」
いい街だと思う。明るさと、他人との距離を開ける人見知りがいい塩梅で同居している。市場に出回る食材も悪くなかったし、街の規模も大きすぎず丁度良かった。
しかし、どこにいってもここは『東の国』だ。
魔法使いであることがばれてしまえば、どんな美しい街でも途端に巨大な牙を剥く。先ほどまで気安く肩を叩いてきた人間が、途端に刃物と罵倒を飛ばしてくる。
何度もそんな目に遭ってきて、ここも同じだった。
「魔法使いがいた場所なんて、とっくに取り壊してると思ったけど」
「……そう」
ファウストは何も聞かない。
ここで味わった悲しみや寂しさ、やるせなさの全てをネロ自身が丸ごと飲み下したのなら、たとえ飲み下した感情に胸を引き裂かれて血が噴き出したとしても、ファウストが言えることはもう何も残っていない。
けれど、この街がネロにした行いを許しているわけではない。
「この街は愚かだな」
「そうかね」
「そうだろう、こんな腕利きのシェフを進んで手放したなんて」
おかげで僕は毎日美味しい食事を頂けているわけだが、と心底ざまあみろとでも言うようにファウストは赤い屋根を睨みつけている。
理不尽なことをされたのなら、魔法使いであったって怒っていい。
鋭く射抜くように燃える紫の瞳に宿る怒りは、ネロがもう失くしかけているものだ。
──ああ。あんたは俺なんかの代わりに怒ってくれるんだな。
──俺、あんたのそういうところ、本当に好きだよ。
「呪ってやるなよ」
「しないよ。……寄っていきたいなら、止めないけど」
「いや、」
もういいかな、とファウストに告げる。赤い屋根の建物からネロへと戻された視線は、いつも通りの聡明な輝きを湛えている。
「寄り道しないで帰ろうぜ。今は、俺の料理を待ってくれてる奴等のところに早く帰ってやりたい」
冷たく凝り固まった過去にサーブしてやれる料理は無い。
この街での店は閉めた。その時に、この街で生きたネロ・ターナーも消えたのだ。
今はもう、それでいい。
上空から建物を見下ろす。
一際目立つ赤い屋根も、空から見れば所々の色が剥がれてみすぼらしく、記憶の中よりも随分と古びているものだ。
それでも、この街でまだシンボルとして輝き続けている。
「(──せいぜい長く居ろよ、俺なんかと違ってさ)」
かつての己の居場所に別れを告げて、ネロは箒を飛ばした。
腹を空かせた者達が待つ、今の居場所へ帰るために。